第三章 第二の女神

「それにしても……何なんだよ、ここ」


 奇妙な空間だと改めて思ってしまう。


「透明な床だなんて、俺、よく受け入れてるよな」


 説明しにくいが、今まさにへたりと座り込んでいる下にはガラスに似た透明な床があった。


 こんこん。

 質感はまさにガラスだ。


 ノックするように表面を叩けば、硬さに加えて適度な弾力を感じる点もガラスそっくりだ。けれどもそこからはあまり冷たさを感じなかった。透明だ、などと表現したものの、いくら目を凝らそうとも眼下に小さくなった大地などは見えず、ただどよどよとこの空間の周囲に滞留している雲のような白い物体が見えるばかりなので、高所恐怖症の俺でも何とか平静を保てている状況ではある。


「広いんだか狭いんだかも分からないし……」


 壁とおぼしき四方は澄み渡った青空のような色を映していて、一見すると限りなく広がっているようでありながら意外と狭く、閉鎖的な空間なのだとついさっき知った。その代償として、いまだに額にはじんじんする痛みが残っている。すでに死んだ身だというのにぶつかれば痛いだなんて、理不尽極まりないにも程がある。


「天井も意外と低かったし……」


 これも試してみた。


 何を買ったのかもう覚えていないレシートを丸めた奴がポケットの隅に押し込まれていたのでその場で放り投げてみたところ、見えない何かに行く手を阻まれて跳ね返って落ちてきた。距離感が掴めないせいでこいつもまたじんじんする額に上手い事ヒットして、顔を顰めるハメに。


 さて。これまでに得た情報を総合すると、開放感があるのは見た目だけ、ここは概ね六畳くらいの空間だ。


 うーん、世知辛い。

 女神の世界、実に世知辛い。


「で、ある物と言えば……あれだけ、か」


 その空間に唯一ぽつんと突っ立っているのが例の大理石風の扉なのだった。よりによってほぼ中央にどーん!と突っ立っているので圧迫感が半端ない。はっきり言って邪魔である。


「………………ここでどうしろと?」


 うーむ。

 何もするな、って言われたんだよな俺。


 アニメやゲームの世界における一般常識を振りかざすならここは『開ける』の一択だろう。


「でもなあ……」


 どうせ開けてみたところで、例の自称女神(ジャージ)しかいないのだ。で、またもや面倒臭そうに文句の一つや二つ、いや、五つや六つくらいは言われちゃうに違いない。


 いや、扉を開けるのを躊躇っている本当の理由はそれじゃなかった。


 あれでも自称女神(ジャージ)は女の子である。

 なので、何というか面と向かってコミュニケーションを取ることにちょっと抵抗を感じてしまっていたのだった。あーはいはい。どうせ童貞でオタクですよ、っと。


 「いや、待てよ……? 意外と目に見えていないってだけで、何処かに別の扉があったりするのかも知れないな……!」


 さすがは俺だ。自画自賛する。ついこの前まで夢中になってダウンロードとクリアとアンインストールを繰り返していた脱出ゲームを思い出し、すぐにも実行するべく立ち上がった。


「……と」


 覚束ない足取りで壁があるであろう辺りまで進むと、ぺたぺたと手に伝わる感触だけを頼りにどこかにあるかもしれない《扉》を入念に時間をかけて探ってみた。




 しかし――。



「やっぱある訳ないか……」


 残念ながら、何も収穫は得られなかった。

 となると、残る選択肢はアレだけになるのだが、


「――え?」


 振り返って、ぎょっ、とする。




 そこには相変わらず大理石風の《扉》があった。


 が、



「何で増えてるんだよぉ……」


 問題発生。選択肢は二つになりました。


「どっちが最初からあった奴だっけ? 目印くらい付けといてくれたらいいのに……くっそ」


 見た目には全く同じ、瓜二つの《扉》である。


 近くに寄ってしげしげと観察してみたが、双方にはどこにも違いが見つけらなかった。まあ、そもそも最初からあった扉の特徴なんてまるで覚えていないのだから、何かしら違いが見つかったところで大して意味はない。




 ここが正念場という奴である。


 む。

 むむ。




「……決めた」


 俺は意を決して、左側にあった扉に手をかけた。

 

 ――がちゃり。


 予想に反して何の抵抗もなくすんなりと扉が動き出してしまったので、遅ればせながらその影に隠れるようにわずかに中腰の姿勢をとったところで、


 ふよん。


 ちょうど向こう側からも誰かが扉を開けようとしていたらしい。鉢合わせするような格好になってしまい、微妙な弾力を備えながらも主として硬めに主張する何かに行く手を阻まれてしまった。


「な――っ!!」


 その誰かが息を呑む音が聴こえた。なので、そろり、と顔を上げてみる。


「な……な――っ!」


 わきわき。

 再び絶句する頭上の気配に、手元の感触を二度三度と確認してみたところで――ただならぬ事態に気付いてしまった。


「う……うわわわわっ!」


 わわわわざとじゃないんですっ!


