第三十一章 再会と再会と再会

 ぽたり。

 ぽたり。


 水滴が頬に当たる。

 妙に生暖かい。

 それに――しょっぱ――。


「う……うう……。痛え……沁み……る……」

「シ、ショージっ!」

「う――あ……? マ、マリー……?」


 目を開くと、そこには心配そうな顔で目元をごしごしと拭っているマリーの顔があって俺を見下ろしていた。


「お、俺は……? ここは……? ――って!?」

「……まだ動かない方が良いよ?」


 マリーの笑顔は今まで見たどれよりも優しかった。


「《治癒》の魔法はたっぷりかけてもらったけど、痛みは残るだろうって。それに……もうっ、強くもない癖に意地張っちゃってさ。らしくないよ、馬鹿ショージのくせに……」

「い、いや! つーか、これ、膝まくら――!?」


 柔らか……っ!

 それに、何ていうか……マリーの良い匂いが。


 慌てて起き上がろうとして、油断した脇腹に激痛がぶり返してきて思わず顔を顰める俺。それを見て、マリーは苦笑を浮かべて優しい目をして首を振った。


「遠慮しなくていいの。それとも……嫌だった?」

「い、嫌じゃ………………ない、けどさ」

「ん」


 マリーは満足げに頷いた。俺は恐る恐る首を動かして、改めて周りを見た。


「ここは……牢屋か何かなのか?」

「そう。いるのはあたしたちだけ……じゃないんだけどね?」


 視界の限られた俺には薄暗い闇ばかりで何も見えていない。見えるのは、がっちりと嵌った鉄格子と、冷たく白く粉のふいたような石壁と、何だか妙にどきどきしてしまうマリーの表情くらいだ。




 あと、胸。




 何だよ。下から見上げているせいなのか、マクマスさんが言ってたより意外とあるように見え――。




「ようやく気が付いたんだね、勇者クン♪」

「違――っ! 見てない見てませんから!」




 ……ちょっと待て。




「マ、マクマスさんっ!? い、いるんですか!? 無事……だったんですね……!!」

「言っただろ? 必ず後から追いつくからって」


 何とか起き上がろうとひっくり返された亀よろしく手足をばたつかせていると、マリーがそっと背中を支えてくれた。正直言って、初めての膝まくらは実に快適で名残惜しくて堪らなかったのだが、もう居ても立っても居られなかった。


「こんなところで僕は死なない、そうも言った筈さ。君も無事で良かった……!」


 もう一度声が聴こえ、即座に顔を向けた俺は、




「………………って、どちらさまですか?」


 呟いてしまった。




「酷いな、勇者クン♪ 僕だって言って――」

「い――いやいやいやいや!!」


 冗談にしては手が込んでいてタチが悪い。そこにいたのは顔中――だけじゃない、全身ぶくぶくと膨れ上がった二枚目とは程遠い、どころか真反対に属するであろう実に残念な容姿をした女連れの筋肉ダルマだった。コレチガウ。


「ん?」


 ……見覚えがある。


「あなたはもしかして……女神・ヌヌイですか?」

「う――ううう……。そう……です……けど」

「ということは?」

「そういうこと♪」


 俺とマリーにあてがわれた牢の斜め前にいた直視するのも躊躇われる変わり果てた容姿になってしまったマクマスは、辛うじて元のままの声音で歌うように応えた。


 やっぱりこのブサイクがマクマスさんなのか!?


「どうやったらそんな姿になっちゃうんです!?」

「ああ、教えたじゃないか。アナフィラキシーショックって奴さ。実際、僕は危うく死にかけたんだ」


 あの後、女神たちに小突かれ誹りを受けていたヌヌイをその身一つで庇い、その結果、ありったけの《女神の加護》を授かってしまったんだそうだ。増援に駆けつけた女神たちがさすがに見かねて制止した時には、すでに心拍停止状態だったらしい。


「ヌヌイには感謝してもしきれないよ。ここまで回復したのは、彼女の熱心な看病のおかげなんだ♪」

「そうだったんですか……」


 代わりに俺の方も一通りの説明をしておく。

 彼がこんな目にまで遭ったというのに、肝心の俺が魔王を倒さないという選択をしたのだという事実を話す段になるとさすがに心が痛んだが、それを聞き終えたマクマスは、怒るどころか、にこり、と笑ってさえみせた。


「それが君の選択なんだろ? いいじゃないか♪」

「済みません……」

「いいと言ったろ? 胸を張りなよ、勇者クン♪」


 ただでさえ何処が目だかも定かでない顔でくしゃりと笑うと、マクマスは隣の牢に視線を泳がせる。


「そんなに自分の選択に自信が持てないというのなら、一応、隣の彼にも聞いてみたらいいと思うな」

「えっ」




 まさか!?


