第十三章 命名、まりりー☆先生

 それから俺たちは、机に椅子を横並びにして、マリー初となる同人誌制作に、文字どおり寝食を忘れて没頭した。


「ううう……!」


 わしゃわしゃわしゃ!と髪を掻き毟ってから、マリーはすぐ隣にいる俺に恐る恐る問いかける。


「こうしてみたんだけど……どう?」

「見せてみろ」




 ぺらぺら……。




「うん。凄く良くなったな! 展開がスムーズで分かりやすい。科白も前の奴よりいいじゃんか!」


 そう言ってから、不満げに眉を寄せる。


「でもさ、ちょっと削りすぎなんじゃねえの? グライザードとのあのシーン、どこやっちゃったんだよ? 俺、あそこ好きだったのに……」

「やっぱ、そう思うかー……うう……」


 自分でも納得しきれてはいなかったらしく、一つ唸ってから俺の手元からネームの束を奪い取った。


「もうちょっと考える! あたしだって、あのシーン削るのやだったんだもん! ……で、そっちはどうなのよ? 葵さんから何か聞けたの?」

「や、やってるよ。やってますって……」




 ぴろりん♪




 俺の弁明が噓じゃないことを証明するかのように、タイミング良く葵からメッセが届いた。ほれほれ、とスクリーンを指さすとそこには――。




『なるー。あまったかちゃんって、百合属性なんだねー。いいと思う。いや、むしろ良い。うへへ。俺は百合っ子だってかまわず喰っちまう女神なんだぜ。……で、えっと、聞きたいことって何だっけ?』




「うおぅい! こっんの馬鹿ショージ!」

「ふげっ!」


 マリーの肘が脇腹にめり込んで変な声が出た。


「痛てえっつーの! あばらの脆そうな骨、ピンポイントで的確に狙ってくんなよっ! 格闘家か!」

「じゃじゃじゃじゃないでしょおおおっ!」


 落ち着け。すっげえ唾飛んでくるし。嫌じゃないけど。むしろご褒美っつーか。


「人が! 人が! もう必死でネーム修正ループと戦ってるってのに、葵さん相手に、エエエエロチャットとか楽しんでる場合ですかーっ!」

「あ……!」


 酷い誤解である。


「い、いえ、ち、違うんです違うんです!」

「何がよ!?」

「まずは聞きましょうそうしましょう。……な?」


 それでも、がるるるる!と牙を剥くようにして詰め寄ってくるマリーを片手で押し戻しながら――たまに、かつん!かつん!と歯が咬み合わせられる音がして、それはもう生きた心地がしなかったが――渋々釈明を始めた。


「俺って《勇者》じゃん?」

「……は?」

「だ・か・ら。俺、《勇者》様じゃん?」


 じとー……。


「……何なの? その痛すぎるおナルな発言。さすがにどうかと思うんだけど? 人としても」


 いやいや。俺にナルシスト要素も願望もないって。オタクだし。

 あと、人格否定止めて。


「そ、そうじゃなくて……」


 ますます眉間の辺りに暗雲を漂わせるマリーの剣幕に怯みながらもしどろもどろになりつつ続けた。


「俺が《勇者》その人なんだってバレちゃったら、さすがにマズイだろ? だ、だから、偽名を名乗ることにしたんだってば!」


 何故かは分からなかったけれど、性別のところは自由に選択可能だったので『女神』を選んでおいた。


「ふーん。………………で?」


 何でこいつ、そんなに怒ってるんだよぉ……。


「それで、あまったか? ……何なの?その縁起でもないハンドルネームは! 喧嘩売ってんの!?」

「シ、ショージ子とかよりいいだろ……」


 確かに、ちょっとアレかな、とは思った。

 でも、ショージ子じゃ完全に富士五湖と一致。


「で、本名ってこと? まーいいや。……で?」

「で?も何も……っ!」


 こいつ!こいつ!と俺はスクリーンの向こうのブレーキのぶっ壊れた超重量級マルチトレーラーとも呼ぶべきド変態を非難するように何度も指さした。


「こいつ! こっちの話、まるで聞いてないんですって! 俺だって困ってるんだよっ! もー何回も、同人誌出すことに決めたので良い印刷所ご存じだったらアドバイスもらえますか?って低姿勢で聞いてるのに、話が寄り道しかしねえんだよおおお!」




