第十四章 下準備は入念に

 その後、サークル名の方もあっさり決まったので、俺はさっそくペプルスに予約を入れることにした。




 代表者名『あまったか』。

 作者名『まりりー☆』。

 サークル名『まりーあーじゅ』。




 やや安直で、ひらがな成分多めな気もしたが、覚えてもらうことが最優先なのでこれで良しとする。とは言うものの、さすがの俺も『結婚』と言う意味の単語をもじったサークル名に激しくうろたえてしまい、なるべく平然とした顔を装いつつその由来をマリーに尋ねたところ、


「……? あたしの描いたキャラ同士がいちゃいちゃしてるイメージでー、だったんだけど……変?」


 と真顔で言われた日には、アーソウデスカ、と平坦なトーンで答えるのが精一杯だった。ですよねー。




 かちかちかち。

 送信、っと。




「本のタイトルは、原稿が出来上がってから入稿する時に変更できるってさ。一応、今は(仮)ってことにしてあるけど――」


 これでとりあえずは一安心だ。

 明日中にはペプルスの担当者が確認して、折り返しメールをくれるらしい。


「そういやあ、まりりー☆先生。それ、タイトルってもう決めてあったりする?」

「え、えっと。これなんだけど。……どう?」


 まだネームとにらめっこしているマリーは、ネームの束から一枚引き抜くと、視線は向けずにそれだけをこちらに差し出した。


「拝見しますよ、まりりー☆先生。どれどれ……」




 お。これ、表紙だな。




『抱かれたい神一位!の俺様英雄神は、純情ビッチでした☆』




 思わず、にやり、としてしまった。


 イラストもなかなか良い。タイトルをパッと見ただけでも、ちょっと中身が気になってしまう感じだ。人によっては長いように感じるかもしれないが、少なくとも俺のいた世界ではこの手のタイトルは流行りでもある。ちょっとコミカルなニュアンスが漂うところもポイントだ。


 俺たちが参加することになった《コミック・ゴッド・マーケット》。その、通称《コミゴマ》が果たしてどのくらいの規模のイベントなのかはいまだにピンと来ていないものの、きっとそれなりの数のサークルが参加する訳で、ずらりと並べられた作品の中から手に取ってもらうためには、一に表紙、二にタイトル、それが肝心だと思うのである。


「いいじゃんか。これで決まりだ」

「良かった!」

「んじゃ、早速申込内容を更新しとく」

「うーい。任せたー」


 そんなやりとりをしつつマリーは卓袱台に移動して最後の推敲に取りかかることにし、俺の方はと言うと、サークル設営に必要な物をあらかた書き出してから、それを一つ一つ潰していくことになった。


 そこで何となくアドバイスを葵にお願いしたところ、快く引き受けてくれた。非常に有難い。正直に言えば、教えて厨っぽくてあまり気が進まなかったのだけれど、こういうのは百戦錬磨のベテラン勢に素直に教えを乞うのが吉である。




『やっとペンネームも決まったんだ。まー、さすがにこの前みたいな《ああああ》はないよねー』

『って言い出したら、即止めてますって……』

『だよねー。うんうん』




 少し時間が空いたかと思うと、葵からちょっと長めのメッセージ、いや、リストが送られてきた。


『このへん準備しとくといいぜ。要チェックや!』


 何で知ってんだよ。お前は彦一か。アンビリーバブルやで。


『ありがとうございますー!』


 とりあえず御礼を送っておいた。




 が、結構ある……。

 この際だ。一つずつ教えてもらおう。




『――かわいらしい布。大きめ』


 サークルに与えられたスペースである長机の上に敷いたりするための物らしい。


『そういうのが何もないと味気ないし、結構寂しい感じに見えちゃうんだよ。できれば作品に合った生地とかチョイスできるとベスト。シルクとかベルベットとか凝ったのもいいね。その辺は予算次第さ』

『なるほどー』


 俺は手元でメモを書き書き頷いた。


『――かわいらしいPOP。たくさん』


 お品書きとか値札とか、スペースナンバーを添えてサークル名を大きめに書いたりした紙なんかもあるといいらしい。これはそれなりの種類を準備しておく必要がありそうだ。


『印刷所によっては、割と安くA2版のポスターをセットで提供してくれるオプションがあるんだよ。ペプルスさんにしたって言ってたよね? だったら、確か追加で頼めると思うから見てみて』