 もしかして――!




「カ、カラフェンさん? そこにいるんですか?」

「ええ。ですが――」


 その懐かしくもある落ち着き払った口調を耳にして、俺は鉄格子の間から声のした牢の中の薄闇に懸命に眼を凝らしたのだが、




「ちゅき……(はあと)」


 ……おい。




「……何、いちゃついてるんですか、あんた」

「私が聞きたいですよ……正直、困っているので」


 そこには狭い牢屋のサイズには明らかにミスマッチな立派な体格をした女性が、でーん、と胡坐をかいて陣取っており、彼女の組んだ足の間に、ぽつん、と寝かされて、されるがままに全身をくまなく愛撫されてなんかいる偉大なる魔法使い、カラフェンがいたのである。


「ん?」


 ……こっちも見覚えがある。同時に嫌な予感もした。


「もしかしてその人……ラダエラさんですか!?」

「実はそうなのです――」


 こっちもまた、事の経緯を細かく説明してくれた。


 俺たちを送り出した後、カラフェンとラダエラは互いの個性と能力を駆使して激闘を繰り広げた。次々と襲いかかるラダエラの華麗なる剣技によって、遂にカラフェンの身体は六十四分割にまで細切れにされてしまい、いよいよ決着かと思われたその時、つい出来心でカラフェンが浮かべてしまった晴れやかな笑顔(?)に、これまで恋愛感情とは全く無縁だったラダエラの無垢なハートは見事に撃ち抜かれ、逆お姫様抱っこの状態でここまで連れてこられたんだそうだ。


 何でも、ここまでしても死なない男となら添い遂げてもいい、それがプロポーズの言葉だったらしい。


「それは何て言うか……災難でしたね……」

「い――いえいえいえ」


 牢屋が別で離れていることを幸いと、俺が失礼混じりの科白を漏らすと、カラフェンは首を振った。


「私とて、彼女のことは嫌いではありません。何たって記録更新ですからね! ……それは半分冗談としても、あそこまで思い切りの良い太刀筋は受ける方も気持ちが良いものなのです――とっても!」


 解せぬ。

 半分どころか全部冗談にしか聴こえません。


「それでも……お二人とも無事で良かった……!」

「だね♪」

「ですね」


 改めて、顔を見合わせて笑いあう俺たちである。

 が、そこで一人マリーだけが浮かない表情をしていることに気付いてしまった。


「……何だよ?」

「喜んでるところ悪いんだけどさ……まおたんがいないの。途中で離れ離れにされちゃって……」

「マジか」

「さっき話してくれた、魔王のことですね?」


 カラフェンが確認する。俺とマリーが神妙な顔つきで頷き返すと、カラフェンは大きく頷いた。


「それはまずいですね……改めて確認したいのですが、アルヴァーはこう言ったのですね? ――二度と転生できないように魔王は直接始末する、と」

「そうです。合ってます」

「なるほど――」


 何かを思い出すように、カラフェンは目を閉じてしばし考え込む素振りを見せる。やがて、その目が開いた。


「ならば、まだチャンスは残っていますよ。魔王はまだ生きているでしょう。間違いありません」

「ほ、ほんと!? 良かった……!!」

「喜ぶのはまだ早いと思いますが――」


 カラフェンの表情は固く強張っていた。


「英雄神・アルヴァーは、きっと《封魔の儀》に最適な日取りを待っている筈です。太陽と月が交わる昼でもなく夜でもないその日を。その日だけなのです。神が直接魔王に審判を下せるのは。そしてひとたび《封魔の儀》が執り行われてしまえば、もう二度と魔王がこの《ノワ=ノワール》に転生することはないでしょうね――」


