第4話 鉄の女と鼻持ちならない男
それから一週間は、田島からの連絡もなく朱音は胸を撫で下ろす様に過ごしていた。
ただ、例の『根回し』発言が頭の中に残っていた朱音は、いつもよりも殊更慎重に仕事内容を詰めておいた。
向こうが、こちらの提案した企画は全面的に採用してくれるとは聞いたが、そうなれば尚更抜かりがあってはならない。後でクレームを付けられる様な事になれば、あの冷たい眼差しで次はどんな嫌味を言われるかわからない。
まさか、今回の契約がうちが陰で根回しをして勝ち取ったものだなんて、本気で言ったわけではないだろうが、冗談でもそういう事を仄めかされた事が許せなかった。
その日は、この四月から新たな仲間となった新入社員達の毎年恒例の歓迎会だった。
派遣社員が増える中、正社員の採用は年々減ってはいたが、それでも今年も朱音たちの後輩として三人の新しい顔が増えた。
朱音の同期で、総務課の男性社員が幹事を務め、彼の案内で市内の中心部よりの店へと集まった。参加者はあくまでも有志で、今回は総勢二十人程の会になった。
最近流行りのアジアンテイストなその居酒屋バーは、日本というよりもシンガポールやマレーシアのイメージ色の強い洒落た店だった。
「へぇ~!山田にしては、なかなかいい店探してきたわね」
こういう席には欠席した例のない、薫子が感心しながら広い店内を見回した。
彼女が呼び捨てにした山田というのが、今回の幹事である。朱音は軽い苦笑いで頷いた。
真面目を絵にかいたような彼が、雑誌やネットと睨めっこしながら苦労してここを探している姿が容易に想像できる。
奥まった所にあるスペースにテーブルを六台程合わせて、会場にしてもらっていた。配属先の各部署での歓迎会はすでに済んでいたので、今日のメンバーの年齢層は20代で気楽な会だった。
「神田さんって、本当に山田さんと同期なんですか?」
始まって30分程経つと、向かいに座っていた新人の女子が朱音にそう聞いた。
「ええ、そうよ。そうは見えない?」
「はい、いえ、見た目は山田さんの方が年上に見えたんですけど……お話してみると、神田さんの方が先輩みたいに感じました」
「木村さん……だっけ?そこは、遠慮しないではっきり言っちゃっていいのよ、山田は頼りなさそうって!」
二人向こうの席から、薫子が面白そうに口を挟んだ。
「そんなこと!言えるわけないじゃないですか。仮にも同じ部署の先輩ですよ?」
笑って手を振りながらも、思いっきり肯定している後輩に、朱音は意地悪く笑う。
「なぁに?それって遠まわしに私が老けてるって言いたいの?」
「え!?そんなこと言ってませんよぉ!神田さんの評判は良いですから」
「へぇ、どんな風に?まだ一か月しか経ってないのに、もう私の噂話聞いてるんだ?」
朱音が追い立てると、彼女は得意げに頷いた。
「そりゃぁ、神田さんは有名ですよ!今回のR製薬との大口契約は、女性初だって聞きました」
「そうよぉ~!朱音は私達の希望の星なんだから、出世頭のね」
またも薫子が口を挟み、朱音は即座にぴしゃりと反論したかったが、“R製薬”の名前を聞いただけで脳裏に田島の顔が浮かび、一気に気分が落ちた。
「キャリア志向ってやつですか?神田さんなら課長とかあり得ますよね」
「キャリア志向なんて無いわよ。自分が課長なんて、ゾッとするわ!今回はラッキーだっただけよ、たまたまね」
薫子にも聞こえるように、朱音はきっぱりと言い切った。幸いにも誰もそれ以上その話題を掘り下げなかったので、朱音は内心胸を撫で下ろした。
二時間近くが過ぎ、その場が二次会の話題で持ち切りになった頃、朱音はトイレに立った。
なんとか二次会参加を断わろうと理由を探しながら歩いていると、
「やぁ、神田さん、こんばんは」
突然、背後から声を掛けられた。
呼ばれるままに振り返った朱音は、一瞬息を呑んだ。
田島が、すぐ側のテーブル席に座って微笑みかけている。彼の向かいには、見覚えのある女性が居た。
「あ……田島さん、こんばんは」
「奇偶ですね?こんなところでお会いするなんて。今だかつてこんな風に偶然に会うことも無かったというのに」
そこに含まれた多くの意味を一瞬で読み取った朱音だったが、動揺を押し込めてにこやかに笑いながら連れの女性に会釈した。たしか、受付の女性だった事を思い出す。