『あ……チェックしてませんでした。あとで見てみますねー』


 ただし、大判のポスターをお願いした場合には、それを吊るすためのスタンドを別に準備しないといけなかったりする。マリーと相談だなー。


『――かわいらしい棚。これはなくてもいいかも』


 与えられるサークルスペースは思っている以上に狭いので、頒布する本が複数あったりする場合には棚を使って見栄えよく、効率よくディスプレイすることがポイントになるらしい。今回は一冊だけだし、パスだな。


『――かわいらしいガムテとか筆記用具。あとはカッターとかはさみがあると便利かも。これ重要』

『盛りだくさんだ……参加する側は大変ですねー』

『だねー』


 ホントは今後必要になってくる物がもっともっとあるんだよー、と葵のメッセージには書いてあったが、それは無事一回目をクリアできてから考えよう。どっちにしても、もうお腹いっぱいである。んで、結局最後まで続いた『かわいらしいシリーズ』には一切触れずにスルーしてしまった。


『でもね。この他に一番大事な物があるんだよ?』


 最後に葵はこう付け加えた。


『それは――?』

『それはね、思いっきりイベントを楽しむ気持ち』




 そっか……そうだよな。




 絶対に成功させたい――そんな思いから、少し余裕に欠ける義務感めいた意気込みになりつつもあった俺の心のもやもやが、すっ、と晴れた気がした。




 少し悩んでから、こう送ってやった。


『……何かズルいです』


 まったくだ。


『うええっ!? 葵、何か変なこと言った?』

『いーえいえ』


 自然とキーボードを叩く音が軽やかになった。


『ちょっと良い事言うからですよー。いつもあんなことばっか書いてるくせに……ショタロンとか』

『たまには良い事言わないとさっ! ただの変態さんだと思われちゃったら困るからねー?』


 済みません。

 もう思ってます。疑いようもなく。


『あーそういえば』


 だが、続く葵のメッセージに、俺は見事にフリーズさせられることになってしまった。


『印刷所の手配に、サークル設営の準備って順調っぽいけど、もちろんイベントの参加申込って済ませてあるよね? 確か、二次締切、今日までだぜ?』




 ……は?




 はあああああああああああああああああああ!?




『切ります切ります! 忘れてたあああああ!!』

『ははー。やっぱかー。いてらー』


 目の端にちらりと映ったカタカナの『ノ』二つに見送られ、俺は慌てて卓袱台の前で唸っているマリーのところへと駆け寄った。






「危なかったー」

「……っスねー、ってまりりー☆先生この野郎」

「悪かったってば」


 とりあえずサークル参加申込もギリギリ完了したので、にやにや笑いが浮かぶくらいには表情筋は動いたし、とりとめもない軽口を叩く余裕すらあった。ほんのついさっきまでは、二人してマジ泣き寸前だったのである。イベントに参加してみたい――その一言を聞いて、参加申込まで済ませてあるものと勝手に思い込んでいた俺も悪かったのだが、マリーの方はもっと酷く、当日えっちらおっちら会場に向かえばオッケー、あとは何とかなるっしょ、程度に思っていたらしい。ホント素人怖い。


 サークルカットをマリーが急遽一発描きしている間に、同時進行で俺が申込を進行させるという実にアクロバティックで目まぐるしい展開をクリアした後なので何だかちょっとテンションが妙な感じだ。


「へー。まとめてくれたんだ」


 マリーはさっき俺が手元の紙に書き付けておいたメモをひらひらと掲げつつ、他人事のように言う。


「いろいろ持って行く物があるわねー。これはちょっと大変かも……」

「でも、印刷された本の方は直接会場のスペースまで届けてくれるらしいからさ。そこまで大変じゃないんだ――、な」


 もちろん、ペプルスの方の申込情報にもスペースナンバーを追加しておいた。今思えば、そこを空欄で飛ばした時に気付くべきだった。それまでピンクのラグマットの上に足を投げ出し、だらーんと上向きの姿勢を取っていたマリーだったが、ごそ、と身じろぎして座り直す。


「えっ? ……ちょっと。、って?」

「そりゃアレですよ」


 思わせぶりなニュアンスを漂わせた言葉が案の定気になってくれたらしく、声のトーンを落として聞き返してきたマリーに、芝居がかった黒い笑みを浮かべて教えてやることにする。


「おいおいおい。帰りはちょっと事情が違ってくるんじゃないですかね? 五〇部のうち売れなかった分をひーひー言いながらお持ち帰りするハメになるのは誰だと思ってるんだよ? A4版の六〇ページ本が五〇部。奮発したもんだよな? さてさて、一体どのくらいの重さになるんでしょうねえ……?」

