第2話 敬礼
サラはキャプテンの指を首元から解きながら声を絞り出した。
「し、失礼します。ちょっと時間を下さい」
ブギーとキャプテンを手術室に残し、廊下のトイレに入って鍵をかけた。ここも暗かった。次の瞬間、トイレの狭い空間の中で床に崩れ落ち、便所のフタに顔を疼めてすすり泣いた。何度も何度もお父さんお父さんと呼びかけた。鼻と目が痛くなるまで涙と鼻水を拭き取った。
90人いる中で、死にかけの人間を選んだ悪運を悔やんでいた。しかもサラが選んだ人間は、サラに決断を跳ね返した。孤独感に耐えられない。サラは爪を顔に食い込ませた。いっそのこと感情に任せて、このまま顔を引っ掻いて削ぎ落としたかった。
残りは二人。もう失敗は出来ない。他に頼らず自分で決めなければいけない。私は泣いていられない。
その時だった。この状況は偶然にして起きたのだろうか?と疑問に思った。何故船の管理システムやブギーは、キャプテンの体の異変に気がつかなかったのか?誰だってこの状況であれば上司を起こすのではないか?キャプテンが病気?これは本当に偶然なのか?
「ブギー?」
サラは暗いトイレの中でささやいた。
「何でしょう、サラさん」
トイレのドアの向こうからブギーの声が突然した。いつの間にかブギーは手術室から出てきて、静かにこのドアの向こうに立っているのだ。
「いつからそこにいたの?」
すぐに返事が来なかった。
「私はすぐにサラさんを追いかけました。早く実行しなければ、ミッションは成功しません」
「キャプテンは?」
「疲れて睡眠中です。暫く目を覚ますことはありません」
そこで沈黙が続いた。ブギーはこの船の全てを知っている。私が知るべき事を、何かを知っているのではないだろうか?
「ブギー、私が知っておくべき事ってあるのかしら?」
「なんの事でしょう?」
暫く考えて聞いてみた。
「あなたは充電パックが隕石の衝突で破壊されたと言ったけど、私は衝撃を感じなかったわ。故障するぐらいの衝撃なら船が揺れるでしょう?」
サラは耳を澄まして、ブギーが考えている事を想像していた。永遠のように感じる静かさを壊してブギーは言った。
「・・・ドアを開けてください」
命令をしているように聞こえた。サラは跳ね返した。
「もう一度聞くわ。私が知るべき事を教えて」
サラの心臓の鼓動が激しい。トイレの中の酸素が足りないように感じて、口呼吸を始めた。答えを待つ間、自分の後ろには壁、そして目の前の薄いドアしかない事が気になり始めた。
「サラさん、私がその質問に答えないのは、時間がないからです。私が技術的な説明をすれば不必要な不安要素が増えます。今の状況で正常な判断をサラさんが出来なくなる可能性があります。今、サラさんが不安なのは理解できます。自然な事です。私に感情があれば、同じように感じている事でしょう。だけど、今はミッションの成功を優先する事を考えなければいけないのです。ドアを開けて先の事を一緒に考えませんか」
嫌よ。
「分かったわ。その前に、ちょっと充電パックの様子を見てきてよ」
ブギーは返事をしなかった。
「ブギー?」
ドアを開けて、暗闇の中のブギーの目のレンズを見るのが怖くなった。
「ブギー、そこにいるの?聞こえているの?私の命令よ?」
すると、ドアから離れて向こうの廊下の奥に歩き去るブギーの足音がした。私が返事を聞き逃したのだろうか。足音が聞こえなくなった。
しばらく息を潜めて外の様子を伺った。あのアンドロイドは何かを企んでいるのか?ブギーは味方なのかしら?その疑問が付きまとった。あいつは私たちが全滅する事を企んでいるの?充電パックを突然切って、90人を船内で一番若いサラ・ハルバートに殺させる。
でも仮にブギーが味方だっとする。サラは3人とブギーだけの将来を想像してみた。到着した広大な惑星の土地で三人に何が出来るのか?何も出来ないじゃないか。3人が全てのテラフォーミング機材を使いこなせる筈がない。いっその事、地球に引き返すか・・・・。いや、そうすれば90人が無駄死にしたという事になる。ブギーが言った通りだった。
いつまでもトイレの中にいる訳にはいかなかった。ドアを静かに開けて廊下を覗き込んでみたが、廊下が右と左の闇へ伸びているだけだった。
忍び足で手術室に戻ると、キャプテンはシーツの下で鼾をかいていた。ブギーの言った通り、キャプテンは寝ていて暫く目を覚ましそうになかった。
ーーーー
「船を地球に帰還させるわ」
コックピットでサラとブギーから話を聞いたジョアナ・パルリン副隊長が言った。5ヶ月ぶりに目覚めたこの女性は40代の白人女性、サラと同じく髪の毛が耳まで届かないぐらい短く、目が鋭くて男っぽさ、同性愛者のような雰囲気があった。
「そ、そんな。じゃあ、このミッションで亡くなる88人の命が無駄になります」
サラは訴えた。ロス128bに辿り着かないと、ここまでの旅の意味がなくなり、大犠牲を払って終わってしまう。