 実際そうなのである。


 リアルの女の子――じゃなかった、リアル女神との会話でさえ苦労してるってのに、こいつはとりわけ特殊な女神だったのだ。


 会話の全てにおいて、メインルートを選択するともれなくバッドエンドが待っている。攻略難易度はG級な上に、ランダム発生の乱入クエまで上乗せされたような厄介さだ。




「一応、今利用してる印刷所くらいは紹介してもらえたんだけどな? これがちょっとお高くって。なあ、マ、マリー? お前の《メガポ》って、今現在どれくらい貯まってるんだ?」

「……そんなにたくさんはないけど」


 葵とのやりとりから派生して印刷所のサイトで知ったことだが、《女神ポイント》を通貨のように消費することで欲しいものを購入したり、サービスを利用することができるのだ。幸いなことに元の世界と等価だった。この時ばかりはご都合主義って奴に思わず感謝してしまった俺。


「どのくらい必要なの? その葵さんのとこは?」

「そうだなあ……」


 一概には答えられない質問である。


「こっちの世界でも今の主流はA4版みたいだし、フルカラ―は表紙だけでいいよな? あとは、そもそもどのくらいの部数を準備するかだけど……」

「えっ!?」


 マリーは驚いたように小さく叫んだ。


「全ページ、カラーにするんじゃないの!?」

「いやいやいや……」


 もーこれだから素人は。あ、俺もか。


「まだネームすら出来てないんだぞ? これからそれ全部にペン入れして、その上で彩色もする羽目になるんだぜ? さすがにそれは無謀だっつーの。悪いことは言わない。中身はモノクロにしとけって」

「うぇっ……そ、そうね……」


 自分でも現実的じゃないと気付いたようだ。

 いくら耐久性だけはやたら高い《下級女神》とはいえ、すでにマリーは疲労を隠せず目の下にはうっすらと隈まで浮いている有様なのだ。


「部数なんだけどさ……」


 マリーは気を取り直し、


「さすがに初参加なんだし、一〇〇〇部もあればいいわよね?って思ってるんだけど。どう?」




 ぶふーっ!!!

 いかん、また麦茶噴いちゃったよ。




「き、きたなっ! いちいち噴かないでって――」

「で、伝説になる気かこの腐女神があああっ!!」


 おー、あったなーそんなネタ。つーかアレ、マジだったらしいけど。ホントに一〇〇〇部刷って、結局捌けたのは五〇部だったとか。かなりの数を身内が買ったり、周囲に挨拶代わりに配ったらしいけどね。


 それは別にしても、高めの目標として立てるなら五〇部ってのが妥当な線だ。シャツの袖で口元を拭いながら俺は言った。


「三〇……いや、五〇部にしよう」


 否定はされなかったが、同意もされなかった。

 微妙な表情をしているマリーを諭す。


「おいおい……それだって無名の初参加サークルが完売できたら十分快挙なんだぞ? もちろん、値段設定をどうするかにもよるけどな。ちなみにだ……一〇〇〇部だと印刷代はこうなる。ほれ、見ろ」

