第8話  伊勢旅行にて



【 十月十五,十六日 R製薬様 伊勢社員旅行 担当 神田、サブ 花田 】  


何百回と目にしてきた営業部のホワイトボードの予定表に書かれた文字、これを見るのも今日で最後になるなと思いながら、朱音は最終チェックを済ませて会社を後にした。


いよいよ明日は、旅行当日だ。

この半月、二次会の手配と調整、田島や片岡向けの観光手順マニュアルの作成、もろもろの最終確認に時間を費やしながら、九月後半の連休のサブ添乗や来年の春休み向けのツアー企画の営業もこなしてきた朱音に、息つく暇は無かった。

あの四人での食事会以降、田島とは会うことは無かった。

どうしても確認したいことがあって二回程連絡を入れたが、多忙な彼を捕まえることが出来ず、片岡通しての伝言であったり、社用PCメールでのやり取りであったりと、直接言葉を交わすことも無かった。


アパート近くのお弁当屋で晩御飯を買う。

残業続きでスーパーに寄る時間も無く、ここ一週間お弁当生活である。

母親が知ったらお説教を喰らうなぁと苦笑いしながら、朱音は出来たての温かいお弁当を見つめた。

十月に入って益々朝晩は涼しく、かえって寒いくらいの日がある時にはやたらと人恋しくなる。

この二年半は本当に一人だったから、時々淋しさに負けそうにならないと言えば、嘘になる。

でも……朱音は小さなガラスのテーブルの上の弁当をつつく箸を止めて、ぼんやりした。

一人ではあったが、胸の奥に密かに隠し続けてきた優への想いがある意味支えになっていたのかもしれないな、と今更ながら思った。

だが、あと二日すれば、自分はその支えのすべてを葬り去るのだ。

旅行が無事済んだら、田島にもう一度会って貰う決心を一か月かけて固めてきた。

そして、自分の中の時間を四年半前に戻して、あらためて本当のことを、……当時の気持ちも、今の想いも、後悔も、未練も、恥も外聞もかなぐり捨てて告白するのだ。

そして……今度こそ私は完全に彼を失う。

朱音はまた泣き出した。

この半月、この繰り返しだった。

もういい加減泣くことも飽き飽きだと思うのに、思いがここへ巡るたびにやっぱり泣いてしまう。


最小限の荷物を小さなボストンに詰め込んで、朱音はあらためて明日の旅行を最高のものにしようと心に誓った。

何よりも責任者の田島の手柄になるように、この旅行が彼との最後の楽しい思い出になるように、今までの数少ない経験を駆使して、成功させようと誓った。



集合場所及び出発場所は、R製薬の所有するビル隣の広い駐車場だった。

朱音と薫子は40分前に到着し、バスの運転手やバスガイドと今日のスケジュール確認を済ませて社員たちを待った。

事前に二人で申し合わせたカチッとした濃紺スーツに身を包んだ朱音は、快晴になった抜ける様な青空を満足気に見上げながら、隣で眠たそうに俯きあくびをかみ殺している薫子を、横目で笑った。


「また飲み過ぎたの?今にも眠ってしまいそうよ?」

「飲まないと眠れないのよ、疲れ過ぎてて!このところのあたしの添乗スケジュール知ってるでしょ?労基法違反で組合に訴えてやろうかと思ってるとこよ!」

薫子がまたもやあくびを噛み殺しながら肩をすくめて悪態をついた。

確かに薫子はこの一カ月余り、殆ど会社には居なかった。行楽シーズンでかえって夏休みよりも忙しいくらいだったのだ。

「知ってるわ、でも本気じゃないわよね?」

朱音が眉をひそめると、薫子は吹き出した。

「そんな面倒臭いことあたしが真面目にすると思う?そんなことするくらいなら会社辞めるわよ。朱音こそ大丈夫なの?目の下にクマ出来てるわよ。添乗サブだけじゃなくて営業もしてたんでしょ?」

「うそ!?そんなにひどい?コンシーラー使ったんだけど……」

薫子があらためて朱音の顔を覗き込んだ時に、……田島と片岡がやってきた。


「神田さん、花田さん、おはようございます」

その田島の声に飛び上がらんばかりに反応して、朱音は背筋をしゃんと伸ばした。

「おはようございます、本日はよろしくお願い致します」

「こちらこそ、お世話になります」

そう言って僅かに微笑んだ田島の顔を見て、朱音は内心ひどく驚いた。

一か月ぶりに見る彼は、まるで別人のようにやつれていた。

小麦色に焼けていた頬は僅かに落ち、自信にみなぎっていたその目は光を失くしているかのようだった。眉間には深いしわが刻まれたままで、一気に十歳程年老いたみたいだ。

こんな深刻な彼は今だかつて見たことが無い。


「秋晴れで、良かったですね。旅行日和だ」

呆気にとられていた朱音に、片岡がニッコリ笑いかけた。

「え?あ、えぇ、本当に良かったです。明日もこのお天気は続くみたいです」

朱音は慌てて笑い返した。

薫子はさっきまでの様子とは一変して、得意の営業スマイルで田島と話し始めた。

朱音は片岡に今日の走行ルートの説明をしながらも、田島の横顔に目がいってしまうのを止められなかった。

……いったい、彼に何があったのだろうか?


