第一章 転生は突然に

「はぁ……異世界に転生とかしねえかな……」


 などと、いきなり独り言を言い出す奴がいたら、近づかないことをお薦めしよう。


 たとえば、今の俺みたいな奴、である。


 別に今の生活に不満があるって訳でも、この世の全てに絶望しているなんてこともありはしなかった。取り立てて嫌なことがあった訳でもなかったけれど、ただ逆に言えば、最近何か面白いことがあったか?と問われると答えに詰まってしまう。


 普通なのだ。至って普通。


 通っている学校の県内レベルも普通。成績も普通だし、学内階層カースト的にも至って普通。とりわけ運動神経が良い訳でもなく、ルックスも至って普通――まあ最後の奴は、少なくとも自分自身ではそう思っている、ってことだけど。なので、あえて普通じゃない所を探そうとするなら、名前と、それに伴う渾名くらい。それが俺だ。


 天津鷹翔二。それが俺の名前。


 字面だけ見れば間違いなく主人公クラスの名前。文句なしに強い。いや、強そうである。けれど付けられた渾名の方はというと、少々いただけない。


 誰がつけたかその渾名――高二で中二の小二君。


 高校二年生にもなるのに夢見がちで、重度の中二病患者であるところの翔二君、と言う意味らしい。誰が上手い事言えと。頼んでないっつーの。言えてねーし。


 まあ、ある意味事実なので仕方ない。


 確かにアニメは好きだし、漫画も好きだ。ラノベも一通り読み漁ってるし、ゲームも一向にやめられない。もちろん、どれもやめる気なんてさらさらない。そして――ほんのついでくらいのエクストラとして、こっそり小説の真似事めいた物を書き貯めたりしている俺である。


 小説を書いている――というといかにも凄そうに、さも崇高な趣味でもあるかのように聴こえるかもしれないが、書店の棚配置で最適な置き場所を探すなら、常日頃読み漁っている物と同じライトノベルになる。ちなみにジャンルはファンタジー物、剣と魔法と女神の登場する世界だ。


 今のところ、学内のあちこちにひっそり生息している数少ない同志たち――要するにオタク仲間の間で回し読みをする、いや、半ば無理矢理されちゃっている程度の代物だったけれど、そこそこ評価は良い。おかげで少し調子に乗っているところである。どうせすぐ、同じ連中の言葉によって落ち込まされることになるんだけども。


 とは言え、良い方の評判だって身内ならではの贔屓目だと慎ましやかな自己評価をしているので、どこぞのサイトで公開したり投稿したり、ましてや魑魅魍魎の闊歩する同人誌即売会――いわゆるコミケで頒布しちゃったりなどという大それたことまでは考えていない。そもそもあの魔窟にサークルとして参加しようだなんて、高校生風情ではとてもハードルが高い。


 でも、だ。


 そんな密やかな趣味さえも、今どきの高校生なら珍しくないんじゃない?って思うのである。クラスで孤立している訳でもなし、休み時間ともなれば同じ趣味嗜好を持つ連中がいずこからか集まってきて、オタ話でぎゃーぎゃー盛り上がったりなんかしている。要するに、俺だけじゃないってこと。なのに、どうして俺だけそんな不本意な渾名が付けられてしまったのかは理解に苦しむところである。




 それはさておき。




「はぁ……」


 小さく溜息を吐きながら横に視線を向けると、冴えない表情をした顔が、駅のホームにぽつんぽつんと設置されている鏡の一つに映っていた。


「やっぱ、何か微妙なんだよなあ……」


 何となく憂鬱な気分のその訳は、ここにもあった。


 ガラにもなく早起きして、戦場へと出勤する前の母親に嫌な顔されながらも洗面所を占拠してあれほどまでに奮闘・努力したのにも関わらず、何一つ決まらなかった髪型を少しでもマシな物に変えようと周りに悟られないようさり気なく弄ってみる。


「……むう」


 うん。駄目だね、これ。何がいけないのかまるで分からない。


 そもそもこれまでの人生においてオシャレらしいオシャレをした経験がないので、いざやろうと思い立ってもちっともやり方が分からない。今、鏡に映っている俺は、昨日の学校帰りに立ち寄ったタケモトヒロシで悩みに悩みまくった末に購入したヘアスプレーで、中途半端な長さの不揃いの髪をあちこちへと跳ね散らかせただけのただのオタク男子でしかなかった。


「スーパーハード、ってのが失敗だったか……?」


 きっと、そこじゃないんだろうなあ。


 この期に及んで『脱オタク!』とは言わない。それでも高校生男子だし、少しでも好感度を上げたいと努力するのは決して悪い事ではない筈だ。なのに、どうやら俺にはセンスと言うかセオリーと言うか、とにかくオシャレをするのに最低限必要な『何か』が絶望的に欠けているらしい、ということが分かっただけだった。


「あ、あれ? うーん……」


 すっかりスプレーでかちかちに固まりきってしまった毛先は、ちょっとやそっと弄ったくらいではもうどうにもなってくれなかった。こんな状態でシャンプーってできるんだろうか。


