第3話  別人のような元カレ



「神田君!すぐに第2会議室に来れるかね?いや、手が開き次第来てくれ!」

川上課長がデスクからそう声を張り上げて、いそいそと部屋を出ていった。

それが何を意味するかは、朱音にはわかり過ぎるほどわかっていた。あの、思いもよらなかった田島 優との再開から五日間、朱音は息を殺す様に密かに落選することを祈りながらこの時を待っていたのだ。


「おめでとう!神田君、今回のR製薬との契約はうちに決まったよ。よくやった、君のお手柄だ!」

きっと、祈りが足りなかったのだ……朱音は川上の満面の笑みを見つめながら、そう思った。

「何よりも、榎本さんが君の企画を気に入ってくれたらしい。決め手は、例の家族同伴者用の露天風呂付き部屋だったという話だ。役職クラスにそういった部屋を用意するのは、他社もやっているが、一般社員にまで、というのはうちだけだったらしい。その他の、女性向、子供向け、独身社員向けの特典も細やかで素晴らしいと、担当者の田島さんが話してくれたよ」

そりゃぁそうだろう。今回の企画は一番力を注ぎ、練りに練った自慢の企画だったのだから。あんな事さえ起きなければ、本当なら川上と手を取り合って喜びたいくらいだ。

「………ありがとうございます。」

今の朱音は、力なくそう言うしかなかった。川上は、そんな朱音の沈み具合にも気付くこと無く、喜々として次々と朱音の提案した企画類を評価していった。

まるで目の前の上司が無声映画のように見えてきた朱音は、泣きたいような、怒りたいような気分を振り払うために、机の上に置いていた両手をそっと膝の上に下ろし、力まかせに手の甲をつねった。

その飛び上がりそうな痛さを、奥歯を噛みしめて耐えているうちに、徐々に冷静さを取り戻せた気がした朱音は、背筋をしゃんと伸ばす。

そして、あの、動揺も驚きも微塵も感じさせなかった優の涼しげな顔をしっかりと思い出す。

そう、そうなのだ。彼が、私の事を覚えていたとしても、その仕事相手が昔の恋人であったとしても、今回の契約先にうちを選んだという事は、そこに何らかの感情移入は一切無いという事ではないか。あくまでもビジネスライクで、私の企画を最大に認めてくれたからこそ、今回の契約に至ったのだから。

こちらが尻込みするなんて馬鹿げている。ましてや、全てはもう四年も昔のことだ。それも学生時代の。記憶の隅に少しぐらいの気まずさがあったとしても、素知らぬ顔をして微笑みあえるくらいの大人な年齢のはずだ、お互いに。

朱音は、自分の不安に揺れる心に必死に言い聞かせた。しっかりしろ!と。

それでもめげそうになる気持ちに鞭打って、朱音は川上の激励の握手の手をニッコリ笑って取って言った 「頑張ります!」 と。



次の日、朱音はさっそくR製薬を訪れることとなった。

正式な契約と、今後の打ち合わせのスケジュール調整のためで、もうそこには上司の川上も、相手方上司の榎本の姿も無い筈だった。本当の、二人だけの再会……。

前回、会社別に面談をした同じ会議室に通され、朱音はキリキリとした胃の痛みと闘いながら、彼を待った。神経質に、目の前に置いたクリアファイルに挟んだ書類に目を通す。もう五回目だ。

10分程待った時、軽いノックの音と共に田島は姿を現した。


「すみません、お待たせしました。急ぎの電話に出ていたもので」

隙のない営業スマイルで軽く頭を下げた田島は、今日も完璧だった。

濃いグレーのダブルの細身のスーツに、僅かにクリームがかった色のカッターシャツは彼の綺麗に日に焼けた顔を際立たせていて、朱音は、思わず見とれそうになった自分を叱りつけて、すっと立ち上がった。

「いいえ、お忙しいのは充分承知しておりますので、お気を使われませんように。今回は、わが社をご指名いただきまして、誠に有難うございました。あらためて、どうぞよろしくお願い致します」

