第六章 女神と女神
「……聴こえたわよね?」
し……ん。
ほんの一瞬だけ時間が止まった。
「ててて……てめーはマリー=リーズ!?」
そのくすんだ緑色のジャージ姿の女神を目にした途端、女神・マリッカは激しい動揺を示し、今まで大股開きで馬乗りになっていた俺の上から慌てて飛び退くと身構えた。
「ななな何でこんなところにいやがりますの!?」
「いやがりますの、じゃないわよ」
うん。安定のやる気のなさだな。
ふと、そんな懐かしさと嬉しさを感じてしまい、にやけた口元を大急ぎで引き締める。しばらくぶりに見た女神・マリーは、例によって赤い輪ゴムで髪をまとめ上げている頭を実に面倒臭そうにぽりぽりと掻いた。
「あんたが勝手にひとんちから召喚者を拉致って、耄碌した偽王に勇者認定をさせた挙句、強引に《加護》を授けようとしてたんでしょうが。違う?」
「ななな何故それをおおおっ!」
ちょっと待って。やっぱあのじいさん、ニセモノだったのかよ!
「何故って……もう何回目なのよこのパターン。今までは上手くいってたのかも知れないけれど、そのたびに上から怒られるのはあたしなんだけど? 分かってる?」
「う……」
細かい経緯は分からないけれど、女神・マリッカは淡々とした責めの言葉に、しゅん、と肩を落とした。が、すぐに顔を上げる。
「で……でもっ! 知ってますでしょ!? はじめて《加護》を授与した者に与えられるボーナスメガポは破格なんですのよ!? だから――っ!」
……ん?
何だか、聴き慣れない単語が出てきたぞ?
しかし、今の状況では口を差し挟むのはまずい。
何とか自分の正当性を理解してもらおうと、繰り返し必死で訴え続ける女神・マリッカだったが、女神・マリーはつまらなさそうに一瞥して長い溜息を吐いただけだった。
「ねえ、マリッカ。あんたは昔からそうだったわね。そうまでして上級女神に昇格したい?」
「そんなの当たり前じゃねーですか! そうですわ、マリーだって――!!」
しかし、女神・マリーは頷かなかった。その言葉に首を振る。
「だから、あたしは興味ないんだって。他にやりたいことがあるんだもの」
「いつもそう仰いますけどっ! それは一体――」
その問いに、わずかに躊躇う素振りを見せたが、
「………………無理。言えない」
答えなかった。
「――っ!」
その時、女神・マリッカの表情が泣き出しそうに歪んだのを見てしまったのは傍観者の俺だけだろう。そちらを見ようともしない女神・マリーは、興味なさげに素っ気なく言い捨てた。
「行って。ここで起きたことは黙っておく。何か聞かれてもあたしがやったことにするから」
「………………いっつもいっつも」
その呟きが聴こえたのも俺だけだったらしい。
「?」
「……ええ。えーえー、行きますわよ!」
ぷい!と腹立たし気に背を向けた女神・マリッカは、最後にその外見にはとても不釣り合いなドスの効いた低く昏い声で吐き捨てる。その背中が、肩が震えていた。
「あたし……絶対諦める気なんてねーですから! いつまでも下っ端女神でくすぶってる気なんてさらさらねーんですから! マリーなんてド馬鹿は置き去りにしちまって、ぜーったい!悠々自適の上級女神生活を堪能してやるんですから! あとで吠え面かくんじゃねーですわよっ! ばーかばーか!」
ようやくその姿が、突如出現した例の扉の向こうにすっかり消えてしまってから、俺は今までまともに呼吸すらできていなかったことに気付かされた。
「ふーっ……」
何だろう。
思い返してみると見方によっては物凄くラッキーなシチュエーションだった筈なのに、途轍もなく絶体絶命のピンチを脱した気持ちにすらなっているのが自分自身でも不思議で堪らなかった。《加護》を授けるというその行為と過程で、実際にはどういうことをされるのか――されちゃうのかということについては、まるで興味がなかったかというと嘘になる。事実、ゲームのようにいくらでもやり直しが効くのであれば、さっきの続きを体験してみたいとすら思っていた。でもそれは、結局未遂に終わった今だから言えることだ。
「……ねえ」
あ。
「ちょっといい?」
まだちょっとピンチだったんだっけ。
女神・マリーの苛立ちの混じった科白に我に返る。
「あ、あの……」
「いい。御礼とか言わないで」
ぴしり、と遮られた。
「別にあんたを助けようと思った訳じゃないんだし。あの娘がまた馬鹿なことをしでかすのが嫌だったってだけ。それで叱られるのはあたしなんだから。聴いてたでしょ?」
「あ……うん」
そうだ。この自称女神(ジャージ)は心が読めるんだっけ。
ついついぼんやりとそう思ってしまってから、
「や……やべっ!」
