第5話  嘘で固めた嫉妬



今回、朱音が企画したのは伊勢、鳥羽の一泊二日旅行だった。

名古屋から伊勢方面ならば、バスで二時間半程の距離で会社の創立記念の旅行としては、他のライバル旅行会社の企画ほどの派手さはない場所だ。

だが朱音は、社員だけでなく社員の家族同伴を目玉にして、近距離で疲れにくく、尚かつ内容の豪華さをコンセプトにし、業績不振の折、再起をかけてリニューアルオープンした類の旅館をターゲットにして企画を進めたのだ。

旅館側にしてみれば、大手企業に利用してもらうことで充分な宣伝効果が得られるし、旅行会社側にしてみれば大々的な宣伝と引き換えに目玉になるサービスや特典サービスを要求できる。

今回朱音が目をつけた旅館も、見事に条件を満たしてくれる相手だった。


今回のプレゼンで最も有効だった“家族同伴者用露天風呂付き部屋プラン”というのも、旅館に目玉サービスとして提供してもらったものだった。

本来なら別料金扱いの部屋を他の部屋と同じ料金で確保した。

料理も、一般的な宴会料理ではなく、女性向や子供向けメニューを選べるようにし、女性にはプチエステの特典をつけ、男性にはマッサージサービスを用意した。

観光面も、全員同じではなくこれも家族同伴者を考慮して3パターン用意し選べるようになっている。そういった全ての状況を考えて、遠方よりも近場で豪華にたっぷり楽しんでもらう、というところに朱音の結論は辿り着いたのだ。


あのファミレスでアンケート作りをしてから、一か月半が過ぎた。

企業側と旅行会社の通常の打ち合わせ回数ならば、とっくに全ての話し合いは終わっているだろう程の回数をすでに費やしていた朱音だった。

週に一度、もしくは十日に一度は、必ず何らかの理由で田島から呼び出される。

それは、朱音にとってとても辛く、だが同時にこの上なく幸せな時間でもあった。

彼と会えば会うほど、自分の中に閉じ込めていた彼への想いが目覚めていく感覚に叫び出したい程の喜びを感じ、また、どんな事があってもそれを彼に悟られてはいけないという決意に、がんじがらめに縛られ身動きが取れなくなる。

いつもいつも、彼に会うたびに心が半分に引き千切られるような痛みを感じながら、それでも朱音は田島に会える事が今の自分にとって何事にも代え難い喜びになっていた。


この日も午後遅めの時間に、朱音はR製薬を訪れていた。

先週、田島に頼まれた旅行でのビンゴゲーム大会の景品を幾つか買い込んで大きめの紙袋に入れて持参した。

こういった企画は普段からツアー内でも行うことなので得意分野だ。

各年代の社員向け、女性向、子供向け、家族同伴の奥様向けと、あらゆるパターンを想定してサンプルを用意した。

いつもの会議室でそれらの商品を広げ、一通りの説明を終えると田島は感心しながら微笑んだ。


「さすがですね、あなたに頼んで正解だ。僕ではこの半分も思いつかないな」

この数週間で、「私」が「僕」という呼び方に変わった田島だった。

「ビンゴ大会やお楽しみ抽選会なんかは、ツアー旅行には付き物のレクリエーションですから」

「まぁ、特に女性向きや奥様向きは、間違いなく僕には完全にお手上げ分野です」

「反対に、田島さんがそういうことに妙に詳しかったら、引きますけどね」

朱音は少しいたずらっぽい顔で笑った。この数週間で、朱音もまた、幾らか打ち解け始めていた。

あのファミレスの夜以来、田島が過去に関する話を持ち出すことは二度と無く、従って例の微妙な気まずさも無くなった。

むしろ、今回の旅行をより良い物にしたいという思いは二人同じであったから、そういう点では徐々に意気投合を見せた。


「神田さん、このあとは一度帰社されるのですか?」

大体の案がまとまり、商品を片付けていると田島が突然尋ねた。

「あ、いえ、今日は直帰の許可をもらっていますから、このまま帰ります」

「そうですか……」

田島はそう言って腕時計とにらめっこしながら何かを計算すると

「僕もあと30分で帰れるのですが、一緒に食事に行きませんか?」

そう言ってニッコリ笑った。その優しげな笑顔が、突然昔の優の面影に重なり朱音は息を止めた。

こういう時が一番困る。少しだけ二人の距離が縮まって仕事がやり易くなった代わりに、すっかり別人に見えていた彼が頻繁に昔の彼と重なることが増えた。

その仕草や、ちょっとした癖を見るたびに、朱音は毎回息が止まるのだ。

「そうですねぇ……」

朱音が胸の痛みを押し込めながら、苦笑いを浮かべると田島は軽く首を振った。

「大丈夫です、完全割り勘で行きましょう!本来なら今回の買い物の御礼に御馳走させて下さいと申し込むところですが、それではおそらく神田さんのモットーに反する。ですから、割り勘です」

簡潔な今の彼らしい説得に、朱音は思わず頷いてしまった。

本当なら、即答で断るのが正解なのだと思う。だが、少しでも長く彼と一緒に居たいという想いをどうしても打ち消せない朱音だった。

「もし、本気で御礼をして下さるなら……田島さん自慢の美味しい和食のお店に連れて行って下さい。もちろん、割り勘で」

朱音が陽気にそう返すと、田島は大袈裟に腕組をして大きく頷いた。

「任せて下さい。あと30分、使えるだけの情報網で探して見せますよ!」

朱音は堪えきれずに、吹き出した。


田島が案内してくれたのは、R製薬から地下鉄で二駅離れたところで、朱音が下車した事のない場所だった。

都心に近い場所ではあったが、表通りや大きなビルの中に入っている店舗ではなく、裏通りの少し入り組んだ所にその店 『割烹 でん助』 はあった。

間口は狭く、シンプルな藍染の暖簾がかかっていて、通い慣れていなければ見過ごしてしまうくらい目立たない店だった。だが、中へ入るなり朱音はその造りの素晴らしさに息を呑んだ。

