第十五章 いざ、イベント会場へ
ド――。
ドウシテコウナッター!
「ちょっと! そこで頭抱えてないで、少しは手伝ってってば!」
何この
しかし今回は、少しばかり、いや、物凄くかなり事情が違っていた。
「頭くらい抱えたって、罰は当たらないだろ!?」
そう悲鳴に似た声で俺は応えたが、その科白には酷く現実感というものが欠けていた。落ち着かなげな俺の様子を、にやついた笑いを浮かべたまま頭のてっぺんから足の先まで眺め終えてから、マリーはこう言った。
「やっぱ似合うと思ったのよねー。だってあんた、どっちかって言うと女顔だし」
「だからって――!」
一際大きな声で言うと、俺たちの周りを通り過ぎていく参加者たちが、何事か、と怪訝な顔をする。なので、顔を寄せて、こしょこしょと囁いた。
「……一体、俺に何を飲ませたんだよ!? こうなるなんて……聞いてないっ!」
「言ってないもん」
「お……前………………!」
くっそ!
すっげえすーすーして落ち着かない!
どう考えても正気の沙汰とは思えない短すぎるスカートの裾を押さえつつ、まだにやにやしたままのマリーになおも詰め寄った。
「何で俺が……お、女の子になってるんだよ!」
そうなのである。
女装や男の娘ならまだしも――い、いや、頼まれたって絶対やんないけど――今の俺は、どこからどうみても、完璧なまでに女の子になっているのだ。まあ百歩譲って、女体化ってのはある意味オタクが一生に一度くらいは抱きそうな夢だろう。だが、実際にそうなったらなったで到底落ち着いていられるものではなかった。こんなの妄想だけで十分だ。
せめてもの救いは、部分的に元の俺の容姿を残しつつも、少しかけ離れた見た目になってくれていたことだろう。背の高さはあまり変わらなかったが、髪は燃えるような赤毛で、控えめながら、む――胸もきっちりとそれなりの自己主張をしていた。瞳の色までも違ってしまっていたようだったが、それ以上鏡の中の変わり果てた自分の姿を見ていられずにギブアップしてしまったのでよく覚えていない。
くっそ……何で俺が……。
「へっへーん。凄いでしょ? これこそ神の力よ」
マリーは何故か自慢げにふんぞり返って言った。
「前に
「自分で……飲めば良いじゃねえか……!」
「今度いつか、気が向いたら、ね?」
女同士、ということもあってかいつも以上に距離感を計るのが下手糞になっているマリーは、顔を赤らめて俯いている俺の細い顎先に無遠慮に手を添えると、強引に、くい、と上向かせた。
「ほーら。せっかく声まで可愛らしくなってるんだから、そんな乱暴な言葉遣いは、めっ!だぞ?」
「ううう……」
さっきからずっと消えない違和感の一番の原因はそれだった。この姿の俺は、やたらと可愛らしいアニメ声なのである。声優の誰かに似ている気もしたのだが、それを思い出すどころではなかった。
「お前……覚えてろ――なさいよ?」
くっ、と睨み付けた。だが、俺の意志とは無関係に涙目になってしまっている。
「そーそー。良い感じ」
マリーは笑いを噛み殺す。
「貯め込んでたメガポで、衣装も揃えてあげたんだからねー。すっごい似合ってるわよー。……ほら! スカート押さえてないで背筋を伸ばしなさいよ」
「見えそうなんだよ……これ……!」
これデザインした奴、だいぶ頭おかしいだろ!
