速度

犬井作

ロング・セパレーション

 あまりにも足が重たかった。なんども立ち止まりそうになった。けれど、俺は歩いていなければならない。彼女に、追いつかなくてはいけないのだ。それまでは、死に至る速度を回避しなければいけない。

 いつの間にか首から力が抜けている。視界は干し煉瓦の赤茶色に占められている。ふうっ、と息を吐いてまた一歩、遅延する時間に抗って先に進む。背中に力が入ったおかげで、自然と顔が上がった。

 正面に真っ白な光が塊となって聳えている。それは太陽を模した異界への門だ。宇宙の暗黒を背景に、無数の輝ける円環が連なっている。小さな未完成の円を、より大きな未完成の円が取り囲む。相似形が連続し、頭上の暗黒にも噛み付こうとしている。まばゆい輝きだった。光輪は気づいていないだけで、とうに宇宙を呑み込んでいるのかもしれない。

 それらはかつて、点のように見えていた星々の光だ。加速された回転によって、軌跡が滑らかな曲線を描いている。

 俺はそこへと続く一本道、宇宙を横切り母星から太陽へと伸びた煉瓦道を、ひたすらに突き進んでいる。もはや始まりがいつだったか思い出せない。極限に分割されていく時間の中ではもはやそういった観念など不要だろう。無限大の時間に放り込まれた俺はいまや永遠に生きている。彼女にたどり着くまで、歩き続けなくてはならない。

 左手の段差になった道の縁の先で、眼下に懐かしい母星の雲海が広がっている。道の始まりが垣間見えた。あそこに立ったときは、こんなことになるとは想像もつかなかった。あの時俺のとなりには彼女がいて、道中をどう楽しむか話し合いながら、長い旅路を歩みはじめた。

「わたしたちはこの地を離れ、いずれ天上に至る。その先になにがあるのかしら」

 彼女は寄せては返す夜の海を見つめて、まだ見ぬ星を想っている。俺がまだ愛に疑いを挟まなかった遙かなる過去のこと、その光景が実態を伴って眼前に現れた。彼女は星を愛していた。夜になると、海に行くことを求めた。彼女は浜辺に寝転んで、砂に肌を汚されるのも構わず、ここではない彼方ばかり見つめていた。

 時乱だ――俺たちを離れ離れにしたあの大爆発の影響が、こんなところにもあるなんて。

 あの頃はまだ、星は単なる輝点にすぎなかった。こちらに至るまでに減速を強いられた光は、白夜の日のように淡くこの道を照らしている。あの円環を描かんとする星の光は、当時と変わらない――こちらが遅延し、あちらが加速していることを除いて。

 俺の背後にはきっと長い影が伸びている。どこまでも続く不吉な影が、加速する俺に追いつかず、不連続に俺を模しているだろう。それとも時間の遅延に関係なく、影はいまこの俺を真似ているだろうか? 考えても答えは出ない。時間というのは依然神秘で、俺の肉体がどうして未だ稼働する理由と同様、正体不明のままだ。

 振り向けば事実の一端は確認できるだろう。時間がどれほど遅延しているのか、俺が遅延に抗っているつもりで抗えていないのか、多くのことがわかるはずだ。しかし俺は彼女がそうしたように、いちども振り向いたりしなかった。

 孤独を突きつけられることを怖れていたから、かもしれない。心の中は焦燥感でいっぱいで、真っ直ぐな感情に衝き動かされていた。前だけを向いて、歩き続ける。それでもときおり、わざと敷き詰められたレンガに視線を落とした。行けども行けども影一つ見せない、振り向かなかった彼女の残影を求めて。

「俺を見ろよ」

「あなたはわたしの中にいるから、わたしはあなたを見なくていいの」

「お前の眼が見たいんだ」

「しょうがない人ね」

 どうしてあのとき、彼女は振り向かなかったのだろう。俺のそばにいてくれたあのころから、肩に回した腕は、心には届いていなかったのかもしれない。そう思うことがある。俺がひたすら向けていた愛など、星の光の素早さに比べればなんと鈍重だったろうか。