中は想像していた以上に広く、白木造りのカウンターと座敷席の間の通路には細い川のような水路が流れ、驚かされる。

店内には、こういうところにありがちな琴や雅楽のような音楽はなく、その水の流れる音が唯一のBGMになっていた。

田島が予約してくれていたのは、つい立てが仕切りになっている座敷席だった。


「とても素敵な所、知っていらっしゃるんですね」

朱音は席に着きながら、細かいすす竹で編み込まれた天井を見上げて感心して言った。

「良い店でしょう?これで一見さんお断りではないんですよ。こういう知識を増やすのも僕たち総務の仕事の一つでね、しょっちゅう営業の連中に接待場所の情報提供させられるんです」

上着を脱ぎながら、田島は軽快に笑った。

そういえば、同期の総務の山田もそんな事を言っていた覚えがある。

もっとも、大手企業とは違ってうちの接待場所は大体しれてはいるが。


「造りも素晴らしいですが、何より味が独創的で素晴らしいので楽しみにしていて下さい」

その彼の言葉に、ひとつの嘘もなかった。

朱音は、それまで食べたことのないような味を堪能し、その素晴らしさにことごとく唸らされた。

「なんだか自信無くなります。今まで得意げに、美味しい和食の店を友達に紹介していたかと思うと……」

箸休めの小鉢を食べ終えた朱音は、お洒落な陶器のグラスの冷酒に手を伸ばして苦笑した。

「自信を無くされても困りますが、そう言って貰えると案内した甲斐があります。まぁ、一言で和食、日本食といっても幅広いジャンルですからね」

田島はそう言いながら、自分が今までに行ったことのある京料理の専門店や、東京出張で連れて行かれた高級料亭の違いなどを、詳しく話してくれた。

明るく、優しいことが最大の持ち味だった青年が、この四年間でスマートで知識、経験共に豊富な男性に成長を遂げていた。

朱音は彼の話に引き込まれながらも、今目の前に居る、まるで初めて会うかのような田島 優という男性に惹かれている自分を感じていた。

時々見え隠れする昔の彼の面影に心震わせ、今現在の彼に惹きつけられる。

それはまるで二人の男性を同時に愛する様な感覚に近い。

そして、そんな欲張りで厚かましい自分の心にうんざりする。

自分には、そんな資格は無い……彼を愛していた事に気付きもしないで、一方的に彼を傷つけて別れを告げ、そんな自分から逃れるように何人もの人に身を委ねた浅はかな女なんて……。


「また、心ここにあらず……ですか?」

「え!?」

田島にからかうように顔を覗きこまれて、朱音は我に返った。

「あ、ご、ごめんなさい……私ったら失礼なことを……」

「いえいえ、責めてるんじゃないですよ。あなたの心がここへ帰ってきてくれれば、僕はそれでいいですから」

そう言って優しく微笑んだ彼は、紛れもなく昔の優だった。

朱音は急にこみ上げてきた泣きたい様な衝動を堪えて、明るく微笑んだ。

「本当に、ごめんなさい。美味しい料理とお酒に酔ったみたいです」

「それなら、僕も酔っていますよ。色んな意味でね」

その意味深な言葉と目差しに、朱音は不覚にも赤くなった。

こんなキザなセリフどこで覚えたのだろう……そんな嫌みな言葉が飛び出さないように、朱音は慌てて話題を変えた。

「田島さんは、今もテニスを続けているんですか?」

それは全く無意識な、話題をすり替える為の世間話的な質問のつもりだった。

だが、田島の表情が一瞬にしてこわばった。


「まさか、神田さんからそういう質問が出るとは思わなかったな……」

田島に硬い口調でそう言われて、ハッとなる。

やはり、自分は酔っているのだろうか?

二人の出会うきっかけだったテニスを自ら話題にするなんて……。

「まぁ、神田さんが始めた話なら、僕も気を遣わないでいいと判断しましょう。テニスは、学生の頃ほどではないですが、今も続けていますよ。近所のクラブに入っています」

「あ……そうなんですか……」

「神田さんは、どうですか?今もテニスを?」

朱音は田島の目を見ないようにして、答える。

「私は今は全く、です。忙しくてなかなか時間が作れないので」

時間が作れないは、嘘だった。

優と別れた後ですぐさまサークルを辞めてからというもの、意識的にテニスは遠ざけてきた。

「ということは、あの後サークルを辞められてそれっきりということですか?」

あまりにもサラリと言われた“あの後”という言葉に、朱音の顔は凍りついた。

あの後、すなわち……二人が別れた後……朱音が一方的に別れを告げた後……彼をひどく傷つけた後……。


「今度、久しぶりにラケットを交えませんか?純粋に身体を動かすと気持ちいいですよ」

「あ……いえ、そうですね、機会があれば……」

固まってもごもごと答える朱音に、田島があっけらかんと笑った

「神田さん、機会というのは作るものですよ。従って、僕の方から必ず連絡します」

自分の不注意で始めた話が、思わぬ方向にどんどん転がっていくことに、朱音は本気で慌てた。

「いえ、やっぱりいいです。もう何年もやっていませんから、とても田島さんと御一緒出来るとは思えませんし……」

「大丈夫ですよ、一度真剣にやった事は何年たっても結構身体が覚えているものですから。それに何も神田さんに試合を申し込んでいるわけじゃありませんしね」

田島は朱音の言い分などどこ吹く風で、笑い飛ばした。

「いい機会だから、これをきっかけにまた始められたらどうですか?当時の副キャプテンの僕の記憶では、あなたの学生時代の実力は結構上手かったはずです」

そんなにあっさり、簡単に言わないで……朱音は苦笑いと共に心の中で呟いた。

彼と再会してからというもの、この二年間固く封印してきた沢山の事が自分の意思とは違うところでどんどん解き放たれていくことに、怖ささえ感じていた。

すべてが解き放たれてしまったら……自分はどうなってしまうのだろう?

必死に抑え込んで見ないようにしてきたからこそ、バランスを保っていたというのに……

そこまで考えて朱音は急に笑い出したくなる。

つい二か月程前まで、こんな自分が嫌いだったはずではなかったか?