こういう旅行には有りがちな遅刻者も無く、時間通りにバスは出発した。

1号車には朱音が乗り込み、2号車に田島、片岡、3号車薫子、となった。

市内を抜け、東名阪国道へと向かう。

車中はゆったりとした豪華な造りになっていて、バスガイドの丁寧な案内を聞きながら社員達は銘々にくつろぎ始めていた。


初日はまず、なばなの里へ向かいコスモス祭りを見学して、ビール園のバーべキューでゆっくりと昼食を楽しんでもらうコースだった。

観光のメインは明日なので、今日は比較的ゆっくりとしたペースで詰め込んだ観光は避けた。

なばなの里の後は、伊勢自動車道へ入り亀山で少し長めの休憩と、プチ観光を用意していた。

亀山という地名は “ 亀山ローソク ” で有名だが、実際にはなかなか趣のある古い歴史ある街並みだ。

小さな美術館から、歴史資料館などがあり散策するには良い街である。


総勢百十名の団体旅行は、常に先回りできる段取りを組むことが何よりも大切で、その為の田島が提案してくれた事前アンケートはとても役に立った。

観光においての各施設希望人数が分かっていたから、入場券の手配ひとつをとっても待たせることなく楽に運べた。


薫子と手分けしながら、すべてに目を行き届かせていた朱音だったが、意識の隅で絶えず田島を探し、目で追っていた。

彼は、この旅行をいち社員として楽しむというより、むしろ朱音達に負けないくらいホスト役に徹していた。

にこやかに対応してはいたが、それがけっして心から笑っているのでないのは遠目に見てもわかった。


なばなの里での昼食後の自由時間に、朱音はようやく田島を捕まえられた。

「田島さん、コーヒーでもいかがですか?」

紙コップの温かいコーヒー二つを手に、一人でベンチに座っていた田島に一つを差し出しながら微笑んだ。

田島は一瞬躊躇らしき表情を浮かべて朱音を見つめたが、黙って紙コップを受け取った。

「あまり、頑張り過ぎないで下さいね?田島さんに頑張られちゃうと私たち添乗員の顔丸潰れですから!」

横に腰を下ろしながら、朱音は軽い調子を心掛けてそう笑った。

「それは、いけませんね。あなた方の顔を潰しているなんて……」

そう答える田島の声は虚ろだった。

「ここまで完璧な準備をされてきたんですから、後は私たちに任せて、田島さんにも旅行を楽しんで頂けると……嬉しいんですけどね」

だが、そう言って努めて明るく笑う朱音を、田島は無表情な目差しで一瞥してから

「コーヒー、ごちそうさまでした」

そう言って、いきなり立ち上がると、振り向くこと無く立ち去ってしまった。

そのあまりの呆気なさに、朱音はポカンと田島の遠ざかる背中を見つめた。


これでは話も何もあったものじゃない。

たしかに、前回の別れ方は決して友好的でも穏やかでもなかった。

口唇を奪われた上に、罵詈雑言を浴びせられたのは自分の方で……とても忘れられるような夜ではなかったが、あえてそこはしまい込んで、こっちから声を掛けたというのに。

完全に肩透かしを喰らった気分で、朱音は溜息をついた。

せっかくの最後の思い出なのに……。


二時半頃亀山に到着し、希望者に各施設の入場券を配り、集合時間を告げたのち解散した。

朱音と薫子は、二手に分かれてトラブルなどが無いかを各施設や街中を流して歩いた。

さっきの田島の態度から受けたショックの後遺症と闘いながら歩いていると、美術館から出てきた美夜に遭遇した。


「……神田さん!」

一緒に居たグループに何かを声掛けして、朱音の方へ走り寄って来る。

朱音はにこやかな笑みをたたえ、軽く会釈した。

「内山さん、美術館はどうでしたか?楽しんで頂けてます?」

「はい、お陰さまで。私、亀山は初めてなんですが、こんな趣のある街だなんて知りませんでした」

「それは良かったです。最近では、新しい高速道路も開通したので関西方面からも結構観光に訪れる人が多いんですよ」

しばらく他愛も無い話をしながら歩いたが、美夜はふと、立ち止まった。

「神田さん……添乗の方って、夜はお忙しいんですか?」

「あ、いえ、そうでもないですよ。みなさんが二次会に行かれる頃までですかね、色々段取りがあるのは。内山さんは二次会には参加されますか?それとも別のご予定ですか?」

「あの、いえ、私は……二次会には行きません」

朱音はそこであることにピンと来た。

「あぁ、田島さんとご一緒ですね?ごめんなさい、気が利かなくて」

朱音は小さな胸の痛みを無視しながら、にっこり微笑んだ。だが、美夜はゆっくりと首を振る。

「あの、神田さんのお時間が空いたらでいいんですが……珈琲でも付き合って貰えませんか?少しお話したいことがあるんです」

「私と、ですか?それは構いませんが……」

「よかった、じゃぁ、お時間取って下さいね?」

美夜はホッとしたように首を傾けて笑った。

「せっかくの夜ですから……、もしお急ぎでなければあらためてお時間作ってもいいですよ?今夜の旅館はプライベートビーチもありますし、夜の散歩には最適です。彼を誘ってみてはいかがですか?」

