第21話 洗礼

 さゆりは、来年からはじまるドラマの撮影に入っていた。制作発表もすでに行われた学園もので、準主役という設定であった。

 憧れて入った芸能界だったが、自分が思い描いていたものと現実との乖離に戸惑い、このまま続けていくべきなのかを悩んでいた。その浮き足立ったさゆりの心は、演技にも支障をきたすようになっていた。


「いや、ちがう、ちがうよ。うーん、どういったらわかるのかなぁ……んー、このシーン後に回すから、さゆりちゃん、ちょっと休んでて。また呼ぶから」


 地方ロケで、もう同じシーンでのNGが20回も続いてる。さゆりがNGをだすたび、どこからか誰かの舌打ちが聞こえる。このところ、意味もなく下着姿にならされたり、服の上からとはいえ胸を触られたり、キスシーンなどを要求されることが多くなってきたことに、さゆりは暗澹たる気持ちだった。この新しいドラマでも同様のシーンがあり、本当は逃げ出したい思いだった。

 芸能界に入って2年が経過し、そろそろ業界にも慣れ始めたとはいえ、さゆりはまだ17歳である。田舎で生まれ育った無垢な少女に、現実の芸能界は容赦なく彼女の精神的成長を要求する。しかし、仕事とはいえ我慢にも限界があり、そのストレスは反応として身体に現れていた。もう、まともに演技はできない精神状態であった。

 結局、その日のさゆりのシーンは、すべてキャンセルされた。


「さゆりちゃん、なにか悩んでるの?」


 撮影終了後、共演の男優である細谷隆が、さゆりに声をかけた。キャスティングにも影響を及ぼすことができるほど、誰もが知る大御所俳優である。


「あ、細谷さん……すいません、今日はご迷惑おかけしました」

「まぁ、調子悪いときもあるよ。僕も若いときは、演出家に怒鳴られっぱなしだった。だけど、良いことも悪いことも積み重なって今がある。さゆりちゃんも、そう思えるときが、きっとくるさ」


 さゆりは細谷の優しい言葉に、思わず涙が溢れそうになった。


「このあと、ちょっと飯でも食おうか。さっき、さゆりちゃんのマネージャーに聞いたらオフだって聞いたし、OKもらったから」

「あ、はい……戸村さんがそう言ってたなら。わかりました」


 優しく声をかけてくれた細谷の誘いを、無下に断ることも失礼だと思ったさゆりは、マネージャーが了解してるならと、細谷と一緒に食事をすることにした。

 細谷は、宿泊しているホテルのレストランへさゆりを連れて行った。コース料理を食べながら、さゆりは細谷に悩んでいることを話したり、自分の生い立ちなどを話したりした。


「そうか、さゆりちゃんは歌手志望だったんだ。それが女優の仕事ばかりで戸惑ってるのか。だけど歌手だろうと女優だろうと、いただいた仕事をきちんとこなしてこそプロってもんだし、それを経てこそ、自分のやりたいことができるようになるんじゃないのかな。今は辛いだろうけど、いろんなことを乗り越えないといけない時期だと思うよ」

「そうですね。はい……」


 細谷の言うことは、もっともだと思った。今までの自分は甘かったのかな──今までは、一緒に暮らしていた姉の多恵に不満を漏らして、ストレスのはけ口にしていたことを申しわけなく思ったし、同時に、多恵に対して感謝の念で胸がいっぱいになった。


