第23話 電話の向こう側

 本当にさゆりから電話がかかってくるのだろうか。この一週間、半信半疑で沖村の言葉を、梅次は頭の中で反芻していた。

 さゆり本人から電話がかかってきたら、何を聞こうか──いや、第一声はなんと言おうか。そんなことを考えていると、だんだん緊張が高まってきた。

 こんな時、自分専用の電話があればいいのにと梅次は思ったが、幸い、両親は出かけて家にはいなかった。女の子から電話がかかってくるなんて、今まで真山家ではなかったことだし、その会話を横で家族に聞かれるのも嫌だ。なんなら、うちの母親なら、親子電話の受話器を音もなくあげて、会話の内容を別の部屋で盗み聴きすらしかねないと梅次は思った。

 しかし、もう40分間も、こうやって電話の前で待っている。やっぱり芸能人からファンに電話がかかってくるなんて、あり得ないか──そう思った時、電話の呼び出し音が鳴った!


「はい、真山です────なんでもええわ──なんでもええって!ちょっとぉ、友達から電話かかってくるし!もう電話切るで!──なんでもええってゆーてるやん!じゃあ」


 母親から、夕食に何を食べたいかという電話だった。もしも、この一瞬の間に、さゆりちゃんから電話がかかっていたら思うと、梅次は気が気ではなかった。

 もう、午後2時を回った。やっぱり、さっきの母親の電話と同時に、さゆりちゃんからの電話があったんじゃなかろうかと、梅次は不安になった。

 昼過ぎという定義は、一体、何時から何時までのことなんだろう、午後3時は夕方の域に入りつつあるよな──そんな雑念が入りはじめた頃、再び電話の呼び出し音が鳴った。


「はい、真山です」

「あのぉ、梅次さん、いらっしゃいますか。安里と申します」

 ────!

「あ、僕です、はい、梅次です。こんにちは」

「こんにちわ。……ぇへへへ」

「さゆりちゃん、あのー、元気ですか」

「はい、元気ですよぉ」

「沖村さんに、体調崩したって聞いたんですけど」

「ちょっとね、熱が出ちゃって、具合が悪かったんですけど、お薬飲んですぐに熱も下がったんで、大丈夫ですよ。元気になりました」

「無理してたんですね」

「へへへ」

「映画の撮影とかで疲れたんでしょうから、ゆっくりしてください」

「はい、ちょっと沖縄に帰って、ゆっくりしたいと思います」

「また、復帰できそうですか?」

「はい、また体調が良くなったら戻ってきますんで、その時は応援してください」


 さゆりは、細谷に襲われたことをおくびにも出さず、普段通りにふるまった。この2年間で染み付いた、ファンに対して笑顔で接するという体裁なのか、事情を知らないファンに対しては素でいられたのか、それはさゆり自身にもわからなかった。ただ、何度か会っているせいか、梅次に対してリラックスしていたのは確かだった。

 二人は、しばらくの間、たわいもない話をした。話しているうちに、梅次は益々、さゆりを近い存在に思えてきた。しかし、喉元まで出かかっていた言葉は、ついに、さゆりに言い出せなかった。

 僕と結婚しませんか──本当は、そう言いたかった。この疲れ果てた女の子を、自分がなんとか元気にしてやりたい。しかし、今の自分に何がある? さゆりを幸せにできる何がある? 何もない。自分の将来に対してすら、なんの目標もない、惰性で生きてる勉強のできない、ただの高校生だ。

 この女の子、安里さゆりに幸せになってほしい。それができるのは自分なんじゃないのか? どうしたらいい? どうしたら彼女に好きになってもらえる? どうしたら彼女と結婚してもらえる?

 梅次は、すでに結論を出していた。歯科医師になって、父親の仕事を継ぐことが一番近道だ。それなりの収入も得られるだろう。それならきっと、さゆりの両親も安心して、結婚を許してくれるんじゃないだろうか。それ以前に、さゆりに好きになってもらわなければならないが、こうやって電話をかけてきてくれるくらいだから、頑張ってアプローチすれば、なんとかなると考えていた。そのためには、むしろ芸能界を引退してくれたほうが有り難い──梅次は、自分だけのさゆりでいて欲しかった。

 大学受験に向けて、梅次の動機付けが生まれた瞬間だった。


 30分くらい話をしていただろうか。もしかしたら15分くらいだったのかもしれない。電話回線で繋がったさゆりと2人だけの空間は、梅次に不思議な浮遊感を与え、現実の時間の流れを感じさせなかった。ただ、時計から与えられる視覚的情報によって、時間の流れのはやさを否応無く知らされる。本当はいつまでも話をしていたかった。でも、切らなければならない。さゆりは恋人ではない。もしかしたら、彼女はこの時間を苦痛に感じているかもしれない。嫌われるのは、いやだ。


「さゆりちゃん、電話してくれてありがとう。嬉しかったです」

「いえいえ、こちらこそ、心配してもらって、すいません」

「実家で、ゆっくり休んでください」

「はい、ありがとうございます。」

「じゃあ、また…………あ、あの、」

「────?」

「僕が、さゆりちゃんのこと幸せにしますから、待ってて!」

「あはははは、ありがとうございます。真山くんも元気でいてください。じゃあ……」


 さゆりは冗談ぽく笑い、そして、電話を切った。

 梅次はそのまま、ツー、ツー、ツーという不通音を聞いたあと、そっと受話器を耳から離し、さっきまでさゆりの声が聞こえていたスピーカー部分をしばらく見つめていた。この受話口がガリバートンネルになっていて、電話回線を伝って、さゆりの家まで行ければいいのに。そしてさゆりの家のバスルームに出れればいいのに。いや、風呂場に電話はないから、残念ながら、のび太のような状況にはならないか──そんな、藤本弘先生のような妄想に浸っていた。


 梅次は、高校2年から、理系コースに進むことに決めた。

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