第十一章 一夜明けて
「うーっ……朝か」
のそり、と起きる。
そこここが強張った身体が伸びをした拍子に軋みを上げた。肩を上げ下げし、首をぐるりと回すといくぶん楽になった気がする。
入室を許可されたとは言え、さすがにほんわかパステルトーンのマリーの部屋で、となると、逆に一睡もできないという妙な自信と確信が童貞臭い俺にはあったので、扉の外で寝ることに決めたのだった。
「痛ってえ……止めときゃよかった」
でも、すっかりお馴染のこの空間にはベッドどころか布団すらない。おまけに、ご存じのとおりガラスっぽい床なのである。寝返りすら拷問に等しい。
それに、朝かー、とか言ってるけれど、実際には一度も陽は沈むことがなかったのである。
いや、ずっと起きて見張っていた訳じゃないけれど間違いないだろう。
単純に雲の上の世界なんだろう、とか安易に決めつけていた俺だが、まるきりアテが外れてしまってちっとも寝た気がしなかった。とは言え、どうやら俺は《勇者》になったせいで、睡眠や空腹、その他の身体的ダメージについてもかなりの耐久性が身に付いているようなのだ。
「ふ……わあぁ……ふう」
しばらく生あくびを繰り返していたが、
「あいつ……もう起きてるかな?」
ふと気になって、例の扉へと向かった。
こんこん。
返事はない。
「おーい。開けるぞー?」
開けてしまってから、一瞬ありがちなラッキースケベが脳裏をよぎったが、
「何だよ、起きてるなら返事くらいしろって――」
最後に見た時と寸分違わないマリーの姿に呆れ気味の半笑いを浮かべて声をかける。
……いや。ちょっと待て。
ゲームのセーブポイントからやり直したみたいにまったく同じ姿勢ってことは、つまり――。
「……おいこら、そこの腐女神」
へらっとした笑いを引っ込め、苦虫を嚙み潰したように渋い顔になってしまった。はあ……と溜息を溢しながら、卓袱台の上に置きっ放しのペットボトルから麦茶をコップに注ぎ一口含んだ。ぬるい。
「お前、まさか……あれからずっとその神絵師SNS読んでたんじゃ――」
「あ、馬鹿ショージ。おはよ」
「おはよ、じゃねえよ!」
俺が寝てたことくらいは気付いてたんだな。
「寝ないで全スレ読破とか、腐女神っつーか廃人、い、いや、廃神かっつーの!」
うおお。漢字で会話したい。ストレス溜まる。
「だって、神や女神には睡眠欲なんてないし」
「せやかて工藤――!」
「それよりさ!」
きっと分かる筈もない俺のボケに、かぶせ気味にマリーは興奮冷めやらぬ口調で言った。
「――葵さんがこの神絵師SNSの管理人だったのよ! ううん、そうじゃなくったって、葵さんのイラストって本当に凄くって、どれもこれも綺麗で、もー溜息しか出ない。わくわく……どきどきして……ええと、これって確か……。何て言えば良いんだっけ……?」
えとえと……としばらく黙り込んだマリーは、瞳の中に星まで散りばめた澄んだ目で高らかに告げた。
「そう! ……ドチャシコっ!!」
ぶふーっ!!!!!
「き、きたなっ! もー、噴き出さないでよっ!」
うおォン。俺はまるで人間霧吹き機だ。とか言ってる場合じゃなかった。
「おおおお前が変な言葉覚えるからだろうがっ!」
わなつく指でマリーを指すが、驚きのあまり思うように狙いが定まらない。一方マリーの方はと言うと、ぶつくさいいながら、飛沫のかかったスクリーンを丁寧に拭き拭きしていた。その不満げに突き出された唇がもごもご動く。
「分かんない言葉があったら自分でゴゴれ、って言ったの馬鹿ショージじゃん……」
「い、いや……まあ、そうなんだけども……。つーかお前、そ、その言葉の意味、本当に分かって使ってるんだろうな?」
「当ったり前じゃない! ちゃんと調べたし!」
マリーはほとんどイキオイでそう答えつつも、
「あー。あれでしょ? どちゃくそシコれる、って……あ、でも、『シコれる』って結局どういう意味なのか分からなくって……。男の子に聞けば、そりゃもうねっとり丁寧に教えてくれる筈よ、って言われたんだけど……」
そして上目遣いに俺を見た。
「ちょ――! ま――っ!」
誰だよ!
その、お遊び程度のパス練習に渾身のドライブシュート蹴り込んでくる馬鹿はっ!
エロ同人か! エロ同人みたいにか!
