第9話  あなたに帰りたい



「皆様、二日間、大変お疲れ様でございました。またとない秋晴れに恵まれ、僅かなお時間ではありましたが、皆様とご一緒できた御縁を運転手共々心から喜んでおります。またの機会がありますことを願いまして、感謝の言葉に代えさせて頂きます、ありがとうございました」


よく通る綺麗な声でバスガイドがそう締めくくり、バスは出発した時と同じ駐車場に入った。

時間は午後6時半を少し回り、あたりはすっかり暗くなっている。

朱音はバスが止まるなり真っ先に降りて、バスを降りてくる乗客の為に懐中電灯で足元を照らしながら、一人一人に丁寧に 『お疲れ様でした』 の声掛けをする。

最後の一人までちゃんと見送ってこそ、この旅は完全となるのだ。


賢島遊覧と伊勢神宮観光は、何一つトラブルも無く、無事に終えた。

スペイン村観光においては、二名の迷子者が出たが、三十分程度の捜索で無事保護でき、大事には至らなかった。

その後は、怪我や事故などのトラブルも無く、全員揃って夕方には伊勢を出発してようやくこの駐車場まで戻ってきたのだ。

バスを降りてくる乗客たちは、朱音に対して口々に御礼と感謝の言葉を述べてくれる。

添乗員にとって、この瞬間が何よりも嬉しい。

荷物の間違いがない様に、忘れ物がない様に、細心の注意を払いながら、ぞろぞろと駐車場を後にする人々を薫子と共に見送る。

そして、最後に田島と片岡が残った。


「田島さん、片岡さん、二日間お疲れ様でした。そしてご協力本当にありがとうございました」

朱音は、背の高い二人を前にして深々と頭を下げた。

「こちらこそ、素晴らしい社員旅行になりました。すべてはK.Kトラベルさんのご尽力のお陰です。あらためて、社員一同を代表して御礼を言わせて下さい、ありがとうございました」

田島はそう言うと、朱音と薫子に握手を求めた。

この旅行中のさまざまな想いを抱きしめながら、朱音はニッコリと微笑んでしなやかな彼の手をしっかりと握った。

これが彼の手に触れる最後の機会なのかもしれない。

朱音の手を握った田島は、一瞬その目差しを朱音の笑顔に留めた。

だが、暗がりの中で彼の表情までは、読み取ることは出来ずに朱音は思わず目を凝らした。

すると、片岡が陽気に口を開いた。

「どうでしょう、今回の成功を祝って、この前の様に四人で食事をするというのは?」

四人で食事……片岡の提案は、ある意味朱音に光をもたらした。

この二日間、徹底的に避けられていたかのような田島の態度に、朱音はもう一度ちゃんと話をしたいという旨を伝えられずにいたのだ。

四人であっても、一緒に過ごす時間があれば、きっと伝えるチャンスはあるはずだから。

朱音は片岡の提案に飛びつくようなことは避けながらも、控えめに賛成であることを伝えようとした時、……意外にも、薫子が反対を唱えた。


「片岡さん、残念!四人は、無理なの。朱音は、これから社に戻って上司に報告しなくちゃいけないのよ、彼女は今回の責任者だから。もちろん、私はその必要はないからお付き合いできるんだけど……どうかしら?」

朱音は目の前でスラスラと嘘をついた薫子に目を丸くした。

上司への報告など……今日はする必要がない。基本、旅行最終日の添乗員はその拘束時間の長さを考えれば、直帰するのが常識である。

せっかくのチャンスを潰しにかかった薫子の真意を推し量れずに、朱音は眉をひそめた。

「申し訳ないんですが、僕も今夜はこれで失礼しても構いませんか?」

今度は、田島がそう言った。

「え?おまえも帰るのか?」

片岡がちょっと不満そうに田島を見やると、薫子がすかさず

「片岡さん、四人でっていうのはまたの機会にするとして……今日のところは私と食事に行きません?そうしましょうよ!」

「どうも、そういうことになりますね。いや、逆に誘って貰えて光栄だな!」

片岡は肩をすくめながらも、まんざらでもなさそうに笑った。


田島が断るだろうと予想出来たのか、それともたまたまの偶然なのか……薫子のとっさの嘘は、結果、田島と朱音を二人残すことになった。

観光バスを見送り、薫子と片岡を見送ると、広い駐車場に本当に二人きりになった。


「では、……僕もこれで失礼します」

いざとなると、何をどう切り出していいかもわからなくなっていた朱音に、田島はそう告げて、軽い会釈と共に背を向けた。

大股で、ゆっくり歩き出した彼の背中に、朱音は軽いパニックに陥った。

……優が行ってしまう!


