第6話 偽りの恋人
「ねぇ、先週はちゃんと帰れたの?」
三日間の添乗に出ていた薫子が、朱音のデスクに近づき小声でそう聞いたのは、初めて二人きりで飲みに行った次の週の木曜日だった。
「なんとかね、あんまり覚えてないんだけど……」
朱音は、苦笑いと共にそう白状した。
「はい、これ会津のお土産!朱音にあげるわ」
親指ほどしかない小さな赤ベコの置物をデスクの電話の横に置いた薫子を、朱音は驚いたように見上げた。
「どういう風の吹きまわし?あなたがお土産だなんて!」
薫子は、腕組みをしながらきまり悪そうに笑った。
「何も魂胆なんかないわよ!まぁ、ほんのお近づきの印よ。お客を土産物屋に案内してこれを見た瞬間に、真っ赤に酔っぱらった朱音を思い出しちゃったんだもの」
「ご挨拶ね……あんな風に飲み過ぎるなっていう教訓にしろってことね?」
朱音が睨むようにそう言うと、薫子は慌てて手を振った。
「そうじゃないって!また飲みに行こうってことよ。結構楽しかったから……」
朱音は彼女らしくない弁解に、クスクス笑った。意外にも可愛いと思ってしまう。
「私に劣らず素直じゃないわね!最初からそう言えばいいのに。でも、了解!また行きましょ?」
あんな飲み方は二度としないけどね……心の中でそう付け足して微笑むと、薫子もニンマリと笑い返した。
あの日、自分がどうやって帰ったかを、覚えていないわけがなかった。
田島に酔い潰れたところを助けてもらった上に、最後は彼に抱き寄せられて、泣いてしまった。
今思い出しても顔が熱くなるし、あの日の醜態は、消せるものなら消し去ってしまいたいと本気で思っている。
彼がタクシーの中でぽつりと呟いた言葉……
『お願いだから、そんなに僕を嫌わないで下さい…』
その声が頭の中から離れなかった。
あの後、田島からの連絡は未だに無い。本来なら、こちらからお詫びと御礼の電話をするべきなのに、どうしても受話器が取れない朱音だった。
「神田さん!2番に外線入ってます、R製薬さんです」
もたもたと思いきれないでいる内に、結局、向こうからかかってきた。
朱音は早鐘のように打つ胸の鼓動を抑える様に、軽く深呼吸をして受話器を取った。
「お待たせいたしました、神田です」
聞きなれた田島の声を待っていた朱音の耳に聞こえてきたのは全く違う声だった。
「こんにちは……すみません、突然お電話差上げて……私、内山美夜です」
予想もしていなかったその声の主に、朱音は一瞬息をのんだ。
「あ、……こんにちは、内山さん。……ご無沙汰しておりました」
嫌がおうにもテニスクラブでの場面が思い出される。
「あの……」
美夜は、何かをためらって言い淀んでいる。
「なんでしょうか?なんでもおっしゃって下さい」
「少しお話したいことがあって……今、お時間いいですか?」
「えぇ、構いませんよ、どういった御用件ですか?」
そう尋ねながらも、嫌な予感が走る。あらためて、なんだろう……。
「こんなことを、神田さんにお聞きすることが正しいのかどうかわからないんですけど……うちの田島と神田さんって、今回の仕事が初対面ではなく、以前からのお知り合いですか?」
それは、朱音にとって一番聞かれたくない質問だった。
例えばそれが、田島さんと個人的に会っているんですか?とか、もっと直接的に、田島さんと付き合っているんですか?ならば、躊躇なく否定できる。
だが、唐突に昔からの知り合いか?と聞かれると、嘘がつきにくい。
「あの、……田島さんが何かおっしゃったんですか?私と知り合いだとかなんとか?」
朱音は様子伺いのために答えを濁した。
田島が美夜に、自分のことをなんと説明しているのかが知りたかったし、また自分も彼の説明に合わせなければならないと思った。
「彼は……大学時代のちょっとした知り合いだと、言っていました。本当ですか?」
おそらくは、疑心暗鬼になっている美夜の声の切羽詰まった様子が、ひしひしと伝わってくる。