「さゆりちゃん、ワイン飲むかい?」

「細谷さん、わたし17歳ですよ。まだ飲んでいい歳じゃありません」

「さゆりちゃんはカタイなぁ。芸能界で生きていくには、柔軟性も必要だよ。少し飲んでごらん。無理しなくていいから」

「……はい、じゃぁ」


 さゆりは、グラスに口をつけて飲むふりだけし、その場しのぎをした。

 2時間ほど食事をしたところで、細谷が急に黙ってしまった。少しつらそうな顔をしていた。細谷の体調を案じたさゆりが尋ねた。


「細谷さん……どうかされたんですか」

「ちょっと胸のあたりが苦しくてね。ちょっと飲みすぎたかな」

「大丈夫ですか? 明日の撮影もありますし、部屋に戻りましょう」


 心配になったさゆりは、細谷の部屋まで付き添って行くことにした。

 細谷の部屋は大御所らしく、上層階のスイートルームだった。

 さゆりは部屋の鍵を開け、胸を抑えて苦しそうな顔の細谷を、リビングルームの奥のベッドルームまで連れて行き、ベッドの上に寝かせた。


「細谷さん、マネージャーさんに連絡しましょうか?」

「いや、いぃいぃ。大丈夫。ちょっと水を汲んできてくれるかな」

「はい、わかりました。ちょっと待っててください」


 さゆりはリビングへ戻り、グラスに水を汲んで、再びベッドルームへ戻った。しかし、ベッドの上に細谷の姿が見当たらない。次の瞬間、さゆりは息を呑み、動きが止まった。ベッドの横の暗がりに、細谷が素っ裸で立っていた。細谷はさゆりの手首を掴み、自分の方へ引き寄せた。さゆりは持っていたグラスを床に落とし、こぼれた水は起毛の深いカーペットに吸い込まれ、グラスが足元に転がった。

 さゆりは恐怖で声が出なかった。


「芸能界で長くやっていくには、いろいろ経験しておかないと」


 細谷はそう言って、さゆりに抱きつき、ベッドへ押し倒した。

 

「ぃゃ、ぃや、ゃめて……やめてーっ!」


 恐怖で震えながら、さゆりは必死で声をあげた。


「このフロアは、僕しか泊まってない。叫んだって誰にも聞こえないよ」


 さゆりは絶望感に支配されながらも必死で抵抗したが、強く押さえつけられている男の力に逆らえるほどの力はなかった。

 細谷の顔が迫ってくる。酒臭い口が迫ってくる。気持ち悪い唇が迫ってくる。

 もうダメだ────


 ダンダンダンダンッ!


「細谷さん、いますか!? さゆり、いる?いるの!?」


 部屋の扉を叩く音とともに、さゆりのマネージャーの戸村の声がする。細谷がぎょっとした顔をあげて注意が逸れた一瞬、さゆりは細谷を撥ね退けてベッドルームを抜け出そうとした。しかし、体勢を崩しながら、細谷は右腕を伸ばし、さゆりの左腕を掴んで引き戻そうとした。右足を一歩出したその瞬間────


「アグぁっ!」


 グシャ! という音とともに細谷が叫んだ。さゆりが床に落としたグラスを踏んで、右足の裏が血まみれになった細谷は、右足首を抱えてしりもちをついて座りこんだ。

 さゆりはその隙にベッドルームからリビングを走り抜け、急いで扉を開けて外へ出た。戸村が不安げな顔で立っているのをみた瞬間、さゆりは号泣して戸村に抱きついた。


「さゆり、大丈夫!? 行こう、はやく!」


 細谷の女癖の悪さは業界で有名であった。しかし、新人マネージャーの戸村はそれを知らず、さゆりにアドバイスしたいという細谷の言葉を真に受けて、OKを出してしまった。そのあと事務所に、本日のさゆりの状態を電話で話した時に、細谷にさゆりを預けてしまったことを報告すると、細谷の女癖を説明された上で、すぐにさゆりを探しに行けと指示され、必死で探し回ったのだ。

 今日のさゆりのNGも、さゆりの演技について厳しくするよう、細谷が監督に裏で注文をつけていたのだ。落ち込んでいる新人女優に優しい言葉をかけるというのが、細谷の常套手段であった。

 細谷は、ホテルの部屋でグラスを落として誤って踏み、怪我をして演技ができないということで、ドラマを降板することになった。もちろん、事実を公表するわけにもいかない。しかし、さゆりもまた、体調不良で降板することになった。とても続けれる精神状態ではなかったのだ。


 さゆりは、しばらく仕事を休むことになった。

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