「だいじょーぶ大丈夫。ギリギリ見えてないって」
「ギリギリなのかよ!?」
自分では見えないが、思った以上に短いらしい。
「ちょ――! 引っ張んな! めくんなってば!」
スカートの端を摘み上げるマリーの手が足の付け根あたりに触れた途端、勝手に、ひゃん!とか声が出そうになってしまい、恥ずかしいやら悔しいやらでますます頬が熱くなってしまった。
「さーって。会場の外でイチャイチャしてても仕方ないから、早く会場に入らないと」
二人して改めて周囲に集まっている群衆を眺める。
「にしても、結構な人が来てるのね……」
俺たちの横を通り過ぎていく参加者たちは、皆一様にこの日のために準備した思い思いの衣装に身を包んでいた。比較的多いのはマニッシュ、というよりストレートに男装だった。今まで腐女子向けイベントに参加した経験なんてなかったけれど、いかにも『らしい』感じがする。その中において、魔法少女めいたフリフリブリブリの衣装に身を包み、右手に造型師が悶死しそうな複雑なデザインのステッキを持っている俺はむしろ少数派に属するようだ。ときおり周囲から飛んでくる好奇心の入り混じった視線に晒され、ますます落ち着かない気持ちになってきてしまった俺は、左手に握るカートの持ち手に力を込め、のんびり見物中のマリーに声をかけた。
「い、急ごう。設営とかもあるんだから」
「あ、うん。まだ距離ありそうだもんね」
マリーの持つ能力である例の《扉》を使えば会場の中に直接アクセスできるものだとばかり思っていたのだが実はそうでもなく、少し離れた《
何でも《扉》はどこにでも設置できるという物でもなくって、こういう公共の施設に関してはあらかじめ設定されている場所にしか設置できないのだそうだ。さっき俺たちが《扉》を出ようとした時も、すぐ隣に複数の《扉》が出現していたせいで他の女神たちと鉢合わせするような格好になってしまい、危うくぶつかりそうになって、ひやり、とした。
ころころ、とカートを転がしながら、改めて思う。
「って言うか……かなりデカいな。ここまでとは……」
「うん……ここ来たの、初めてだよ……」
目の前に鎮座している巨大な盃のようなアンバランスな外観をした白亜の建造物の名は《悠久ゴッドサイト》と言うらしい。やっぱり何処かで聴いたような名だが、ここが本日のイベント会場だ。急に無口になったマリーの方を横目で見ると、緊張してきたのか表情が硬く強張っていた。
「おい……ビビってるのか?」
「そんなこと――!」
言いかけてから、ははは、と乾いた笑いが漏れた。
「……ホントは超帰りたい気分。あんたは?」
「おいおい、お――あたしはオタクだぜ?」
一瞬間を置いてから、ストレートに答えてやる。
「……って強がって見せたいとこだけど、正直言うとさっきからちょっぴり膝が笑っててさ。武者震いじゃ……ないな、これ……ははは」
「どうしよう……」
マリーの足取りは重くなったが、反対に俺はカートを引く手に力を込めた。
「だからって、いまさら帰る手はないぜ? せっかく苦労してここまで来たんじゃないか。お前、すっごい頑張ってたもんな。それに、出来上がった自分の初めての本、見てみたくはないのかよ?」
「そりゃあ……見たいわよ……けど――」
遂に足が止まる。
言葉が出ない。
が、反射的に俺はマリーの手を掴んでいた。
「行こうぜ、まりりー☆先生」
ぎゅっ、と手に力がこもった。
「大丈夫、ずっと見てきたオタクのあたしが言うんだから間違いない。自信を持て。お前はただ前を見て、しっかり胸を張ればいい。お前にはその資格がある。そして、お前の妄想を皆に見てもらうんだ」
「あたしの……妄想……」
マリーの手が強張ったのは恐れからだろうか。
それとも恐怖? 後悔?
いや――どちらであっても駄目だ。
「……いいか、まりりー☆先生」
一際手に力を込めると、驚いたようにマリーは俺の真剣そのものの顔を無言で見つめた。
「ここにはきっと、お前の描いた妄想を好きになってくれる人がいる。わくわくして、きゅんとして、どきどきしてくれる人がいるんだ。お前をずっと苦しめてきた妄想が、間違ってないんだ、正しいことなんだ、って言ってくれる人がここにはいるんだぞ。それ……見てみたいと思わないかよ!」
はっ、と息を呑む音が聴こえた。
やがてマリーは、
「し――仕方ないわねっ!」
手を振り解いてそっぽを向く。その声は、うわずって震えていた。
「あまったかちゃんがそう言うんなら、行ってあげなくもないけどっ!? そ、それに? 別にあたし、行きたくないなんて少しも思ってないしっ!?」
耳は真っ赤だ。でもそれは口に出さずもう一度マリーの手を取ると、俺は威勢の良い号令をかけた。
「よーし! じゃあ我ら『まりーあーじゅ』の初陣と参りましょうか!」
「う……うっし!」
けどそこは、うんっ!が良かったなー。
ま……いっか。
そして俺たちは、遂にイベント会場へと足を踏み入れた。
「ここで……いいのよね……?」
「だな」
目の前にあるどこか妙に懐かしさを覚える折り畳み式の簡素な長机の隅っこには、『とー8』と印刷されたシールが貼られていた。間違いない。ここだ。
運が良い事に、サークル『まりーあーじゅ』に割り当てられたのは四角い島の角の席だった。さすがにお誕生日席とまではいかなかったが、ここだって人の目には触れやすいし、片方しか隣が来ないので気が楽だ。何より出入りがしやすいのが良い。
きょろきょろと落ち着かないマリーは置いといて、前もって葵に聞いていたことを俺は一つ一つ実戦に移すことにする。まずは隣のサークルの人に挨拶しないと、だ。
「あ、あの……今日はよろしくお願いします!」
「はーい。こちらこそー」
自分たちもまだ準備で忙しいだろうに、ぎこちない俺の挨拶にわざわざ手を止めてにっこりと応えてくれた。そのとろんと眠たげな眼をした薄紫色のロングヘア―の優しそうなお姉さんの隣にいたのは、明るい栗色をしたあちこちくせっ毛が跳ね散らかっているボーイッシュな印象の女の子だった。にかっ、と白い歯を見せて、おっす、と片手を挙げる。
ふう、出だしはOK。内心、ほっ、と胸を撫で下ろしつつ、まごついているマリーを追い立てるようにして再びカートを始動させると、島の中へと入りこんだ。
あれ……次はどうするんだっけ?