「……あ、あの!田島さん!」

朱音は胸の前で拳を握りながら、わずかにかすれた声で田島を呼びとめた。

ややあってから、田島は身体半分、振り返った。

「なんですか?」

「あの、田島さんに……折り入って……」

声が喉につかえて、言葉が上手く出てこない。情けなくて嫌になる。

田島は珍しく戸惑ったように口籠る朱音に、不思議そうに眉を上げながらこちらへ二歩詰めた。

「折り入って、何ですか?」

朱音はすぐ目の前まで戻ってくれた彼を見上げて、ごくりと唾を飲み込んだ。

「これは……あくまでも私の個人的なお願いなんですが……一度、お時間を作って頂けませんか?」

「僕が、時間を作るんですか?……何の為にですか?」

「それは、……あの、折り入ってお話したいことがあるんです。駄目……でしょうか?」

朱音は自分の不甲斐なさを叱りつけながらも、ようやくそう聞けた。

田島はいつになく消極的な言葉を並べる朱音をおかしそうに見つめ、かすかに微笑んだ。

「ここまでお世話になった神田さんのお願いを断ることなんて、僕には出来ませんよ。でも、何のお話ですか?こうして旅行も無事に終わって……まだ何か話し合うことが残っていますか?」

朱音は、最後まで仕事上の態度を崩そうとしない田島に、だんだんと苛立ちを覚えた。

「ですから、お話というのは旅行のことでも、打ち合わせでもなくって……極めて個人的なことなんです。むしろ、旅行が終わるのを待っていたというか……すべてが終わるまではお話し出来なかった、というか……」

田島は朱音の言葉に耳を傾けながら、腕を組んで皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「極めて個人的なこと……随分と、意味深長な言葉ですね?これまでのビジネスライクを貫いてきたあなたの言葉とは思えないな。でも、だからこそ、興味はそそられますがね」

真剣味を感じさせないその態度が、益々朱音を苛立たせた。

「私を……責めているんですか?それとも、面白がっているんですか?」

「とんでもない!むしろ、驚いているんですよ。どういった心境の変化かと」

朱音は、なんとも言えないもどかしさに唇を噛んだ。

「個人的だというそのお話が、どういった内容かはわかりませんが、今ここで聞かせて貰うわけにはいきませんか?別に時間を作らなければならないほどの事ですか?」

今ここで…… 朱音は突然感情が高ぶって、泣き出しそうになる。

そんな、簡単なことじゃない!一大決心をして、彼に伝えようとしていることは、そんな世間話のように話せるようなことではないのだ。

だがその心中とは裏腹に、朱音の口からはなぜか乾いた笑い声が漏れた。

田島は訝しげに目を細める。

「そうですね、わざわざ私の個人的な話に時間を割いて貰えるほど、田島さんは暇な方ではありませんでしたね?ごめんなさい、忘れていました」

朱音は、少し睨むように、挑むように田島を見つめた。

田島はそんな朱音を黙って見つめた後、どうかしているとでも言うように溜息をついた。


「もう、こんなことは、やめましょう」

それが最終的に彼の口から出てきた言葉だった。

「こんなこと……?」

朱音の問いかけに、田島の目差しは初めて真剣味を帯びた。

「この旅行中に、あなたと美夜は個人的に会っていましたよね?二次会への移動中に見かけました。彼女から何を吹き込まれたのかは知りませんが……大体の想像はつきます。彼女は良い意味で単純でわかり易い優しさをもった娘なのでね、僕のことをひどく心配していたでしょう?」

そう言った田島の顔には、例の冷ややかな笑みが広がった。

「でも、彼女の大きな勘違いもあるんですよ。なぜか、彼女は僕が昔からあなたを想い続けていると、勝手に解釈してるんです。昔、ちょっと憧れていたことがあると口を滑らせたばっかりにね」