「ご――ごごごごめんっ!」


 大慌てで、ずざざっ!と後退り、しどろもどろになりながら思いつく限りの弁解の言葉を吐き出した。


「ま、まさか、扉の向こうに誰かいるだなんて思ってなくてっ! で、でででも、触っちゃったのが君のむ――胸とかじゃなくて良かった!」

「………………い」

「い?」


 ぶちーん!って、聴こえた気がする。


「い……いいい今っ!」


 と思った次の瞬間、何者かの絶叫が俺の引き攣った愛想笑い目がけ、暴風のごとく真正面から叩きつけられた。


「あなたのその手で、わきわきしてくれやがったのがっ! 私の胸ですわよおおおっ!!」




 ……え?


 そうなの? さっきの感触で?




「え……えーと。……え?」

「あーはいはい。どーせどーせ……」


 俺はラッキースケベと喜ぶどころか、戸惑いまくりの表情を隠すことができなかったらしい。いまだ収まらぬ怒りと羞恥にぷるぷると身を震わせながらも、何者か――改め目の前に立つパステルピンクのゆるふわヘアーの女の子は半泣きの表情でぶつぶつと呟いた。改めてその胸――じゃなかった背格好や顔付きを見る限りでは、いいとこ中学生、場合によっては小学生くらいにも見える。


「あの……」


 決して触れてはいけなかったであろう身体的特徴に、いくら事故とは言え物理的にも触れてしまった俺は、何だかいろいろ申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「……ホント、ごめん! 悪かった! で……君は一体――?」


 なので、まずは素直に謝り、恐る恐る尋ねてみた。


「……こほん」


 すると、気を取り直すように咳払いを一つして、少女は口調を改めた。


「どうやら間に合ったようですわね――勇者よ」




 お?




「私の名前はマリッカ=マルエッタ。あなたを導く役目を担った女神ですの」




 おお!




 っていうか、また女神か……。




 それでも、やる気の欠片も神々しさもまるで感じさせてくれなかった何処かの自称女神(ジャージ)とはひと味もふた味も違う凜とした立ち姿と科白に、ちょっぴりやる気を失くしかけていた俺の心が再び早鐘を打ち始めた。


「お、俺は勇者……ってことでいいんだよな!?」

「え……ええ! もちろんですわ!」


 念のため興奮気味の口調で確認をすると、第二の女神は若干戸惑う様子を見せたものの、すぐにも、ぱあっ、と花が咲いたような笑みと、熱のこもった前のめりの科白が返ってきた。




 うん。さっきまでのは無し。

 ここからが、胸躍る異世界ライフの始まりだ!




「で――さ……」


 ぽりぽり、と鼻の頭を掻いて俺は尋ねた。


「そうなると、やっぱ魔王を倒しちゃったりするのが与えられし使命だったり……する?」

「あ……え、ええ、ええ! その通りですっ!」

「かー、まじかー。いけるかなあ?(ちらっ)」

「だ、大丈夫ですわよ! あなたならきっと!」


 突如現れた第二の自称女神(ロリ貧乳)は、食い気味の俺の科白に気押されたようにわたわたしていたが、少しばかり気弱な科白を吐いてみせると、俺を勇気づけるかのようにうんうん!と何度も頷いた。そのたびパステルピンクの髪が揺れる。それにしてもリアルに存在しちゃうとかなりエグい色をした、作り物めいた髪である。


「んで……手始めにどうしたらいいの?」

「そ、そうですわね……」


 本来であれば、もう少し時間をかけてどうのこうのと状況を説明する腹づもりだったのだろうが、こちとら今日に備えて幾度となく妄想という名のシミュレーションを繰り返してきた、言わば異世界召喚におけるセミプロなのである。おのずと展開は早い。それにこの場でもたもたしていようものなら、くだんの第一の自称女神(ジャージ)が扉の向こうから姿を現わし、ようやくまともに始まりつつある俺の異世界召喚ライフを邪魔しに来るかもしれない。なので少しばかり焦ってもいたのだ。


「で、では、早速ですけれど――」


 ありがたいことに、自称女神(ロリ貧乳)はその空気を察してくれたらしい。


「私とともに下界に降りましょう。そこであなたはこの国の王に会い、魔王討伐の命を受けなければなりませんの。……細かい説明はその道中にでも」

「了解! じゃ、行こうか!」

「あ……はい! それでは――」


 自称女神(ロリ貧乳)は手にした金色の錫杖を自分の足元に差し向けて、ほのかに青白い輝きを放つ魔法陣を手早く書き連ねた。


「さあ――」


 きょとん、として差し出された手を見つめる。


「はい! 私の手を、握って下さいませ……!」

「あ………………は、はい」


 意味もなくズボンの脇にごしごしと手を擦りつけてから小さな手を恐る恐る握る。どぎまぎしている俺の手を引いて魔法陣の中央へといざなった第二の女神は、声も高らかに宣言した。


「それでは参りますわ!」


 しゃん!

 黄金の錫杖が澄んだ音色を奏でる。


「冒険の始まりの地、アメルカニアへ!」



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