バランスよく適度に生きている自分に嫌気が差していたはずだったのに、皮肉なものだ。

結局、自らの不注意で始めた昔話の為に、せっかくの食事も砂を噛むような味に変わり、おまけに田島からのテニスの誘いもはっきりとは断りきれず、朱音は最悪の気分で家路に着いた。


そして、その食事に行った日から四日後の週末、朱音の携帯に田島から連絡が入った。

仕事上の連絡は、極力お互いの会社の電話を使う様にしていたが、それでも至急の時の為に携帯の番号の交換はしていた。

運よく一度も使うことなく乗り切ってきたが、ここへきて初めて使うことになるとは思わなかった。

「最初に言っておきますが、今日はよっぽどの事情……例えば突然の葬式、昨夜から40度の熱が下がらない、などの理由で無い限り“ノー”という答えは受け付けませんよ」

第一声の田島のセリフに、朱音は不覚にも吹き出した。

「両足骨折でも、駄目ですか?」

やけくそのような冗談で返した朱音に、田島は大笑いする。

「任せて下さい、車いす持参で迎えに行きますよ!」


結局、田島のペースに乗せられ、テニスをする羽目になった。

唯一の抵抗として、車で迎えに行くという申し出を頑として断ると、田島は渋々テニスクラブのある駅名と行き方を説明してくれた。

そこは、かつて二人が通っていた大学のある懐かしい駅名だった。大学は、そこからシャトルバスで20分程離れた所にある。

約束の時間までまだ2時間近くあったから、朱音は差ほど大きくはないクローゼットの前で、いったい何を用意して行けばいいのかを腕組みをして悩んだ。

その昔使っていたテニスラケットやシューズもスコートも、全ては豊田市にある実家に置いてきていた。二度と使うことは無いと思っていたから、目に触れにくい押入れの一番奥の衣装ケースにしまい込んであるはずだ。

今日行く所は会員制テニスクラブだから、ラケットもシューズも借りられると言っていたが、服装をどうしようかと迷う。

行く途中でスポーツ店へ寄ってスコートやウェア類を買って行く手段もあるが、それではやる気満々のようで嫌だった。

散々迷ったあげく、朱音が唯一持っているフィラの上下のトレーニングスーツを持っていくことにした。それは社内でのレクリエーションにでも着るつもりで買った物だった。

布製のボストンにあれこれと詰めて、今度は着ていく服で悩む。

まさか、いつものようなスーツで行くわけにもいかない。

こんな風に誰かと出かける際にここまで着ていく服で悩んだ事は無かった。

結局、若草色のチェニックのロングブラウスに黒いスキニーパンツを組み合わせた。

ドレッサーの鏡の角度を変えながら、全身をチェックすると軽く肩をすくめてアパートを後にした。


大学を卒業して以来、一度も降りることの無かったその懐かしい駅から見える風景に、朱音の顔も自然とほころんだ。ここは、何一つ変わっていない。

駅前の広場も、小さな商店街も、仲間としょっちゅう集まっていた喫茶店も、そして優と週に一度は通ったお好み焼き屋も、タイムスリップしたかのように全て記憶のままだった。

田島の指示通りに歩いて行くと、なるほど15分程でそのテニスクラブに着いた。

四年間通ったこの街のことならば大抵は知っていたが、このテニスクラブはまだオープンして新しいらしく、朱音は初めて見る大きな施設をまじまじと見上げた。

モダンな円形の屋根のついたクラブハウスを挟んで両脇に高いフェンスと共に広々とした綺麗なコートが幾面も広がっている。

朱音はちょっとした緊張感と共に大きな自動ドアから中へ入った。

正面のフロントには、いかにもテニスクラブといった感じの浅黒い体格のいい人達が受付を担当していて、広々としたロビーの右側には、沢山のソファーとテーブルがあり、日曜日の午後らしく結構な人で賑わっている。

田島はその中のソファーに座って朱音を待っていた。


「神田さん!こっちです」

手を振りながら立ち上がった田島に軽く会釈をしながら、朱音も近づく。

「こんにちは、図々しくこんなところまで来てしまいました」

「いえ、強引に誘ったのはこっちですから。……ひょっとして、ちょっと後悔してますか?」

「あら、どうしてわかるんですか?」

朱音はすました顔で、聞き返した。このくらいの復讐は許されるだろう、と内心ほくそ笑む。

だが、田島はひるむことなくニンマリと笑った。

「あなたはプライドの高い人だから、いくらブランクがあるとはいえ、僕の前で無様な姿は見せたくないだろうな、と。当たってませんか?」

その自信満々な言葉に、朱音は短く溜息をつき挑むように彼を睨んだ。

「まるで私が無様な姿をさらすと、決めているみたいですね?やってみないとわからないでしょう?私を甘く見ない方がいいかもしれないですよ?」

「そうこなくっちゃ!」

田島のしてやったりの笑顔に、朱音はまた彼のペースに乗せられた事を悟った。


充分なストレッチをして、大学のサークルで毎回やっていた簡単なアップを思い出しながら、いざ田島とネットを挟んで向き合う頃には、すでに朱音は汗だくだった。

良く晴れた六月中旬ともなれば、もう初夏といってもいいくらい日中は暑い。

だが、田島の言っていたように四年振りのテニスはとても面白く、気持ち良かった。勿論、最初の内はラケットのショット勘がなかなか戻らなかったが、それも30分もすれば問題なく取り戻せた。

テニスは封印していたが、実は月に何度かスイミングをしていた朱音は体力には自信があった。

さっきの彼の意地悪な挑戦に屈したくなくて、体力のみを頼りに意地になって喰らい付いていった。


「わかった!わかりました!僕が間違ってたと認めます!」

そう言って先にラリーを止めたのは田島だった。

朱音はその一言に、全身で大きく息をしながらもニンマリと笑った。

だが顔はすでに真っ赤で、ポニーテールに結った髪の先からは汗が滴り落ちている。

コート横の屋根の付いたベンチに座って息を整えていると、田島が走って両手にミネラルウォーターのボトルを持ってきてくれた。そして細長いジェル状の冷たいチューブを朱音に渡す。