そこで、はっ、と我に返った。
「ま――待て待て待て!」
「? 教えて……くれるの?」
「ややややや! お、教えないけどっ!」
必死に拒む俺の顔と手の振りが速すぎるあまり、きっとマリーから見たら三つか四つに分身したかのように見えた筈だ。好奇心が満たされずちょっと残念そうにも見えるマリーから距離を置き、何とか視線を反らして俺は尋ねた。
「い、言われた、ってお前……それを誰から聞いたんだよ?」
「ん?」
かちかちっ。
さも当たり前の事だとでも言いたげに、マリーがその会話を『見せて』くれた。
「ほら。そんなの、葵さんからに決まってるじゃん。フレンドになってくれたんだー!」
「嘘だろ!?」
二度見したが幻影ではなかった。
「……あーマジだ。マジだわこれ」
頭が痛い。こめかみを揉みほぐすようにして言う。
「つーか……お前、危機感とか警戒心とかないのか。このド変態、どこの誰だかも分からないんだぞ? それこそ男か女か――じゃなかった、神か女神なのかも分かんないんだし……」
「ち、ちょっとっ! 葵さんのこと、悪く言うのは許さないわよ!」
だーかーらー! 近いんだってば!
激昂して椅子を蹴るようにして立ち上がったマリーだったが、にやにや笑いを浮かべながら再び腰を降ろすと、肩にかかった長い髪を払い除けるような何ともムカつく仕草をした。
「……はっはーん、ヤキモチって奴なんでしょ?」
残念ながらそこには髪の毛一本ないんだが?
お前の頭の上でとぐろ巻いてるんだが?
「あたしに先を越されたからって、ぎゃーぎゃー言わないで! ……そりゃあ葵さんの言う、ショタ萌え、ってのはあたしにはいまだにちっとも理解できないけど? 偉ぶったところなんて少しもないし、初心者のあたしを馬鹿にしたりもしなかった。むしろ、初心者丸出しのあたしのコメントにしつこく絡んできた他の人を注意して守ってくれたんだよ?」
「そ、そうだったのか……」
俺の中で葵の評価が、度し難いド変態、から、節度と常識を持ったド変態、に変わっていた。ま、基本的にはド変態ってことに変わりないんだけど。
「それにね――」
かちかちっ。
マリーは、葵のプロフィール画面を表示した。
性別・女神、とある。
ツッコミどころは満載だけども。
「仕組み上、この世界のネットでは、神か女神かは詐称できないの。葵さんは女神。それは間違いないんだって。だからっ……しっ……心配しなくたって大丈夫なんだってば!」
「ししし心配なんて誰がしましたか!?」
やめろやめろ。何かこっちまで頬が赤くなっただろ!
「あと……ね?」
かちかちっ。
お、おい……それは?
スクリーンには、見たことのあるイラストが映し出されていた。いや、正確に言えば、見たことのある、しかしそれとは少し違っているイラストだった。
「お前! こ、これ……と……投稿したのか!?」
「あ……うん」
マリーは、今にも消えてしまいたい、とでも言うように身を縮こませ、両手をジャージのズボンの間に、きゅっ、と挟み込んでもじもじしている。
「葵さんに話したら、是非見てみたい!って言われて、やりとりしてるうちに何だか断り切れない雰囲気になっちゃって……。でもでも、あたしなんかのイラストなんて……」
「おいおい」
「あー。やっぱ、止めとけばよかった……」
そう言ってマリーは、見ているこっちまで胸が締め付けられるくらい切なさを込めて溜息を吐いた。一時のノリでやってしまったはいいが、いまさら激しい後悔の念に苛まれている様子だった。
だが――俺は違った。
「お――おいおいおいっ!」
こいつ……気付いてないのか!?