「お、脅かさないでよっ!?」


 ぎくり、と不安に怯えるマリーの額に、絵に描いたような斜線がさーっと降りてきたみたいに見えた。ビビりすぎである。


「それが嫌だったらさ」


 マリーの手から、ぴっ、とリストを掠め取った。


「やれることは何でも一通りやっておこうぜ、まりりー☆先生。イベントってのは、情報戦に長けた奴が常に勝利するんだ。買う方も、売る方も、な?」


 その最後のくだりは、某大手サークル代表者の科白の完全なる受け売りだったのだけれど、少なくとも俺だって、買う立場であればマリーより一日の長がある。


「そこで、だ――」


 すかさず俺は、さっき考えておいた《情報戦》のプランをマリーの前に広げてみせた。




《輝かしい初戦を勝利で飾るために》


一.サークル配置図のチェック。

二.大手サークルからの情報収集。

三.ネットを使った新刊情報の拡散。

四.当日持って行く物の準備とチェック。

五.注目されるための雰囲気づくり。




「へー」

「へーじゃねえだろ……」


 リアクション薄い。もう少し感心してくれたっていいじゃんか。


「一に関しては……イベントの直前にならないと分からないかも知れない。しばらくしたら運営側から申込完了の通知が届く筈だから、その時にはさすがに配置図も出来上がってると思うんだ」

「ん?」


 マリーは不思議そうに首を傾げた。


「えっと。スペースナンバーってのはもう決まったんじゃないの? さっき言ってたじゃん?」


 よく覚えてたな、偉い。そして、意外。


「じゃなくてさ。自分たちの周りの状況を知るために必要なんだよ。会場の中でどの位置になるか、とか、両隣に来るのはどんなサークルなのか、とかだ。大規模なイベントだったらある程度ジャンルごとに固められて配置されるものだけど、今回のはそこまで大きくないみたいだからな」

「へー」


 最後のはかなり推測混じりだったが、何せイベントの約一ヶ月前に二次締切を設定しているくらいだし、参加申込とほぼ同じタイミングでスペースナンバーを割り当てているっていう運営のやり方を見る限りはそうなんじゃないかと思う。




 コミケの場合を例に挙げると、それぞれのサークルは、属するクラスタごとにまとめられて配置されていく。一般向けかエロありか。百合向けか腐向けか。オリか二次か。そんな具合にだ。二次創作系の場合には、どの作品の二次創作なのかでさらに細分化されていく。人気作品の二次創作ともなれば一大勢力を形成するのだが、一方マイナー作品だとそれらの隙間にこしょこしょ捻じ込まれる感じになる。


 そもそも公式が存在しない《ノア=ノワール》で開催されるイベントなので、全てオリジナルってことになるのだろうけれど、いくら参加者が女神ばかりだからといってその全てが腐向けだとも限らない。それにたとえ腐向けばかりだったとしても、微妙な嗜好の違いはあって当然だ。調べておいて損はないだろう。


 また、会場内のどの位置に配置されるかは非常に重要である。ブロック状に配置されたサークルスペースには、その長四角い形状から必然的に当たり外れが存在する。机二つの短い辺は『お誕生日席』などとも呼ばれ、目立ちやすく、興味を集めやすい。対して長い方の辺の中間辺りは『島中』だ。ここに配置されてしまうと参加者の多いイベントでは見つけにくく、あっさり通り過ぎられてしまうこともある。実際、お目当てのサークルがなかなか見つけられずに途方に暮れてしまった経験が俺にもあった。ま、原稿落として当日不参加だった、と知ったのは次の日だったんですけどね……。


 それらとは一線を画す存在、それが『壁』である。


 そこに堂々と居を構えるサークルは、畏敬の念を込めて『壁サー』などと呼ばれることもあり、それなりの参加経験と実績を積まなければ決して配置されることのない選ばれた存在である。


 何故壁際に配置されるかと言えば、それは言うまでもなくその人気の高さ故であり、購入しようと殺到した参加者たちによって必然的に長い行列が出来上がってしまうからだ。場合によってはその列を会場の外へと逃がし混雑を回避するケースもしばしば見受けられる。これが灼熱の夏コミだったりすると余裕で死ねる。購入制限があった場合には死んでもリスタするけど。


 あと、地味に出入り口とかトイレの位置とか重要。って、女神はトイレ行くのか?