朱音はなんとなく納得いかずにそう言ってみたが、美夜の顔は複雑に歪んだ。

「あの、今夜は……田島さんとは別行動なんです。彼は二次会に出るはずですし、私はあまりそういう席が得意ではなくて……」

そこまで言われれば、朱音も頷かずにはいられない事を悟る。

「わかりました。では、私の時間が空き次第、内山さんのお部屋に直接お電話差上げますね?それでよろしいですか?」

「はい、お待ちしています」

ようやく美夜はホッとしたような笑みを見せると、軽くお辞儀をして元居たグループに戻って行った。

やはり納得のいかない顔で美夜の後姿を見送ると、その向こうから田島と薫子が楽しそうに笑いながら連れ立って歩いているのが見えた。

なばなの里のベンチで、自分に見せた無表情とは別人のような笑顔の彼を見て、朱音ははっきりとした怒りを覚えた。

あぁ、そう!私に見せる笑顔はないけど他人には振りまけるってことね!

私の気持ちも無視して勝手にキスして、言いたいこと言ってくれちゃって、あとは無視だなんて!

こっちは色々我慢して、最後に良い思い出にしようと思って努力してるのに!

朱音は子供っぽいとは思ったが、楽しそうな二人にくるりと背を向け、口をへの字に曲げて心の中でブツブツと文句を並べ上げた。


通常の社員旅行とは違って、家族同伴であることで子供の迷子や怪我などの事故が起きることを一番懸念していたが、一日目はそういうこともなく無事に予定どおり宿入りした。

亀山からの移動中に、簡単な施設案内のプリントを配り、宴会開始時間や無料で使えるマッサージやエステ、二次会などの説明をしておいた。

各部屋へ案内する仲居さんや荷物を運ぶ従業員でごった返していた広いロビーがようやく落ち着いた後、朱音はあらためて支配人に挨拶をして、宴会、二次会の確認をもう一度済ますと、薫子と共に部屋へ引き揚げた。


「はい、取りあえずお疲れ様!無事到着ね」

朱音は窓際のテーブルの上にボストンを置いて、薫子に笑いかけた。

二人の部屋は、ツインのベッドがあり、窓際には対の応接セットが置いてあるシンプルな一般的な作りになっていた。ただ、大きめの窓からの眺めは素晴らしく、見事なオーシャンビューだ。