朱音は瞬時に頭をフル回転させ、覚悟を決めた。
「実は、大学のテニスサークルで一緒だったんです。ただ、知り合いといっても田島さんは上級生で当時の副キャプテンでしたけど、私は幽霊部員のようなものでしたから田島さんは覚えていらっしゃらなかったようです」
息を殺すようにして聞いている美夜の姿が想像できて、朱音はあえて明るい口調で続けた。
「いつだったか打ち合わせの時に、私がその話をさせて頂く機会があって、田島さんはとても驚かれていました。その時に久しぶりにテニスをしましょうか、という話になって田島さん御ひいきのテニスクラブで御一緒したというわけです」
「そう……だったんですか……」
「私が余計な事を思い出してしまったばかりに、とても後悔する羽目になってしまいました!あの後、ひどい筋肉痛で動けなくなってしまったんですよ」
朱音は笑い声を交えながら、いかにも大したことではない事を強調するよう努めた。
「これを、昔からの知り合いと言うかどうかは微妙ですけどね?で、そのことが何か問題でもあったんですか?」
「あ、いえ、何も問題なんかはないんです。私が勝手に……勘ぐったというか……」
「え?あ、もしかして私と田島さんとの間に何かあるってことですか?」
「……はい……」
決まりが悪そうにぼそぼそと呟いた美夜に、朱音は殊更明るく笑った。
「内山さん、それは有り得ませんよ。確かに、田島さんは素敵な方だとは思いますが、私にとっては非常に大切な取引先の責任者様だという認識しかありません。まして、今回のこの契約は私にとって初めての大仕事ですから、打ち合わせの回数も多くなりますし、とにかくR製薬の皆様に素敵な御旅行を御提供させて頂きたいと思っているんです」
朱音の完璧な答えに、相手の緊張もようやく緩んだらしかった。
「神田さん、くだらないことを言ってしまって、本当にごめんなさい。許して下さいね」
「許すなんてとんでもないです!むしろ変な誤解をさせてしまって、謝るのはこちらの方です。いつぞやのお店で御会いした時に、御二人がお付き合いをされている様子は察していたのですから、もっと配慮をするべきだったと反省しています」
「やっとだったんです……」
「はい?」
美夜が恥ずかしそうに呟いた言葉の意味がわからずに、朱音は聞き返した。
「これは、私の独り言として聞いてください。入社した時から、ずっと田島さんに憧れていて……1年半かかってやっと、お付き合いしてもらえるようになったんです。二人で会うようになって、まだ3カ月しか経っていないのですけど……彼は仕事人間ですから、毎日不安でくだらないことまで気になってしまって……」
だから、私に近づくな、って言いたいのだろうか?
喉元まで上がってきた皮肉的な言葉を、朱音は苛立ちと共に呑み込んだ。
「……そうだったんですか。お二人の事に私なんかがとやかく言える立場ではありませんが、今回の旅行が大成功を納められれば、責任者の立場の田島さんにも大いにプラスになるんじゃありませんか?そういった意味での御協力でしたら、私も精一杯努めさせて頂きます」
「神田さん、本当にありがとうございます!そして、本当にごめんなさい。これからも、よろしくお願いしますね?」
さっきまでとは別人のような美夜の声に、思わず苦笑しながら朱音は丁寧に答えた。
「はい、こちらこそよろしくお願い致します」
受話器を戻した後の朱音は、ある種放心状態だった。
朱音は休憩をとり、紙コップのコーヒーを手に屋上に上がり深い溜息と共にベンチに腰を下ろした。
よくもまぁ、あれだけの作り話がスラスラと言えたものだと、自嘲する。
自分の想いはさて置き、自分という存在があの二人のトラブルの火種になるわけにはいかないという考えで必死だった気がする。
それにしても、会社にまで電話してくるほど思い詰めていた彼女は、一体幾つだろうか?