「なになに? ………………ぶえっ」


 肩を寄せてきたマリーの口から変な呻き声が漏れた。おまけに額には変な汗をじっとり掻いていた。


「パソコン買える値段じゃない……約十九万って! こんなの、一冊あたりの値段設定をいくら高くつけたって、とても回収できないわよ!?」

「だろ?」


 そう頷き返しながら、次に五〇部の場合の値段を見せてやった。




 ――約三五〇〇〇メガポ。




 一冊毎に換算すると、三倍強とかなり割高にはなったものの、単純に支払うことを考えたらまだ現実的な数字だ。


「っとぉ……七〇〇メガポ、よね? 三〇%の利益を出そうとしたら……一〇〇〇メガポ、でいい?」

「ま、計算は合ってる。でも……高くないか?」

「仕方なくない? 下げる訳にはいかないもん」

「い、いや、そうだけどさ」


 切るのはマリーの身銭なのだから、あまり勝手なことも言えない。この《ノア=ノワール》では蓄えもなく、絶賛無一文である俺には罪悪感もあった。


「だからこそ、探せばもっと安いところがあるんじゃないかなと思うんだ。だから……それを葵に聞いてたんだよ」




 俺のいた世界と貨幣価値が同じなのであれば、きっとその筈なのだ。


 生意気にも高校生の分際で、自分で書いた本を印刷してコミケに出てやるぞい!と意気込んでいた時期が俺にもあって、ちょうど同じくらいの部数を刷ったらいくらになるかを調べたことがあった。それと金額はほぼ同じだった。当時の俺にはあまりに衝撃的な数字に思えてしまったのでまだ覚えている。それは、とある壁配置サークルが利用しているという触れ込みの、信頼ある業界最大手の老舗印刷所の価格だった。しかし、その時見ていたSNSの別の人の書き込みで、もっと安いところがあるのも知ったのだ。




 かちかちっ。




「……ん? ここ……いいかもな」

「どれどれ……」


 またもや身体を割り込ませるようにしてスクリーンを覗き込んだマリーが息を呑むのがジャージ越しに伝わってきた。近いって近い。あったかいのう。


「えっ!? 半額以下じゃない!?」




 確かに、一五〇〇〇メガポ、と書いてある。




「だろ? ……ちょ……ちょっとどいてくれって」


 まったくもう。ちょっと名残惜しい気もしたが、マリーの身体を押し戻してマウスを取り上げた。




 かちかちっ。




 そこで続きを読むのかと思いきや、もう一枚ブラウザを立ち上げて別のサイトにアクセスし始めた俺に、マリーが訝し気な顔で尋ねてきた。


「えっ? そこじゃ駄目なの?」

「そうじゃなくて。利用者の感想を知りたいんだ」


 あり得ない話に聴こえるが、低価格がウリの零細印刷所は印刷機の台数がそこまで多くないために、大きめのイベント向けに無理矢理大量受注したまでは良かったが結局印刷が間に合わず、当日会場に届かなかったなんていう悲劇が過去にあったと聞く。それは極めてレアケースなんだろうけど、そうじゃなくても、あそこは仕事が雑だとか、カラー表紙にムラがあったとか、乱丁、落丁なんてザラ、みたいなクレームもよく見かけるものだ。


「……評判も悪くないみたいだ。担当者に当たり外れがあるのは仕方ないだろうけど……。よし、念のため葵にも聞いてみよう」




 かちかち。

 かちり。




「これで……っと」




 ――ぴろりん♪

 いや、早えよ。




『あー、ペプルスさんね。いいと思う! 葵は使ったことないけど、会場でロゴの入った箱をよく見かける。葵はさっきのカリオペ出版さん一筋なの。知り合いがいるから簡単に変えられなくって。その分、サービスしてもらってるから文句言えないんだけどねー。でで……あまったかちゃんは、今どんな美味しそうなパンツ履いてるのかなー! ぐふふー!』




 かちかちっ!

 光の速さで閉じる。




「大丈夫そうだ、うん」

「いろんな意味で駄目っぽかったけどね……」


 言わないでよもおおおっ! 何も見なかったことにしてるんだからさあああ!


「っとぉ……これなら一冊当あたりの金額は三〇〇メガポよね? 三〇%の儲けってことにすると?」


 計算、苦手か。


「三九〇。でも売値は四〇〇メガポのままで良い」

「? 高いって言ってたのに?」

「一〇メガポのお釣りー、って出す方も受け取る方も面倒だろ? ……あー待った。そもそもメガポって、物理的に貨幣として存在してるものなのか?」

「する訳ないじゃん……天界なのよ?馬鹿なの?」


 うぉういっ!