 茶色い瞳が月明かりに照らされて青ざめている。上下するむき出しの肩は、夜を忘れたような淡い白光に包まれている。右の頬が引きつったような、左右非対称の笑みを浮かべて唇が動く。

「――――」

 俺は、あのときの彼女の言葉をなぞろうとした。だが無理だった。あのとき俺の耳には何も届かなかった。待っていてくれと俺は叫んだ。俺の唇は動いてくれただろうか。それとも、――ふと、彼女の顔を思い出せなくなっていることに気づいた。

 すべてはあのときから始まった。予兆もなく襲いかかった津波に、彼女だけが押し流されたときから。

 なんの前触れもなかった。突如体内で発生した乱気流が、こらえがたい吐き気を引き起こした。視界の端でふわりと彼女が宙に浮かんだことに気づいて、必死に手を伸ばした。俺の腕は、俺の意識ではすでに手を伸ばしきった感覚があったのに、ひどく緩慢に動いた。対して彼女は、ぽーんとボールが放られたように勢いよく飛んでいった。

 二人の間に流れていた時間が、――比喩ではなく字義通り――塊となって押し寄せた時間に押し流されたのだとすぐきづいた。

 俺たちは、時間という次元が構成する海の中で生きている。平時には空間を流れる時間は一定だ。しかし、時間というものが海のようなものである以上、言うなれば時間津波というやつも存在する。――この一本道に到着して真っ先に、直感的に知っていたことの一つだ。

 はじめは呼吸することを疑わないように、疑いもせず認識していた。だがそれを見に覚えのない観念だと気づいた段階で、俺はそれを客体化してしまった。だから全身が真実だと叫んでも、理性は疑ってしまった。対策を立てる間もなかった。

 被害にあってからはつべこべ言ってられなくなった。理性を本能が抑え込んだおかげでもあっただろう。俺は開き直って、魚が泳ぐ己を疑わぬように不可視の波に乗って加速し、遠ざかる彼女の背中を追った。

 おそろしい速度で移動する時間に押し流される空間に潜り込んだおかげで、俺はジェット機よりも早く空間を移動できた。みるみるうちに彼女の背中が近づいた。手を伸ばせば届く距離にまで至った。俺は彼女に近づいたり、遠ざかったり――必死な抵抗を繰り返した。

 だが、そこが限界だった。時間が乱雑に流れていると、時として空間も乱れる。ある時突然、影がぐっと近づいた。思わず体がこわばった。突っ込むべきだった。すぐに後悔が襲ってきたが遅すぎた。ばん、と全身が衝撃を受けた。俺は永劫にも思える浮遊ののち、正常な時間の進行を奪われた煉瓦に身体を打ち付けられた。

 やっとのことで顔を上げると、彼女は見えなくなっていた。

 俺はいま、体内で形成される時間のおかげで生きている――進行し続けられている、のだと思う。それしか考えられない。空間に生きている俺たちは原子の振動を基準とする時間に生きているが、意識活動は心臓の鼓動を基準にしている。二重の時間の重なりの中俺たちは生きている。どちらが下なのか議論が分かれるところだが、少なくとも俺は、肉体の時間を前提にしていた。時折不規則に、けどほぼ一定周期で胸を内側から殴りつける心臓が俺の自律時計で、それは俺の外部の空間が歩む時間の速度に一致していない。外部の時間との齟齬のおかげで、俺はまだかつての時間の中生きている。