「そうですね、本当に偶然ですね。」
「デートですか?飲み会ですか?」
言葉ほどの興味も無さげな淡々とした表情で田島が聞いた。
「新入社員の歓迎会です。田島さんは、デートみたいですね?」
澄ました顔で朱音が尋ね返すと、連れの女性が照れ臭そうに微笑んだ。
田島はそんな彼女に目をやると、少し意味有りげな笑みを投げかけた。
「あらためて紹介しますよ、うちの受付案内の内山です」
「こんばんは、
例の透き通った控えめな声で、彼女はそう微笑んだ。
受付で見る制服姿とはまた違って、清楚な印象の美しい女性だった。
「はい、神田です。いつもお世話さまです」
「神田さん、ちょうど良かった。明日にでも連絡を入れようと思っていたところです。今、お時間いいですか?」
田島は思いついたようにそう言うと、朱音の返事も待たずに立ち上がった。
だが、朱音は小首を傾げる仕草で彼を遮る。
「あの、仕事のご用件でしたら、差し支えなければ明日私からお電話させて頂きます。せっかくのお時間を無駄になさらない方が良いかと思いますし、私も今はプライベートですので」
朱音の言葉に、田島は眉を上げた。
「プライベートと仕事は完全に分けて考えるということですか?」
「もちろんです。もっとも、大至急のご用件なら今すぐに御伺いしますが、そうでないのなら田島さんだってこんなお綺麗な方置いてまで仕事の話なんて、無粋なことなさりたくないでしょう?」
おそらくは、お酒の力も手伝って朱音の言葉は若干、強気だった。
酔っている自覚はほとんど無かったが、田島とこんな所で出くわしてしまったことや、彼が女性連れだったことが、なぜか気に障った。
「そうですか……」
田島は、気に入らなさそうに一旦口をつぐんだ後、美夜をチラッと見てから朱音に視線を戻した。
「彼女は私の仕事に関しては一番の理解者ですから、そんな心配も要らないのですが……まぁ、せっかくの神田さんのお気遣いですから、ここは引き下がりましょう。明日、必ず連絡させて貰いますので、そのつもりでいて下さい」
言葉そのものは丁寧だったが、その表情にはわずかな険しさが漂った気がした。
よけいなお世話だとでも言いたいのだろうか?
朱音は、逆らうようにわざとニッコリと微笑んで見せる。
「はい、お待ち致してしております。では、私はこれで……」
そこで田島の向こう側にいる美夜に、声を掛ける。
「内田さん失礼しますね、お邪魔してごめんなさい」
「あ、とんでもない!こちらこそ失礼しました。お引き留めしちゃって」
田島を挟んで、二人の女性は微笑みあった。そして、背中に彼の視線を感じながら、朱音はその場から立ち去った。
二次会定番のカラオケ行きを苦労して断り、朱音はリュージュへと向かった。
とてもカラオケに付き合えるような気分じゃなかった。
かといって、真っすぐ家へ帰る気にもなれずに理解不能のイライラを抱えて朱音は、飲み直そうと思った。
「こんばんは!マスター」
勢いよくドアを開けた朱音に、マスターはニヤッと笑った。
「やっぱり当たりや!そろそろ来るころやと思っとったわ」
「何それ?誰かと賭けでもしてたの?」
朱音が苦笑いと共に数人の先客に会釈しながらカウンターの端の方に座ると、マスターが得意げに前に立った。
「いやいや、今週中にはきっと朱音ちゃんが来ると予感しとったんや」
「どうして?またマスターのウソ臭い霊感ってやつ?」
「ウソ臭いって……ひどい言われようやなぁ!でも当たったやろ?」
マスターはハッハッと笑いながら、いつものジントニックを作りだした。
「そろそろ朱音ちゃんが不満やイライラを抱えて、ここへ吐き捨てに来る頃やと思ってな。で、その顔つきからすると当たってるやろう?」
「そんなにひどい顔してる?」
「まぁ……苦虫つぶした、って感じやな」
「そっかぁ……でも、そうね。ひどい10日間だったから」
朱音はふぅっと深い溜息をつき、目を閉じた。マスターの言うとおり、ここに来ると色んなものを吐き出して置き去りにさせてくれる。
「なんや、もう、どっかで飲んできた帰りか?」
「うん、会社の飲み会だったの。ほんとはそのまま気持ち良く家に帰るつもりだったんだけどね」