入ったはいいが、思考が止まってしまった。
と――。
「ええと。もしかして、初めての参加かな?」
「うっ……分かりますか?」
「あ! いいのいいの! 気にしないで!」
余程表情に出ていたらしい。ロングヘア―のお姉さんは見ているこっちが気の毒になるくらいの慌てっぷりで何度も手を振って笑う。
「誰だって最初は緊張するものだもの……。まあ、ウチの相方はちっともそうじゃなかったけど。ああ、そうそう。私は舞亜。この子がその相方の織緒」
慌ててぺこぺこ頭を下げつつ、俺たちも名前だけの簡単な自己紹介を返した。うんうん、と頷きながら舞亜さんは説明を続ける。
「私たち『カルネヴァール』というサークルでここに参加しているのよ。と言っても、ここではサンプルを展示しているだけで、気に入ってもらえた人に注文を受けてから、それを製作・販売してるの」
こちらから、何を――と尋ねる前に、足元の箱から実際にそれを見せてくれた。
「――コスプレ衣装。作るのも売るのも私よ。じゃあ織緒はって言うと……この子はウチの看板かな」
「ま、そんなとこだなー」
気を悪くする様子もなく織緒さんは腕組みをしたままむふーと息を吐き、満足気に何度も頷いた。
看板?
売り子ってことじゃなく?
舞亜さんの言った『看板』という言葉の真意が掴めなくて黙っていると、また別の箱の中から取り出した一揃いの衣装を抱えて織緒さんは言った。
「んじゃー、行ってくるぜ、舞亜」
「はいはい。行ってらっしゃいな」
またなー、と手を振りいずこかへと駆けて行く。
「えっと……織緒さんは……何処に?」
「すぐに分かるわよ」
ひらひらと手を振ってマリーの言葉を遮り、舞亜さんは俺たちのスペースの上をちょいちょいと指さした。
「ほーら。まずはそこに乗ってる邪魔な椅子を降ろしちゃった方がいいわよ? 準備、始めないと」
「あ……そ、そうですね」
俺たちのスペースとなっている長机の上には、無数のチラシに埋もれるようにして折り畳み式のパイプ椅子が二つ載っている。マリーにカートを預けてからそれを降ろそうとしたものの、慌てすぎたせいで何枚か床にチラシをばら撒いてしまった。それを舞亜さんが拾ってくれる。良い人だなあ。
「こんなに……これ、どうすんの?」
「えっと……」
まごついていると、舞亜さんが半透明のごみ袋を広げて差し出している。
「興味があるなら持って帰って後で見ればいいんじゃない? ま、ほとんどが印刷所の広告か、別のイベントへの参加募集でしょうけどね。慣れればその場で仕分けして不要な物は捨てて帰ることもできるけれど……それより今は準備が優先。でしょ?」
「ですね……ありがとうございます」
マリーはぺこぺこ御礼を言いつつ、好意に甘えて手の中のチラシをがさっとごみ袋に投入する。ちゃんとごみ袋は持ってきていたのに、どうにも勝手が分からず手際が悪い。後でちゃんと返そう。
「お――あ、あたしは設営始めるから、まりりー☆先生は印刷の仕上がり具合を確認してて」
「えっ……ど、何処にあるのよ!?」
「ほら、机の下に」
早速持参してきたテーブルクロスを両手で広げつつ、顎をしゃくるようにしてマリーに合図を送る。そこには小さめの段ボール箱が二つ、置かれていた。
「これ……が?」
マリーは見た目より重量感のあるそれをうやうやしい手つきで取り上げると、スペースの裏手まで運んでしゃがみ込んだ。やがて、ぴりぴりとガムテープを剥がし始める音がする。しばらくは放っとこう。
机の上に広げたクロスを目にすると、舞亜さんが感心したような声を出した。
「あら? 素敵ね、それ」
「ありがとうございます。嬉しいです」