「第一段階突破ね!もっとも観光では明日が山場だけど」

薫子は、煙草に火をつけながらソファーにどっかりと座りこんで足を組む。

「ねぇ、今夜の挨拶は朱音がしてくれるのよね?」

「えぇ、もちろんそのつもりよ。なんで?何か良い案でも有るのなら、薫子に任せるわよ?」

朱音が荷物を開けながらそう言うと、薫子は滅相もないと、首を振った。

「やめて!あぁいう挨拶大嫌いだから。最近サブで入るとついでに挨拶まで頼まれること多かったから、聞いておいただけよ」

眉間にしわを寄せる薫子に、朱音はからかうように笑った。

「なんだかんだ言っても、あなたって結構頼りになるものね?そろそろサブじゃなくてメインで企画してみたら?」

「それもパス!いいのよ、便利屋添乗員で!人と接するのは嫌いじゃないけど、企画もましてや営業なんてクソ喰らえだわ!」

朱音は彼女らしい言い分にクスクス笑っていたが、鞄の中から取り出した2冊の冊子に目が止まると笑みが消えた。

「ねぇ、薫子……お願いがあるんだけど」

「挨拶は嫌って言ったでしょ?」

「ううん、違うの。明日の観光の簡単なマニュアルを作ってきたんだけど、田島さんと片岡さんに渡してざっと説明してくれない?」

「なんで?朱音が作ってきたんだから朱音が説明すればいいじゃない」

「宴会前に、っていうかお酒が入る前にちゃんと説明したいんだけど、ほら、今回は料理メニューが分かれているから配膳を自分で確認したいのよ」

薫子は、すっと目を細めると首を傾げる。

「それって、さっきも支配人に真っ先に確認してたでしょう?そんなに神経質にならなくていいんじゃない?」

朱音は薫子の顔に広がる不審の色を見て取り、内心あせった。

薫子の意見は尤もなのだが、正直、田島と面と向かうのが怖かった。

あの、なばなの里のベンチでの彼の無表情な目差しが、一日頭を離れなかった。

その上、あからさまに避けられているのを感じていた。

突然固まった様に答えあぐねる朱音を見て、薫子は吹き出した。

「優等生でも困ったりするのね!そうねぇ……」

薫子は少し考える振りをしてから、意地悪そうな笑みを浮かべた。

「ねぇ、ヒントをくれない?あたしってこう見えて推理小説好きだから。なんで朱音は田島さんを避けたいのか、のヒントよ」

薫子の鋭い追及に、朱音は大袈裟に天を仰いだ。避けているのはむこうなのよ……。


だが、朱音は渋々腹を括った。

薫子はうわさ好きでも無いし、必要以上に干渉もしない。

むしろ、今彼女の納得できるヒントとやらを提供すれば、この旅行中は何かと黙って協力してくれるかもしれないのだ。

「わかった、ヒント……ね?でも、一切の追求も質問も無しにしてくれる?」

「言ったでしょ?推理は得意なの。答えは要らないわ」

薫子が満足そうに腕組みをするのを見て、朱音は、すっと真顔になるとゆっくり口を開いた。

「最大のヒントよ。田島さんは、大学時代の私の元カレだったの、……以上!」


僅かな間を開けて、部屋中に薫子の大笑いが響いた。

「朱音!それって、ヒントじゃなくて……答えじゃないの!?」

今度は朱音が腕を組んで、笑い転げる薫子を睨んだ。

「この件については、私は二度と口を開かないからそのつもりでね!」

そう言って彼女の鼻先に冊子を突き付けた。

「はい!あと、よろしく!」

薫子は笑いをかみ殺すようにして抑え、冊子を受け取った。

「了解!あたしの負けよ、あとは任せてちょうだい」


薫子がとっとと朱音の代りに部屋を出て行くと、朱音はソファーの上に膝を抱えて座りこんだ。

窓の外に広がる穏やかな湾は、今まさに黄昏時を迎えている。

朱音は疲れたように、大きな溜息をついた。

楽しい思い出にするどころか……どんどん憂鬱さに心が支配されていくような感じだった。

あの四人で会った時を境に、完全に軽蔑され、愛想を尽かされたということだろうか?

長い時間かけて心を決めてきたことが、全く意味を成さないと思い知らされた気がする。

だが、その反面……本当はこれで良かったのかもしれないとも思う。

神様の気まぐれで起こったような今回の偶然の再会は、やはり間違いで、本当は二度と逢ってはいけない二人だったのかもしれない。

彼は二度と私を思い出すことは無く、……私は一生想いを抱えて生きる。

朱音の瞳に、また涙が滲んだ。こんなところで泣くわけにはいかないと、慌てて瞬きで抑え込みながら、同時にもう一つの憂鬱を思い出す。

美夜はこの期に及んで、何の話があるんだろうか?

ただ、前回の会社訪問の時からずうっと何かが引っかかっているのも無視は出来なかった。

田島と美夜の二人の態度に妙な不自然さを感じていた。

もちろん自分なんかがどうこう言える事でも無かったから、気にしないようにはしていたが。

もし、田島とのことで何かを相談されたらどうしよう……そんな漠然とした不安が拭えない朱音だった。


宴会開始時の挨拶を自分の中で復唱しながら確認していた時に、薫子は戻ってきた。

「ありがとう、御苦労さま」

薫子は、すぐには答えずに朱音の前に座ると腕を組んだ。

「変更があったわ。担当場所の変更を申し出されたから、オッケーしておいたんだけど……よかったわよね?」

「変更?どういうことなの?」

「田島さんが、片岡さんの担当場所と替わりたいそうよ。片岡さんも替わることには問題ないって言う以上、こっちとしても反対する理由はないものね」

「……そう、了解。じゃぁ、スペイン村は私と片岡さんで担当すればいいのね」

朱音は確認事項を読み上げる様に淡々と繰り返したが、内心は穏やかでいられる筈もなかった。

また、避けられたのだ。当初の予定では、スペイン村は子供連れの同伴者や若い社員の希望が集中したし、敷地も広く迷子などのトラブルに備えて、朱音と田島の二人で担当することになっていた。それも、田島の提案で。

伊勢神宮観光と賢島遊覧は、地元の観光コースだったので専属のガイドが付くから付き添いといっても大して役割は無い。

こうもあからさまに、避けられるとは……朱音の中にヒステリックな笑いが込み上げてくる。

あとたったの一日で、あなたはすべてから解放されるというのに!

それすら待ってはくれないというの!?


ホテル自慢の大広間で、これまた自慢の料理を前にして大宴会は始まろうとしていた。

総勢百名余りの大宴会はなかなか圧巻で、会の始まりの司会は総責任者の田島が担当していた。田島の挨拶の後に、朱音が旅行社を代表して挨拶することになっている。

広間正面に設えられた低い舞台に田島は立ち、朱音と薫子は脇の出入り口付近で控えていた。

田島の簡潔で、歯切れのいい挨拶が始まり、朱音はその横顔を見つめたい衝動を抑えながら、じっとその声に耳を傾けていた。

こうして、皆の前に立ち堂々と話す彼は、やはり朱音の知っている優とはすでに違っているのだと、心に言い聞かせる。


「それでは、何より今回の素晴らしい旅行を実現に導いてくれたK.Kトラベルさんの企画担当者である神田さんに一言ご挨拶頂きます。神田さん、よろしくお願いします」

朱音は、舞台に上がる前に丁寧に一礼をしてマイクを受け取った。

「皆様、こんばんは、そしてお疲れさまでした。今回、御縁がありまして皆様のお手伝いをさせて頂きましたK.Kトラベルの神田でございます。あちらに控えておりますのが、花田です」

朱音が薫子を紹介すると、薫子はスッと立ちあがって一礼した。


「まず何よりも、事故やトラブルも無く、こうして無事皆様をここへお連れ出来たことにわたくし達は胸を撫で下ろしています。そして今回の旅行に関しましては、今までにない工夫を凝らしました。それというのも、ここにおられる田島さんに次々と素晴らしいアイデアを提案して頂いたお陰です」