「熱中症で倒れる前に、これで首の後ろを冷やして下さい!」

「ありがとう、でも熱中症って大袈裟じゃありません?」

「そんな、茹でダコのような真っ赤な顔して何言ってるんですか?」

田島は呆れたように笑うと、困ったように眉をひそめた。

「そうでした。あなたが昔から冷静に見えて実は負けず嫌いだった、ということをラリー中に嫌という程思い出しましたよ」

「……思い出して頂けて、光栄です」

朱音は、田島に渡されたチューブで素直に首の後ろを冷やしながら苦笑する。

だが、田島の言った事が正しかったのを証明するように、それはかなり気持ち良く生き返る心地がした。

「でも、言った通り楽しいでしょう?テニス勘もすぐに戻ったようだし」

「こういうのも、昔取った杵柄って言うのかしら?」

朱音のおどけたような言葉に田島は吹き出す。

「どれだけ大昔の話をしてるつもりです?たかが四年前ですよ」

二人は、同時にクスクスと笑いだした。

朱音は笑いながらも目を伏せ、こんなに幸せな気分に包まれるのは何年振りのことだろうと思った。

そして、自分にこんな幸せを味わう様な資格は無いのに、とも自嘲する。


朱音のその自嘲は、その10分後に現実となって思い知らされた。

「田島さん!!」

朱音たちの居るコートへの入口のフェンスドアの所からそう呼んだのは、受付嬢の内山美夜だった。遠目から見ても、彼女の顔が引きつっているのがわかった。

「美夜……」

そう呟く様に立ちあがった田島は、大股にドアへ向かった。

彼の後姿を見送りながら、朱音は姿勢を正して美夜に小さく頭を下げて挨拶をした。

だが、彼女の綺麗な顔には、苦々しい笑みらしき物が浮かんだだけだった。

ベンチからドアまでは15メートルはあったから二人が何を話しているのかはわからなかったが、美夜が田島に何かを必死に訴えている様子は見て取れた。


「神田さん!すみませんが、ちょっと休憩していて下さい!すぐに戻ります!」

突然振り返った田島は大声でそう言うと、美夜の肩を軽く抱く様にしてクラブハウスに続く通路に消えた。

「ほらね!やっぱり私は来ちゃいけなかったのよ!」

一人残された朱音は、苦笑いと共にそう呟いた。

彼のペースに乗せられ、いい気になってこんな所までのこのこやって来た自分に腹が立った。

あの二人がただならぬ関係であろうことは今の出来事で決定的だし、ならば、事をこじらす前に自分はこの場から直ちに消え去るべきだと朱音は決めた。

タオルで汗を拭い、水を一口飲み込んで上着と借りたラケットを手にコートを後にした。


朱音が更衣室に急ぎ足で向かうと、その女子更衣室に続く通路で、田島と美夜に出くわしかけて、とっさに慌てて柱の影に隠れてしまった。最悪のタイミングだ。


「だから、なんでいつも神田さんなの!?」

美夜の問い詰める声が聞こえてきた。

「美夜、落ち着くんだ、別にいつも神田さんといるわけじゃないだろ?」

「それは、嘘よ!この一か月、あなたは事あるごとに彼女と一緒じゃない?」

「それは、勿論仕事上のことだよ」

そこで、美夜の乾いた笑い声が聞こえた。

「そうよ、田島さんにとって今回の仕事がとっても大事なのは理解してるわ。だから、ウィークデイの約束のキャンセルは黙って譲ってきたでしょ?ついこの間の水曜日だって、どうせ神田さんと一緒だったんでしょ?」

それは、田島に食事に誘われて例の割烹に連れて行って貰った日のことだった。

「でも、納得いかないのは、なぜ今日ここに彼女が居るのかって事!なぜ、テニスなの?ここで何の打ち合わせをしてたの?田島さんは営業じゃなくて、総務でしょ?接待テニスなんて、あり得ないじゃない!」