「気持ち良く帰れない事に、出くわした……か?」
グラスに口をつけながら、朱音は笑った。
「そう!またもや偶然に、例の元彼にバッタリ!ほんっと、なんでだろう?四年間、それこそ街中ですれ違うことすら無かったっていうのにね。一度会い始めると面白い位に会えちゃう」
「それが、人の縁(えにし)というものやろな。その元彼さんとは、まだ何かしらの縁が続いているんかもしれんで?」
真顔でそう言ったマスターの顔を見つめながら、朱音はふと、マスターには自分の気持ちがわかっているんではないかと思った。
この二年間かたくなに閉じ込めてきた想いに。
「マスター、ちょっとテラスに出てもいい?」
朱音がグラスを置きながら聞いた。
この、マンションの一室を改装して店舗使用しているリュージュには、かなり広いテラスがある。
角部屋ということもあって、少し変わった造りになっているそのテラスには、店の奥から自由に出入りできる。真夏になると、リュージュ特設のビアガーデンにもなり、
10階という高さからの夜景もまずまずなのだ。
また毎年恒例の、マスターの主催の常連客限定のバーベキューパーティーが昼間のテラスで開かれ、朱音もこの二年続けて参加していた。
「いいけど、五月といえどもこの時間はまだかなり冷えるで?大丈夫か?」
「頭冷やすには、もってこいでしょ?」
朱音が無邪気に笑うと、マスターは大袈裟にテラスへ続くドアの方へ手を差し出した。
たしかに、マスターの言うとおり外は寒い位だった。高さも手伝って風が冷たい。
朱音は一番せり出した所まで進み、手すりにそっともたれかかって夜景を眺めた。
そう、本当は、誰よりも優に逢いたかった。
彼への本当の気持ちを自覚してからというもの、それは朱音の心の奥底に揺るぎないものとして息づいていたのだ。
だが、それと同時に、二度と逢うことは叶わない相手だとも思っていた。
一方的に傷つけて、あんな別れ方をして、やっぱりあなたが好きでしたなどと、どの面下げても言える事ではなかった。
だから、いつかはこの想いも葬り去らねばならないのだと決めていた。
なのに、こんな想像の遥か上をいく形で再会してしまった。
だが、四年振りに会ってしまった彼は、完全に別人のようだった。
あの、優しすぎるくらいの純粋な彼の姿はもうどこにも見当たらず、それが朱音を戸惑わせた。
たしかに田島 優なのに、同じ顔をしたどちらかといえば嫌いな鼻もちならないタイプの男性にとって代わっている。
あんな風に嘲け笑うような優は見たことが無い。でも、どんなに変わてしまっていたとしても、自分がずっと想い続け、罪の意識を抱き続けているのも、彼に間違いなかった。
あの、美夜という女性は彼の恋人だろうか?ただの同僚という雰囲気ではなかったと思う。綺麗で清楚を絵に描いたような女性……そこまで考えて、朱音は頭を左右に振った。何を今さら……。
この苛立ちは嫉妬だろうか?誰かに焼もちを妬く資格など、とうの昔に失っているというのに。
この身勝手な想いだけは、絶対に知られてはならないのだ。どんなことが起きようと、彼にだけは隠し通さなければならない。
朱音は、冷たい風に頬をさらしながらそう固く誓った。
必要以上には何も聞かずに、馬鹿話でたっぷりと笑わせてくれたマスターに別れを告げて、朱音は心持ち軽くなった気分で帰路についた。
平日だというのに、少しばかり長居をし過ぎたせいでバスの最終はとっくに終わっていた。地下鉄で帰っても、駅からはタクシーを拾う事になる
朱音は、思案して直接家までタクシーで帰る選択をした。
大通りまで出て、タクシーを探す。週末ならば、そこらかしこに流しているタクシーも平日はおとなしく、数も少ない。
空車ではなく、何台かの賃走車を見送った時、一台のやはり賃走のタクシーがすぐ傍で止まった。朱音が不思議そうに小首を傾げると、スーっと後部座席の窓が降りた。
「また、会いましたね。タクシーをお探しのようですが、御一緒にどうですか?」
二時間半前に別れた、田島が窓から顔を出して微笑んだ。
“会い始めると、面白い位に会えちゃう!”マスターに言ったセリフが頭に浮かび、朱音は思わず苦笑してしまう。
「……先程は、失礼しました。田島さんも今お帰りですか?」