朱音はそこで、一旦田島を見てニッコリと微笑んだ。

「こういった社内旅行や慰安旅行は、これまでも数知れないほどご提供させて頂いてまいりましたが、今回の田島さんとの共同企画では、正直、目から鱗の部分も多く、あらためて、お客様目線での企画というものを勉強をさせて頂いたと思っております」

朱音はにこやかに微笑みながら、まとめに入った。

「明日はメイン観光です。お天気の方も申し分なさそうですので、どうか心ゆくまで楽しんで頂けたらと思っております。今後も、努力を怠らず皆様に楽しい時間を提供させて頂きますので、K.Kトラベルをどうぞよろしくお願い致します。」

朱音が丁寧にお辞儀をすると同時に、場内は大きな拍手に包まれた。

拍手が終わるのを待って、静かに袖へ退場する。

そして、薫子と共に暫くの間、宴会の料理や飲み物が滞りなく運んでいることを確認してから広間を退場した。

二人が廊下に出ると、田島がすぐに追って出てきた。


「神田さん、ありがとうございました。さすがスピーチ慣れされていますね。あんな風に僕を持ち上げて頂かなくてもよかったんですよ?」

そう言って苦笑いを浮かべた田島を見つめ、朱音は小さく首を振った。

「いいえ、本当のことですから。今回の企画はとても勉強させて頂きました。ありがとうございます」

そして、田島の反応は待たずに微笑む。

「二次会の会場は、ご要望どおり部署別に三部屋ご用意してあります。飲み物やカラオケなどもすべてはフロントに手配、指示してあります。私たちはこれから念の為に各会場の確認に行きますので安心して宴会の方を楽しんで下さい。もし、何か問題がありましたら部屋に待機していますのでご連絡下さい」

一気にそう説明した朱音に、田島は降参するように笑った。

「さすがだ、完璧ですね。抜かりもなさそうだ」

なんだか久しぶりに自分に向けられた笑顔に、朱音は不覚にも胸をおどらせニッコリ笑いかける。

だが、田島の視線は朱音の笑顔に留まることは無く、薫子に向けられた。

「花田さんも、お疲れさまでした。明日もよろしくお願いします」

薫子は、無言で微笑みながら控えめに頷いた。らしくないと言えばらしくなかったが……彼女なりに、この場の空気を汲みとったのかもしれない。

「それから田島さん、もう一つだけ……明日の変更の件、花田から聞きました。伊勢観光については、たいしてお手を煩わすことは無いと思いますが、どうぞよろしくお願い致します」

そう言った朱音の顔からは笑顔は消え去り、すでに事務的な態度に戻っていた。

田島はわずかに眉を上げて頷く。

「急で申し訳ありません。伊勢観光組に僕の課の上司が参加してましてね、お前も来い、と命令されたものですから……まぁ、お陰で片岡はラッキーだと喜んでいましたがね」

そう言いながら田島はわざとらしくニヤリと笑ったが、朱音は少しもおかしくはなかったから表情を崩すことはしなかった。


全ての確認が済み、部屋で遅めの夕食をとり終えると、約束通り朱音は美夜に連絡をした。

宴会の方は30分ほど前に終わっていたから、美夜も部屋に戻っていて、ロビーの奥にあるオープンカフェでの待ち合わせになった。

薫子は、多くを聞くことも無く、何かあれば連絡入れるからとだけ言ってテレビに没頭してくれた。


フロントのある広いロビーの奥の方には、オープンスタイルのカフェがある。

昼間は一般客にも開放されていて、待ち合わせなどにも利用する人も多いが、夜は宿泊客専用になり、10時まで利用できる。

朱音がカフェに行くと、美夜はすでに待っていて一面ガラス張りの窓際の席から手を振ってくれた。もうすぐ9時になるが、パラパラと結構利用者はあった。


「こんばんは内山さん、お待たせしました」

朱音が向かいの席に着きながら微笑むと、美夜はニッコリと笑った。

「こちらこそ、お忙しいのに無理言ってごめんなさい。」

「宴会はどうでしたか?楽しんで頂けましたか?」

「えぇ……まぁ、女子は何かとビール注ぎに駆り出されたりもしますから、会社の宴会っていつもあんな感じなんですけどね。でも、お料理はとっても素晴らしかったです!こういう旅行の宴会で料理を選べるのも初めてですし、女性向けなんかもあって嬉しいって女子社員はみんな喜んでいました。それに、プチエステも!」