朱音は、彼が何を言わんとしているのかを読み取ろうと必死に頭を働かせた。

「美夜は、こう言いませんでしたか?彼を救って欲しいと?いや、彼の気持ちに応えてあげて下さい、かな?……どちらも的外れもいいところですがね」

田島の苛立ちと怒りを含んだ言葉に、朱音はまるで頬を引っ叩かれたかのようなショックを受けた。


確かに、彼の予想と朱音が考えていた事は、当たっている。

美夜が私に求めたのは、田島の気持ちに応えてあげて欲しいということだったと思う。

彼の辛そうな顔は見たくないから、彼を救ってあげて欲しい、とも言っていた。

そして、それら全てが美夜の大きな勘違いだろうという私の考えも、たった今、田島本人が認めてくれた。

だが、決定的に間違っていることがある。


「田島さんは、私が内山さんに何かを頼まれたと思っているんですか?例えば、内山さんから聞かされたことに私が責任を感じている、と?だから、こうしてあなたを引きとめたと?」

朱音の問いかけに、田島は皮肉っぽい笑みを浮かべたまま眉を上げた。

「違うんですか?僕は、……同情されたんじゃないんですか?」

朱音は、彼の顔に張り付いている憎たらしい笑みを、手の平で擦って消し去ってしまいたい衝動と闘いながら、両手をギュッと握りしめた。

「同情なんて、間違ってもしません!内山さんに何かを頼まれたわけでもないですしね。ただ、彼女と会ってあなたの話をしたのは否定しません。彼女があなたをとても好きで、とても心配していたことも、本当です。でも……だからといって、同情なんてするわけないでしょう?」

「じゃぁ、何ですか?他にあなたが個人的に僕に話すことなんてあるのかな?」

徐々に辛辣さを増していく田島の声音に、朱音は溜息を漏らした。

「田島さん……」

「そういえば、例の歳の離れた彼は元気ですか?それとも、もう飽きたとか?ひょっとして、僕が再び恋人候補に格上げされた、という話ですか?」

朱音は怒りと、哀しさとで、瞼の奥に溜まっていく涙を抑え込むのに必死だった。

やはり、これ以上彼と話をするのは無理なのかもしれない、と絶望的に思う。


「田島さん、そんなに私が嫌いですか?まともに話も出来ないほど……私が憎いですか?」

朱音のかすれた絞り出すような問いかけは、田島の表情を凍りつかせた。

「そうならば、そう言って下さい。もう、顔も見たくないと、旅行が済んでせいせいしていると……私のような女は許せないと……。旅行中もずっと私を避けていたのは、だからでしょう?」