彼女の言い分は尤もな事だと、朱音が唇を噛んだ時、それまで黙って聞いていた田島のちょっと苛立った荒い溜息が聞こえてきた。

「……で?こんなところまでやって来て、まるで有りもしない浮気現場でも押さえたかの様に僕を責め立てて、君はどうしたいんだ?今すぐ神田さんを追い返せば満足なのか?」

それは、朱音ですら驚くほどの冷たい言い方だった。

「そんな……そんな言い方って……」

美夜の声は一気にトーンダウンして、小さく震えた。

「私達って……付き合ってるのよね?私は田島さんの……彼女よね?」

これ以上、こんな風に立ち聞きするべきではないのは朱音にもわかっていたが、足が一歩も動かなかった。まるで根っこでも生えているかのように、微動だにしない。

「これ以上、神田さんを一人放っては置けないから、僕は戻るよ。今日のところは帰ってくれないか?必ず連絡すると約束するから、その時にちゃんと冷静に話そう」

田島は美夜のすがるような問いかけには答えず、淡々とした口調でそう言った。

田島がそう言い終えると同時に、美夜の走り去る足音が聞こえ、朱音は見つからないようにと柱の壁側に身体を向けて息を殺した。

そして再び田島の小さな溜息が聞こえ、柱の隅で縮こまる朱音には気付かずに、通路を屋外への出口に向かって足早に歩き去った。

朱音はすぐさま先にある女子更衣室に飛び込むと、大きく息を吸い込んだ。

まるで二人の話を立ち聞きしていた間中、息を止めていたかのように息苦しかった。

だが、こんなことをしている場合ではない。

田島がコートに戻って、朱音が居ないことに気が付いている頃だ。

朱音は大慌てで荷物を詰め込み、着替えもせずに更衣室を飛び出してフロントまで走った。

ラケットを返却して、田島宛に 『ごめんなさい、急用が出来たので帰ります』 というメモを預けると、逃げるようにテニスクラブを後にした。


どんどん小さくなるテニスクラブのモダンな屋根が完全に見えなくなって、ようやく朱音は小走りを止めて、早足で歩いた。

ごまかし様のないくらい、動揺していた。ショックだった。

本来なら、美夜が帰ってしまったのだからこんな風に逃げ出さなくてもよかったのかもしれない。

いつものように、冷静に田島に意見すればよかったのかもしれない。

『早く美夜さんを追いかけて、誤解を解いて下さい。でないと私も迷惑します』とでも言えばよかったのだ。

だが、朱音は逃げ出した。あれ以上あの場所には居られなかった。

あんな話を聞いてしまった後で、涼しい顔をして彼と面と向かう勇気など持てなかった。

どうして?何がショックなの?……朱音は自問自答した。

あの二人が恋人同士だということ?……ううん、そうじゃない、それは薄々わかっていた。

じゃぁ、なんだろう……頭の中に、いや、耳の中にこびり付くように残っている彼のあのゾッとするほど冷たい言葉が蘇る。

あんなことを平気で言える様な人ではなかった。

いつでも自分のことよりも相手の気持ちを最優先に考える、本当に優しく思いやりに溢れた人だったのだ。

昔の彼なら、あの場合誰よりも恋人の不安や誤解を取り去ることに必死になったはずだ。

なのに、彼は美夜を突き離すように帰し、いわく付の仕事相手の私なんかを優先した。


駅のホームでぼんやりと電車を待っていると、突然バッグの中の携帯が鳴った。

相手は想像がつく。間違いなく、田島だ。

朱音は携帯を取り出すとマナーモードに切り替えて、光る窓の“田島 優”という文字を見つめた。

朱音の携帯は15秒の呼び出しを過ぎると自動的に留守電に切り替わる。

1分後、また掛かってきた。その1分後、また1分後……

電車に揺られながら、7回目の呼び出しが留守電に切り替わった後、朱音は電源を切った。


月曜日、さすがに会社での電話に居留守を使えるわけもなく、朱音は出社してすぐに田島からの電話を受けることになった。


「……お待たせしました、神田です」

「会社でないと、電話口には出てくれないのですか?」

それが、田島の第一声だった。

だが、すっかり冷静さを取り戻し、たぶん会社に掛かってくるだろう彼からの電話に対する返答も幾つか用意していた朱音は、穏やかに答えた。

「昨日は失礼しました、御礼も言わずに急に帰ることになってしまって。本当にありがとうございました、久しぶりに身体を動かせて楽しかったです」

「どうして、電話に出てくれなかったのですか?伝言は聞いてくれましたか?」

「はい、聞くには聞いたのですが、なにぶん取り込んでいまして、お聞きしたのが夜中でしたので電話は差し控えさせて頂きました」

電話口の向こうで田島の荒い息遣いが聞こえる。信じてはいないのだろう。

「とても個人的な理由ですので詳しい事は言えないのですが、昨日は突然、実家からの至急の呼び出しの連絡が入ったのであんな失礼な帰り方をしてしまいました、すみませんでした」

朱音は、なるべく自然に聞こえるように丁寧に答えた。

「御家族に何かあったのですか?」

田島の声の感じが一瞬変わり、それが自分の家族の身を心配してくれたせいだとわかって、朱音は後ろめたさで顔をしかめた。

「い、いえ、大丈夫です……それほどの大事ではありませんでしたから」

「……なるほど。要は、あなたが突然逃げるように帰ってしまったのは、そういう理由があったからということにしてくれ、ということですね?」

田島の反応も読みも鋭かった。

朱音はこれが面と向ってのことでなくてよかったと、胸を撫で下ろす。

「どう解釈して頂いても結構ですが、それをわざわざ確認するために昨日から何度も御電話くださっていたのですか?」

朱音の皮肉に、田島は乾いた笑い声を上げた。

「いえいえ、まさか!僕はただ、ちょっとしたアクシデントであなたを待たせてしまった事のお詫びと、なぜあなたが突然逃げ帰る必要があったのかが、知りたかっただけです」

あの美夜とのやりとりがちょっとしたアクシデントで、私が逃げ帰った?

朱音は身勝手で一方的な彼の解釈に、怒りを覚えた。

自分の事はいいとして、昨日の美夜との只ならぬ雰囲気は、そんな軽い言い方でかたずけられる様な話ではないはずだ。

もちろん、自分が口を挟むような事ではないが、朱音の声は冷たさを増した。

「田島さん、私があなたに詫びて頂く理由はどこにもありませんし、むしろ私が突然の失礼をお詫びしなければいけなかったと、反省しております。ですから、このお話はもう終わりにしませんか?田島さんもお忙しい方ですのに、こんなくだらない事で朝っぱらからお時間取らせてしまって……」