 最後に、俺をじっと見つめてこう締め括った。




「永久に、この世界はこのまま、です」




「そ、そんな……っ!」


 マリーがわななく声で悲鳴を漏らした。


「くそっ!」


 俺は吐き捨て、縋るような目で訴えるマリーの手を両手で包み、励ますように握り締めてからふらつく足で立ち上がった。


「それじゃ駄目なんだ……! それじゃ何も変わらないし、何も終わりになんてならない! ……カラフェンさん、その太陽と月が交わる、昼でもなく夜でもない日って、いつなのか分かりますか!?」

「恐らく――」


 カラフェンはしばし考え込んでから、




「今日、ですね」




「え――」


 途端に膝が笑ってしまい、俺はへなへなとその場に座り込んでしまった。


 時間が――足りない。

 もう何をするにも、今日の今日じゃどうにもならない。策を考えるのにだって時間は必要だ。ましてやそれを実行するためには準備も打ち合わせもしなければならない。


(もう、駄目……なのか?)


 諦めかけたその時だった。




 がんがんっ!




 と硬い物で鉄格子を激しく打ち付ける音と共に、




 ししっ!




 と、不吉な予兆を感じさせる笑い声が響き渡った。


「……騒がしい野郎どもデスね、お前らときたら。こっちは構わないんデスよ? この場でお前らの首を胴体と泣き別れさせようが……ま、お前らにでキルことは、無様に泣き喚くことくらいデスけどね」


 その声、その顔。

 確かに俺の息はその時止まった。


 だが、声の主であり、この牢獄の主らしき人物は、にやり、と意味ありげに笑い返しただけで、素早く俺が口を開くのを制してしまう。


「……あー。でもデスよ? 今日くらいは目を瞑ってやることにしますデス。どうせもうじき全ては終わりなんデスから。せいぜい泣き喚けばいいデス」


 そう言い残し、ざっくりとしたパーカーの猫耳フードを目深に被り直した女神はあっさりと背を向けてしまった。


 と、しばし足を止める。


「一応デス。その牢屋の鍵は特注の奴なんで、鍵開けスキルなんて無意味デスよ? 開けるには――」


 彼女はパーカーのポケットから取り出した物を、背中越しに俺たちに向けてこれ見よがしに振ってみせた。


「こいつが必要デスからね……ししっ!」


 猫耳フードの女神はそれを無造作に口の中に放り込むと、悲痛な面持ちで一言も発することのできない面々を残して去って行く。




 いや――俺だけは違った。

 満面の笑みを浮かべ噛み締めるように小さく呟く。


「さんきゅーな……ぼーぱるさん!」






 その日、天界のほぼ中央に位置する円形広場《カンピドーリ》は、たくさんの神々たちでひしめき合っていた。


 一際高くなった中央の舞台に、数名の精白な儀式衣装に身を包んだ荘厳な神々の姿がある。そしてそれとはあまりに対照的で黒々しくみすぼらしくすら思えてしまう一人の少年の姿もまた見えた。その一団の中から、たやすく目を奪う雄々しい男神の姿が歩み出て、その右手が厳かに天空を一文字に指し示し、空気を震わせて告げる。


「ここに集いし神々よ、天に目を向けよ!」


 おお……。


 刹那の沈黙の後、たちまち広がったさっきまでとは明らかに異質のざわめきには、驚嘆の念と幾許かの恐れが混じっていた。男神の指さす先、何処までも広がる天空にあった眩いばかりの光を放つ太陽は次第にその輝きを失い、翳りゆき、やがては禍々しき漆黒に塗り潰された異様な様相を呈した。


「そう! 時は来たのだ!」


 男神――英雄神・アルヴァーは、十分な時間をかけてざわめきが静まるのを待ってから続けた。


「太陽と月が交わる、昼でもなく夜でもない今日この日――我らの悲願は遂に叶うのだ! 長きにわたる神々と魔王との因縁に終止符を打ってやろう!」


 ごうん。

 ごうん。


 アルヴァーの宣言に呼応するように、何処からか重々しい鐘の音が響き渡り、彼は力強く頷いた。


「我、これより《封魔の儀》を始める!」


 アルヴァーがそう宣言すると、壇上の神々の一団に隠れるように侍していた女神たち――いずれも劣らぬ究極の美を具現化したかのごとき面々だ――がしずしずと歩み出て道を作った。その即席の花道の奥から、ただ白で統一されていた調和の世界を乱す一点の染みのごとき違和感を放っていた少年が自らの意志で進み出てくる。