せいぜい自分より一つ二つ年下なのだろうとは思うが、なんと幼く、そしてなんと純粋なのだろうと思う。
美夜のつまらない疑いも晴れて、事は上手くいったというのに、どうしようもないやり切れなさに包まれる。
1年半も田島に恋焦がれて、ようやく彼女という指定席を手に入れた……美夜の切実な想いは、朱音の胸に鈍い痛みを与えた。
この徐々に手に負えなくなっている田島への想いをどうにかして封印しなければ、いつか取り返しのつかない事になるのだと、あらためて強く言い聞かす。
その為だったら、この先も自分は嘘をつき続けるだろうと……自分の想いですら偽り続けるだろうと、朱音は自分に哀しく誓った。
その日の夜、気晴らしに手の込んだ夕食を作ろうと、パエリアやデザート用のプディングの材料を買い込んでアパートに帰り着くと、有ろうことか、そこには田島が待っていた。
「田島さん!?」
全く予期しなかった出来ごとに、朱音の声はうわずった。
なぜ彼が家を知っているのだろう?教えたことなど無かったはず……そこまで考えて、朱音はアッとなる。
そうだった、あの酔いつぶれた日、ここまでタクシーで送ってくれたのは彼だった。
古びたレンガ造りの洋館風のアパートは2階建てで、中央に大きなレトロなガラスの玄関があり、そこから中に入ると正面に石の階段がある。
田島は正面玄関のドアの所に、もたれて立っていた。
「こんばんは!」
「どう……したんですか?」
田島は手にしていた茶色の紙袋を目の前に持ち上げて、ニッコリ笑った。
「得意先から珍しいワインを貰ったんで、御一緒にどうかな?と思いまして」
「……ワインですか?そんな、突然……」
「ほんとは、今日会社の方へ連絡しようかと思ったのですが、なかなか忙しかったもので、思いきって来ちゃいました」
悪びれる風も無く、あっさりそう言った彼の言葉は、飛び上がりたいほど嬉しいものだったが……
朱音の脳裏には、今日の昼間の美夜からの電話が蘇り、急ブレーキがかかる。
朱音は右手で持っていたスーパーの袋を両手で前に持ち替えて、背筋を伸ばした。
「田島さん、まず、先日の醜態をお詫びします。そして、助けて頂き本当に有難うございました」
そこで一旦言葉を切り、朱音はきちんと頭を下げた。
「本当なら、次の日にお詫びと御礼の電話を差し上げなければならなかったのですが……どうにも自分の醜態が恥ずかしく、なかなか勇気が出なかったのです。お察し下さい」
「大丈夫ですよ、全く気にしてはいませんから」
田島は穏やかに微笑むと、しっかりと頷いてくれたが、朱音は逆に眉をひそめた。
「ですが、それとこれは話の種類が違います。こんな風に、自宅前で待たれては困ります」
「事前に連絡をしてくれ、ということですか?もちろん、突然なのは謝りますよ」
「そうですね……」
朱音はそこで溜息を漏らした。また、自分に嘘をつかなければいけないのだ。
「事前に連絡して頂いていたら、お断りできたのに、とは思います。田島さんを個人的に自宅へ御招待するつもりはありませんから」
「……それは、僕に帰れと言ってるのですか?」
田島の顔から笑みが消え去り、その目に冷たさが宿った。
「そうですね、そういうことになります。あなたを家にあげるつもりも、せっかく持って来て頂いたそのワインを一緒に飲むつもりも、ありませんから」
躊躇することなく、きっぱりと言いながらも、朱音の胸はきりきりとした痛みに疼く。
田島は一瞬だけ手にしたワインの入った紙袋を見つめ、自嘲気味に笑った。
「またもや、僕の空振りと言うわけですね」
そう言った彼の表情は苦々しく、だが、どこか淋しそうにも見えた。
「この前、あなたをここへ送り届けた時……あなたの鉄壁のような頑なさが消えたような気がして、少しだけ距離も縮まったと思ったんですがね。また、逆戻りしたようだ」
田島に凝視するように見つめられて、朱音は心の底まで見透かされてしまうのではないかという怖さから目を逸らした。
「テニスの時もそうだった。ようやく自然体なあなたに接することが出来たと思ったとたん、突然あなたは逃げ去ってしまった」
田島の意味深な言葉に、朱音は目を伏せ小さく唇を噛んだ。
何もかもが、彼の言うとおりだとは思ったが、それを今認めるわけにはいかなかった。
「田島さん……私なんかに気を遣っていただいて嬉しいのですけれど、もっと他に気を遣うべき方……距離を縮めるべき方がいるのではないですか?私はそう思いますけど」
朱音の意見が予想外だったのか、田島は訝しげに目を細め睨むように朱音を見た。
「僕に関する情報をどこから手に入れられたのかは知りませんが、少なくともあなたに心配して貰う必要はありませんね」
「そう、おっしゃる通りです。出過ぎた事を言いました、謝ります。田島さんの個人的な事に立ち入るべきではありませんでした。……ですから、私の事も放っておいていただけませんか?」
朱音は真剣に訴えるように話した。
「今のところ、仕事は問題なく順調に進んでいますし、田島さんのお手伝いも出来る限りさせて頂くつもりです。もし、それでもやりにくい所があるのでしたら改善するように努力します」
「だから、私にはこれ以上近づいてくれるな……ですか?」
そう言った田島の顔に、一瞬だけ傷ついたような表情が過ぎったような気がして朱音はハッとなり息を呑んだ。だが、次の瞬間には彼の顔には例の冷ややかな笑みが浮かんでいた。
「わかりました。取りあえず今は、神田さんの意見を尊重します」
取りあえず?今は?……どういう意味だろうか?