朱音はにこやかに頷いた。

「それは、良かったです、色々と案を絞った甲斐がありました。あ、抽選会はどうでしたか?何か良い物当たりました?」

美夜は、困った様に首を振った。

「私ってホントッ、くじ運無くて……昔からビンゴや抽選会や商店街の福引ですら、当たったためしがないんです!参加賞の常連です」

「それは残念でしたね、もちろん全員の方に当たれば申し分はないのですが……」

「ヤダッ!それでは、抽選会になりませんよ!楽しみも無いですし」

美夜は吹き出しながら朱音にダメ出しをした。朱音もつられて笑う。

「それもそうですね!」


宴会も含め、初日の行程内容の色々な感想を美夜から聞き出すと、結論として皆にかなり満足して貰えている様子に朱音はホッと胸を撫で下ろした。

だが、本題はこれからなのだと思うと喜んでばかりもいられなかった。

一通り今日一日の話題が済むと、微妙な沈黙が流れ、美夜は何かを決するように顔を上げた。


「……あの、今日神田さんにお話ししたかったのは、田島さんのことなんです」

そら、来た!朱音は胸の中でそう呟いたが、あえて首を傾げて見せた。

「田島さんが……どうかされたのですか?」

「彼……田島さん、随分と痩せたと思いませんでしたか?」

痩せた、という表現は的確ではない、酷くやつれたが正しいと朱音は思ったが、あえて控えめな答えを選ぶ。

「そうですね、今朝久しぶりにお会いして少し驚きました」

「この二ヶ月半くらいの間、田島さん本当に大変なトラブルに巻き込まれていて……傍から見ていてもそのうち倒れてしまうんではないかって気を揉む程でした」

“大変なトラブル”という言葉に朱音の心臓は敏感に反応した。一瞬息が詰まる。

「大変なトラブルというと……?」

美夜は眉間に細かいしわを寄せて、小さく溜息をついた。

「先月、年に一度の製薬会社やスポーツメーカーなどが共同で開催するスポーツフェアが市内の大きなイベントホールであったんです。うちは三年程前からサプリメントやスポーツ飲料、アミノ酸飲料に力を入れていますので、ある意味とても大切なイベントなんです。研究開発部も総力をあげて新商品を準備しましたし、営業部も宣伝や売り込みに必死でした」

美夜が説明してくれたスポーツフェアは、朱音もよく知っている有名なイベントだった。

「そして、私や田島さんが所属する総務は、会場に出展するR製薬ブースの準備担当でした。ただ、ブースの準備といっても、実際に手がけるのは依頼した専門のイベント会社です。彼は昨年自力で調査して新しいイベント会社を探し出し、結果大好評を得たので、その実績を買われて責任者に抜擢されたんです。もちろん田島さんは信頼している昨年と同じイベント会社に依頼をし、今年の新しいブースデザインや会場でのコンセプトも決まって、全ては昨年以上に順調だったんですが……」

朱音は、美夜がそこで言葉を途切らせたことに大きな不安を抱かずにはおられず、小さく肩を震わせた。……彼の身に何が起こったのだろうか?

「何が、あったんですか?どんなトラブルが……?」

朱音はジリジリとして、そう聞き返したが、美夜はすぐには答えなかった。


「本来は……」

ためらいがちに、迷いながら、美夜はようやく口を開いた。

「社内でのトラブルを、全く関係のない部外者に漏らすべき話ではないのだと思うのですが……神田さんがその事をベラベラと喋る様な方ではないと、私は思っていますので。……大きなトラブルというのは、その彼が信頼していたイベント会社が契約金や前払い金を持って、突然逃げてしまったことです。フェア開催一ヶ月半前のことでした」

美夜の言葉に、朱音の顔は凍りついた。それは、実にたちの悪い持ち逃げ話だった。

その後の調査で、詐欺のように持ち逃げした問題のイベント会社は、今年になって経営の悪化で多額の借金を抱え、自転車操業をしていたらしいとわかった。


「もちろんその逃げてしまったイベント会社に対する対処も大変でしたが、何よりも一か月後に迫った我が社のスポーツフェアの出展をどう運ぶかが最大の問題でした。三か月は要する準備をわずか一か月で一からやり直さなければならなかった……彼は責任者でしたから……」

美夜が全てを語らずとも、田島のその時の想像を絶する苦労は、手に取るように伝わってきた。

そう、彼はおくびにも出さなかったが、この二か月近く、とんでもないことに巻き込まれていたのだ。

確かに、ここ暫くの田島は会うたびに疲れきっていて、ずっと不機嫌で苛立っていた気がする。精が無いというか、前のような活き活きした感じが無かった。

そんなひどいことになっていたのなら、眉間にしわが刻まれてしまったとしても、当然に思える。

朱音は知らず知らずのうちに、小刻みに震える両手を固く握りしめていた。


「あの……それで、出展は成功したんですよね……?」

朱音は、恐る恐るそうであって欲しいという想いを込めて尋ねた。

「えぇ、無事に成功しました。新たに短期間で引き受けてくれるイベント会社を探し出して、もちろん、昨年を上回る成功、とはいきませんでしたけど……でも、あのわずかな準備期間でよく乗り切ったと思います。後半は、彼は殆ど寝ていない状態で走りまわっていましたから」

無事に成功した、よく乗り切った、その美夜の言葉を胸の中で噛みしめながら、朱音は安堵にそっと息を深く吸い込んだ。……良かった……。

そして同時に、美夜の言葉の端々に、田島を心配する苦悩のようなものを感じ取り、朱音は気遣わしげな微笑みを浮かべた。

「内山さんも……大変だったでしょう?傍で見ているだけって、辛いものですよね。でも、あなたがいたから、田島さんも乗り切れたんですね」

ところが、朱音の言葉に美夜は頷くでも無し、なんとも言えない複雑な辛そうな表情を浮かべた。


「神田さん……田島さんのことでお話しすることはもう一つあります」

「……なんですか?」

今度は純粋に意味がわからずに首を傾げる。

「以前、私の身勝手な思い込みで神田さんの会社にまで電話してしまったこと、覚えていらっしゃいますか?」

それが、美夜が自分と田島のことを疑い、恋人宣言でもするかのように掛けてきたあの電話であることは、一瞬でわかった。

「……そういえば、そんなこともありましたね」

「実は……田島さんは……」

美夜はそこで、辛そうに顔をしかめた。

「田島さんは……、私の恋人でも……、なんでもなかったんです。最初から最後まで、私の一方的な片想いでした」

朱音は、すっと目を眇めて美夜の辛そうな顔を見つめた。

「いえ……たしか、以前にお聞きしたお話は違ったように記憶しています。田島さんにも内山さんとは個人的にお付き合いされているというようなことを聞いたと思うんですが?」