朱音は、そう訴えながらも、自分の放った言葉が実は、自分の胸をえぐるように突き刺さっていることに思わず胃のあたりを両腕で抱きしめた。

だが、予想外に顔を苦痛に歪めたのは田島だった。

そのとても辛そうな表情に、朱音は息を呑んだ。

あの時、自分が優に別れを告げた時の彼がそこに重なった。

だが、田島はすぐさま表情を消し去る様に瞼を閉じ、深い溜息をつく。


「……どこまでも残酷な女性だ、あなたは。いいですよ、わかりました。時間を作ります」

そう言って朱音を見た彼の瞳は哀しげで、虚ろだった。

「今日は、会社へ帰るのでしたね?では、必ずあなたから連絡を下さい。僕からはしません。あなたがいいと思う日に電話して下さい。それで、いいですか?」

喉元まで出た“今日は帰社しません”という言葉を呑み込んで、朱音はコクリと頷いた。

このまま流れに任せて、ここで話してしまえばよかったのかもしれなかったが……もう一度だけ彼に逢えることを、朱音は選んだ。

田島は、軽く手を上げるとそのまま振り返ることなく、背を向けて歩き出した。

小さくなっていく田島の後姿に、とうとう朱音の瞳から涙が溢れた。

追いかけて、走り寄って、そのしなやかな背中に抱きついてしまいたかった。

すべてをかなぐり捨てて、すべて無かったことにして、時計の針ですら元に戻して、……彼を愛したかった。

朱音はいつの間にか、しゃがみ込んで泣いていた。

優がいれば、優さえそばにいてくれたら……何もいらないと、本気で思う。

こんなに簡単な答えに辿り着くのに、なんと自分は遠回りをしてしまったことか。

『 最後は、良くも悪くも正直であることが一番やで 』 いつかのマスターの言葉が今更ながら心に流れ込んできた。今なら、その意味が痛いほどわかる気がした。

朱音はソロソロと立ち上がり、気を取り直して歩き出した。



それから十日後、朱音はもう何回目になるかわからない田島への電話を苛々と切った。

無事に済んだ旅行を報告書にまとめて提出するのに二日、サブ添乗に駆り出されて更に二日、心を落ち着かせるのに一日、……あれから五日後に朱音は田島の携帯に連絡をした。

だが、田島が電話に出ることは一度もなかった。

日中は忙しいだろうからと、夕方や夜を選んで日に三回は電話を入れたが、一向に繋がらない。出ない、というより電源が切られていた。

私用で会社にまで電話するのは気が引けたから、携帯に電話し続けたが、とうとう朱音は九日目に会社へ電話を入れた。

すると、田島は留守だった。正確には、休暇を取っていると言われた。

いつ頃出社するのかを聞いてみたが、一向に要領を得ない返答に、朱音は不信感を募らせた。

居留守にしては、ひどすぎる。間違いなく、あの時彼は、絶対私から連絡をしてくれと言った。

もし本当に会うのが嫌だったら、あの時言ってくれたはずだ。

自分の知る限り、彼は絶対に卑怯な人間ではない。だとしたら……。

朱音は嫌な予感と妙な不安を抱えて、十二日目に営業と称してとうとうR製薬を訪れた。

拭いきれなかった漠然とした不安は、受付の美夜の顔を見るなり、的中していたことを悟った。


「神田さん……」

突然、目の前に現れた朱音に、美夜はあからさまに顔をこわばらせた。

「こんにちは、その節は色々とありがとうございました」

出来るだけにこやかに微笑んだつもりが、美夜の様子につられてぎこちなくなる。

「今日は、……どのような御用件でしょうか?」

「はい、田島さんに御目にかかりたいのですが」

「田島……ですか……」

そう呟いた美夜の動きは、完全に止まった。

「内山さん……田島さん、どうかされたんですか?私から連絡を差上げる約束だったんですが、一向につかまらないんです」

朱音の問いかけに、美夜は手元に目線を落としたまま何かを決めかねる様に口を固く結んでいる。

「内山さん!どういうことなのか、教えて下さい」

朱音は思わず受付のデスクに手を掛けて、詰め寄った。

美夜が黙れば黙るほど、嫌な予感は膨らみ続ける。

長く感じた沈黙の後、美夜はようやく顔を上げて朱音を食い入るように見つめた。

そして、とんでもない一言を告げた。

「田島さんは……彼は、今……病院に入院しています」


どこをどうやって病院まで辿り着いたのか、ほとんど覚えていなかった。

美夜にとんでもない事実を告げられ、ショックのあまり朱音は気を失いかけた。

事故……?病気……?優をどんな事体が襲ったのだろう……?

だが、美夜は冷静にそれまでの経過と状況を教えてくれた。

つまりは、こういうことだった。旅行が無事に済み、朱音と最後に駐車場で別れた四日後、田島は吐血して倒れたのだという。急性胃潰瘍だった。

ここ暫くのトラブル続きと、過剰なストレス、極度の疲労や睡眠不足、すべての条件が彼の身体を急激に弱らせた結果、胃に大きな穴を開けることになった。


「305……305……田島……優……田島……」

朱音はうわ言のように美夜に教えられた病室の番号を呟きながら、市内の総合病院の長い廊下を彷徨った。

ようやく目的の部屋を見つけると、今度はドア前で足がすくんで動けなくなった。

美夜は言った。『絶対に神田さんには知らせるな』と、彼は念を押すように告げたと。

その田島の様子から、二人は上手くいかなかったのだと思った美夜は、黙っていたのだと。


「何のために田島さんに会いに行くのですか?会って、どうするつもりですか?今、彼に少しでもダメージを与えることになるのなら、私は口が裂けても教えませんから!」

美夜はそう言って朱音に詰め寄った。

「彼と……約束したんです。絶対に、私から電話するって!もう一度……二人で会うって……」

おそらくそれは、美夜が初めて目にする朱音の弱々しい姿だった。

いつでも冷静で穏やかな微笑みを浮かべている印象を朱音に抱いていた美夜は、目を見張った。

そこに彼女の本心を初めて見た気がした。

今にも泣き出しそうな青ざめた顔の彼女は、間違いなく田島を愛しているのだと、美夜は確信した。

それが、彼女の真実ならば、自分が田島の居場所を教えない理由はない。

美夜は手元のメモ用紙に、病院の名前と病棟と部屋番号を書いて、朱音に差し出した。

「すぐに、行ってあげて下さい。そして、今度こそ彼を救ってあげて下さい……」


彼を救う……。

私が、優を救える?彼の気持ちを何度も踏みにじり、傷つけたこの私が?