俺たちの初陣を飾るに相応しい物を、と悩みに悩みまくった挙句にチョイスしたそれは、黒を基調に、無数の星を散りばめた夜空をデザインした光沢のある布地だった。材質はちょっと分からない。でも、薄すぎず、しっかりとハリがあって、ここまで折り畳んで運んできたけれど皺も目立たなかった。けれど、舞亜さんが感心してくれたのはデザインだけじゃなかったようだ。
「サイズぴったり。それに……まあ、手前の部分はポケットにしてあるのね! 凄く便利じゃない!」
「そんなに重い物は入れられないんですけどね」
手前に多めに垂らしたクロスを折り返すようにして袋状に縫い、ついでに三等分になるよう縦方向にも縫っておいたのだ。
「ペンとかノートとか、ちょっとした小物くらいなら入れておけます。紙屑みたいなのもここに入れちゃえばいいかな、って」
「うんうん」
何もオリジナルのアイディアという訳ではない。以前に同人サークルの集まるSNSで何となく見かけた物だったのだが、さすがに細かい寸法までは覚えていなかったのでそこは少々頭を使う必要があった。
まず、この《ノア=ノワール》で開催されるイベントで使用する長机の寸法をネットで調べ、ポケットの部分を作るにはどれくらいの寸法が追加で必要になるかを計算した。一番困ったのは長さを示している読めもしない謎の単位の存在だったが、考えてもみればそれを計る定規の方も同じ単位で表記されている訳なので無事クリアできた。ちなみに、いまだにその単位は何と読むのか分からない。
「ね? あまったかちゃん……だったわよね?」
舞亜さんは急に困ったような微笑みを浮かべる。
「こんなことをお願いするのは間違っているのかもしれないけれど……。これ、今度私も作ってみてもいいかしら?」
「えっ」
驚いてまじまじと舞亜さんの顔を見つめると、
「そ……そうよね……。あなたが発案者なのだし」
「あ……いえいえいえ!」
恥じたように自分の頭をこつんと叩いた舞亜さんに慌てて手を振って見せる。
「違います! ちょっと驚いたってだけですから! 少しでも、便利だなって思ってくれたのなら、もう、どうぞどうぞ!って感じなので。ただ……細かい寸法とかまではあたしもメモしてなくって……」
「あら! いいの!?」
良いも何も、そもそも俺の発明でも何でもない。それでも舞亜さんは嬉しそうに笑うと、ぺこり、と頭を下げた。
「ありがと。では、お言葉に甘えるわね。寸法の方は大丈夫。私、大抵の物は見れば分かっちゃうの」
「へー。凄いですね。やっぱりそっち方面の女神様なんですか?」
どうやらそういう質問は女神たちの間でもあまりしないようで、舞さんは一瞬きょとんとしたかと思うと、急にくすくすと笑い出した。
「いやね、ただの趣味よ。好きが高じて、ってとこ。それよりも――」
「あああ! そうでした!」
いかん、すっかり手が止まってる。まだサークル設営、終わってなかったんだっけ。
と言っても、さっきのクロスを敷いてしまえば後は細かい備品とか飾り物を並べるだけなので一気に片付けてしまう。元いた世界でのイベントとは違い、お釣り用の小銭を大量に収納したコインケースだとか、それを隠す目的も兼ねた棚なんかも不要だ。サークル名とスペースナンバーが書かれた卓上ネームプレートを置いて、値札とちょっとした紹介分を書き付けたPOPを立て、思いつきで自作したサークルの名刺――書かれているのは『まりりー☆』という作者名である――をイミテーションの銀の小皿の上に扇状に並べて置いてみた。
あとは――。
「……まりりー☆先生?」
ずっと放置してたマリーの方を振り返ると、そこにある丸くなった背中が悪戯を見つけられてしまった子供のように、びくっ!、と震えた。
「もうこっち、終わったんだけど……?」
「う――」
「?」
何だか様子がおかしい。
「うううううー!」
「う……ぇ。どうした!?」
と、突如押し殺した呻き声が聴こえてきたので、大急ぎで駆け寄る。
すると――。
「出来ちゃった……出来ちゃったのよ……!」
んなあああああ!