言葉こそ、至極丁寧ではあったが、それは明らかに田島からのこの電話を非難する意味合いが含まれていた。

そして、当然それは田島自身にも伝わっており、彼が電話口で怒りを堪えている様子が朱音にもわかった。

きっかり3秒後、田島は恐ろしいほど静かな言葉を残し、電話は切られた。

「神田さん、朝っぱらからくだらない事で電話などして、申し訳ありませんでした」


それを機に、あれ程頻繁にかかっていた田島からの連絡はピタリと途絶えた。

要は、本来の取引の形に戻ったのだと、朱音は自己暗示にかけるように言い聞かせた。

今までが例外的に、今回の旅行に関する田島自身の請け負っている仕事まで手伝わされていたのだから、週に一回は会わざるを得なかっただけの事だ。

そして、彼からの連絡が途絶えて二週間が過ぎた。

その二週間が、どういう意味を持つ時間なのか……朱音は嫌というほど思い知らされた。

まず、毎晩同じ夢を見た。そう、以前朱音が頻繁に見ていた例の目覚めの悪い夢だ。

夢の終わりはいつも誰かを追いかける所で目が覚めた。

だが、大きく変わったのは、その誰かが……田島 優だった事だ。

朱音が毎回追いかけていたのは、彼だった。

今でははっきりと彼の姿が夢の中に現れる。

追いかけても追いかけても、彼はあの冷やかな笑みを浮かべたまま遠ざかっていく。

お陰で、毎朝の朱音の目覚めは最悪だった。時には泣きながら目覚める時もある程だ。


「まるで、何かの禁断症状みたいじゃない!」

ある朝、やはり同じ夢で目覚めた朱音は、枕に顔を埋めて両手で頭を抱えた。

四年間……平気だったはずだ!自らの手で彼を失い、数えきれない人の腕の中を彷徨い、本当は彼を愛していたことに行き着いてからだって、二年経つ。

なのに、たった二か月前に再会して週に一度仕事上の付き合いをしただけで、ひたすら彼を追いかけ続けるような夢を見るなんて……。

たった二週間、彼からの連絡が途絶えただけで、こんなに情けなく動揺するなんて……。


だが実際、R製薬との計画自体はなんら問題なく順調に進んでいた。

以前田島と作成して配ったアンケートに基づいた細かい部屋割りと、バスの座席などを詰めれば大体の打ち合わせは仕上がるはずだ。

そこから先の細かい手配は旅行会社の仕事になる。後はミスやダブルブッキングなどのトラブルが起こらないように、細心のチェックをして旅行当日を迎えればよい。


その日も、無意識に一日中田島からの連絡を待ちながら、退社時間を迎えた。

着替えを済ませ、更衣室を出てエレベーターを待っていると、同期の薫子に呼び止められた。

「朱音!今帰り?」

「……え?えぇ、そうよ。花田さんも今?」

「ねぇ、何かR製薬とトラブってるの?それとも誰かと揉めた?」

薫子は朱音の問いには答えずに、いきなり本題を口にして朱音の顔を覗き込んだ。

「……どうして?」

朱音が訝しげに尋ねると、薫子は肩をすくめて笑った。

「この一週間ほど、あなた鏡見たことある?ひどい顔よ?」

ひどい顔と言われて、朱音は益々眉をひそめた。

「それ、本当?私、そんなにひどい顔してるの?」

薫子は頷きながら、到着したエレベーターに先に乗り込んだ。

朱音も慌てて乗り込む。

扉が閉まり、二人きりになると薫子は腕組みをして笑った。

「ねぇ、飲みに行かない?どうせ暇でしょ?こんな時は飲んで騒ぐにかぎるわ」

何に驚いたって……三年同じ部署に務めて、薫子が朱音を誘うのは初めてのことだった。

朱音は一瞬ポカンと彼女を見つめ、それから苦笑した。

「あなたが、こんな風に私を誘ってくれるなんて……私の顔はよっぽどひどいってことね?」

「心配しないで、悩み事相談室なんて開くつもりないから!さほど興味もないし。ただ、私も無性に誰かと飲みたい気分なの、いいでしょ?」

今まで、考え方の違い過ぎる薫子とは殆ど個人的に関わらずに過ごしてきた。

まず、話が合わない分楽しめるわけがないと決めつけていたからで……ただし、なぜか今回は、薫子の誘いにそそられた。

エレベーターが1階を知らせて扉が開き、二人が順番に降りると、朱音はくるっと振り向いた。

「オッケーよ、行きましょ!お店は花田さんに任せるわ」


一番意外だったのは、薫子が朱音を連れて行った場所が、彼女のイメージとはほど遠い小さな古めかしい居酒屋だったことだった。

「女同士で、それも本腰入れて飲もうって時はこういう店にかぎるわ!誰にもカッコつけなくていいしね」

薫子はそう言ってあっけらかんと笑い、そんな彼女に、朱音は初めて好感を持った。

仕事は適当、でも出来ないわけじゃなく、彼女の社交的な添乗ぶりは評判も悪くない。

一番力を入れているのがアフターファイブで、飲み会や合コンには殆ど顔を出しているらしい。

だが、彼女には嘘がない。自分の方針というか、求めているものがはっきりしている。


焼酎のロックや、ビール、冷酒をごちゃ混ぜに、気が向くままに頼む薫子の酒豪ぶりには目を見張ったが、次第にその彼女独特のペースに巻き込まれ、朱音も普段なら絶対にしないような飲み方をした。