朱音は病室の前で金縛りにでもあったかのように立ち尽くし、唇を噛んだ。

胃に穴があいて吐血するなんて……彼はどれだけの重圧を背負っていたのだろうか?

その負担の中の一つに私の存在も入っていたのだとしたら……私は、絶対に彼に会うべきではない。

でも……でも……約束したのだ。……私から連絡すると。……二人で会うと。

朱音は無理矢理、理由を並べたて、ドアのレバーに手を掛けた。

そっと、少しずつ、ドアを横にスライドさせて、顔を覗かせた。

そこは小さめだが、落ち着いたブラウンで統一された個室だった。


「……こん……にちは……」

囁くような声でそう言って部屋の中を覗くと、窓際のベッドに田島は寝ていた。

身動きひとつしないところをみると、どうやら眠っているようだ。

朱音は物音をたてないように細心の注意を払いながら、ベッドに近づいた。

ようやく彼の顔が見れて、朱音は息を呑んだ。

あの駐車場で別れた時よりも、更にやつれているような気がした。青ざめた顔に、音も無く落ち続ける点滴が痛々しかった。

眠っているというのに、眉間には僅かにしわが刻まれたままだ。

いつもはきちんと撫でつけられている髪も、今は昔のようにサラサラで、額にかかっている。

朱音は必死に涙を堪えながら、そっと額の髪をかき分けてあげた。

代われるものなら代わってあげたい。救えるものなら救ってあげたい。こんな自分でも、その力が有るのなら、どんなことでもする。

朱音はベッド脇の椅子に崩れる様に座り、どうしようもなく溢れてくる涙を指先で払いながら、祈るように彼の寝顔を見つめた。


朱音が座って五分もしないうちに、田島はぼんやりと目を覚ました。

すぐそばに居るのが一瞬誰かわからなかったようで、目を細めて凝らすように朱音を見た。

「……朱音……?」

なぜ、彼がそう呼んだのかはわからない。おそらく、寝ぼけていたのかもしれない。

再会してから一度も呼んだことのない自分の名前を呼ばれて、朱音は泣き出した。

突然泣き出した朱音に、田島は身体を起こし、点滴をしていない方の手を伸ばして肩に触れた。

「どうしたんですか?……なぜ、泣くんですか?」

「だって……だって……朱音って……」

朱音はそれまでの緊張の糸が切れたように、両手で顔を覆って泣いた。

田島は、辛抱強く何も聞かずに、朱音が泣きやむまで優しく肩をさすってくれていた。


これでは何をしに来たのかわからないと、……朱音がようやく気付いて顔を上げると、田島は限りなく優しい目差しで朱音を見つめていた。

その表情は少しだけ嬉しそうでもあった。


「ご、ごめんなさい……泣いたりして……こんなつもりじゃなかったのに……」

田島は朱音が落ち着きを取り戻したのを確認すると、ベッドに寄りかかって腹の上で手を組んだ。

「美夜に、聞いたんですか?僕が入院したって」

朱音はコクンと頷き、済まなそうな微笑みを浮かべた。

「私が、無理矢理聞き出したんです。何度携帯に電話をしても、田島さんは出なくて……会社に電話しても、休暇を取っているとしか教えて貰えなくて……待ちきれなくて、会社に行ったんです」

田島はおかしそうに口元を歪め、首を傾げた。

「あなたの口からそんな言葉が聞けるなんて、なんだか不思議だな。まるで僕に会いたくて仕方がなかったみたいに聞こえる」

朱音は田島の顔から視線を外し、少し俯いた。

「……会いたかったんです、田島さんに。約束したじゃないですか、私から電話するって。何回も何回も、したんですけど……」

「すみませんでした、倒れた時にとっさに携帯の電源を切ったんです。ちょっと大変だったものですから」

「それも、内山さんに聞きました。吐血……されたんでしょう?それで、少しは良くなったんですか?まだまだ入院しなければいけないんですか?」

「入院は、取りあえず二週間と言われました。あと一週間もしないで退院できるはずです。ただ、胃に開いた穴はすぐには塞がらないそうで、二か月程通院はしなければならないみたいです。まったく、情けない限りで」