「……もういいや。気にしたら負けな奴だこれ」


 意外と、堂々と構えていれば大丈夫だろう、などと、自分で自分を慰めていた矢先、


「……くすっ」


 小鳩のさえずりのような忍び笑いが聴こえた。


「?」


 俺は何となく反射的にそちらに視線を送り、直後、


「――!?」


 頬を赤く染め上げ、倍速で正面に顔を戻していた。




 何故ならそこに――彼女がいたからだ。




 濡れたように艶やかで、腰近くまで伸びた黒髪。ピンク色の小さな花弁をかたどったヘアピンで右寄りにまとめられた前髪の下には、ほんの少し目尻の垂れ下がった切れ長の目があって、その右の方にだけ、白い肌の中でひと際立つ泣き黒子がある筈だ。目元を隠すように覆い被さっている睫毛は驚くほど長く、憂いを帯びたようにいつも震えている。学校指定の青い通学鞄以外にもう一つ小振りな楽器ケースを常に携帯しているところから、吹奏楽部所属なのだろう。けれど、まるで知識のない俺には、その中に収められているであろう楽器の種類までは分からない。


 そして、俺が同じく分からないこと。

 それが彼女の名前だった。


 見慣れた――いや、もはや二年目ともなれば少々見飽きた感のある制服を着ているのだし、俺と同じ佐々木之居城高校の生徒なのは間違いないだろう。そして、毎朝この時間、決まってこの駅で見かけるのだから、住んでいるのは「塚谷」近辺だろう。その筈だ。


 けれど、俺は彼女について、それ以上確かなことは何一つ知らない。

 なのに――。


「……っ」


 ああ、くそっ。


 さっきの醜態を見られてしまったんじゃないかと、みるみる輪をかけて頬が熱くなるのを感じたが――それはどうやら自意識過剰、単なる思い違いだったらしい。たっぷり間を置いてから、恐る恐る彼女の方を盗み見てみると、


「ふふ。かわいいなあ……」


 まだ名前も知らない彼女は、手の中のスマートフォンの画面を寄り目気味に熱心に見つめ、もう一度堪え切れずに小さな笑い声を漏らしていた。


(よ、よかったあ……)


 思わず安堵する。


 ではここで、僭越ながら俺の予想を聞かせよう。


 ――彼女は、友人から送られてきたマグカップにちょこりと鎮座するティーカッププードルか何かのペット画像を眺めていたので、つい微笑ましくなり、つい忍び笑いを漏らしてしまったのである。


 そうあって欲しい。いや、そうであるべきだ。


(……キモっ、俺)


 ひとしきり暴走気味の妄想を繰り広げてしまってから、自分自身にげんなりしてしまった。


 これだからオタクは、って言われるんだ。


 こうして毎日悶々とありもしない妄想を巡らせては思いを馳せているくらいなら、直接声の一つでもかけてみればいいじゃん、などという、特定の人種にとっては至極当たり前、極めて正論なアドバイスなんて無意味だ。そんな勇猛果敢な行動を息を吸って吐くかの如く自然と実行できるくらいなら、今頃俺はオタクとは呼ばれていない。


 何か会話をするきっかけが欲しい。それだけだ。


 あーはいはい。その、きっかけ、とやらがあったところで果たして実際に行動に移せるのかよお前、なんていう正論も、この際二の次でいい。それでも今後の人生を左右する重要なイベントが今この瞬間に発生してくれないかな、と願うことくらい良いじゃないか。


『二番線、通過電車が参りやす――』


 構内に若干巻き舌気味のアナウンスが響き渡り、車体にグレーのラインが描かれた車両が緩やかな弧を描きつつホームへと進入してくる。


「……おっと」


 俺はいつも通り反射的に半歩後ろに身を引いた。ここ塚谷駅は急行通過駅だ。電車がホームを通過する際はかなり速度が乗っているので、ぼけーっ、としてようもんなら、殺到する突風に思わず、ひやり、とさせられることが多々ある。


 なお、パンチラは期待できない模様。

 そんな妄想を抱いていた頃が俺にもありました。


 今日も相変わらず遅れ気味だなあ、と、毎日飽きもせず繰り広げられているラッシュアワーに果敢にも挑み続けるサラリーマンたちを憐みつつ、ふと、隣に視線を泳がせると、


「……ふふっ」


 名も知らぬ彼女は、手元のスクリーンの中の映像にすっかり心を奪われている様子だった。


 ま……大丈夫だろう。


 危険はない。

 危険はない筈――だけど。


「――きゃっ!!」


 うわ……やっちまった……!