「考え直してください。お願いします」
副隊長の余りにも早い決断が受け入れられず、サラはお願いした。
事故が起きてから今まで自分でもどうしたいのかがハッキリしなかった。出来れば重大な決断は人に決めてもらって、自分はそれに従うだけにしたい。でも、この副隊長を前にして、船を地球に帰還させる事を決めたこの女を前にして、自分の立場がハッキリと分かった。私は惑星128bに行きたいんだ。
「私たちが出来る事はないわ。このミッションは終わりよ」
副隊長がキッパリと言った。
「あなたは副隊長の私を目覚ました。今、この船とミッションの権限は私にある」
ジョアナはサラを睨みつけていた。この決断は揺るがないものだと。そしてブギーを指さした。
「ブギー、この船の方向を変えるのを今すぐに手伝って」
「了解致しました」
ブギーは椅子から立ち上がり、同時にサラも椅子から飛び上がった。
「だ、駄目です」
サラの声は震えていた。
「副隊長、それでは意味がないんです」
「意味がない?」
「このまま惑星に行くべきです。そこで機材を下ろして・・・」
副隊長は声をあげて笑った。そしてひじ掛けを叩き始めた。ブギーはコックピットの機械を操作し始めた。
「笑っちゃってごめんなさい。機材を3人とアンドロイドでおろしてどうするの?」
「動かせる機材は私たちで動かして、他の機材はこれから惑星に到着するまで私たち3人で研究して、動かせるようにしておきます」
「何年かかると思っているのよ?後2か月で惑星に着くでしょう?」
副隊長は薄笑いを止めなかった。91人とアンドロイドで設置するテラフォーミング機材を素人だけでやりこなすにはとてつもない時間が必要だろう。
「例え数年かかったとしても、それが私たちに出来る事です。私たちは地球の為に命を投げた筈です。この船をあの惑星に上陸させるのが私たちのミッションです」
食料パックだって90人分がある。3人分なら惑星で長い間暮らしてもお釣りが出る程だ。
「サラ」
副隊長の声は柔らかかった。そしてコックピットの隅に置いてあるサラの雑誌や食料パックの山を顎でさした。
「貴方がちゃんと仕事をしていたらこんな事は起きなかった筈よ」
サラは絶句した。副隊長は子供に話しかけるようにゆっくりと語った。
「88人の命の消失は誰の失敗だと思っているの?ブギーの?」
そしてサラが聞きたくない事を言った。
「ハッキリと言います。このミッションの失敗の責任は貴方にある。地球に帰還した後の処罰は重たい」
サラは食い下がった。
「私のせいだとしたら、尚更あの惑星に行って、私が償います」
サラは副隊長の前まで詰め寄った。副隊長は立ち上がった。お互いの顔の距離は5cmもなく、副隊長の生暖かい息を顔に浴びた。
次の瞬間、副隊長の手がサラの顔を引っ叩いた。視界が一瞬暗くなる。
「私のせいだったらじゃなくて、テメエのせいだろうが!」
そしてもう一度サラの反対側を頰を思いっきり殴った。サラの口からトロッとした血が滲み出た。サラはその場から動かず、静かに反対側の頰を副隊長に見せた。
「あんたがちゃんとしていたらこうならなかった。あんたのせいでみんなが死ぬのよ。あんたにこの船に乗る資格や素質なんてそもそも最初からねえんだよ」
副隊長はサラを床に押し倒した。サラの頭が硬い椅子にぶつかって、鈍い音を立てた。
「ブギー、今すぐにこの船の方向を変えなさい」
副隊長はサラの腹を蹴りながら言った。
「駄目!」
サラは蹴られた腹を抑えながらもヨロヨロと立ち上がり、ブギーの胴体にしがみつこうとした。
「サラさん、副隊長の命令です」
ブギーは操縦機から離れずに言った。
「ブギー、このミッションを成功させるのが大事なんでしょ!みんなの命を無駄にしないで」
ブギーは操作の手を止めた。
ジョアナはサラの短い髪を後ろに引っ張った。髪の毛がいくつか毟り取られてしまった。
「帰還させろ!」
「惑星へ!」
女の二つの声が重なった。ブギーは振り向いた。
「副隊長の命令を優先します」
即答だった。
「そんなっ」
副隊長は大声で命令した。
「ブギー、方向を変える前にこの蠅を部屋からつまみ出しなさい。邪魔でしかないわ」
足をばたつかせながら抵抗したが、そんな彼女をブギーは軽く肩に持ち上げた。
「私だけだったら貴方をこの宇宙に放り出して処罰しているわ。感謝しなさい」
最後に副隊長が言った。
ーーー
廊下の窓の向こうには隕石しか見えないけども、船の方角が変わるのがサラにもわかった。
私は90人の中から隊長を選んだ。選んだ男は私に決断を委ねた。私はその後に同じ間違いをもう一度犯してしまった。委ねられた決断を他人に委ねるという事。ジョアナを蘇らせた事。
「君が決断できるようにするだけだ」
キャプテンの声を思い出す。私、このまま引き下がるべきなのだろうか?