不本意な呼び名をまたもや当たり前のように思い浮かべてしまっていることに気付いて、気まずそうに足元に視線を漂わせた。
「もういいわよ。別にどう呼ばれようが」
「ご、ごめん……」
「それよりも――」
女神・マリーはようやく上半身を起こした俺の前で腕組みをして仁王立ちになっていた。
見上げると――あー、怒ってるよな、やっぱ。
「……そりゃそうでしょ? だからあたし、何もしないで、って言っておいたじゃない! こうなるの、分かってたんだから!」
「だったら、あらかじめ教えてくれれば――」
「そうしなかったって言える?」
また先回りされてしまった。
「本気でそんなこと言ってるの? ……そんな訳ないじゃない。今まで召喚された《勇者》は、誰一人例外なくそうだったんだから」
いい加減、気になり過ぎる。軽い苛立ちとともに尋ねた。
「さっきの女神……マリッカも言ってたけどさ。その、今まで召喚された、とか、誰一人例外なく、ってどういうことなんだよ?」
「言葉のとおりよ」
即答する。さっきの女神・マリッカなら俺の問いを耳にした途端、しまった!という表情を浮かべただろうけれど――目の前の女神・マリーはそうはしなかった。
「それもあたし、最初に言っておいた筈なんだけど。 この世界にはもう、勇者の存在は必要ないの。もう余ってるのよ、って教えてあげたでしょ?」
「あ、なるほど――って言うとでも思ったのか?」
相変わらずの要領を得ない答えに我慢が出来ず、ノリツッコミで問い返したら返ってきたのは溜息だった。しばらくそのままでいると、女神・マリーは渋々説明を始めてくれた。
「この世界《ノア=ノワール》はね……一〇〇年前の魔王討伐を機に、男性と女性、老人と若者、そして神と女神と人間のバランスを失ってしまって、とても不安定な状態にあるの。あんたもこの町を訪れた時、何か妙だと感じたことはあったでしょ?」
「確かにあった」
改めて思い返す必要すらなかった。
「町や城を警護する衛兵は皆女の子だった。それが凄く不思議でさ……。それにはっきりとは見えなかったけれど、家という家に引き篭もってるの、あれ、全員女性なんじゃないか?」
拒絶するように閉じられていく木戸の向こう側にかすかに見えた人影は皆髪が長かった。
「間違ってないわよ。この町にいる人間は、ほとんどが女性。男の人は、そこにいる――」
女神・マリーは、とうとう玉座でうとうとし始めた老王――いや、偽の王様役をやらされていた皺くちゃの老人を指さす。
「――そのおじいちゃんくらいしか残ってないかも。あとはもうここにはいないわ」
と、言うことは、その男たちは……?
しかし俺のうすら寒い想像をいなすように女神・マリーは道化じみた仕草で軽く肩を竦めてみせた。
「残念外れ。ぴんぴんしてるわ。むしろ第二の人生を謳歌しまくってるかもね――あっちで」
そう嘯く科白の最後でうす暗い天井を指さした。だがここは城の最上階である。
「天界……ってことか? ぴんぴんしてるって言ったよな? ええと、それはつまり――」
「そ。神になったってことよ」
「う、嘘だろ!? 何だよそのシステム!?」
信じろって方が頭おかしいぞ。
「しかも、この世から男連中がすっかり居なくなっちまうまで全員が神になった、ってことなのか!? そんなのラッキーすぎる……!」
「ラッキー……ねえ」
どうやらその感想は間違っていたようだ。
「確かに、神になれば寿命の概念はないし、病気や怪我だってしないわね。……でもね? 天界が広いとは言っても、スペースは無限に余っている訳じゃない。それに、それぞれが類稀なる御力を与えられた神なのよ? 妙なプライドや凝り固まった自尊心が邪魔しちゃって、おかげで傍から見ても凄くぎすぎすした嫌な世界だわ。何かって言うと年功序列、上下関係にうるさいからノイローゼになる神もいるくらい。かと言って、逃げる場所もなく、死ぬことすら許されない。それでも……本当にラッキーだって言えるのかしらね?」
天界っていうより地獄だなそれ。
そこで、はた、と気付いた。
「……ちょっと待ってくれ。もう残っているのが女だけってことは、神になれるのは男だけってことなのか? でも、お前たちみたいな女神だっているじゃないか。それは一体――?」
「……その前に」
むっつりと顔を顰めた女神・マリーは、話を遮るように人差し指を突き付けてきた。
「これも言ったわよね? お前、とか、あんた、とか呼ぶのはもうやめて。あたしにはマリー=リーズって言うちゃんとした名前があるんだから!」
「ご、ごめん……」
確かに悪い悪いとは思っていたのだけれど、免疫がないせいか、女の子を名前で呼ぶことに対してどうにも抵抗があったのだ。
「じ、じゃあ、め、女神・マリー=リーズ様――」
「もういいわよ」