「あれが――?」

「――由々しきことじゃ」

「ああ、何という――」


 途端、広場に集まった神々の口々から呟きが漏れ出る。

 穢れや呪いを恐れてか、顔を背けてしまう者すらいた。


 一方――。


「……はぁ」


 少年の方はというと、むしろそんな反応を示すことしかできない彼らを侮蔑するかのように一瞥しただけで、密かに溜息を吐くだけだった。




 実際、その少年――魔王は天界に連れてこられてからというもの、ここに数多集う神々から向けられる一方的な粗雑な感情に飽き飽きしていた。誰一人として彼とまともな会話を交わそうとする者などいない。試みることすらしなかった。ただ、彼が《魔王》と呼ばれているその事実にだけ目を向け、大して変わり映えのしないまるで判を押したような嫌悪の表情を浮かべては、あからさまな態度で距離を置いた。理解しよう、そういう者はいなかったのだ。




 それとは違う感情なのかもしれないが――。


 ただ一人だけ、魔王である彼に対して感情を露わにする者がいた。それが今まさに目の前に立っている男神、英雄神・アルヴァーであった。


 アルヴァーは口元を歪め、囁くように告げる。


「いよいよだな……覚悟はできてるか?」

「別に」


 壇上から眼下に居並ぶ神々を無感動な眼差しで見つめたまま、魔王はアルヴァーの方を見もしない。


「こんな命、早く終わってしまえばいい――そう思ってたんだから、今更覚悟も何もないでしょ。その運命を変えてくれようとしたのはあの勇者・ショージだけど……そう、元通りになっただけさ」

「勇者・ショージ……」


 表情を曇らせ、アルヴァーはその名を口にする。


「おいおいおい。あいつには何もできない。できなかっただろ? いい加減認めろよ。な?」

「……かもね」


 魔王が躊躇いがちに小さな呟きを漏らすと、アルヴァーは満足したようだった。晴れやかな笑みを湛えて魔王の正面へと回り込むと、彼の背丈に合わせるように身を屈めて陰鬱とした表情を覗き込んだ。


「ほら、言えよ。お前の願いを言ってみろ。俺ならば、この天界を統べる唯一絶対の英雄神たるこの俺ならば、お前のちっぽけな願いを叶えてやれるかもしれないんだぜ? ほら――」


 その言葉に、伏し目がちに下げられていた魔王の視線が上向き、嘲るような微笑みを浮かべるアルヴァーを睨み付けた。そして尋ねる。


「君はどうしたいんだよ?」

「……おい、どういう意味だ?」

「言葉どおりの意味だけどね」


 魔王はわずかにたじろぐ素振りを見せたアルヴァーの表情の変化を見逃してはいなかった。


「こんな大層な儀式なんかをわざわざ準備したのは、魔王である僕を封じるためじゃないのかよ? なのに今頃になって『望みを言え』だなんて、一体どういうつもり? この僕に、神様らしく情けでもかけてやっているつもりなの?」

「そうじゃない! お、俺は、ただ……」

「ただ――何なの?」

「………………くそっ!」


 癇癪を起した子供のようにアルヴァーはそう吐き捨てるとさっさと立ち上がってしまった。


 どうにも様子がおかしい。


 しかし、心当たりなぞまるでない魔王は、今まで顰めていた表情を緩め、何事もなかったかのようにただぼんやりと正面に視線を戻し、記憶を辿る。




(生きていたい――)


 そう口にしたのは自分だ。


(分かった。俺が、お前のその望み、叶えてやる)


 続けて聴こえた気のする声に、魔王は苦笑する。


(無理なんだよ――)

(だって、僕、魔王なんだから)


 この世に生を受け、そして滅せられるのが宿命。

 それは当たり前のことだと思っていたし、他に道なんてないと思っていた。


 そうじゃない――そう言ってくれた、自分を友と呼んでくれる存在が現れた時、しばし少年の心は高揚した。だが、現実は残酷だ。




 何も変わらない。

 何も――。




 天空に目を向けると、そこには漆黒の太陽がある。

 太陽と月が交わる瞬間。昼でもなく夜でもない逢魔の時。


 間もなくそれも終わる――少年の短い人生もまた。


「では、始めよう、《封魔の儀》を――」

「ち――ちょっと待ってくれ!」


 いずこからともなく響き渡った頼りなげな叫びに、広場に集まった神々の間にざわめきが広がった。


「俺に話をさせてください! お願いします!」


 もう一度声が響き、舞台の袖の方から二人の人影が現れると、壇上に集められていた神々たちは身構えるような素振りを見せる。その中で一人、驚いたような顔つきで逆に一歩踏み出したのはアルヴァーだった。