勿論無茶をしたくなるような理由が、今の朱音にはあったのだが。


「ねぇ!女だからって馬鹿にされたりしてないでしょうね?」

「……何が?」

唐突に話を振られて、朱音は酔いで結構ふらつく頭を傾げた。

「R製薬よ!だって、打ち合わせから何から全部朱音がこなしてるんでしょう?」

「あぁ、それね。そうよ、今回はアシスタントではないから、契約の段階から私一人よ」

「大手企業の奴ってお高くとまってない?女の添乗員だからってヘタにこき使われてるんじゃない?大丈夫なの?」

なるほど……薫子が柄にもなく心配してくれたのは、女としてのプライドなのだ。

「内容の規模が、これまでとは違うから何かとやらなきゃいけない事が多いけどね。でも、その辺なら大丈夫よ、馬鹿にはされていないと思う」

朱音は安心させるように、微笑んだ。

色々なややこしい事情は除いても、馬鹿にされてはいないだろう。

「ならいいんだけどね!あんたみたいな優等生が、そんな顔してるとどんな圧力かけられたのかってみんな噂してたわよ」

朱音はこんな飲み方はいけないと思いながらも、グラスをあおった。

みんながそんな噂をするほど、見かねた薫子に心配させるほど、このところの自分が冷静さを失っていただなんて許し難い。

酔いが深くなればなるほどに、薫子相手でもいいから何もかもをぶち明けてしまいたい弱い自分が頭をもたげはじめ、朱音は断ち切るように話題を変えた。

「ねぇ、花田さん……」

「その花田さんってやつ、いい加減やめてくれない?一応は同期なんだから薫子でいいわよ!」

朱音の話を遮って、薫子は抗議した。

「あ、あぁ……わかった。で、薫子は特定の恋人っていないの?」

朱音の質問に、薫子はパチパチとまばたきをした。

「へぇ~!朱音でもそういうこと聞くんだ!」

「ごめん、嫌なら答えなくてもいいから……」

薫子はちょっと間、目の前のグラスを見つめてから、

「……いるわよ、特定。イメージ違った?」

苦笑いを浮かべてそう言った彼女の表情は、今まで見たことのないものだった。

「う……ん、特定の人がいるようには見えなかったかな」

朱音は、正直に答えた。

「まぁ、あたしって合コン好きだし、不特定多数と付き合ってるイメージだろうしね」

薫子はそう言うと煙草に火をつけて、細長く煙を吐き出した。

「でもね、複雑なのよ、あたしの特定は。あたしだけの特定じゃ無いんだな、これが」

その微妙なニュアンスのセリフが、何を説明しているかは朱音にもすぐにわかった。

コメントの仕様がなく、口をつぐんだ朱音の腕を薫子は笑いながら小突いた。

「あんたって、そういう風な気遣いするから優等生なのよね!なんで不倫なんてしちゃってるの?って聞きなさいよ。聞きたいでしょ?」

「私が聞きたいんじゃなくて、薫子が聞いてほしいんじゃない?ホントは」

朱音の的を得た問いかけに、薫子は鼻の頭にしわを寄せて口をすぼめた。

「ねぇ薫子、私は、他人の事情を根掘り葉掘り聞きたいとは思わないけど、愚痴を言いたいなら聞くわ。そのかわり、個人的な意見は求めないでね。たぶんあなたと私では価値観が違うから」

淡々とした口調を心がけて朱音が言うと、突然、薫子は高笑いを始めた。

「朱音って、損な性分よね!そう言われたことない?」

「なんで?無いわよ」

怪訝そうに眉をひそめた朱音に、やれやれといった感じで微笑んだ薫子の表情は意外にも優しげだった。

「だって、おそらくは相手のことを思いやって優しさから言ってるんだろうとは思うけど、言い方が堅苦し過ぎて伝わらないわよ?どうしてそんな頑なな言い方になるのよ?」

頑な、と言われて……朱音は以前田島にも同じような事を言われたことを思い出した。

「そういえば、鉄の女って言われたことがあるわ……」

「鉄の女!?それ、最高!」

面白がってケラケラと笑い出した薫子は、

「もっとストレートに優しくなれば?」……最後にそう付け加えた。


その一時間後、繁華街から少し離れた通りに朱音は一人佇んでいた。

こんなに酔っぱらったのは、いったいどの位ぶりだろう?とフワフワする頭の中でぼんやり考えたが、一向にまとまらない思考回路に、わけもなく朱音は笑い出したくなった。

薫子とは少し前に別れたが、どこで別れたのかさえ定かでない。

真っすぐ歩いているつもりなのに、やたら人や何かにぶつかって嫌な顔をされるのはなぜだろう?

でも、気分はすこぶる良かった。ここしばらくずっと憂鬱で重かった心が、なぜか軽く感じる。

朱音はどこへ行くでもなく、フラフラと歩き……目の前に現れたベンチのような物に崩れるようにへたり込んだ。

自分がいったいどこに居るのかもわからなかったが、行き交う人の非難するような笑い声は聞こえてきた。自分は笑われているのだろうか?なぜだろう?


とうとうベンチの背もたれに突っ伏すようにもたれた朱音に、一人の男が駆け寄った。

「神田さん!?神田さんじゃないですか!?」

そう言って朱音の顔を信じられないといった顔で覗き込んだのは、田島だった。

「一体、どうしたんで……まさか、酔っているんですか?」

両肩を軽く揺さぶって起こした朱音のまともで無い様子に気付いた田島は、驚いて眉をひそめた。

そして一方、あれ程聞きたいと待ち焦がれていた田島の声が突然聞こえて、朱音はまた例の夢を見ているのだと、錯覚した。

相変わらずフワフワした頭を無意識に、横に座った田島の肩に持たせかけると微笑むように呟く。

「……また、会えた……」

思いがけない朱音の醜態と、これまた思いがけない朱音の言葉に、田島の身体は一瞬固まった。

そして、朱音の身体が倒れないようにそっと肩を抱き寄せると、せめて彼女の意識がはっきりするまでは、このままでいようと決め込んだ。

朱音はといえば、懐かしい腕に肩を抱かれ、彼の肩にもたれて、夢見心地だった。

いつもは冷ややかな笑みを浮かべて、自分の目の前から去っていく彼が、今日は信じられない事に自分の肩を抱き寄せてくれている……そんなことをぼんやりした頭の片隅で考えて、朱音はふと、眉をひそめた。

そんなわけ、ないじゃないの!?彼が私の肩を抱き寄せる、なんて……昔ならともかく、今は……そのあたりで、朱音のぼんやりとした意識は突然霧が晴れたようにはっきりし出した。

まず最初に、自分が誰かの肩に頭を乗せ、その誰かが支えるように肩をしっかりと抱き寄せてくれている現状を把握した。

そして、恐る恐る顔を傾けてその誰かを見上げた。

そこには、朱音の動く気配を感じてやはり首を傾げるようにこちらを見つめる田島と、ピッタリ視線が重なった。

朱音の瞳は見る見る大きく見開かれて、息が止まり、心臓が跳ね上がる。


「……こんばんは。」

田島は、大きく目を見開いて固まっている朱音に、困ったような笑みを見せる。

「あ、……えぇ、……その、……な、なんで、田島さん!?」

朱音の言葉はしどろもどろで、慌てて田島から身体を離すと、両手に顔を埋めた。

「私……一体……どうして……ここは……」

うめく様に手の中で呟いた朱音に、田島はゆっくりと話し出した。

「ここは、僕の会社の近くです。残業で遅くなって駅に向かっていたら、たまたまここであなたを見つけたんですよ。あなたはこのベンチで酔いつぶれていたんで、余計なお世話だとは思ったんですが……まさか放ってもおけず、今に至るというわけです」