朱音も負けじと、とってつけた様な営業スマイルで丁寧に頭を下げた。

田島は、一瞬だけ朱音の顔を見つめ、すぐに微笑んで座ってくださいと、椅子を勧めた。

「では早速ですが、まず契約書の確認と御署名をお願いします」

朱音がファイルから手早く、さっき五回も確認した書類を取り出して田島の前に差し出すと、彼は黙ってその書類に目を通し始める。

俯き加減の田島の顔を、朱音はそっと観察した。

長いまつ毛、日に焼けた長くしなやかな指、真っすぐな鼻筋、大きめで形の良い口元、どれも朱音の記憶の中の彼そのものだった。だがそこに、学生の頃には無かった精悍さが加わり、彼独特の少年っぽい感じも消えている。


「まぁ、見させて頂いたところ、特に問題は無いですね。ただ、幾つか付け加えるか、神田さんに了承して頂きたい事があるのですが」

「私が了承、ですか?契約事項の内容にですか?」

田島の顔に見入っていた事を悔やみながら、朱音は慌てて反応した。

「ええ、大したことではありません。私の案にあなたが了承して頂ければ、わざわざ契約書に付け加えることもありません。そのくらいの事です」

「……なんでしょうか?」

朱音は、量りかねて首を傾げた。

「神田さんのところでは、通常この手の打ち合わせは、旅行実施までに何回ぐらいされますか?」

「そうですね……その旅行の規模や人数によっても若干変わりますが、大体は4、5回で充分だと思います」

「私は、もっと多くの打ち合わせを望んでいます。普通の社員旅行よりもこと更綿密なものをです」

「はぁ……勿論、綿密という事ででしたらご希望に添えるように努力させて頂きますが」

田島は、相変わらずのにこやかな笑顔のまま朱音をじっと見た。

「そうですね、こういうのはどうですか?神田さんが提示してくださった企画内容は、ほとんど呑みます、予算面でも可能に出来ると思いますから。その代わりといってはなんですが、今回の旅行においての私の仕事を手伝って頂けないでしょうか?」

彼の仕事を手伝う?……朱音は、いまいちその意味を把握できずに眉間にしわを寄せた。

「田島さんのお仕事で、私がお手伝いできる事があるのですか?」

「勿論、神田さんと今回の旅行を成功させる事が最も大きな仕事ですが、その他、旅行先でのイベントなんかも考えて手配、準備したり、何かと根回しする事が多くて、大変なんですよ」

「根回し……ですか?」

「そうです、根回しです。神田さんは今回のプレゼンでは根回しされなかったのですか?例えば、私の上司の榎本、とか」

そう言った田島の顔は、朱音のこれまでの彼に関する記憶には覚えのない、冷たく皮肉的な表情だった。田島の言葉を受けて、朱音の眉間のしわは深くなる。

「それは、私が、今回の契約の為に榎本さんに根回しをしたのか?ってことですか?」

「いえ、お聞きしてみただけですよ、榎本が随分とあなたを買っていたものですから」

「榎本さんが買ってくださったのは、私ではなく、私の企画案だと思っていますが?」

朱音はそこで言葉を切り、わざとらしく首を傾げてみせた。

「勿論、田島さんも私の“企画案”を認めてくださったと、うちの川上から聞いています。違うのですか?それに、私が榎本さんに御目に掛かったのは先日のプレゼンの時が初めてです」

田島は、朱音の穏やかな抗議に、苦笑して大袈裟に両手を上げた。

「いや、そんなに神経質にならないでください。なにも本気であなたが榎本に陰で取り入った、などと思っているわけではありませんから」

その、妙に神経を逆撫でするような物の言い方に朱音は苛立ったが、その反面、初めて見る彼の皮肉的な一面に驚いてもいた。

「そう願います。私の営業方針に、今だかつて“陰で取り入る”というやり方は存在したことがありませんので」

「それは、潔いいやり方だ。そういう強さは、昔のままなのですね」


それはあまりに突然のひと言だった。朱音は息をのんで、目を見開いた。

田島の顔には、再び例の皮肉めいた冷たい笑みが浮かんでいる。

「勿論、神田さんのことは覚えていましたよ、前回御目に掛かった時から。ただ、私なりの配慮はさせて頂きましたがね。プレゼンの相手先の中に昔からの知り合いが居るとなれば、変な憶測を呼ぶことになりかねないと思ったものですから」