 麦茶飲みながらパソコンでネットやってる物理まみれの腐女神に言われとうないわ!


 マリーはごそごそとジャージのポケットから一枚の、白くてやたらキラキラとホログラフィが光を反射しているプラスチック製のカードを取り出した。


「これで直接支払いができるわよ。文字どおりね。相手のクレディット・カードに触れながら、消費するポイント数を宣言すればいいの。……で、値段は下げるの?」

「いや、いい。このまま四〇〇メガポで行こう。単なる気分の問題ってとこだけどね」


 何にせよ、前日にゲーセンに出向いて大量に両替したりはしなくて良くなった。あ、迷惑行為だから良い子の皆は真似しちゃ駄目だぜ。ついでに言うと、手提げ金庫なんかもいらなくなったな。


「一番の問題はこれでクリアできそうだ。あとは、会場設置の準備なんかも必要だけど、それは俺だけでも調べられるからさ。マリーはネームを完成させることに集中してくれ」

「うう……そうだった」


 その一言で現実に引き戻されたマリーは、情けない呻き声を上げつつ作業に戻る。俺の方はそのまま、ぽちぽち、とペプルスにサークル登録と発注予約をしようとしたのだが――手が止まった。


「ちょっと待った。まだ決めないといけないことがあったんだ。……サークル名とお前のペンネームはどうする? 代表者は――」

「それはショージがやってくれるんでしょ?」

「………………え?」


 引き攣った笑顔のまま見返すと、マリーは手の中のネームの束をこれ見よがしに振って見せた。じゃあこれ、あたしの代わりにやってくれる?とでも言いたげである。


「……分かりましたよ、もう」

「やた!」


 妙に嬉しそうなマリーは続けて言った。


「じゃあ、サークル名、ショージが決めてね? だって代表者様なんだし。ついでにペンネームも」

「おいおいおい……」


 しかし、こいつに任せているとロクでもないことになるのは実証済みだ。何せ、こいつが神絵師SNSに投稿した際に名乗ったのは、あろうことか《ああああ》だったのである。リセマラ前提のソシャゲユーザーかお前。さすがにこれはない。




 実は俺の中では、すでにペンネームは決まっていた。




「ええとだな……ペンネームの方なんだけど……」

「嘘っ! もう考えてくれてたの!?」


 だーかーらー!


 こいつには他人と接する程良い距離感ってないのか。ただでさえ、不安で心もとない俺の動悸が一際激しくなってしまった。


「お、お前ってさ、マリー=リーズって名前だろ? だから……そこから取って……さ?」


 俺は新しい紙を一枚手に取って、マジックできゅきゅっと書くと、それをマリーにかざしてみせる。




 そこには下手くそな俺の字で、




 まりりー☆。


 と精一杯可愛らしく見えるように書かれていた。




「まりりー☆……」


 一枚の紙きれ越しにマリーが囁くのが聴こえた。だが、その表情までは俺からは見えない。


「あの……えーっと……」


 すぐフォローできていたらまた違ったんだろうけれど、俺の頭の中はどこもかしこも一面真っ白で、気の利いた科白どころか、気の利かない間抜けな科白すら浮かんでこなかった。次第に俺の顔は俯き、気まずい空気だけが漂う。




 と――。


 ぴっ、と手の中の紙が忽然と消え失せた。




「まりりー☆……!」


 今度は自分の両手でそれを高く掲げると、マリーはとっても照れ臭そうに、でもどこか誇らしげにその名を噛み締めるように読み上げた。それから、ぴしっ、と指さした。俺を。


「今日からあたしはまりりー☆ね! なんか良い! ……いーい?馬鹿ショージ! これから漫画を描いてる時は、あたしのことはまりりー☆って呼ぶのよ? もちろん……先生ってのも付けなさいよね」

「分かった分かった」


 嫌だなんて言える訳ないじゃん。そんな嬉しそうな顔されたらさ。


「んじゃ、まりりー☆先生……頑張ろうな」

「うんっ!」


 そして、きっと俺も同じ表情をしている筈だ。



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