「それは……、彼が私の想いを受け入れようと努力してくれたことは、あります。デートも沢山してくれましたし、それをつき合っていたと表現すれば、そうだったのかもしれませんが……お互いに好きあって付き合っていたのか、と聞かれれば、答えはノーです」

朱音は美夜の放った言葉を頭の中で繰り返してみた。だが、よくわからない。

「もう二か月以上前になりますが……神田さんと、街中の横断歩道で偶然お会いした時のこと、覚えていらっしゃいますか?神田さんも背の高い男性と一緒だった時です」

忘れられる筈もない、あんな小芝居は生れて初めてだったのだから。朱音は小さく頷いた。

「あの時が……実は、私が完全に田島さんに振られた時でした」

虚ろで哀しげな笑みを浮かべ、美夜は俯きながらそう言った。

朱音は、一瞬言葉を失った。いやいやいや、……そんな筈が無い!

あの時のマスターを巻き込んでのヘタな小芝居は、偶然会ってしまった仲睦まじい二人の姿のせいでもあったのだから。


朱音は頭の中を整理しながら、落ち着く為に冷め始めたコーヒーを一口すすった。

だが、美夜は朱音の心中も知らず、追い打ちをかける。

「あの日は、最後のデートだったんです。田島さんは、私に……自分にはどうしても忘れられない女性がいると……正直に話して謝って下さいました。どうしても、私の気持ちに応えることが出来なかったと。こんな中途半端な自分は私には相応しくないと……」

少しずつ美夜の声が小さくなり、最後は微かに震えた。

「あの、私、どうしても確かめたくて……聞いたんです。田島さんが想っているのは、神田さんではないか?って……ずっとそんな気がしていて……この春に、神田さんと今回の旅行の件で打ち合わせが始まってから、彼はあきらかに変わった気がして……そうしたら学生時代からの知り合いだったっていうし……」

朱音には美夜の一言一言がショックで、目の前のコーヒーから目線を動かせないまま聞いていた。

その声の震えから、間違いなく美夜は泣いていた。だが、彼女の顔が見れない。


「田島さんは、『彼女は昔から僕にとっての憧れの人だった』 と話してくれました。『でも、今も昔も一度も振り向いては貰えない憧れの人なんだ』 とも」

その言葉は、朱音にとって大打撃だった。

“今も、昔も、”……なぜかヒステリックな笑いが込み上げてきた。

同時に胃がキリキリと痛みだす。

昔の自分が彼にしてきたことを考えると、彼が本気でそう思っていても、仕方がないとは思う。


「それは……本当のことですか?神田さんは田島さんの気持ちには気付いていなかったのですか?あの、背の高い方は本当に神田さんの恋人なのですか?」

美夜の矢継ぎ早の質問に、朱音は思わず目を伏せた。

すべてのピースが揃い、一つのパズルが完成したような気分だった。

あのエレベーターの中で、突然美夜が自分にマスターのことを尋ねた訳も、あの時に感じた田島と美夜の間に有った違和感も、突然ワインを持って訪ねてきた田島の真意も、マスターに肩を抱かれていた私を軽蔑するように見た彼の視線の意味も、突然、口唇を奪われた理由も……。

何を、どう答えればいいかが、わからない。

どこからどう説明すれば、彼女は納得するだろうか?

いや、……そもそも、彼女に全てを説明する必要があるのだろうか?

第一に、なぜ田島との関係をここで私に告白する気になったのだろうか?

美夜は、何を望んでいるのだろう?


「内山さん、あの……ごめんなさい、一つ教えてもらえませんか?どうしてこのお話を今、私にされたのですか?今、内山さんがされた質問に私が答えたとして……本当にあなたの為になるのでしょうか?」

ゆっくりと、口を開きながら朱音はようやく美夜の顔が見れた。

美夜の綺麗で大きな瞳には、やはり涙が滲んでいる。

美夜は、力なく首を横に振った。

「私のためでは……ありません、田島さんのためです。ここのところの彼は、なんだか見ていられなくて……大きな仕事のトラブルも無事に乗り切って、上司の信頼も取り戻せて少しは楽になった筈なのに……ずっと辛そうで、少しも幸せそうじゃなくて、笑うこともあまりないし……」

そこで美夜は、すがる様な目差しで朱音を見つめた。

「これは、とっても勝手な私の判断なんですけど……原因は神田さんのことじゃないかって……」

朱音は、小さく溜息をつくと困った様に美夜を見た。

こうも純粋に真っすぐに見つめられると、自分が悪者になった気がする。

彼女が納得するしないは別にして、出来るだけちゃんと答えてあげるべきだと悟る。


「ごめんなさい……まず、以前、内山さんに田島さんのことを聞かれた時に、私が嘘をついたことを謝ります。ただの顔見知りではなく、もう少し身近なところで彼をよく知っていました。ただ、あの時の美夜さんの不安な気持ちも理解出来たので……不必要な情報は要らないんではないかと思って、嘘を選んでしまいました」