そう呼ぶように言われた筈だが、いざそう呼ばれると落ち着かない気分になったらしい。
「さ、様、とかいらない。……マリーだけでいい」
「わ、わかった。ええと、マ……マリー」
うう、馴れそうにないな。しばらくは口に出すたび噛みそうである。
もごもごしていると、マリーが先に口を開いた。
「元々女神は、魔王を討伐する命を受けた勇者の補佐するための重要な役どころを担っていた存在なのよ。長い旅路を助け、導き、数々待ち受ける苦難を乗り越えるために、それぞれが持つ《女神の加護》を授けることによって――」
また《女神の加護》だ。
その単語を耳にした途端、さっきまでの一連の出来事を思い出し、何故だか反射的に身体に、ぶるり、と震えが走った。口に出すまでもなく、俺の心を読み取った女神・マリーは頷いてみせた。
「そ。さっき危うく授けられそうになったあれよ」
「……やっぱり、危なかったのか?」
「それは考え方次第だけど?」
女神・マリーはやっぱり肩を竦めた。
「さっき話した神になるということ――つまり《神成り》について、詳しく条件を言ってなかったわよね? ……誰でも、いつでも簡単に神になれる資格を得られるって訳じゃないわ。勇者として認められ、それなりの功績を上げて、その身に授かった《女神の加護》の数に応じて神となる、つまり《神成り》の資格を得るの」
そこで言葉を切り、
「改めて聞くけど――」
俺の目を見つめたまま、女神・マリーは尋ねた。
「あんたはまだ、元の世界に戻りたい?」
「……うん」
答えに迷わなかった。
「戻りたい。絶対に」
やり残したことはいくらでもあると思う。
今期のアニメには、どうしても結末が気になるものがある。連載中の漫画もそうだ。仲間うちで予想したあいつこそが真犯人なのか、その答え合わせをしたかった。それに、来月頭に発売予定のゲームは、本当に、本当に楽しみだったんだ。
そして、何となく日課のように続けてきただけの物書きの真似事だって、どうせだったらやれるだけのことはやっておけばよかった、と思う。
それに何より――。
あの、まだ俺が名前さえ知らない彼女にもう一度会いたい、そう思った。
今度こそ自分の意志で、彼女と話をしてみたい。心からそう思っていた。
今挙げた《願い》なんて、どれもこれも、そんな事くらいで――そう一笑に付されるものばかりなのだろう。他人にとっては取るに足らないことばかりなのだろう。けれど、そのどれもこれもはこういう状況になったからこそ気付かされ、むくむくと湧き上がってきた純粋な《願い》だった。黙っていたって何も行動しなくたって、ひとりでに明日はやって来る、そういう身分、そういう立場だからこそそんな科白が言えるんだ。
だから俺は《願い》を込めて繰り返した。
「君が戻してくれるんだろ、マリー?」
不思議とその目を見つめることに抵抗はなかった。むしろ物怖じしたように慌てて視線を反らしたのはマリーの方だった。
「だ――だからっ!」
あらぬ方向を向いたままマリーは呟いた。
「あ……あたしはただのクレーム処理係だって言ったでしょ? でも……《神成り》を阻止することくらいはできるかもね。言うことを聞いてくれるなら、って但し書きつきだけど――」
「その前に」
何故だかマリーには心が読めなかったらしい。
きょとん、としている彼女に言ってやる。
「もう俺の事を、あんた、って呼ぶのはやめて欲しいんだ。俺だって、マ……マリーって呼ぶことにしたろ? だったら俺の方もそうしてくれないか?」
「う……分かったわよ」
ちょっと頬を染めているマリーに、どきりとする。
「で……でもっ!」
うおっ! 目を閉じたまま人を指さすと危ねえっつーのっ!
「ああああんた……じゃなかった! シ……ショージだって、あたしの名前呼ぶときにいちいち噛むの止めてくんないっ!」
おま言う。
思わず鼻で笑ってしまい、ますますマリーは顔を真っ赤にしてまくしたてた。
「ちょ……! 何よっ! 馬鹿ショージの癖に!」
と、言ってから、マリーは、あ、と気付いた。
「これ、いいかも。馬鹿ショージ、うん、馬鹿ショージ! これならちっとも嚙まないわ!」
「良くねえだろ!」
思わずツッコミを入れてから、溜息を吐いた。
「……もういいよ、それで」
それでも、女の子に苗字じゃなく名前で呼ばれる経験は、少し気恥ずかしくて、ほんのちょっぴりくすぐったい気分だった。
だが、次の瞬間、
「うわ……キモっ! 馬鹿ショージの癖に!」
マリーは露骨に顔を顰めた。
「いちいち人の心読むんじゃねえ!」
……前言撤回。
俺のときめきを返して。
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