「二の情報収集は……葵さんからってこと?」

「ま、そうだな」


 葵が自分からそう名乗った訳ではなかったが、神絵師SNSの運営をしていたりするし、日々そこに集うユーザーの言動を観察していた限りでは、イベント常連の大手サークルに所属しているのではないかと思われた。


 しかし、


「けど……だけじゃ駄目だ。他のサークルの人とも出来る限りコミュニケーションを取っておきたい」


 葵だけのツテでは心許ない。

 頼りないという意味ではなく、量の不足である。


「何せ俺たちは初参加なんだし、先人に学ぶべきところはいくらでもある。この先、助けてもらう場面だってたくさん出てくるかもしれない。俺も暇を見つけてやるようにするから、お前も神絵師SNSにアクセスして、そこに来ているユーザーたちと積極的に交流するようにして欲しいんだよ」

「了解したわ」


 ただこいつの場合、ちょっとガードが甘いところがあるから、変な輩に絡まれないように注意しとかないといけないなー。


「で、三は宣伝……具体的に何をしたらいいの?」

「そこは任せてくれ。俺がやるから」


 そもそも説明したところで全てを理解させられる自信もなかったので、小難しい顔をしているマリーに力強く頷いてみせる。


「ただし、まりりー☆先生にはなるべく早く原稿を完成させられるよう作業を進めて欲しいんだけど」


 ようやっとネームがまとまりつつあるという段階なので、マリーは、うっ、と呻き声を漏らしたが、


「だ、大丈夫だって。全部じゃなくても良いから。とりあえず、二、三ページもあれば何とかなるんだ。……実はさ、それをサンプルとして公開しようと思ってるんだ」

「立ち読み……みたいなもの?」


 おい。

 コンビニ何それ美味しいの?って世界なのに、どっから出てきたんだよその概念。


 俺が知っている《ノア=ノワール》は、呆れるほど文化レベルが似通っているマリーの所有するこの閉鎖的な空間と、ひと昔もふた昔も時間が巻き戻ったような牧歌的な風景が広がるアメルカニアのいずれかしかなかった。少なくとも下の世界には書店なんてものはないだろう。あったとしても、禁忌の呪法を書き連ねた埃まみれの魔導書とかが並んでいそうである。そんなものを気軽に立ち読みされたら大惨事だ。


 ま、俺がまだ知らないってだけで、天界にあるのかもな、コンビニ。行ってみたい。


「あー。……ま、そういうことだ」

「がんばりまーす。ううう……」

「俺も手伝えることがあればやるから。次は――」


 早く次の話題に変えたかったらしいマリーは、少し、ほっ、としたように笑って言った。


「四はさっきのそれでしょ? もう終わったわね」

「え? 全部揃ってるのか? それは助かるけど」

「ないわよ?」

「……はい?」


 馬鹿なのこいつ。


「買わないと駄目なのもあるわよ、そりゃ。テーブルクロス?なんて、あたし持ってないんだし。でも、Amazinアメイジンで注文すれば、明日とか明後日には届くでしょ? 常識じゃない」


 そう言って面倒臭そうに立ち上がったマリーは机に向かうと、今言った通販サイトにアクセスする。


「ほら、ここ。あーそっか。こーんな便利なサイト、あんたの世界にはないんでしょ、馬鹿ショージ?」


 ある。

 ありすぎて逆にツッコミづらい。


 もうここまで来ると、元の世界とこの世界、どっちがパクってるのか自信が持てなくなってきた。


「えっと……どういうのがいいかなー?」


 そこで急にマリーは声のトーンを跳ね上げた。


「ちょっとっ! そこで複雑そうな表情浮かべて顔のデッサン崩してる人っ! こっち来て一緒に選びなさいよ! ほら、空けたからここ座る!」

「お、おう」




 そこに?


 仕方なくマリーが指し示したそこに座ってみる。


 ぴと。




 狭いスペースにこわごわ腰を降ろした途端、マリーの太腿が密着してきて、ジャージ越しにほんのりした温度が伝わってくる。狭い。そして途轍もなく落ち着かない。


「あーこれ、かわいくない? こっちもいいなー」


 もぞもぞすんなってば。子供かお前。落ちるだろ。




 それにしても――ホント楽しそうだよな、こいつ。

 最初に会った時の印象、どっちも最悪だったけど。



 