今度は美夜の顔から目を逸らさずに、真っすぐに見た。

「でも、さっき聞かれた質問の答えは、今ここではお答えできません。すべてが簡単に答えられることではないからです。あまりに複雑で……説明できません、ごめんなさい」

「そう……ですか。やっぱり、お二人には何か事情があったんですね……」

美夜は肩を落とし、俯きながらそう呟いた。


「もし、ここから先の話をする必要があるのだとしたら、それは私と田島さんでするべきなんでしょうね。尤も、彼がそれを望んでいれば、の話ですけど」

「もちろんです!きっと田島さんは、待っているんだと思います。今回の旅行が無事に終わって、神田さんと仕事抜きで向き合えるのを」

そうだろうか……?それで、あんなに極端に避けられているというのか?

朱音は、今日一日の田島の態度を思い出しながら、心の中で頭を横に振っていた。

どう値引いても、旅行が終わって向き合えるのを待っている人の態度とは思えない。

むしろ、極力接触を避けて、早く関わりを絶ちたいと無言で言われている様に思える。

そんなことを考えながら、朱音は目の前で俯いて必死に哀しみと闘っている美夜が無性に健気に思えた。本当に、田島が好きだったのだ。おそらく、今もなお。


「内山さん……」

朱音は、声に出来る限りの優しさを滲ませて、微笑みかけた。

「私、彼とはちゃんと話をするつもりでした。この旅行が終わったら、結果はどうであれ、あらためて彼と向き合うつもりだったんです」

俯いていた美夜がぱっと顔を上げて目を見張った。

純粋に田島を心配する彼女が何を言いたいのかは、朱音にもわかった。

だから、そこはあえて正直になる。

「でも、何も約束は出来ません。向き合うことが、彼を救うことにはならないかもしれません。ただ、お互いに新しく一歩を踏み出せるかもしれないと思っています。ごめんなさい、今はこれだけしか言えないんです、わかって貰えませんか?」

朱音の誠実な有りのままの言葉に、美夜はゆっくりと頷いた。

「ごめんなさい、謝るのは私の方です。立ち入り過ぎているのはわかっています。あなたには関係ない!と怒られるのは承知の上でした。でも、どうしても、見ていられなくって……こうして私の話を聞き入れて貰えただけでも、嬉しかったです。神田さん、ありがとうございました、そして本当にごめんなさい」

美夜はスッと立ち上がり、申し訳なさそうに涙ぐんだ瞳で、頭を下げて走る様に去っていった。


後に残された朱音は、すぐに動き出すことも出来ず、暗い窓の外をぼんやりと見つめた。

美夜と田島は、恋人同士ではなかった。

でも、美夜は今もなお田島を愛してやまないでいる。

そして……彼の忘れられないという女性は、この私だと、美夜は言う。

その時、この半年間のあらゆる場面での彼のセリフがフラッシュバックのように、脳裏に蘇った。

『どうして、いつのときも、あなたは僕のものにはならないんだ?』

苦しげな、哀しげな、彼の声が胸をえぐる。

『どうやら、僕はあなたを放ってはおけないらしい』

ワインを片手にそう言って微笑んだ彼の顔が胸いっぱいに広がる。

『そんなに僕を嫌わないで下さい……』

昔のままの優しい手で髪を撫でてくれた感触が鮮やかに蘇る。

いつしか朱音の瞳から涙が溢れた。

いつでも正直だったのは、彼だったのかもしれない。

そして、信じがたいことに彼は今も尚、私を求めていてくれて、その時々に彼なりに、伝えてくれていたのだ、きっと。

でも、馬鹿げた意地と罪の意識で何も見えなくなっていた私には、ちゃんと受けとめるどころか、聞く耳も持たずに……拒絶だけを繰り返した。

そうして、今度こそ本当に愛想を尽かされたのだ。

だからこそ、彼は私から離れようとしているのだ。このまま、彼を行かせてあげた方がいいのだろうか?もし、せっかく彼が決心をしているなら……

朱音は心の中で押し問答を繰り返した。

いや、でも、ちゃんと終わらせるのだと決心したではないか?

今さらであっても、すべてを打ち明けて情けなさや卑劣さをさらけ出して、きれいさっぱりと振られてみせる、と決めたではないか!

そして……彼を自由にしてあげるのだと。

ここへきて、さっき美夜に言った自分のセリフが現実味を帯びてくる。

そう、結果はどうであれ、お互いに新たに一歩が踏み出せるのかもしれないのだから。

朱音は、窓ガラスに映った自分の情けない泣き顔を睨みつけ、ゴシゴシと涙を拭った。

こんな風にメソメソしている自分よりも、田島を想うあまり自分の心をさらけ出してくれた美夜の方が、よっぽど勇気がある。

そして、その想いを踏みにじらない為にも、今度は私が勇気を振り絞る番だ!

朱音は、強い決心と共に、立ち上がった。

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