朱音の不安そうな表情に目を留め、田島はニヤリと笑った。
「どうやら僕は、あなたの事が気になって仕方がないらしい。そして、あなたが望むようにあなたを放って置くことも出来ないでいる、という事を覚えておいて下さい。ただし、あなたに関わる以上、僕の身の回りの不安要素は全て取り除くつもりですから」
その予想外の突然の田島の告白に、朱音の呼吸は止まり、瞳だけが大きく見開かれた。
すると、田島は3歩で近づき、立ち尽くす朱音を両腕にしっかりと抱きしめた。
そして固まったままの朱音の顎を親指で持ち上げ、唇が触れる寸前の所まで近づけ
「あなたと再会した時から、僕はずっとこうしたかったのかもしれない……」
吐息のような声でそう囁いた。
気を失うかもしれないという目眩を感じ、朱音は自分が呼吸を止めたままだと気付いた。
彼に口づけをされる前にこの状況から抜け出さなければならない、と思った途端に不意に身体が自由になった。
「でも、今はやめておきます。今日のところはあなたの意見を尊重すると約束しましたからね」
田島は、肩をすくめて笑うと片手にワインを持ち、左手で敬礼の真似をした。
「このワインはいつか一緒に飲みましょう!では、僕は帰ります」
何が起こったのか、すぐには把握できなかった。
路地を去ってゆく田島の背中を見送った後も、朱音は微動だに出来ないでいた。
両手に持ったままだった買い物袋が滑り落ちる様に地面に落ちた。
グシャという音がして、朱音は突然我に返った。
「あ!……玉子!」
慌ててしゃがみ込み、袋の中を確認すると予想通り6個入りパックの玉子は割れていた。
「……もう!!やんなっちゃう!」
その言葉がきっかけになり、朱音の瞳から涙がポロポロこぼれ落ちた。
しゃがみ込んだまま膝を抱えて顔を埋める。
どうして、放っておいてくれないのだろう?どうして、あんなこと言うのだろう?
どうして、抱きしめたりするのだろう?
私と関わるために、不安要素は取り除くと彼は言った。不安要素って、美夜のことだろうか?
1年半も思い続けた彼女の気持ちを彼はわかって言っているのだろうか?
私が自分の気持ちに正直になって、彼の胸に飛び込む?
まさかそんなことが出来るわけがない!
第一、あぁは言ったものの、彼が自分を好きだとも、愛しているとも、言ったわけじゃない。
彼の本意がどこにあるかもわからないのに、真には受けられない。
何よりも、美夜を騙すようなことは出来ない。たった数時間前にそう誓ったではないか?自分の未練のような身勝手な想いは封印すると。
その為なら、嘘もつくと……。
その週の土曜日、朱音は昼間からリュージュのマスターに呼び出されて、店近くの駅に向かった。
日曜日にマスター主催のバーベキューパーティーが開かれることになり、朱音も招待されていたのだが、材料の買い出しに付き合って欲しいと頼まれてのことだった。
梅雨も明けて、七月も半ばになると日中の日差しの強さは強烈だ。
朱音は、買い出しだけでなく明日の会場作りの手伝いもさせられるだろうと踏まえ、ジーンズに黒いタンクトップ、日焼け除けに薄い水色のロングシャツを羽おっただけの軽装で来た。
タオルハンカチを扇子代わりに扇ぎながら、待ち合わせ場所で待っていると、のっぽなマスターが人混みをかき分けてやって来るのが見えた。
「悪いな!朱音ちゃん、今日は頼むで!」
「うん、任せて。いつも良くして貰ってるからその御礼ね!」
「おっ!なんか俺に合わせてくれたような服装やな」
マスターにそう言われて見上げると、なるほど……水色の薄いストライプの入ったシャツにくたびれたジーンズの彼は若々しく、二人は合わせたような水色の組み合わせになっていた。
朱音は、思わず吹き出した。
「今時、こんな合わせ方するカップルもいないけどね!レトロな感じでいいんじゃない?」
「70年代、80年代が青春だった俺らの当時は、けっこうペアルックのカップルとか、普通にいたんやけどなぁ!」
「ペアルックって!!マスター、とっくに死語よ?」
朱音は、ケラケラと笑い転げた。するとマスターが朱音の頭をポンポンと叩いて微笑んだ。