自嘲気味に笑った田島に、朱音は反射的に首を振った。

「田島さんのせいじゃないでしょう!」


「あの、田島さんが退院するまで、毎日来てもいいですか?」

朱音が思い切ってそう聞くと、田島は尚更おかしそうに眉を上げた。

「あなたが僕の為に、毎日来てくれるんですか?ここへ?」

「あ……ご迷惑ですか?迷惑なら、やめますけど……」

田島は、やれやれと言うように溜息をついた。

「今回の胃潰瘍が、あなたの言った通り僕のせいではないとして、でも、あなたのせいでもないんですよ?あなたが責任を感じることなんかないし、何の義務も無いんです」

朱音は相変わらずの田島の様子に、眉をひそめた。

「責任なんて、感じていませんし、勿論、義務も、同情だってしていませんから!」

そこまで強く言うと、朱音は困ったような笑みを浮かべた。

「私が、会いたいから、来たいんです。そのついでに、何かお手伝いできることがあれば、言って下さい。買い物でも、洗濯でも、なんでもいいです、何もなければ、お花の水替えでもかまいません。ただ、ここへ来るのは、あくまでも私の意思です」

朱音は何かをふっ切った様に、素直だった。

彼がとっさとはいえ、自分を“朱音”と呼んでくれて、彼の目の前で散々泣いて、これ以上隠すものは何もなくなった気分だった。

そんな真っすぐな朱音の目差しから目を逸らしたのは、田島の方だった。


「やめてください。そんなことを、そんな風に言われると……勘違いしたくなる」

彼はベッドを見つめながら、その頬を引きつらせた。

朱音は、田島の負担を感じ、慌てて身を乗り出して彼の腕に手を掛けた。

「だめ!そんな顔をすると、また身体に障ります。私が来ることが負担になるなら……」

「いや、そうじゃない!そうじゃなくて!」

田島の大きな声に遮られ、朱音は目を丸くした。


「あの日、あなたが言っていた個人的な話って何だったんですか?ちょっと予定は狂ってしまったけれど、今聞かせてもらえますか?」

突然の田島の要求に、朱音は迷った。

心はとうに決まっていたから、話すことには何の迷いもない。

気掛かりなのは、田島の身体のことだけだ。今話すことで、余計な負担になってしまうのではないか……そう思うと気が進まない。


「あの、それは、退院してからにしませんか?こんな体調の時に、あまり込み入った話は良くないんじゃないかと思うんです」

だが、田島は頑なに首を振った。

「今の方が、いいです。何の話だろうと……気を揉む方がよっぽど辛い。もう一つ穴を開けるのはさすがの僕も避けたいのでね」

もう一つ穴を開ける……そう言われてしまうと、それ以上引き延ばす理由がない。

朱音は、覚悟を決めてニッコリと微笑んだ。


「まず、これからする話は、いわば私にとっての懺悔みたいなものです。誰の為でもなく、私の為に、です。だから、内山さんも関係ないですし、田島さん、あなたに対する同情なんかもまったく関係ないです。それを踏まえて聞いて貰えますか?もし、不快になったらいつでも止めて、出て行けと言って下さい」

田島は朱音の真意を推し量ろうと、訝しげに目を細めて腕を組み、朱音は膝の上で手を組んだ。


「まず、私の最大の過ちと懺悔すべきことは……四年前にあなたに別れて欲しいと告げた時にさかのぼります」

朱音の最初の一言に、田島の表情はいきなり凍りついた。

朱音は出来るだけ正直に、慎重に言葉を選びながら続けた。

「若くて、思い上がってて、それでいて世間知らずだった私は……人を好きになることの意味すら理解出来ずに、あなたの精一杯の気持ちをはねつけて、傷つけた。あの頃の私は、自分から愛せなければ愛は成り立たないと、馬鹿げた理屈に凝り固まっていました。もし、今、目の前に同じ勘違いをしている子がいたら、膝詰めで説得したいくらいです。本当に、無知で馬鹿だった」