「……それは、お気遣い恐れ入ります」

得体のしれないショックを隠して、朱音はそう言うのが精一杯だった。

「四年振り、ですかね?お元気そうだ、相変わらずお綺麗だし」

朱音は、手元の書類に視線を落としながら、この目の前の皮肉めかして笑う男が、自分の知っている男とは別人のような気がした。

「田島さんも、御立派になられたのですね。あまりに変わられたので、最初お名前を伺うまでは気が付きませんでした」

朱音なりの皮肉を滲ませたつもりだったが、それは田島の大笑いにかき消される。

「まさか!それは、ないでしょう。あなたは私の姿を見た途端に動揺されていたじゃないですか?私が、気付かなかったとでも?」

朱音は、思わず目を見開いて彼を見た。この人は、知っていたのだ!素知らぬ顔をして、涼しい顔をして、私のことなど目にも入らない振りをして、実はちゃんと見ていたのだ。

朱音は、徐々に込み上げてくる怒りを押し殺して、口元だけに笑みを浮かべた。

「田島さん、昔話はそのくらいにして、打ち合わせに戻りませんか?」

「あなたらしくない、逃げるんですか?」

田島のからかい口調に、朱音はうんざりと目を閉じて、そして真っ直ぐ彼を見据えた。

「いいえ、これは私なりの配慮です。昔の話を続けるのも結構ですが、あまりいい気分になる話ではないのではありませんか?お互いに……とくに、田島さんにとっては」

最後の一言は、さすがに田島の顔をこわばらせた。

「さすがに、冷静ですね。おっしゃる通りだ、続けましょう」


その日のその後の打ち合わせは、何事もなくスムーズに進んだ。

要は、朱音の提示した企画案は、ほぼ全面的に採用する代わりに、朱音は田島の要望があれば極力いつでも出向いて応じる、といった約束が交わされた。

その交換条件のようなものは、朱音の意識のどこかに腑に落ちない引っかかり方を残したが、その時は特に気に留めることはしなかった。


「では、今日のところはこのくらいにしましょう。実際に内容を詰めていくのは、次回の打ち合わせでということでよろしいですか?」

田島がファイルを閉じながら、朱音に同意を求めた。

「はい、それで結構です。次回は、再来週の水曜日に御伺いさせて頂くということでよろしいでしょうか?」

「ええ、それまでにこちらからお手伝いをお願いする事が無ければ、予定通りで結構です」

田島の返答に、朱音はやはり何かが引っかかった。

「あの、もし今の段階で私がお手伝いできる事がわかってらっしゃいましたら、お聞きして対処させて頂きますが?」

「いえ、今はありません。また連絡させて貰います」

田島は即答すると、ファイルと手帳を手に即座に立ち上がった。

つられて朱音も慌てて立ち上がると、田島はにこやかに右手を差し出した。

「これから約五か月間、よろしくお願いします」

朱音は、一瞬だけ躊躇して、ゆっくりとその日に焼けた大きな手を握った。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

実に、四年振りに触れることとなった、元彼の手だった。



田島と別れ、振り返ることなくR製薬を後にした朱音は、何かから逃れるように早足に地下鉄に乗り込んだ。

夕方前の電車は、ラッシュ時のように混んではおらず、力なく崩れるように端の座席に座ると、その脱力感のような感覚から、自分がどれ程緊張していたかを思い知る。

この二年間、自ら厳しく封印してきた彼への想い。思い出すことすら禁じていた彼を目の前にして、その四年の月日の長さを実感した。

彼は、まるで別人のようだった。

かつて、“テニスの王子様”と呼ばれた爽やかボーイは、自信家のやり手の営業マンになり、その優しすぎた元恋人は、皮肉な笑みを浮かべる男性に変わっていた。

「五か月……」 小さなため息と共に、そうつぶやいた。

たった数時間向き合っていただけで、これ程疲れるというのに、この先五か月近くもやっていけるのだろうか?ましてや、彼は自分の知っている“田島 優”とはすっかり変わってしまっている。

それも、間違いなくやりにくいタイプだと確信できてしまうほどにだ。

彼は言っていた、『私の仕事を手伝って下さい』と。それがどういう意味を持つのか、今の段階では全く見当もつかない。ただ、今回の仕事が今までこなしてきた物よりもずっと、ややこしくなりそうだという事は、予想できる。

朱音の胃は、再びキリキリと痛み出した。

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