「ちゃんと笑えるやないか?朱音ちゃんはそうやって、ちょっと生意気な口きいて笑ってやな、らしくないで?」
このところ色々な事がありすぎて、なかなかリュージュにも行けず、顔を出してもおそらくは元気がなかった朱音を心配してくれていたマスターの一言だった。
「今日は、会場作りも手伝わされる覚悟で来たから何でも言ってよね!」
朱音は気恥ずかしさと、兄のような優しさに触れて、照れた。
誰が食べるのだろう?と疑いたくなるほどの肉や野菜を注文し、その他もろもろの食材は二人で買い集めて回った。
毎年の恒例行事なので、道具類はすべて揃っていたが、それでも結構な買い物になった。
汗だくになりながら、大きな買い物袋を手に二人で並んで信号待ちをしていると……
大通りの向こう側で同じく待っている見覚えのある二人連れに、朱音の足はピタリと止まった。
見覚えのある二人……それは、嬉しそうに笑う美夜と、微笑みかけている田島だった。
「ん?……朱音ちゃん、どないしたんや?」
突然黙り込んで顔をこわばらせている朱音に気付き、マスターは首を傾けた。
ほらね!やっぱり嘘だったじゃない!
つい何日か前の田島とのやり取りを思い出しながら、朱音は苦々しい思いで笑った。
彼の言った事を真に受けたりしないでつくづくよかったと思う。
週末とあって、いつものスーツ姿ではなく涼しげなオフホワイトのコットン素材のサマーニットに、カーキ色のゆったりとしたパンツ姿の田島と、膝丈の薄いピンクのチュニック風のワンピースを着た美夜。
長く大きな横断歩道の向こう側で腕を組んで立つ二人は、お似合いの恋人同士だった。
朱音は、何かを決心したように頷くと、慌てて隣のマスターを見上げた。
「マスター、お願い!私を助けて?」
「助けるって……何からや?荷物が重いんやったら持ったるで」
「ね、腕組んでいい?お願い、いいでしょ?今だけだから」
朱音は切羽詰まった様に言うなり、マスターの意外に筋肉質な腕を取って自分の腕を絡ませた。
マスターは睨むように前を見つめる朱音をしばし見つめると、フッと笑った。
「例の、元カレやな?またバッタリ、か?」
「さすが、マスターって察しがいいのよね。……向こう側にその元カレと今カノが居るの。信号が変われば絶対にすれ違う……」
マスターは、ヤレヤレといった感じに笑い、朱音の顔を覗き込んだ。
「くだらない見栄なら、やめといた方がいいと思うし、ちゃんとした事情があるなら、付き合うで?」
「見栄じゃないわ。事情なら、あるもの。今はややこしい話だから説明できないけど……」
朱音は横の歩行者信号が点滅するのを見て、無意識にマスターの腕を引き寄せていた。
「よっしゃ、そのお願い引き受けた!」
マスターはそう言うと、朱音に組まれた腕を突然引き抜く。
朱音がびっくりした顔で見上げると、マスターの腕はあっという間に肩に回され、しっかりと抱き寄せられる。
「どうせやるんなら、完璧を目指すタイプなんや、俺は。さぁ、朱音ちゃんも俺の腰に手を回して!もう信号変わってしまうで」
マスターは朱音の荷物を取り上げて、ニッコリと笑った。
朱音は少し赤くなりながら、そっと遠慮がちにマスターの腰に手を回した。
何人もの人と付き合ってはきたが、こんな風に身体を密着して歩いた経験は無かったし、今まさにすれ違おうとしている優とですら、手を繋いで歩くのが常だった。
そして信号が青になり、人の波が一斉に動いた。
マスターの背がかなり高いことも目立ったし、二人の服装が合わせたような色の組み合わせだったことも人目を引いて……すれ違うかなり前の段階で、田島は二人の姿に気が付いた。
自分よりはかなり年上だとわかる男性に、独占欲丸出しに抱かれて歩いてくる朱音の姿を目にした田島の顔は一瞬にしてこわばった。
「朱音ちゃんの元カレ、一発でわかったわ。こっち、めっちゃ睨んでるで?」
マスターは、いかにも恋人に話しかける様に、朱音の方へ頭を傾けてそう囁いた。
確かに、徐々にこちらへ近づいてくる彼の顔がひどくこわばっているのはわかった。
