第十七章 小休止
「死……ぬ……きっと……死んじゃう」
「死なねえよ」
マリーは、ぐだー、と長机の上で伸びている。このまま一気に完売か、と思われたが、そんなに甘い話はなかったようだ。そろそろお昼時ともなると途端に客足は遠のき、会場内をうろついている参加者もまばらになっていた。
「あー……。お腹空いた……」
「お前たちも腹は減るんだ?」
「当たり前でしょ?」
お前たち女神も、とは言わずにおく。
一応、今の俺だって女神に見えるらしいからね。
「なーんーかー買ってこーいー」
間延びした声と共にうりうりと脇腹を肘で突かれたものの、そうもいかない理由があったりする。周囲の様子を窺いつつ、マリーの耳元で小さく囁いた。
「……俺だと無理じゃん? その何とかってカード、俺は持ってないんだぜ? 貸してもらったところで使えるのかどうかも分かんないんだし……」
「うー」
マリーは長机の上に顔を伏せて呻き、
「じゃー、行ってくるー……つっかえない奴……」
そんな捨て台詞を吐きつつ、夢遊病者のような覚束ない足取りでマリーはよろよろと出かけて行った。
しばらくして、
「んふー。んふふふふふ……」
復活早いな、おい。
スキップでもしそうな勢いで、両手に白いビニール袋を下げたマリーが戻ってきた。その顔は妙につやつやしている。
そのままサークルスペースの中に戻り、
「はい、これ」
どん、と座った。さっきまでのとげとげしさはもう影も形もない。
渡された袋を早速開けてみると、中から食欲をそそる匂いが立ち昇ってくる。どうやらホットドッグのようである。隣に添えてあるのはナゲットとオニオンリングらしい。つーか、見事に油ギッシュなメニューだな。天界って一体……。
「さんきゅ。いただきまーす」
すっかり緊張していたせいで気付かなかったが、俺の方も相当腹が減っていたらしい。しばし無言でわしわしと食べる。さすがに見かねたらしく、隣の舞亜さんがウェットティッシュを分けてくれた。こくこく、と頷き礼を述べつつ指を拭き拭き一心不乱に食べ続けて、あっという間に完食してしまった。
「美味しかった……!」
「でしょ?」
お腹も落ち着いたところで、すっかり片付いてしまった空容器を一まとめにしつつ、当初予定していた行動を実行に移すことにした。ごみの袋を傍らに置き、箱の中に残っている本を数冊取り出して小脇に抱えると、俺は立ち上がった。
「ちょっと出かけてくるからね」
「……どこいくのよ?」
「あ、あれ? 話さなかったっけ?」
おっかしーなー。説明しておいたつもりだったんだけど。
「――今回参加するにあたって、SNSを通じてアドバイスをくれた他のサークルの人たちがいるでしょ? その人たちに、挨拶がてらウチの新刊を渡して来ようと思ってさ。ええとつまり……これ、タダであげちゃうことにはなるんだけど……」
「それはいいわよ、別に」
すでに頒布した分で印刷代はペイできていることもあってか、マリーは案外、けろり、と応じた。
「でも……どうせなら一緒に行きたいんだけど。あたしだって直接御礼が言いたいし」
「でも、ここを空ける訳にはいかないだろ?」
「ま、それはそうなんだけどねー……」
見てよっか?と舞亜さんも織緒さんも気軽に言ってくれたものの、あまり頼ってばかりじゃ申し訳ない。俺たちの用事は俺たちで済ませないと駄目だ。
「じゃ、お願い。は……早く帰って来なさいよ?」
「はいはい。コミュ障乙」
「と――とっとと行ってこいってば! 馬鹿っ!」
「へーへー」
そんな罵声に見送られながら、俺は手にした配置図を頼りに御礼行脚に出かけたのである。
「最後は……葵さんのところだな」
大した距離も移動していないのに、俺はすでに疲労困憊だった。
それにしてもこの靴、痛くて堪らない。踵の部分がどっしりとしたデザインなのでそこまで歩きづらくはなかったけれど、何しろパンプスなんて代物を履く機会は皆無だったので、不安定なことこの上ない。踵から着地して歩く癖が身に付いているので余計にしんどく感じる。
「バッグくらいは持ってくるべきだったか……」
挨拶して新刊を渡せば終わり、と高を括っていた俺だったが、どうやらこういう時は互いの新刊を交換するのがセオリーのようでちっとも荷物が減らないのである。今もなお、きっちり渡した数分の本が手元に戻って来ている。
「あっちだな……きっと」
会場をぐるりと一周するコースをとって、俺は最後のスペースを目指す。
葵さんのサークル『
それは、彼女たちのサークルが絶大なる人気を誇るいわゆる『壁サー』だったからである。神絵師SNSで交わされている会話の端々からその事実は否応なしに窺えた。さすがに長蛇の列を捌くのに大わらわなところに、ロクに面識もない俺がのこのこ顔を出すのはまずい――そう思ったのだ。昼もだいぶ過ぎた今ならそこまで人は多くない筈だ。
徐々に元の勢いを取り戻しつつある人々の間を縫うように進み、ようやくそこへと辿り着くことができた。
「あった……」
しかし俺の心配は、ある意味、的外れだったようである。
その長机の上には、
『――新刊・既刊ともに完売しました!』
と殴り書かれた一枚の紙とともに、ぐんにゃりと突っ伏している小柄な女の子の姿だけがあったのだ。
「……」
スペースの奥の方を覗き込んでも他に誰もいない。
「えーっと……」
あるのは大量の空になった段ボール箱と、もう出番のなさそうな折り畳まれたいくつかのキャリーカートだけだ。
うーん……この人……なのか?