「そうです。平日のこの時間は、なかなかタクシーも通りではつかまらないでしょう?よかったら同乗しませんか?」
「………内山さんは、御一緒ではないのですか?」
田島の向こう側に美夜が座っているのではないかと、朱音は尋ねたが、田島は少しおかしそうに笑い、肩をすくめた。
「それをあなたに報告する必要は感じませんが……彼女は、当然先に送り届けましたよ、時間が時間ですからね。その帰りです」
朱音はその彼の言い方がまたもや気に障った。
別に詮索をしようと聞いたわけではない。むしろ気を使ったのだ。誰も、報告してくれなどと言ってない。
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です、こんな時間ですけど、一人で帰れますから御心配には及びません」
朱音が、にこやかな笑みと共に皮肉たっぷりに答えると、田島はわずかに眉をひそめた。
「とんでもない、こんな時間に女性を一人で帰すほど私は礼儀知らずではありませんよ。さぁ、乗って下さい」
そう言って、ドアを開けて長い脚を伸ばして降り掛けた田島を、朱音は片手で遮った。
「田島さん、いいんです、本当に結構ですから。第一、帰る方向が正反対かもしれませんし」
そこで一旦言葉を切り、朱音は控えめに微笑んだ。
「仮に同じ方向だとしても……私は得意先の方に仕事とは関係ないところで送って頂くほど礼儀知らずではありません」
可愛げのないセリフだと思った。本来なら得意先に向かって言う言葉ではないと思うし、普段の自分ならそんな事は絶対に言わないだろう。
だけど、今彼と一緒にタクシーに乗って帰ることなど、逆立ちしても考えられない朱音だった。
今回の仕事は、もう始まってしまったことだから仕方ないにしても……それ以外では、極力距離を置こうとさっきリュージュのテラスで決めたばかりなのだ。
朱音の頑なな態度に、顔を引きつらせて何かを言おうとした田島に対し、朱音はその隙を与えなかった。
「田島さん、お気をつけてお帰り下さいね。私はこれで失礼します、おやすみなさい」
最後は田島の反応も見ることなく、くるりと背を向けてスタスタと歩きだした。
5メートルも歩いたところで、後方からタクシーのドアが閉まり、走り去るエンジン音が聞こえてきた。
朱音は遠ざかるエンジン音に、立ち止まって目を閉じた。おそらく彼は、呆れているか怒っているだろう。こんなことでは、先が思いやられる。
これからの五か月近く、嫌というほど顔を合わせるというのに、これでは神経がもたない。
朱音は本当に久しぶりに、泣きたくなった。
次の日、午後一番にお待ちかねの田島からの連絡が入った。
今か今かと神経質に待ち構えているよりも、さっさと済ませてしまいたかった朱音だったが、電話口に出るとそう簡単には済まないことを思い知らされた。
「神田さん、昨夜は不躾で失礼しました。無事タクシーはつかまりましたか?」
「田島さん、お気遣いいただきありがとうございます。あの後、問題なくすぐにつかまえることが出来ました」
昨日の自分の態度から、嫌みの一つも言われるのではないかと若干構えたが、田島はそれ以上は触れずに、仕事の要件に入った。
「実は、神田さんにお手伝いしていただきたい作業が出来ましてね。御協力していただけますか?」
「はぁ、なんでしょうか?」
「本格的な打ち合わせに入る前に、うちで今回の旅行についてのアンケート調査を行いたいと思っています。すべては叶えられなくとも、なるべくなら社員の希望や要望を取り入れたいのでね。どう思われますか?」
「もちろん、とても良い案だと思います。会社側の押し付けではなくて、社員主体に考えているという事が皆さんに伝わる良い手段だと思います」
「神田さんにそう言って貰えると、心強いです。で、そのアンケートの作成にすぐに取り掛かりたいのですが、今晩はどうですか?」
「え?……」
いきなり話が結論に飛んで、朱音は戸惑った。
「あの、私がそのアンケートを作るのですか?」
「そうですよ。私と一緒に、です」
「田島さん、社内に向けてのそういったアンケートでしたら何人かの総務課の方たちで作られるのがベストではないですか?」
「それがベストなら、当然そうしていますよ」
ぴしゃりと即答されて、朱音は困惑する。