朱音は自嘲しながら笑ったが、田島は自分の足元一点を見つめ、こちらを見ようとはしなかった。

「その後は、あなたも知っている通り、いろんな人と付き合って別れてを、繰り返した。最後にあなたに告げた言葉を自分に証明したかったんです、たぶん」

朱音は当時の虚ろで空っぽな感情をまざまざと思い出し、顔を歪めた。

「……で、二年もかかって結論に辿り着いて、我の馬鹿さ加減を思い知って、……その日を境に、すべてを封印したんです」


「封印……ですか?」

田島は初めて朱音の方をチラッと見て反応した。

「そう、封印。もう二度と誰も好きにならないって、私みたいな女には人を好きになる資格なんて無い、っていう封印です」

田島は腕を組んだ姿勢で、やはり自分の足元を見つめたまま、ゆっくり口を開いた。

「あなたが二年かかって辿り着いた結論って、何だったんですか?」

それは、この話の最も重要な部分の答えで……さすがの朱音も躊躇した。

だが、今の朱音が一番伝えたい事でもある。

朱音は、レースのカーテンの向こうに見える名古屋の街並みに視線を這わせると、心を決めた。

田島の方を真っすぐに見つめ、膝上の両手を、目一杯握りしめる。


「私は……私は、ずっとあなたが好きだったんです。あなたと恋人同士だった時も、私の勝手で別れた時も、あなたの知らない数々の人と付き合っていた時も……私が好きだったのは、ずっとあなたでした」

「………そんな身勝手な!!そんな馬鹿げたこと!」

田島は燃えるような目で、朱音を責めた。

「あなたは僕の優しさが、重荷だと言った!息が詰まると!もっと強い人がいいと……。そして僕の知らない誰かの腕に抱かれながら、それでも僕が好きだったって!?」

朱音は当然の彼の怒りを、瞬きもせずに真っすぐ受けとめた。

彼が言っていることは何一つ間違ってはいない。

「今更、ごめんなさいを言ってもどうにもならないことですけど……。でも、だから、封印したんです。自分で自分の感情を封印するやり方しか、思い付かなくて……」

「そんなわけは、ないでしょう?」

田島は口元に嘲笑を浮かべ、睨むように朱音を見る。

「あなたには、彼がいるじゃないですか!あの、歳の離れた“大切な人”が。そうですよね?」

そう……確かにマスターは自分にとって、とても大切な人だ。

朱音は、自分の付いた嘘がガラガラと崩れていく音を聞いた気がした。


「あの人は、私の行きつけのバーのマスターです。新入社員の時に先輩に連れて行かれてからの付き合いですから、かれこれ三年になります。兄のように、時には父親のように見守ってくれていて……事情さえわかれば、少々の我儘にも付き合ってくれることもあります。例えば、急に恋人のフリをして欲しいとか……」

そこまで言うと、田島がハッと息を呑むのがわかった。

「何の為に……そんな、嘘を……?」

「たぶん、あの時は、私という存在があなたと内山さんの障害物にならないように……です。それに、私の気持ちがあなたにばれてしまうのを恐れて、かな」

最後は、苦笑いと共に白状した。

「なんて馬鹿な嘘を!!お陰で僕がどれだけ苦労して……」

田島はあきれて天を仰いだ。

「僕と美夜は、結局そうはならなかったんだ。あなたがそのマスターとやらに恋人のフリをして貰ったあの日に、僕は彼女に頭を下げたんだから!」

それは、あの伊勢で美夜から聞いていたことだったが、朱音はそれを口にするのは避けた。

「どうして、僕が彼女に謝らなくてはならなかったか……あなたは知っているはずだ。あのアパートでの夜、確かに僕はあなたに言いましたよね?僕はあなたを放ってはおけない、って。その為に不安要素はすべて取り除くって。信じてくれなかったのですか?」

あの突然の告白は、一語一句覚えている。忘れる筈がない。

でも、信じられるわけもなかった。

朱音は無意識に、首を左右に振っていた。


「だって、そんなことが……有り得る筈ないじゃないでしょう?あなたに憎まれることはあっても、再び好きになって貰えるなんて……そんなこと……絶対に有り得ない」

朱音の頑なな言葉を受けて、田島は束の間沈黙した。

左手で髪をかき上げ、何かを迷うように首を振りながら俯いている。

朱音は、そんな感慨深げな優を見つめながら、これでようやく自分の言うべきことはすべて言い終えたのだ、と思う。

これまでの四年間の空白も、嘘も、すべて告白できたのだから、思い残すことはもうない。

あとは、優が過去の呪縛から解き放たれて、歩き出してくれればいい。

朱音は、ゆっくりと立ち上がり、微笑んだ。


「私のつまらない懺悔は、これでおしまいです。最後まで聞いてくれて、感謝しています。今日のところは、これで帰ります。迷惑でなければ、また明日来ますね」

まるで、たった今までの深刻な懺悔話が無かったかのような明るさをたたえて、朱音は笑った。


「また、ですか?」

暫くの沈黙の後、朱音の明るさとは正反対に、田島はぶっきらぼうにそう聞いた。

「また……?何が、またですか?」

朱音のキョトンとした態度に、田島は苛立たしげに深く溜息を吐いた。

「勝手に懺悔だと言ってアッと驚く暴露話を始めて、自分の気持ちを押し付けて、そして勝手に話を終わらせて……こっちの気持ちはお構いなしだ。これじゃぁ、あの一方的な別れ話の時となんら変わらない!」