お互いを目の前にして、まず驚いたように声を上げたのは、美夜だった。
「神田さん!?神田さんですよねぇ?」
「……こんにちは、内山さん、……田島さん」
朱音がそう答えたのを合図に、二組のカップルは立ち止まった。
田島は何も言わずに僅かに頷くと、朱音を睨むように見つめ、なぜか美夜は信じられないような顔で朱音とマスター、そして田島を交互に見た。
「……朱音、知り合いか?」
一番役者なマスターが、穏やかにそう聞いた。
「あ、えぇ、今仕事で……お世話になっている方達なの」
朱音は、不自然にならないように、マスターを見上げて優しく微笑みかけた。
「朱音がお世話になってる人達なら、ちゃんと挨拶したいところなんやけど……あっと、信号が変わってしまうで!」
マスターに急かされて、朱音は慌てて会釈をする。
「ごめんなさい、失礼しますね……」
「いずれ、また!」
マスターも合わせてそう会釈してくれたが、朱音を抱く腕は一度も外すことはないままだった。
二人は、足早に横断歩道を進み、渡り切ったところでもう一度振り返ると……
やはり向こう側でこちらを見つめる田島の鋭い視線とぶつかった。
あなたにそんな風に睨まれる理由はないわ!
そんな、まるで軽蔑するような目で見られる理由だって、無い。
いっそのこと、目の前でそう言ってしまえたらどんなにスッキリするだろうと、朱音は唇を噛む。
「こらこら、そんなに見てたらお芝居が成り立たんやろ?」
マスターにそう注意されて、朱音はようやく田島から視線を外せた。
「……ごめんなさい、マスター」
マスターは答える代りに、朱音の肩を抱いている腕で励ますようにポンポンと叩いてくれた。
「さぁ、店へ戻って明日の準備や!朱音ちゃんにも手伝って貰うで?」
それから30分後には二人はリュージュに居た。
冷房をフル回転させ、二人で手分けして荷物を整理すると、冷たいアイスコーヒーを手にカウンターに並んで座った。
あのすれ違いの場面以後、マスターはその話には一切触れなかった。
それが彼の思いやりだという事は身に沁みてわかってはいたが、突然あんなことを頼んでおいて何も話さないわけにはいかないとも思う。
それに、マスターになら聞いても欲しかった。
「マスター、さっきはごめんなさい、突然あんなこと頼んじゃって……ありがとう、助かっちゃった」
努めて明るく笑おうとする朱音に、マスターは首を振った。
「ここまで来て、そんな風に笑うのはやめとき、疲れるだけやろ?」
「なんか……マスターにはなんでも御見通しみたいね?」
「そりゃぁ、なんたって俺はウソ臭い霊感の持ち主やからな!」
意地悪そうに笑いながらウインクするマスターに、朱音は吹き出し、
「マスターってば、まだ覚えてたの?冗談だったのに!」
そう言って口を尖らせる真似をした。そして、フッと真顔になる。
「きっと……マスターには、私の本当の気持ちとかわかっちゃってるのよね……」
「どうやろな?俺は超能力者ではないしな。まぁ、あえて言うなら朱音ちゃんやあの元カレよりは何年も長く生きてる分、経験値も多いやろうし痛い目にも合ってるから自然と見えてくるものもあるかもしれんな」
「私って、最低の女なの。いい加減で、大嘘つきで、未練たらしくて、……」
朱音は自嘲しながら、顔を歪めた。
そして、横で煙草をくゆらせながら黙って聞いているマスターに、ポツリポツリと話しだした。
優と再会してからというもの、すっかりバランスを失ってしまったこと……
自分の気持ちを隠すために、どんどん嘘が増えていくこと……
今の彼には、美夜という恋人がいること……、その美夜の切実な優への想い……
そして、かつて自分が彼にした仕打ちを考えれば、いまだに彼を思い続ける資格など無いのだということ……。
朱音は初めて他人に明かす苦しい胸の内を話しているうちに、知らず知らず泣いていた。
つい先日の、朱音の自宅前での彼とのやり取りに至っては、どうしようもなく声が震えた。
マスターは、温かいおしぼりを朱音にそっと渡して、完全に落ち着くのを待ってからようやく口を開いた。