「では、私がアンケート作りに参加する事がベストだと考えていらっしゃるんですか?」
「そうでなければ、こんな提案はしませんよ」
あきらかに苛立だしげな溜息が電話の向こうから聞こえた。
「神田さん、私はあなたに遠まわしにノーと言われているのですか?」
「いえ、決してそういうわけでは……」
「では、最初の契約時に了承して頂いた通りに御協力願います。今夜はいかがですか?日中は私も時間が取れないので、夜にお会いしたいのですが。今夜が駄目でしたら、明日では?なるべく早く作成して配りたいと思っているので」
今度は一気に捲くし立てられて、朱音はうんざりと目を閉じた。
「……わかりました。今夜で結構です、どこに伺えばよろしいですか?」
田島は、朱音の会社近くの有名なファミリーレストランを指定してきた。
時間を決める際には、朱音の都合も聞かずに一方的に7時にと言い渡された。
私に残業があるとは思いもしないのだろうか?と軽い怒りも込み上げたが、あえて呑み込んだ。
それが彼の気遣いだったのかどうかはわからないが、待ち合わせ場所は朱音の会社から歩いて10分とかからない所にあった。
何回かその店の前を通ったことはあったが、中へ入るのは初めてだった。
充分な余裕をもって向かったはずが、田島はすでに席に座っていて朱音が案内されて来ると礼儀正しく立ち上がった。
「こんばんは神田さん、御足労有難うございます」
いつもの完璧な笑顔と態度の田島に、朱音は丁寧に頭を下げた。
「すみません、お待たせしてしまって」
「いえ、私が早すぎました。週末ですのでちょっと場所的に騒がしいですが、我慢して下さい。本当はもっと静かな個室のある店を取ろうかとも思ったのですが……」
「いいえ、ここで充分です。ファミレスは、私達も時々打ち合わせに利用しますから」
朱音は、“静かな個室”という言葉に敏感に反応して嘘を言うと、慌てて作り笑いと共に付け加えた。
「何よりもコーヒーが飲み放題、というのが打ち合わせには魅力的な条件じゃありませんか?」
田島は朱音のちょっと慌てたような笑顔に一瞬目を留め、すぐにニッコリ頷いた。
「同感です。我々のようなしがない若手サラリーマンにとってはですね」
最初の出だしの雰囲気が良かったせいか、その後の打ち合わせはスムーズに進んだ。
お互いに軽い夕食をとり、食事中もアンケートについての意見交換をした。
意外にも、朱音は今回のアンケートに対しての田島の考えに感心した。
それはとても合理的で無駄のない考え方だった。
自社の総務で、ランダムに自分たちの想像や希望を取り入れてのアンケート作りもいいが、それでは集計してから朱音にチェックしてもらい、実現可能、不可能に振り分ける事が二度手間になるという。
ならば、最初から朱音本人に監修してもらい、予算的にも実現可能な部分だけをピックアップしてアンケートを作れば、簡潔になる。
「それに、一番の目的は社員に対しての会社側のイメージアップですから」
「その上、社員の希望も取り入れられれば一石二鳥、ですね」
抜かりのない田島のやり方に内心唸りながらも、朱音は苦笑いを噛み殺した。
彼はいつからこんなにやり手になったのだろう?この人が今回の総責任者に選ばれたのにも頷けるな、と思う。
昔の彼には無かった印象だった。大学の時のテニスサークルでは副キャプテンを務めていたが、やり手というよりも、とにかく気遣いに長けていた。
それはやはり彼本来の優しさからくるもので、常にムードメーカーであろうと明るさや笑顔を絶やさない人だった。
そんなにいつもニコニコしていたら疲れちゃうわよ?とは、当時朱音が心配して言った言葉だ。
「神田さん?どうかされましたか?」
ぼんやりと無意識に短いタイムスリップをしていた朱音に田島が尋ねた。
「え?あ、ごめんなさい、……アンケートの内容を考えていたら、ボーっとしてしまいました」
慌ててそう言って笑った朱音に、田島は首を少し傾けた。
「本当にアンケートのことですか?いや、なんだか随分と遠くを見ていたみたいに感じましたよ」
冗談なのか、本気で言っているのか、田島は妙に真剣な目差しで朱音の目を覗き込んでから、軽快に笑った。
その一瞬の真剣な目差しが、昔の優の仕草に重なり、朱音の心臓は跳ねあがる。