まだ一言も交わしていないどころかまともに顔も拝めていなかったのだけれど、本能的に、目の前でぐったりしているの女の子は葵さんではない、と判断する。
「……」
黒いショートパンツにモノトーンのボーダー柄のニーソックス。すっぽり被っているパーカーのフードの部分は兎の耳を模したデザインになっている。もういい加減《ノア=ノワール》在住の女神たちのファッションにはツッコミ飽きていた俺だったが、彼女が葵さん本人でない、と断定したポイントはそこではなかった。
ちっちゃいのである。
……いやいや、パーツの話じゃなくて。
偏見めいた考えなのかもしれないが、葵さんの描く世界観は『ショタ萌え』なのである。つまり、描き手とキャラの間にもその関係が成立しない筈がない、そう思ったからだった。目の前で居眠りをしているらしい女の子は、どうみたってロリキャラに分類されるであろう。
……聞いてみるか?
さらに目の前まで近づいてみたが、それでもまるで起きる気配がない。仕方なくそっと声をかける。
「あのー? ……ちょっと、いいですか?」
「……?」
気だるげに身を起こす。別に眠っていた訳ではなかったらしい。
「……なんデス?」
「ここに葵さんという方はいらっしゃいますか?」
「あー……。
何かちょいちょい違和感が。
何と説明しようか迷っていると、目の前の女の子はようやく顔を上げて俺を検分するかのように正面から、じろり、と見つめた。
……前言撤回。
これ、ロリキャラじゃない。
俺が瞬間的に怯んだのを見透かしたかのように、薄い唇をかぱっと開いて、ししっ、と笑った。その奥にはあたかも竜のごときギザギザの歯が覗く。と同時に、パーカーの中に着ているこれまた真っ黒なTシャツに、ラメ入りの塗料で精緻に描かれている爆炎を吐き散らかしているドラゴンが目に飛び込んできた。
ヘビメタ少女……ってことでいいのか?
よく見ると、首元にはごついヘッドフォンがかけられている。音は漏れてこない――というより、コードの先端はどこにも繋がってないみたいである。
「えと……さっき、
「ええ」
鷹揚に頷きながら、パーカーのポケットから取り出した棒付きキャンディを口に放り込んだ。
「葵は、ウチの代表デスから。……知らなかったんデスか? 主人もまだまだデスねぇ……」
「す! 済みません……!」
サ、サークル代表だったのかよ!
まさかそこまでとは思っていなかったので恐縮してしまった。が、すぐさま気を取り直して用件を伝えることにする。
「お――あたしたち、『まりーあーじゅ』というサークルとして今回初参加なんですけど! 参加にあたって、葵さんに神絵師SNSを通じていろいろとアドバイスをもらったので、その御礼を、と」
「お、でキル子ッスね。偉い、偉いデスよー」
何だかやけに偉そうな口調で褒められてしまった。言うなりヘビメタ少女は、すっく、と立ち上がったが、やっぱりちっちゃかった。そして、ほとんど袖に隠れてしまっている手が差し出された。
「あたしは、ぼーぱるッス。もちろん真名じゃないデスけどね? 葵のアシ、やってる者デス。……あーあー、別に覚えなくてもいいッス。けど、心に刻んどけ、ってことデスよ。ししっ」
「あ……ども。あたし、あまったか、と言います」
袖が邪魔で仕方なかったが、何とかそのやけに冷たい手を握り返すことに成功した。
にしても……ぼーぱる?