 不意を衝いて襲いかかってきた突風にすっかり取り乱した彼女は、手の中のスマートフォンを二度三度お手玉した挙句、とうとう線路内に落としてしまった。


「――!」


 彼女は悲鳴を押し戻すように両手で口元を押さえたが、その端から小さな悲鳴が漏れ出てしまう。この駅は、ホームに駅員が立っていることの方が極めて稀だ。どころか、俺たち以外に電車を待っている乗客の姿だってぽつりぽつりとしか見えない。


「ど……どうしよう……!?」


 哀れ彼女のスマートフォンは、目の前に二本並ぶ線路の片一方に、シーソーよろしく絶妙なバランスを保ったままゆらゆらと載っていた。可哀想にスクリーンの表面にはうっすらと罅らしきものすら見える。修理費はそこそこかかるだろう。


「えと……」


 彼女の視線の先にはまだ何も見えない。だが、さっき来たのが急行なら、すぐにお待ちかねの各駅停車がやって来る。今できることと言えば、猛ダッシュで長い階段を駆け降り駅員室に駆け込んで、大至急マジックハンド的なアレで拾い上げてくれるよう涙ながらに頼み込むことくらいだったが――とても間に合う気はしない。


(……よし!)


 これこそ俺が待ちかねていたイベント発生だ。


 肩に掛けていた通学鞄を足元に置くと、意を決して彼女の方へと迷わず駆け寄った。線路内に立ち入るべからず――そういう規則があり、厳しい罰則があることだって知ってはいたが、今は他に上手い手が見つからない。こってりと絞られる羽目になるだろうし、無論、遅刻は間違いなしだ。


 それでも、彼女のために何かしてあげたい、そう思ったのだ。


「あ……!」


 すっかり取り乱している彼女が、駆け寄る俺の姿を見て目を丸くし、小さな声を出した。


「……待っててね」


 短くそう告げ、一気に眼下へ――。




 どん!


 行けなかった。

 何故か俺の視界は、激しく右にブレた。




「……あ! やべっ、悪ぃ――!」


 何かがぶつかってきた衝撃とともに何処からか、大して済まなさそうな、気持ちのまるで籠ってない男の野太い声が聴こえたかと思うと、俺の身体は駆け出した勢いにさらに加速度を付けて、一気に横にすっ飛んでいた。


 そして、

 ごんっっっ!!!

 転倒する。


「――!?」


 痛い。

 痛い。

 痛い。


 瞬間的にその単語だけで俺の意識が塗り潰されたかに思えたが、ふと我に返った時には大して痛みなんて感じなくって、ついつい、ほっ、としてしまったりなんかして――、




 いや。もう感じなかった、が正しかった。




 直後、ぬるぬると後頭部を気色悪く滑り降りてくる生暖かい感触とは対照的に、凍えるような震えを伴う寒さが俺を襲う。


「だ――大丈夫、ですかっ!?」

(こんなの、つい二、三日前のテレビで見たっけ)


 そんな乾いた感想の中、『スクープ!衝撃映像一〇〇』とかいう特番でしばしば見かける横倒しになった画面の中に、まだ名も知らぬ彼女が血相を変えてフレームインしてくる様子がノイズ混じりに再生されている。


(すっかり慌てちゃって、一体どうしたんだ――)


 その時、気付いてしまった。


(ああ……心配してくれてるのは俺のことか……)


 そう悟った途端に、徐々に俺の思考は緩慢に、スローになっていった。




 まったく――俺はどうしてこうも恰好悪いんだ。


 線路に落ちたスマホを無事奪還して彼女の笑顔を取り戻すことができたら、ほんのついでに一言二言の会話を交わして、最後に『また明日ね』って笑ってもらえただけで良かったのに。本当だ。それ以上のことを望んでいた訳じゃない。なのに、俺が望んでいたレベルを越える、一生一度きりの最終イベントが発生してしまっている。


 こんなのってないだろ――酷すぎる。




「そんな……っ!」


 彼女はわなわなと口元を震わせ、目の前の惨状から目を背けることも出来ずに立ち尽くしていた。どうやら今の俺の状況は相当に酷いらしい。やがて彼女は、立っていることもままならない様子で、崩れ落ちるように俺の前にしゃがみ込んだ。


「何でこんな事に……! 私のせいだ……!」

(違う。違うんだ――)

(俺がツイてない奴だったってだけで、恰好悪い奴だったってだけで、君のせいじゃない)


 けれどもう血の気を失くした俺の唇はかすかに震えただけで、沈む彼女の心を慰める言葉一つ発することすらできなかった。そのどうしようもない現実に、俺はただただ愕然とすることしかできなかった。そして――もう一つのことにも。


(――!?)




 み、見えちゃう!

 見えちゃうって!?


 目の前で、そんな無防備に座り込んだら――!




 明らかに場違いで邪な感情を抱き、どぎまぎしながらも目の前に広がっているであろう至福の光景を、せめて最後にその目に、その心に焼き付けようと、年頃の高校生男子らしすぎる好奇心満載の視線を向けたその瞬間――。




 ぺかー!!!!




 俺の双眸がしっかと捉えた彼女のスカートの中に広がっている筈のめくるめく光景は、突如不自然に発生した謎の光によってまるっとあらかた白一色に塗り潰されてしまっていたのであった。


 気付けば思わず俺は、喉も裂けよとツッコミを入れていた。


「深夜の地上波アニメかよおおおおおおおっ!!」




 それが俺の。

 異世界における不本意な第一声であった。



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