予想外の動揺に、朱音の頬が僅かに赤く染まる。
「おや、神田さんでも赤くなることあるんですね」
「私でも、って……一応は感情ある人間ですから」
田島は、朱音の反論に面白そうに笑う。
「これは失礼、昨夜のあなたの頑なさからすると、冷静沈着な鉄のような女性かと思っていました」
突然の昨夜の自分の態度に対する非難めいた言葉に、朱音は肩をすくめて見せた。
「“鉄の女”ですか……そうなれればいいのに、とは時々思いますけど」
そうすれば、こんな風に昔の男と向き合う事ぐらいで動揺などせずにいられるはずだもの……心の中でそう付け加える。
「本気ですか?あなたは昔から凛とした女性でしたから、それで充分じゃないですか。なにも鉄の女なんかを目指さなくとも!」
「ありがとうございます。さぁ、そんな事より、そろそろアンケート内容決めてしまいましょう?」
話の雲行きがおかしな方向へ行かないように、朱音は毅然とした笑顔と共に話を断ち切った。
「今夜は、遅くまでお付き合い有難うございました」
すべてのアンケート内容を決めて、店の外に出たのは10時に近い頃だった。
「こちらこそ、御馳走になってしまって、よろしかったんですか?時間外とはいえ、れっきとした打ち合わせですから、経費で落として下さいね?」
朱音が割り勘を申し出ても頑として受け付けなかった田島に対し、可愛げがないとは思ったが、彼に借りを作るのが嫌でなんとなくこだわってしまった。
そんな朱音に田島は呆れ顔で笑う。
「どうしても、とおっしゃるのなら経費で落としますから御心配なく」
それから、少し前かがみになって確認するように朱音の顔を覗き込む。
「ついでにお聞きしますが、私は今日ここまで車で来ています。当然のことですが、神田さんを御自宅までお送りしたいと考えているのですが……今日は昨日と違って仕事の延長上ですから、素直に受けて頂けますか?」
またもや昨夜の続きを持ち出され、まるで子供にでも言い聞かせるような彼のゆっくりとした口調に、朱音は再びカチンときた。
そして、わざと同じようにゆっくりとした動作で腕時計を確認して、ニッコリ笑って見せる。
「今日は、まだバスの最終がありますので、送っていただかなくても大丈夫です。お気遣い有難うございます」
予想通りの朱音の返答に、田島は呆れ顔で空を仰いだ。
「神田さん……あなたの取引先とのお付き合いはいつでもこんな感じですか?」
「こんな感じ、とはどういうことでしょう?」
田島の瞳が、意地悪そうに光る。
「誰にも、どこにも依存しない、貸しを作らない、借りも作らない……違いますか?」
「そこまで極端かどうかはわかりませんが、ビジネスライクでのお付き合いが私の仕事でのモットーです。それ以上も、それ以下もありません。その方が、お互いに楽ではありませんか?」
「もちろん、過剰な乗っかり合いは反対ですが……」
田島は小さく頷きながらもちょっと言葉を切って、ジッと朱音を見つめた。
「今回のようなパターンは稀でしょうが、私のようにたまたま昔の知り合いが仕事相手でも、こんな風に四角四面なお付き合いですか?」
この人は私に何を言わせたいのだろうか?朱音は、訝しげに目を細めた。
「得意先の方が以前からの個人的な知り合いであれば、尚更気を付けます。そこに変な慣れ合いのようなものが生まれてしまうと誤解を招くからです。“陰で取り入って、もしくは前もって根回しをしてその仕事を手に入れたのではないか”……などと思われないようにです」
朱音はここぞとばかりに、例の“根回し発言”に対しての反撃に出た。
それに、今回の仕事上でのお互いの立場、やり方をはっきりさせたかったのだ。
毎回毎回、言葉を選びながら腹の探り合いのような事は続けたくはない。
「なるほど……以前私が言ったことを根に持たれていたというわけですか。でも、私はそうは思っていませんよと、訂正したつもりでしたが」
田島の顔に、あの冷やかな笑みが浮かぶ。朱音は毅然と顔を上げた。
「根には持っていませんけど、あの時は決して良い気分ではありませんでした。でも、私が言いたいことは、また違います」
「そうですか?では、一つだけはっきりさせておきましょう」
そう言った田島は妙に真剣だった。