「お前ら……一体どうやって……!?」

「それを説明するつもりなんてないですよ。それよりも、とにかく俺の話を聞いて欲しいんです!」

「な、何を馬鹿な!?」


 アルヴァーはかぶりを振った。


「そんな必要なんかないだろうが!」

「そうですか? ここに集まっている皆さんの顔はそうは言ってませんよ?」

「戯言を――」


 だが、怒り狂うアルヴァーが周囲に目を向けると、彼の感情に水を差すような醒めた視線がそこここにあるのに気付く。むしろ、そんな彼の態度に怪訝そうに眉を顰めている者すらいるようだ。


「ち――」


 渋々アルヴァーは認めるしかない。


「……いいだろう。だが、この時、この瞬間は長くは続かない。あまり時間はやれないからな?」

「分かってます」


 俺は頷いた。

 そして息を吸う。


「皆さんにお尋ねします――」


 喋る内容なんてロクに考えてこなかった俺だが、自然と言葉は出てきた。


「あなた方の悲願は、神々と魔王との長きにわたる因縁に終止符を打つことですよね? でもそれは、魔王をこの儀式によって封じることで、本当に叶うんでしょうか?」

「当たり前だ。馬鹿々々しい!」


 至極当然とアルヴァーが隣で吐き捨てた。それをちらりと横目で見つつ、俺は続ける。


「じゃあ逆に伺います。もし魔王を封じたとして、その後は一体どうするつもりなんです?」


 その問いに、数名の神々たちが興味をそそられたように表情を変えたのが分かった。いい兆候だ。


「――もう魔王を討伐する勇者は不要になりますね。そうなれば、それを助ける役目を担った女神たちも役目を失います。あなたたち神々たちだってそうだ。……では、対立する存在を失ったあなたたちは、何を糧にして生きていくんです? 未来永劫に続く安寧の日々を、ただ無為に、過ぎるがままに過ごしていくんでしょうか?」

「……神が平穏を願って何が悪い?」

「平穏って、今のこの状態のことを言ってます?」


 むすり、と拗ねたように反論したアルヴァーの子供じみた態度に、俺は思わず吹き出しそうになる。


「本当に、今の天界って理想郷なんですかね? ある人が親切に教えてくれました。今じゃ、普通の人間より神の方が数が多いんだ、って聞きましたよ。頼ったり願ったり、祈ったり信じたり。もうそんな風に、あなたたちを特別扱いしてくれる人なんていないじゃないですか。だって、もう皆平等に同じ神という立場なんですからね。そうなってしまったら、神でも人間でも変わらないんじゃないですか?」

「それでも皆、幸せになっただろうが!」

「うーん……」


 とてもそうは思えないんだけど。

 壇上のやり取りに釘付けになっている一人の痩せ細った老人――いや、老神を見つめて俺は尋ねた。


「ええと……失礼ながらお尋ねします。あなたは今、幸せなのでしょうか? 天界での日々を、どんな風に過ごしているんですか?」


 その老いた神は、きょとん、と目を丸くした。周囲の神々も思いもよらぬ展開に驚いているらしい。


「……儂かね?」

「ええ。そうです」


 少し面白がっているようにも見える表情を浮かべた老神に向かって頷くと、しばし言葉を選ぶような素振りを見せた後、皺枯れた声が答えてくれた。


「そうじゃな……はっきり言って、特にやることなどないのう。気が向いた時に起きて、気の向くままに散歩して、飽きたら横になる。その程度じゃな」

「それ、楽しいですか?」

「……いいや。特には」

「幸せですか?」

「……いいや。幸せとか不幸せとかではないのう」


 淡々とそう答え、顎先にひょろりと伸びた白い髭をしごく。その様子を見ていたアルヴァーは露骨に不快そうな表情を浮かべたが、あえて咎めたりしなかったところを見ると、それなりに格の高い神様だったらしい。どうやら運が向いてきたようだ。