「朱音ちゃんとは知りあって、かれこれ三年経つけど……まぁ、不思議な娘やとは思っとったよ」
「……なんで?何が不思議なの?」
マスターは、少しだけこちらに首を傾けて微笑んだ。
「まだその歳で、結構なべっぴんさんで、なのに全く男性の影が無かったし、恋だの愛だのというやつをおくびにも出さんかったからな。むしろ、そういう話は意識的に避けてたやろ?この娘は心にどんなモンスターを飼っているんやろうと思ってたんや」
「モンスター?」
朱音がキョトンとして聞き返すと、マスターはハッハッと笑った。
「恋心、というやつはとてつもない怪物やろ?そう思わんか?飛んだり、跳ねたり、暴れたり……時には我がの胸の内なのにコントロールつかんようになったり、な」
マスターのわかり易くて独特の表現に、朱音はクスッと笑った。
「ほんとだ、手に負えない怪物みたいなものかも……」
「ほんまに、あれでよかったんか?俺みたいなおじさんを彼氏のように仕立てて」
「………うん、ごめんね、巻き込んじゃって。でも、ああしないと……色んな歯車が狂ってしまうから仕方が無かったの……」
「ひとつの嘘をつく、その嘘を通す為にもう一つ嘘をつく。そしてその嘘の為にもう一つ嘘を重ねる……それはだんだんと身を切るような苦しみに変わるんやで?最悪は、何が本当かもわからなくなることや」
「何が本当かわからなくなる……」
朱音はマスターの言葉を呟き、泣きそうな顔で笑った。
「そうなれた方が、楽になれるのかもしれない。全部嘘になっちゃえば……」
再びポロポロと涙をこぼす朱音に、マスターは溜息をついて優しく抱き寄せてくれた。
「25やそこらで、なんちゅう恋してんねん!後ろ向き過ぎるやろ?」
朱音は、洗い立てのような香りのするマスターのシャツにしがみつくように泣いた。
「若い時には、判断も答えも間違うことはあるやろ?間違いだらけだと言っても大袈裟ちゃうで。またそうせんと正解は見えてこんとも思うしな。そんな一度の間違いをいつまで背負っていくつもりや?一生か?もう恋はせえへんつもりか?誰も好きにならんつもりか?」
誰も好きにならんつもりか?……最後のマスターの一言が朱音の胸に刺さった。
好きにならないんじゃない、優以外、好きになれないのだ、少なくともこの四年間はそうだった。
もう二度と会うこともないだろうと思い込んでいたのに、再会を果たして、想いを再確認して、身動きが取れなくなってしまった。
あるいは、あのまま会わずにいたなら、いつかは風化出来たかもしれない。
そうすれば、いつかはまた誰かを好きになったりする日も来るかもしれなかったのだ。
「なぁ、朱音ちゃん、協力しておいてこんなこと言うのもなんやけどなぁ……」
マスターが考え深げに口を開いた。
「俺の経験から言うと、最後は良くも悪くも正直であることが一番な気がするわ。誰かを傷つけんように嘘をついても、やっぱり嘘は嘘でしかない。仮にそれで丸く納まったとしても、所詮砂の城のようなもんや。その時は無事でも、いつかひどく傷つくかもしれん。わかるか?」
マスターの言葉は、決して理解できないものではなかった。
いや、むしろ、それこそが正論だと思う。
だが、自分にその選択が出来るだけの勇気が持てるかどうかは、全く自信が無い。
田島に今までの自分の想いや後悔をきちんと打ち明ける……たとえそれで何もかもを失うことになるとしても、全身で受けとめる。
そして、何よりも正直になることで、美夜を傷つけるのだ。
彼女の本心を聞かされ、その場で大丈夫だと安心させた自分が、二人の間で最も邪魔な存在になる。
横で、辛そうな苦しそうな顔をして俯いたままの朱音に、マスターは励ますように肩を叩いた。
「今すぐにっていうのは無理やろうけど、頭の隅にでもええから置いといてな。いつか朱音ちゃんの役に立つことがあるかもしれへんからな」
朱音は、小さくコクンと頷くのが精一杯だった。
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