「なんでしょうか?」
「私達の昔のことです。学生時代の、そう、ちょっとした気の迷いというか、若気の至りと言った方が適切かな?勿論、覚えていらっしゃるでしょうが」
朱音は田島のその言葉に凍りつく様に固まった。
「神田さん、まさか昔のつまらない事にこだわってはいませんよね?そのせいで私との仕事がやりにくい、とか」
“ちょっとした気の迷い”、“若気の至り”、“つまらない事”……田島の口から出た辛辣な言葉の数々が、朱音の胸をえぐった。
まさか、あの優しくて一途だった彼の口から昔の事をそんな風に言われるなど想像したことも無かった。
「……いいえ、……そんなことはありません」
絞り出すような小声で、そう答えるのが精一杯だった朱音に対し、田島は意地の悪い笑みを浮かべてたたみ掛けるように続けた。
「当然ですよね?あれから四年も経っていて、今更やりにくいもないでしょう?それに我々はもうあの頃のような学生ではなくれっきとした社会人ですから……少なくとも私はそう考えてあなたと接しているつもりです。ですから、そんなに神経質にならずにもう少し肩の力を抜いていただけませんか?」
朱音は、喉の奥の方に何かが込み上げてくるような息苦しさと闘いながらも、少し睨むように田島を見た。
「それは、私が、実は昔の事を気にしていて、その事を気にするあまりに頑なな態度をとっているということですか?それが、仕事をやりにくくしていると?」
「そうじゃないんですか?」
見透かしたかのように微笑む田島に、朱音の中に激しい怒りが込み上げた。
「お言葉ですが……それは田島さんの考え過ぎではありませんか?私の記憶違いでなければ、全ては四年前に片が付いている事ですから、私が気にする理由はどこにも無いわけです。でも、たまたま再会したからといってあなたのおっしゃる“つまらない若気の至り”の思い出話に花を咲かせたいとも思っていません。それとも、田島さんはそういう事も含めて、昔を懐かしみたいと思っていらっしゃるのですか?」
朱音の問いかけに、田島の顔も一気にこわばった。
だが、一旦溢れ出した怒りは収まらず、朱音の言葉も止まらなかった。
「田島さん、勘違いしないで下さい。あなたが昔の知り合いでも、そうでなくても、私の考え方は同じです。例えば今夜のように打ち合わせの度に食事を御馳走になることや、機会があるごとに送って頂いたりすることが、打ち解けたリラックスした関係だとはどうしても思えません。線を引く所はきちんと線を引く、……それが私のビジネススタイルです」
今まで、ここまでの意思表示をしなかった朱音が一気に話し終えると、田島は思いのほか真剣な目差しでしばらく朱音をジッと見つめて、それから突然フッと微笑んだ。
「それがあなたの譲れないラインということですか……なるほどね」
だが、一方の朱音は怒りにまかせて言い切ったものの、自分の発言に多くの嘘が含まれている後ろめたさに傷つき、俯いてしまった。
昔の事にこだわっているのも自分の方だし、今も尚その想いを引きずっているのも自分だ。
田島に“つまらない過去”扱いされて、どうしようもなく腹が立った。
勿論、自分にそんな資格がないことはわかっていても。
「田島さん、すみませんが、最終のバスの時間ですのでこれで失礼させて頂きます」
朱音は、まだ何か言いたそうな田島の顔に済まなそうに笑いかけ、頭を下げた。
また、逃げ出すのですか?と言われる事を覚悟しながら彼の返答を待ったが、……田島はそれ以上何も言わず、頷いた。
「わかりました。遅くまでお引き留めして申し訳ありません、気を付けてお帰り下さい」
「こちらこそ、今日は有難うございました。また、来週御伺いします」
朱音はもう一度丁寧にお辞儀をして、バス停の方に歩きだした。
彼に背を向けた途端、不覚にも涙が滲む。今、泣くわけにはいかない。
彼の前では、たとえ後姿であろうとも、弱い自分は見せたくなかった。
そして、……そんな朱音の背中を見送っていた田島のその表情が、ひどく辛そうで傷ついたような、かつて朱音がよく知っていた田島 優そのものだったことに気付くことも、勿論なかった。
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