「……」


 アルヴァーは、むすり、と難しい顔をしている。彼なりに今指摘された事実を考えているようだった。


「……じゃあ、何か? 勇者・ショージとやら」


 長い沈黙の後、ふてくされたように口をへの字に曲げたアルヴァーは問い返してきた。


「魔王を封印することなく、今までどうり互いを憎しみ、争い続ければ良い……そう言いたいのか?」

「そ、そうじゃないですってば!」


 慌てて早計なアルヴァーの考えを否定した。


「俺はただ、《封魔の儀》なんて大層なものを持ち出してまで魔王を封じることに意味なんてないんだ、ってことを言いたかっただけで……!」

「ならば、お前の言う偽りの幸せを覆すことなぞできないんじゃないのか? ……結局何も変わらない。俺にはそう思えるんだがな? 違うか?」


 まずい。何人かの神々がアルヴァーの論理に同調し始めたのが壇上から見ても分かった。とりあえず、魔王が封じられてしまうことだけは避けたかった俺は、その先のことまで考えていなかったのだ。


 どうすれば……!


 その俺の迷いと策の無さを敏感に察知したアルヴァーは勝ち誇ったように、にやり、と口元を歪めた。


「で、あるならば、だ! この先のことは、憂いのないよう《封魔の儀》をもってこの魔王を封じ、その後にじっくりと考えればいいだろう! さあ、これに意を唱える者は!?」


 ああ、くそっ!


「ま、待ってくれ! 待ってくださいよ!」

「ええい、往生際が悪いぞ、勇者・ショージ! こいつが皆の心を乱す存在だと言うことは誰もが知っているんだ! そう、あの時だってそうだった!」

「この魔王は、まだ何も――!」




 ……ん?




 あの時も、ってどういう意味だ!?




 俺の心に違和感が生じたが、それよりも広場中にたちまち広がる同意の声を止めることが先だ。


「は、話を聞いて――!」

「ええい、止めるな! ここでこいつとの因縁を断ち切らねば、俺たちは前に進めないのだ! おい、そこのエセ勇者を取り押さえておけ! 邪魔だ!」


 だが、アルヴァーの命に呼応するようにあっという間に舞台脇に控えていた屈強な神々が殺到し、抵抗する暇すら与えてもらえないまま俺は力ずくで捻じ伏せられてしまった。ありえない角度まで関節を捻じ曲げられた激痛で勝手に呻き声が口から漏れる。


「ぐぁっ!!」

「シ、ショージっ!! ――あっ!?」


 咄嗟に駆け寄ってきたマリーまで、無理矢理跪かされたような姿勢でたやすく押さえつけられてしまう。苦痛に歪むマリーの顔がすぐ目の前にあるというのに、俺にはどうすることもできない。


「くそっ! マリーには手を出さないでくれ!」


 できるのは、ただ懇願することだけだ。


「そいつは無関係だ! そいつは悪くない! お願いだ! 今すぐマリーから手を離せえええええ!」

「そんなこと……く……言ってる場合じゃ……!」


 しかし、マリーの顔に浮かぶ表情には何かを予感させる決意の色がある。そして、必死の形相で俺の方へと顔を近づけてくるのを見て、ロマンチックだ、とか、ドキドキする、などとは少しも思わなかった。




 そして、


 その代わり、


 分かった。




「ねえ、ショージ! お願い、気付いて!」

「……そうか! よし! やってやるぜ!」


 何故か分かったのだ。マリーの賭けが。




 彼女の持つ《女神の加護》とは――。

 互いを愛しいと思い、慈しむ、そんな純粋な心を思い出させる、そういう力。




 マリー本人の意志ではコントロールできない力。

 だが、それを授けられた勇者である俺ならば――。




「やれ! 授けろ! お前の《女神の加護》を!」

「もう……少し……! あと……ちょっと……!」


 俺の身体から驚異的な力が湧き上がるのを感じた。三人がかりで俺を拘束している神々が、焦り始めたのが身体に添えられたごつごつした手から伝わってくる。じり、じり、と距離は縮まり、あとわずかで俺とマリーの唇が触れようかと思った瞬間――。




 ぴっ。




「……そうはさせません」




 暖かな感触。




 しかしそれはマリーの唇のそれではなく、二人の間を分かつように横合いから差し出された女神の手のひらによるものだった。


「どうして邪魔を……んんっ――!?」


 俺はその手に噛みつきそうな勢いで吐き捨て、




 ――絶望した。



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