 何がきっかけになったかなんて分からない。自分の妄想を認め、それと真剣に向き合うことを決めたからだろうか。だといいな、と思ったりする。




 妄想は恥ずべき事――。

 妄想してしまう自分は悪――。




 マリーを苦しめていたその負の感情から、彼女の魂を解放してやれたということは自分にとっても喜ばしいことだったし、大袈裟なのかもしれないけれど誇りにすら思えた。何だか自然と表情が緩んでしまう。その上、そのマリーとともに同じサークル仲間としてイベントに参加するという、共通の目標に向かって突き進んでいる今のこの状況が楽しくて仕方なかった。


 うまく行くこともあれば、つまらない失敗でぎゃーぎゃー言い合うこともあるだろう。それはこれまでもそうだったように、これからもずっと同じだ。




 けれど、成功しようが失敗しようが、ホントはどっちだっていいのかもしれない。




 それはきっと――。




「ねーえ? ちょっと! 聞いてるのっ!?」


 すっかりうわの空になっていたらしい俺の態度に痺れを切らしたマリーが苛立ち混じりにそう言って、顔を振ると――。




 う……うわわわわわっ!!




 直後、


 ごしゃっ。


 と良い匂いのするヘッドバッドが俺の顔にめり込んで、目の前に無数の星々が煌めいた。キラッ☆。


「ななななんであたしの方見てんのよっ!?」

「みみみ見てないっつーの!」


 ううう。鼻の奥がつーんとする。

 大丈夫、まだ顔はある。消し飛んでない。


「ちちちちゃんとスクリーン見てたってば!」


 俺はつい、こう口走っていた。


「お前の方こそ、何で顔真っ赤にしてんだよ!?」




「えっ」




 マリーがフリーズしたのは一瞬だった。


「ううううっさいっ! 馬鹿ショージのくせに!」


 すぐにも震える指を突き付けながら喚き散らす。俺が先端恐怖症なら漏らしてる。近怖い。


「あんただって、顔真っ赤じゃないのっ!」




「えっ」




 そんな馬鹿な。

 思わず顔に手を伸ばしかけて、やめた。ここで確認しちゃうと決定的な気がしたからだ。


「ままままさかっ!」


 さらに手ブレが激しくなったマリーは、あろうことかこう言ったのだ。


「びびび美少女神であるあたしに欲情して、脳内でああああんなこととかここここんなこととか考えてたんじゃないでしょうね!?」


 えー……。

 有難いことに、その一言で一気に顔の熱は去った。げんなりしつつ、俺は平坦な声で言う。


「わー馬鹿ですぅー馬鹿ですぅーこの人。そんなことー、ナノミクロンも考えてないですぅー」

「スススライムとか触手とかまで持ち出してっ!」


 先生、妄想がすぎます。


「もうあたし、堕天しそう……ううう……」


 あと堕天はやめような。

 まだ世界は、お前を受け入れられるほどタフじゃないんだぜ。






 たっぷり時間を置いてから俺は優しく言った。


「先生、落ち着かれましたか?」

「……ました」


 まだ少し、ぜーはー言ってるけどな。


「リスト、途中なんだが? 一応やっとくか?」

「ううう……そ、そうね」


 気を取り直してリストに視線を移したマリー。


「五って……? これ、四と微妙にかぶってるんじゃないの? あたしたちのスペースをどう飾るか、ってことなんでしょ?」

「それもあるけど、一番はそこにいるお前のプロデュースだ。さすがにその恰好はないだろ? 芋ジャーって……」

「芋って言うな!」

「だ、だってさ……」


 今更ながらに隣に座っているマリーの姿を上から下まで検分する。

 おい、何だよ、ちょっと恥ずかしそうにすんな。言いにくくなるだろ。




 しかし、すっ、と息を吸い、


「……やっぱ、だっせえ」


 俺は言った。




「だ、ださくないっつーの!」


 意外なことにマリーは真っ赤になって怒り出す。


「これ、高かったのよ? 超レア物なんですからねっ! ここぞという時にはこれじゃないと駄目!」

「普段着じゃん? 部屋着じゃん?」

「は・い・?」


 あ、怖い。こめかみの血管がぴくぴくいってる。


「普段着ってのはね! あんたと最初に会った時に着てたアレみたいなのを言うのよ! ……あんな、ひらひらー、ふりふりー、みたいなのを言うの!」

「えええー……」


 何だよ。あっちのいかにも女神様!みたいな恰好がよっぽど正装だと思ってたのに。違うのか。もう俺には女神の美的基準がさっぱり理解できなかった。


「ほら……見てごらんなさい?」


 俺の目の前で気取りに気取りまくった女神がさまざまなポーズを取っていた。


 ジャージで。


「この、神聖なる森の奥深くで長い年月を経て培われた、手つかずの苔のごとき深緑。華美にならず、鮮やか過ぎず、女神が身を包むにふさわしい慎ましさと淑やかさを備えているわ。そして……そこを迷いもなく切り裂き、駆け抜けていく白い二筋は、不浄の冷気を孕んだ清風のよう……」