突然の彼の剣幕に、朱音は困惑して首を傾げた。

「それとも、僕の気持ちなんかには興味が無いのかな?この四年間、僕にだって気持の流れはあったし、変化だってした」

朱音は信じられないように瞬きをして、再び腰を下ろした。

「興味がないなんて……!聞けなかっただけで……」

「じゃぁ、今度は僕の番、ということで付き合って下さい」

そう言って朱音の方を向いた彼は、暗い微笑みを浮かべた。


「さっき、憎まれることはあっても……って言ったけど、そりゃぁ、憎みもしたし、恨みもしたし、何度あなたを捕まえて思い付くだけの罵詈雑言を浴びせてやろうかとも思いましたよ。こっちはあなたが忘れられずに、のた打ち回っていたというのに……あなたは見かけるたびに違う相手と腕を組んで歩いていたんだから」

そうしてくれたらよかったのに……心の中で朱音は呟いた。

「まぁ、でも、誰彼無く付き合うというのなら、結局は僕も同罪かな。大学を卒業してからこっちは、何かを埋めるかのように女遊びは絶えなかった気がするし」

意外な告白に、朱音は目を丸くした。あの優が手当たり次第女遊びだなんて……。

朱音の胸中を察して、田島は皮肉っぽく笑った。

「意外ですか?でも言ったでしょう?僕は変わったって。もうあの頃の“優”じゃないって」

いや、そういうことではなく、朱音の胸に突如渦巻いたのは激しい嫉妬だった。

彼が、色んな女性を抱いている姿なんか想像したくもない。

勿論、そんなことを言えた立場でもないのはわかっていたが……。

そんな朱音の心中には気付かづ、田島は面白くなさそうに話を続けた。


「でもね、何十人の女性と付き合っても、結局は誰も代りにはなれなかった。あなたの代りには。それがどんなに悔しいことだったか、あなたにはわからないでしょうね」

彼の声には本当に悔しさが滲んでいたのに、朱音は思わず両手で口を覆った。

田島はそんな朱音を見ながら、照れくさそうに、やはり少し悔しそうに、笑った。

「初めてあなたに……朱音に逢ったときから、僕の運命は決まったような気がしたって、僕が言ったこと覚えてる?」

それは優が初めて朱音に告白をしてくれた時の言葉だった。忘れる筈がない。

どうしよう!また、泣き出してしまいそう……朱音は、奥歯を強く噛みしめながら小さく頷いた。

「結局のところ、僕の悪あがきは、朱音と再会した瞬間に、すべて無駄だったと思い知らされた。どんなに冷たくされても、頑なに知らん顔を決め込まれても、僕の気持ちは二度と朱音から動くことはなかった。だから、あなたがそのマスターとやらを“大切な人”だと宣言した時には、自分の気持ちをどう引き離せばいいのかわからずに……頭を抱え絶望に駆られた……」

とうとう朱音の瞳から涙が溢れた。こんな告白を受けて、泣かない人なんていないに決まってる。


「……優……優……優!!」

朱音の口から、心の奥深くに閉じ込めていた懐かしく愛しい名前がこぼれた。

すると、目の前にあの懐かしい笑顔が蘇った。

「やっと、僕の名前を呼んでくれた!」

優が、左腕を朱音の方に伸ばしたのを合図に、朱音は優の胸に飛び込んだ。

泣きながら彼の首にしがみつき、懐かしい香りを胸一杯に吸い込む。

「僕は…僕は…、ずっとこうして朱音を抱きしめたかったんだ。本当に、長い長い遠回りだった……」

左腕だけで朱音を抱きしめ、その髪に顔を埋め、くぐもった声で優はそう囁いた。

もはや朱音には言葉はなかった。優のやつれた頬にそっと触れ、彼の口唇に自分の口唇を重ねた。

ずっと、ずっと、こうしたかったのだ。

触れたくて、抱きしめられたくて、抱きしめたかった世界でたった一人の愛しい人だ。

そして、どんなことがあっても、もう二度と手放すことのない、人なのだ。

そして……二人はまるで離れ離れになっていたパズルのピースの様に、一つに溶け合った。

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