船の側を通った大きな隕石を視線で追いかけながら思いに浸った。
ーーーー
プッシューッ。いよいよ3番目で最後のポッドが開き始めた。隙間から白い雲がこぼれ始め、サラの足に冷気が染み込んだ。
誰を目覚ませたのか。コックピットから摘み出されて、ここに来るまでの間ジョアナからその相談を受ける事はなかった。サラは無言で煙に包まれたポッドをジョアナとブギーと一緒に見守った。
私の代わりに起こす人を選んでくださり、ありがとうございました。そんな事を言う気持ちにはなれない。これで良かったと胸をなで下ろす事が出来ない。
サラは天井を見上げた。青白い光を宿したポッドが壁や天井にビッシリと埋め尽くされている。蛍の無数の光が宿っている光景を見るのは、これで最後かも知れない。
ジョアナはポッドの中に体を突っ込んで、裸の男の上半身を立ち上がらせた。男の目はグッタリと閉じていて、まだ深い眠りについているようだった。男はアジア人で、顔の彫りは深くなく、平べったい顔面だった。
この男は誰なのだろう?裸の男の胸にジョアナの手が優しく触れるのを見て、この男はジョアナの恋人ではないのかと疑った。きっとそうに違いない。何故ならサラの緊張した顔と違って、ジョアナの顔には喜びの表情が浮かんでいた。
ジョアナはさぞかし安心したのだろう。自分と自分の恋人の命は救われた。大事なのは自分の彼氏が救われて、サラが罪を全て背負う事。そう思ってしまった瞬間、サラは膝から床に落ちた。急に吐き気がした。
ジョアナは90人を犠牲にして自分の恋人を目覚ませた。怒りでサラの顔に青白い脈が浮かび上がった。
やっぱりこの船を惑星に方向転換させなければいけない。
ーーーー
ポッドの中で目を閉じている88名のクルーに言い聞かせるように、ブギーはコンテナの中で叫んだ。
「3人目、最後のクルーが目覚めました。これより残り88名の生命維持装置のスイッチを切ります」
まるで汽車が出発する合図だった。88名のクルー、そしてサラもジョアナもアジアの男も返事をせずに、汽車が動き出すのを待っている。誰も反対をしない。
ジョアナは背を丸めて下を向いている。何を考えているのだろうか。私は下なんかを向けない。私にはこれからやるべき事がある。私が主導権をこれから握らなければいけない。背中を押されるようにサラはブギーの方に歩いた。
「待って。私がやる。私にスイッチを押させて」
モニターの前のキーボードを叩くブギーの指が止まった。ブギーの上げた顔は青白いコンピューターの光に照らされていた。隣にいたジョアナの視線も感じた。何かを言おうとして口が動くのが見えたけども、結局は何も言わなかった。
「それはお勧めは出来ません、サラさん。精神的負荷が大きすぎます。得策ではありません」
サラはこのメンバーの中で背が一番低く、若かった。だけどもこの瞬間だけ、自分が誰よりも大きく感じた。こんなに自信を持ったことは生まれて初めてだった。装置のボタンを押せば、私がクルーを殺したことになる。私はこのボタンを押す事で以前の私と決別する。私はこの重みを背負って必ずこの船を惑星に行かせる。
これは儀式だ。新しい人生を歩み始める決意。背筋を伸ばして兵隊のようにブギーがいる所に歩いた。
「サラさん、おやめ下さい」
ブギーが手を上げてサラを止めようとした。
「ブギー、このミッションは必ず成功で終わらせるから」
ブギーの目のレンズがサラにフォーカスして微かに動いた。
「あなたもそれを望んでいるんでしょ?」
「私はそのために作られました。しかしこれはー」
「ブギー、やらせなさい」
副隊長が言った。
「この女にやらせるべきよ」
それを聞いたブギーはパソコンの前から退いて、サラが装置の前に立てるスペースを作った。
装置にはボタンはなくて、赤色の鍵が刺さってサラを待っていた。
私は重たい鍵をひねる。
そして命を守る青い光がポッドから一つずつ消えていく。その度にゴボゴボと液体の泡が鳴り響く。部屋中のポッドの光が次々と薄くなり、泡が活発に騒いでいた。
「ウグッ」
副隊長は口を押さえて、そこから出て来る液体を止めようとしていた。そして男を引っ張ってコンテナから出て行った。
サラは装置の前で敬礼をして、彼らの最後の音を聞き届けたかった。サラはまるで音楽家たちに囲まれる指揮者のようにその場から動かなかった。目からは涙がこぼれ落ちた。
処刑と葬式が終わり、コールドスリープコンテナから光が全て消えて暗闇に包まれた。
「きっとミッションは成功します」
最後にブギーが言った。
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