そして、パーカーに生えた兎の耳。
嫌な記憶しか呼び起こさないんですが……。
まだぼーぱるさんは一人勝手に、ししっ、と笑っていたが、もうそれはすっかり、死、死、にしか聴こえなくなってしまって落ち着かない。
「で……どうしますデス? ここで待ってれば、そのうち戻ってくるとは思うッスけど?」
「あ、いえ……ご迷惑になっちゃいそうですし」
実は、早く逃げたい、が本音だった。悪い人じゃないんだろうけど。
俺は慌てて一冊の本を取り出すと、行儀良く深々と腰を折ってぼーぱるさんに向けて差し出した。
「こ……これ! 葵さんに渡してもらえますか?」
「いいデスよ。もちろん」
口元で弄んでいた棒付きキャンディから手を放し、ぼーぱるさんは早速ぺらぺらと捲り始めた。
「……ほほー、力作ッスねー。良く描けてます。こんだけネームをキルのも大変だったでしょう?」
「い、いーえいえ! あたしじゃないんです!」
ぶんぶん、と手を振って訂正する。
「描いたのは、まりりー☆、です。あたしは横からアドバイスしてただけで……。えと……何にも……してないし……したくってもできなくって……」
不意に俺は、自分の無力さを感じてしまった。
俺がマリーにしてやれたのは、茶々を入れて、はた迷惑な批評家の真似事をしたことくらいだ。勝手にオタクの先輩である俺にはセンスがあるんだからと偉ぶって、独りよがりの無茶振りをしていただけなのだ。
ネームを切ったのも、ラフを描いたのも、ペンを入れたのも、表紙のイラストを描き上げたのも、マリーただ一人の力によるものだ。
よく頑張った――その労いの言葉はあまりに重すぎて、単なる代理なのだとしてもとても受け取れるものではないと引け目を感じてしまったのだ。
「んー……。でもッスよ?」
肩を落として言葉を失くした俺に、ぼーぱるさんは素っ気ない言葉を投げかけた。
「それでもそのまりりー☆って子なら、きっとすっごいの描ける筈、って信じてたんじゃないデスか? 誰もまだ見たこともないってのに、あんたただ一人だけは心の底から。……違うッスかね?」
「あ……」
はっ、と顔を上げると、ぼーぱるさんの琥珀色の瞳が静かに俺を見つめている。そして彼女は、ししっ、と笑ったが、今度は不思議と少しも怖くなんて思えなかった。
「信じて、自分にでキルことをやる……それでいーんデスよ。出来もしないことを頑張っても、やった本人だけが満足するだけで結構邪魔にしかならないものデスからねぇ」
それでも浮かない顔をしていると、ぼーぱるさんは諭すように続けて言った。
「……あまったかちゃん、あんたのことは葵からも聞いてたデス。その、まりりー☆ってこのためにと、あっちこっちの人に丁寧にお願いして、いろいろとアドバイスを貰ってたでしょ? そして、その受けた恩をこうしてわざわざ一つ一つ返しに来てる。それだって立派なお仕事デス」
親切に俺の話に付き合ってくれただけでも有難いことなのに、サークル仲間の間でも話題にも上がっていたと聞かされると、嬉しいやら申し訳ないやらで返す言葉が見つからなかった。
「んー……」
やれやれ、と肩を竦めるように溜息を吐くと、ぼーぱるさんはパーカーのポケットからまた別の棒付きキャンディを取り出して、ん、と俺に差し出した。
「これ……頑張ったで賞。あんたにあげるデス」
「あ……ありがとう……ございます」
ちっぽけなキャンディは、やけに重く感じた。
――俺にできること、か。
妙にしんみりした気持ちを抱えて、俺はマリーの待つであろう俺たちのサークルスペースへと無言のまま歩いていた。
「……」
ふと、立ち止まり、会場をゆっくり見渡してみる。
「何か……不思議だよなあ……」
ここにあるのは、吸い寄せられるように集まってきたオタクたちの《妄想》だ。
いつかはここに――自分の良く知る世界と此処はまるで違っていたのだけれど、同じ空気と同じ熱が此処には確かにあった。時と場所は違っても、それは確かだ。
――俺も、書きたい。
そして、俺の《妄想》を見てもらいたい。
今はマリーの《妄想》を信じて支えることしかできないけれど、俺だってそっち側に行きたいと思う。
いや、やらないと、な。
これが終わったら、もう一度書こう。
本当に書きたい物を、本当に見たい、見せたい俺だけの世界をぶっ倒れるまで書こう。それこそ本当にぶっ倒れるようなことになってしまったら大変なのだが、きっと大丈夫だという確信があった。
「だって、あ――俺ってさ」
――勇者様だもんな。
ようやく足取りが軽くなった。早くマリーの顔が見たくって、足を速める。
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