「おいっ、違うだろ! これ……見てみろって!」
俺は興奮を隠さず、目を背け続けるマリーの肩をがしりと掴んで強引にスクリーンに向けてやった。
そこには――。
「………………う……うそ……っ!?」
閲覧数、一〇一五回。
コメント数、三〇四。
どちらもその数は、最初に見た葵のイラストに対するそれには遥か遠く及ばなかったのだけれど、それは確かにマリーの描いたイラストに向けて送られた『声』だった。
「うそうそうそうそっ! あたし、投稿したの、ついさっきよ!? それなのに、こんな――っ!」
神絵師SNSは、天界に住まうオタク層にとって欠かすことのできない、いわばポータルサイトといった位置づけだ。その桁外れの数の訪問者たちの手によって、さらにそれを遥かに超える閲覧数が日々叩き出されている。
「ねえ……! こ、こんなの嘘だし、絶対――!」
それでも、だ。
良いイラストかそうでないかは、スレッドに居並ぶサムネイルからある程度判断できてしまうものだ。だからこそ、世の中には『サムネ詐欺』みたいな投稿が存在する訳で、クリックして見てもらえたってことは一つ目のハードルをクリアしたってことで。
「このコメント……素敵なイラストですねって……。こっちは……ファン第一号名乗ってもおk?って」
もちろん、これ、葵さんの盗作じゃね?と、ありもしない言いがかりを付けてけなしてくる奴もいた。それを、ぴしり、と制したのは、当の葵だった。そのあまりに見事なあしらい方に、俺は思わず、にやり、とさせられてしまった。
『あーこれ違う。だってこれ、ショタじゃないし。確定的に明らかぞ? ファンを代表して言っとくと、ってことだったけど、だったら違うのは分かってるくせにこのいけずー! あ、そこの違いが分かりません!って人っ! キミには葵から入念に一〇〇年解けぬショタロンの呪いかけとくぜ!(はあと)』
こういう手合いは頭ごなしに叱ったり否定したりされようものならむしろ反発し、ますます意固地になるものだ。そうならないよう相手自身のことは認めつつも、誤った認識や発言に関しては正すべきところを正し、最後には自ら道化を演じてみせることで話題を変えてしまっている。お見事、と言うよりなかった。
自称ファンの連中は、時に暴走し、最も敬愛する作者の意志をまるきり無視して、脚光を浴びる別の作者の作品を意図的に貶めたりもする。そうすることで、自分が好きな作品の方が上だと、その優れた作品に惜しみない愛を注ぐ自分の『信仰心』の方がより純粋で強いものなのだと叫びたいのだろう。だが、所詮それは、他者を蹴落として地に貶めることでしか優位性を保てない者であることを自ら証明してしまったようなものであり、空しい行為だ。
とは言え、彼らの本質はそこまで歪んではいない。
ただ、好きなだけなのだ。
いいよねあれ、って頷いて欲しかっただけなのだ。
残念ながら、それきりその投稿者のハンドルネームはマリーのイラストへのコメントの中から姿を消してしまっていたようだが――。
「いつか……この人にも、凄いね、って言ってもらえるかな……。いや! 絶対言わせてみせるし!」
マリーは闘士のごときタフさで、新たな決意を胸にスクリーンの中に消えた誰かに向けて力強く頷く。
が――。
その表情が歪み、今にも泣き出しそうになった。
「お、おい……何が――」
「んっ」
喋ろうものなら止められなくなる――込み上げる感情を必死で押し留めるように、マリーは無言でその真新しいコメントを俺に向けて指し示した。
『ファン第一号は譲らない。絶対にだ! 第一号は葵なのですよ。ねー。くっそー! ショタじゃないのに……ショタじゃないのに、悔しいけど感じちゃう!(びくんびくん)また新作描いたらよろー!』
ド変態め……。
書き込まれているコメントはどうしようもなく品性を欠いた物だったのだけれど、自分の顔がだらしなくにやけるのを止めることができなかった。
「……よかったな、マリー」
「ん。ん」
まだ喋れそうにないマリーは俺の言葉に何度も頷き、ジャージの袖で目元を拭う素振りをしている。俺は何となくそれを見ちゃいけないって気がして、別の方向へ視線を泳がせた。
くいっ。
「?」
くいくいっ。
が、マリーがしきりにシャツの端っこを引っ張ってきたのでそちらを見る。
「どした?」
「………………ありがと」
どきり、としてしまった。
「お、おう。い、いや……俺は別に何も……」
「それは違うし!」
思わず腰が引けて慌てて距離を置こうとした俺の身体を、シャツの端っこをしっかりと握り締めているマリーの手が引き戻した。
「ショージがアドバイスしてくれたからじゃん! ホントはすっごく悔しかったんだ。ケチばっかつけて、って超ムカムカしてた! けど……けどね、独りになって考えてみたら、やっぱそうだなーって思えたから……だからこれ、描き直した奴なの」
そうか――。
だからこのイラストには見覚えがあったし、同時に違和感もあったのだ。けれど、呆気にとられて見つめ返しているだけの俺の沈黙をマリーは別のものと誤解したらしい。
「ち、違うよ!? ちゃんと下描きもしたから!」
ほらほら、とラフスケッチの証拠を見せてくる。
「漫画じゃなくってイラストだから、ネ、ネーム?ってのはやんなかったけどっ! で、でも! このシーンに登場する二人は、今どういう思いで、互いをどう思ってこんな表情してるのかとか、すっごく妄想したんだからっ! だから……だからだよ?」
この短時間で、か?
こいつは……まったく。
また俺は視線を反らしたが、でもそれはさっきのとは違って、俺自身が今浮かべてしまっている表情を見られたくなかったからだった。
「……ま」
俺は咳払いをするように口元に拳を当てて、そっとそれを隠した。
「叩き上げのオタクである俺に言わせれば、ようやく及第点ってとこだがな? ……褒めてやる」
くしゃっ。
「な――なによう!」
くしゃくしゃっ。
「あ、頭をわしゃわしゃ撫でるのはやめてってば! 子供じゃないし! ほどけちゃうでしょってば!」
いいじゃん。
ちょっとやってみたかったんだからさ。
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