そんな馬鹿な!?
俺、何もしてないんだけどっ!
「ほら……見て……!」
反射的に両手で顔を覆い――その指の隙間から覗き見た先にあったのは本だった。
俺たち『まりーあーじゅ』が頒布する初めての本。
カラー原稿はもちろん俺もチェックしていたが、それでも、こうして実際に一冊の本になっているのを目の当たりにすると、じわじわと感慨めいたこそばゆいような誇らしいような感情が湧いてくる。
「そっか……出来ちゃったな」
「う……ん……!」
何だかマリーの目元が赤くなっている気もしたが、見なかったふりで、ぽん、ぽん、と頭を撫でた。
「表紙のイラスト、凄く恰好いいよね。中は?」
「う……ん、大丈夫……だった……」
「じゃあ、こっちの束になってる奴の封も切って並べちゃうよ? 全部並べる必要はないだろうし、半分もあれば大丈夫じゃないかな」
仕方ない。もう少し浸らせてやるか。
すぐにも読んでみたい衝動に駆られはしたものの、最後の仕上げに取り掛かる。受け取った本の束にかけられている封を切って、まずはその一〇冊をクロスの上に並べていく。半分を山に、半分を扇状にして並べてみた。だが、それでも頒布物が一冊だけなのでスペースに余裕があり過ぎる――そう思ったので、追加で束をもう一つ、あとバラで入っていた予備の数冊をそこに加えてみた。何でも、印刷工程での不測のトラブルに備え、注文数よりも少し多めに納品されるのが定番らしい。今回は三冊も余分に入っていた。
そのうちの二冊を取り除け、片方にはビニール製のブックカバーをかけてから、黒のマジックで『見本――ご自由にお読み下さい』と書かれた小さめのPOPを貼って、手に取りやすい位置に戻した。もう一冊の裏表紙の片隅には、主催者側から郵送で送られてきたシールを貼り、スペースの邪魔にならない端っこの位置に置いておく。シールには予めサークル名やスペースナンバー、作者名なんかが書いてあり、これを見本誌として巡回しているスタッフに提出しなければいけない決まりらしい。その上に重ねて置いてある、サークルカード、と呼ばれる名刺サイズの厚紙もそのための物だ。
一通りの段取りは葵から聞いていたので、慌てずに全て済み、ほっ、とした。今回も参加していると聞いたから、直接会って御礼を言っておきたい。
「終わったー……多分」
軽い疲労感とともに、ようやくギシつくパイプ椅子に腰を降ろしてぼんやりしていると、大きなトートバッグを肩に掛け、周りを見回すような素振りで近づいてくる女の人を見つけた。やがて、俺たちのスペースの前で立ち止まり、声がかけられる。
「参加登録……済んでますか?」
「あ! まだです! お願いします!」
準備したての見本誌とカードをクロスの上で、すす、と滑らせるようにして差し出すと、小さく一礼してから確認を始める。
「……」
ちょっと緊張するな……。
「ええと。頒布するのは、これ一冊だけですか?」
「はい!」
「では、これで参加登録は終わりです――」
ずっと、むすっ、とした顔付きをしていたスタッフの女性は、そこでほんの少しだけ微笑んで言った。
「参加は初めて――だよね? じゃあ今日は、思いっきり楽しんでね!」
「は………………はい!」
やっべえ。ちょっと涙ぐみそうになっちゃったよ。
そのまま天井を見上げるようにして、すんすん、と鼻を鳴らしている俺に、横から舞亜さんが声をかけてきた。
「そろそろよ?」
振り返り、ぐい、とマリーの襟を引っ張る。
「ほーら、まりりー☆ちゃんも座って座って!」
「う……は、はい?」
「?」
その時、状況も分からず仲良く肩を並べてちんまり座っている俺たちの頭上にあるスピーカーからアナウンスが響き渡った。
『本日は――第一〇回――コミック・ゴッド・マーケットにご参加いただき――誠にありがとうございます。只今定刻となりましたので――これよりイベント開始となります。イベント終了まで――皆様ルールを守ってお楽しみ下さい』
すると、一斉に割れんばかりの拍手が始まった。
「ほらほら。あなたたちも」
戸惑い引き攣り気味の顔を見合わせた俺たちの表情も、次第に緩んで笑顔になっていく。最初はおずおずと、やがて力強く俺たちもその拍手に加わった。
遂に始まる――。
そっと差し伸べられたマリーの手を、きゅっ、と躊躇うことなく握り返し、俺たちの初めてのイベントは厳かに始まったのだった。
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