 けれど抗うことをやめれば、とっくの昔に遅延に巻き込まれていただろう。そうなっていないのは、ずっと、俺が歩いてきたからだ。

 問いただしたかった。どうして俺が手を伸ばしたとき、振り向かなかったのか。

 俺と彼女は長い間一緒にいた。俺の生は彼女のためにあった。最終目的地の光の塊まで連れ添うと、二度目の誓いを立てたときはまだ、二人に愛があったはずだ。

 一度目の誓いは、まだ彼女と海に行く前のこと。あのとき愛は、互いの人生を薪にして燃え盛っていた。あのとき俺はこう呟いたはずだ。――

「生きているのかな、俺は」

 式は終わり、俺たちは二人でバルコニーの椅子に腰掛けていた。背後の喧騒はとうに盛りを過ぎている。疑問に思うくらい、穏やかに時間が流れる刹那が連続していた。

「死んでいるかも」

「不吉だな」

「そうかな……」

「まるでいなくなるみたいじゃないか」

「いつかはいなくなるものよ。人も、ものも、……いずれこの地球も、終わりがくる」

「そのころには俺たち生きてないだろ」

「どうかしら」

 いつのまにか、時間の緩慢な減速に抗うことも、難しくなっている。……時乱の中で、俺は甘い夢を見てる。

「死ぬんだよ、百年ちょっとで」

「死んだとして、どうなるか、あなた知ってるの……」

「知るもんか。知ったこっちゃない」

「あの星たちは、多くの死を見届けてきた。新たな星々の誕生も見てきたでしょうね。この地球もそう。けれどだれも、死後を知らない」

「当たり前だろ」

「わからないなら、どうして、生きていることが死んでいることと異なると言えるの」

「だってお前、そりゃ」

「生きている間に過ごす時間があったとして、じゃ死んだあとに過ごす時間だって、あるかもしれないわ」

「そう、だな。そうかも、しれないな」

 彼女は正しかった。生前があるように死後もあった。忘却に塗り消された死の瞬間、俺はこの煉瓦道の開始点に立っていた。あっけにとられる俺の前で、待ち受けていた彼女は微笑んだ。

「死後にも終わりがあるのかな……」

 やっとの事で絞り出した言葉はそんな退屈なもので、そう尋ねた俺を、きょとんとした様子で見つめた彼女は、ただひとこと、わからないと呟いた。

 それから二人で歩きはじめた。時折立ち止まり、煉瓦道の縁に腰かけ足を虚空に投げ出して、寄り添いあったこともある。眼下の雲を指さして形に名前を付けて遊んだし、お互いの体に触れあって、その熱を愛おしいとささやき、睦みあうこともあった。けれどその頃にはもう彼女は遠かった。

 あの頃から、彼女は振り向かなかった。

 自分のなにが悪かったのだろう、と振り返る。考えながらも、こうも思う。今の思考法で失敗したのだから、思考法を変えない限り気づくことなんてないんじゃないか。内部にいる人間は自分を規定する輪郭を客観視できない。

「引き返そうか」

 三度目だった。俺は、彼女に離れていってほしくなかった。彼女との時間を大切にしたかったのだ。

 けれど彼女は、そのとき不機嫌そうに言い返した。

「あなたは一度だって、立ち止まったり、引き返したことがないくせに――」

 あのとき彼方を見つめていた彼女が、俺を見据えて言い放った。

 これが時乱の見せる錯覚であると解っていながら、その芳香すら放つ彼女は間違いなくここに実在している。

「俺は、君と一緒にいたい」

「あなたの速度は常に一定で、休まることなんてしらないのに」

 彼女が振り向かなかった答えは、これだった。

「俺が悪かった」

「本当にそう思ってる?」

「ああ。手をつないで、一緒に歩くことだけが一緒にいる方法じゃない。同じ時間を共有するだけじゃない。この一瞬を、永遠だと見つける――君はそういう愛もあると、知っていたんだね」

 彼女は満足げに笑った。思わず涙がこぼれて、彼女への愛しさで心が全てになった。

「やっと、追いついた」

 重たくなった足が、ついに歩みを止めた。あっけなく、俺は静止した。静止しているように思えるほど緩慢に遅延した。

 そして刹那か永遠が過ぎ、彼方の星々が円環を完成させた後、背後から足音が近づいてきた。

 彼女は隣で立ち止まり、ため息混じりに俺に肩を寄せた。触れた柔らかさとぬくもりと、彼女の芳香、すべてが極微のなか永遠に変わっていく。

 ようやく、二人の速度が一致した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

速度 犬井作 @TsukuruInui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