徐々にはっきりしていく意識と共に、朱音は薫子とのやり取りや、彼女と共に無茶な飲み方をしてその後の記憶が定かでないことまでを思い出した。

穴があったら入りたい、とは正にこういう状況のことを言うのだと、朱音は両手に埋めた顔を上げれずにいた。

「大丈夫ですか?少しは落ち着きましたか?」

田島の気遣わしげな声を無視するわけにはいかず、朱音はイヤイヤ情けない表情で顔を上げた。

とても彼の顔は見れそうにない。

俯いて、顔を真っ赤にしながらポツリポツリと謝罪を口にした。

「……本当に、不様な姿をお見せしてしまって……ごめんなさい……どうしてこんなことになってしまったのか……」

田島はベンチに寄りかかり、長い脚を組むとハッハッハッと豪快に笑った。

「いいじゃないですか、酔ったって!僕だって、しょっちゅうありますよ。ストレスの多い世の中ですからね」

「でも……女の大虎だなんて……情けないやら、恥ずかしいやら……」

今だ俯いたままの朱音に、田島は首を振った。

「いやいや、僕は安心しました。鉄の女になりたい、なんて言ったあなたが本当は人間臭くて!」

「そんな……人間臭いだなんて……私は本当に平凡なつまらない人間です」

「あ、ちょっと待っていてください」

突然そう言って立ち上がった田島は、すぐ近くの自動販売機へと大股で歩いて行き何かを買って戻ってくる。

「さぁ、口に含むだけでもスッキリしますよ?」

そう言って朱音の手に小さいミネラルウォーターのボトルを手渡し、自分は缶コーヒーを手に再びベンチにどっかりと座った。

「……ありがとうございます」

田島の心遣いに感謝しながらも、朱音は改めて自分の浅はかさや、弱さを激しく悔いた。

今の自分の最大の弱さの原因である彼に助けられて、益々惨めな気持になる。

この人に逢いたくて、声が聞きたくて、夢にまで見て、ヤケになって我を失うほど飲んで、そしてまさかその人に見つけてもらうなんて……。


「どうですか?少しは楽になりましたか?」

それから15分程した後、田島が朱音の顔を覗き込んだ。

「あ……はい。本当にすみませんでした、なんて御礼を言ったらいいか……」

ようやく顔を上げて、申し訳なさそうな笑みで朱音は田島を見た。

田島はとても穏やかで優しげな笑顔で小さく頷いてくれる。

「礼には及びません。落ち着かれたなら、そろそろ帰りましょう。もうだいぶ遅いですからね」

「そ、そうですよね……残業で疲れていらっしゃるのに酔っ払いの面倒なんて見させてしまって……本当にごめんなさい。もう大丈夫ですから、お帰りになって下さい」

田島は一瞬何かを考えて、立ち上がると朱音のほうに向きなおった。

「立てますか?立ってみてください」

「あ、は、はい……」

朱音は慌てて立ち上がったが、意識は大分はっきりしたものの身体の方はまだそうもいかず、バランスを崩して大きくよろめいた。足に力が入らない。

だが、田島は予測していたらしく、間髪を入れず朱音の身体を両腕で支えた。

そして片腕で朱音の肩をしっかりと抱きよせて真っすぐに立たせた。

「す、すみません……」

記憶の中よりも、数段逞しくなった彼の腕に抱きかかえられ、朱音は再び固まった。

そんな朱音に田島は小さく笑い、

「さぁ、今日こそは観念してくださいよ?今のままではあなたは絶対に一人では帰れませんからね。なんと言われても、僕と一緒に帰ってもらいます」

そう言った。それでも尚、何かを言おうと顔を上げた朱音に彼は眉を上げる。

「私をここへ置いていって下さい……というのも、無しですよ。まさかこんな状態のあなたをここに置き去りに出来るほど、僕は人でなしではありませんから。それとも、どうしても僕を人でなしに仕立て上げたいですか?」

そこまできっぱりと言われて、尚且つ、今彼が腕を離せば真っすぐ立てるかどうか自信が無い状態の中で、朱音はそれ以上何も言えなかった。

とうとう観念した朱音に、田島は満足げに頷くと、彼女を抱く腕に力を加え支えた。

「さぁ、僕に寄りかかっていいですからゆっくりと歩いてください。取りあえず、大通りまで行きます」

朱音は左手で田島の上着の後ろ裾につかまりながら、導かれるままに歩いた。

彼の背広から僅かに香るコロンは朱音の知らない香りで、自分を抱き寄せる力強い腕もかつての彼の腕ではないような気がした。


大通りまで出て、手際良くタクシーを捕まえると、朱音を先に乗せ田島も横に乗り込んだ。

「神田さんのお住まいを僕は知らないので、教えてもらえますか?」

「あ……あの、田島さんのご自宅へお先にどうぞ。私はタクシーにさえ乗せてもらえれば後は帰れますから……」

朱音が申し訳なさそうにそう言うと、田島は呆れたように朱音の方に身体を向けた。

「神田さん、お願いですから一度くらい素直に僕の言うことを聞いてもらえませんか!」

その声ははっきりとした怒りを含んでいた。

「意地を張るのもいい加減にしてください。まともに歩けもしないあなたを残して僕が先に帰れるわけがないでしょう?もしも、今の立場が逆ならあなたは僕を残して帰れるんですか?」

「あ、ご、ごめんなさい……」

朱音は小声で謝ると、黙って待っていてくれた運転手に行き先を告げ俯いて唇を噛んだ。

怒られるのも仕方がない。今の自分は、まるで子供が駄々をこねているようだ。

すると、突然、田島が朱音の肩に腕を回し、今度は優しく抱き寄せると朱音の頭にそっと自分の頭を傾けた。

「お願いだから、そんなに僕を嫌わないで下さい……」

呟くような、囁くようなその一言に、不覚にも朱音の瞳から涙が溢れ出した。

嫌いなわけがない。再会してからというもの、どんどん膨らみ続けるこの人への想いが自分の手に負えなくなってきているのだ。

だから、背中を向けようとする。関わらずに済むものならば、そうしたかった。

なのに、会えない日々が続いて心が折れそうになった。たった二週間で自分を見失った。

朱音が声を殺して泣いているのがわかったのかどうかは定かでなかったが、田島の手はいつの間にか朱音の髪を優しくなだめる様に撫でてくれていた。

その優しさが、なおさら朱音の涙を誘う。

……お願いだから、そんな風に優しくしないで!声にならない叫びが胸の中で渦巻く。

それでも、田島の手を振り払う勇気も持てずに、この時間が永遠に続けばいいと、そう思う自分が確かに居ることを恨めしく思う朱音だった。



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