「わ、分かった。分かったってば」


 うっとり、と恍惚となってなおも語り続けるマリーを慌てて制した。話が進まないし、これ以上、何を言ったところでどうすることも出来そうにない。


「お前がその恰好が良い、って言うなら止めない」

「分かればよろしい」


 ふん、とマリーは満足げに頷いたのだが、


「で? ……あんたはどうするのよ」

「……はい?」

「はい?じゃないでしょ!」


 マリーは、アホか、という顔をした。


「聴こえたでしょ? あんたはどうするの?って聞いてるのよ、馬鹿ショージ!」

「どうもこうも」


 俺はいまさらながらに思い出しつつ答える。


「今回のイベントは、売る方も買う方も全員女神なんだろ? だったら俺が参加できる訳ないじゃん。それこそ会場で勇者だってバレようモンなら、ありったけの《女神の加護》を授けられて、魔王の討伐前にめでたく神の仲間入り、おめでとう!ってなっちゃうだろうが……」


 自分で言っておきながら、ふと脳裏に浮かんできた血の滴るようなGAME OVERの文字に震えが走った。これ以上ないくらいのBAD ENDである。


「えー……」


 言われてみれば極めて正論だったようだ。


 だが、そうなると会場でマリーは一人ぼっちだ。そのことにマリーもすぐ気付いたらしい。




 普通に考えて、ソロでサークルとして参加するのには厳しいものがある。


 例の『女神トイレに行くのか問題』は別にしたとしても、設営も一人、客の応対も一人。売るのも一人だし、咳をしても一人である。尾崎放哉ェ。忙しければそれなりに気も紛れるだろうが疲弊するし、暇だったらだったで心が死ぬ。


 もしかすると、葵なら呼ばなくても勝手に訪ねて来てくれるんじゃないかという淡い期待はあったものの、向こうもサークルとして参加しているんだったら手伝いを頼むのは筋違いだし、そもそも自分たちだけで賄えないくらいならサークル参加なんてすべきじゃない。




「でも……」


 それでもマリーは納得しようとはしなかった。

 引き攣った笑いを口元にこびりつかせたまま、独り言のように呟く。


「だって……いろいろ持って行く物がたくさんあるのよ? 《扉》を使ったって、直接イベント会場までは行けないのよ? ……ううん、そういう大変なことだってもちろんそうだけどっ!」


 しかしだな――そう言いかけた俺は、目の前にあるこれ以上ないくらい真剣な表情に言葉を失くした。


「これ……二人で作った漫画だよ? 二人で作ったサークルなんだよ!? なのに……ずっとあたし一人なんてあり得なくない!? それに――!」


 何故かマリーは唐突に言葉を切り、わずかに言い淀んだ。

 そして、急にムキになって声を荒げる。


「――あ、あと、帰りは行きより荷物が増えちゃうんだってさっき言ってたし! ずるいわよ! あたしばっかり大変な思いするのって! あんただって道連れにしてやるんだからねっ!!」


 その時、あ、とマリーの顔に閃きが走った。


「そうだわ! そうよ! アレなら絶対何とかできるわ! あたしってば超天才!」


 頬をほんのりピンク色に染め、自分の思い付きの凄さにただただ身震いしているマリーだったが、それを見ている俺の方はというと嫌な予感しかしなくってやっぱり身震いが走った。にしてもこいつ、今にも嬉ションでもしでかしそうで不安になってくる。


「……アレって?」


 不安を声に出してみた。


「いーのいーのっ! このまりりー☆先生に任せておきなさい!」

「アレについてkwskくわしく

「無視無視」

「無視すんじゃねえ!?」


 結局、マリーはそれ以上語ることはなかった。






 それから俺たちはイベントの準備に没頭した。


 アニメやラノベだったならこういう場合、マリーが急に熱を出したりなんかして原稿を上げることができずにイベント参加が危ぶまれる、なんていうサークル存亡の危機の回になったりするものだ。


 だが、そこは耐久性には定評のある女神。確かに創作中のマリーはしんどそうだったものの、そのまま何事もなく無事に入稿を完了させることができ、いよいよイベント当日となったのだった。






 しかし、苦難はここから始まるのである。


 主に俺の。



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