黎明の紫煙

第9話 講義と会議

「——それでこの時、減衰率と固有角振動数の大小の場合分けで動きが変わってくる訳です。えー、時間もそろそろだし、今日はここまでにします。今話した大小関係によってどのような振動が生じるか、っていうのをグラフとかを使って各自まとめておいて下さい」

 授業が終わる。ホワイトボードに書いた運動方程式やら微分方程式やらを見て、一息つく。いや待て、運動方程式も微分方程式か。まあそれはこの際どうでもいい。


 講師という形でこのジャパリ学園大の教壇に立ってからはや1ヶ月が経とうとしており、窓から見える景色はすっかり初夏に変わってしまった訳だが、果たしてきちんと「先生」の役割をこなせているのだろうか、と思うと自信が無い。正直に言えば、この授業を行うのは別に他の誰でも替えが効くだろうと思っている。

 機械工学科と言えど、なにも一年生の初っぱなからガチャガチャと機械をいじり続ける訳ではないのは当然で、まずは数学力学熱力学の基礎基礎基礎の土台工事である。しかし、このジャパリ学園大にやって来た教授陣はサンドスター情報論だのけものプラズム測定方法確立だのといった自分の研究に専念しているため、別に物理屋という訳でもない、コネ入社の下っ端非常勤講師に力学を教えさせているのである。

 振り返れば、大学一年の力学の講義なんて、いきなり現れた未知の微積分に振り回されてなんにも理解できず、試験前に慌てて詰め込んでギリギリで単位を取った記憶しかないのだが、そんな人間が教えても大丈夫なのだろうか?(もちろん、その後数年かけて、後輩にざっくり教えられる程度には噛み砕いたけれど)

 一度不安になってカコさんに「大丈夫なんですかね……?」と聞いたところ、「コネも、ある事にはありますが……、資料とか、論文とかを見るに、あなたは普通に優秀な方なので、大丈夫だと思っています……」と返されたので、ただのいつもの自信不足に過ぎない可能性はある。もっとも、彼女のお世辞である可能性が高いと思うのだが。


「……んせ、ヨウせんせー!」

「んぁっ、はいっ!」

 いつもの悪癖、自尊感情不足からのマイナス思考グルグルの、意識の海に溺れていたようだが、生徒の声でこちら側に戻ってこれた。

「また暗い顔して考え事?この後会議あるって忘れてないでしょうね?」

 少しばかり上から目線な口調の彼女は、アカギツネ。今年度入学の華の女子大生フレンズである。赤茶色の長く伸ばした髪と、ピョコンと生えた三角っぽい耳がトレードマークである。さっきまでの板書を書き写したルーズリーフが入ったファイルを小脇に抱えているが、よく見るとさっき指示したばかりの課題をもう終わらせている。優秀すぎて怖い。

 だが今はとりあえずアカギツネの言う通り、会議に行かなくてはならない。

「ああ、ちゃんと覚えてますよ。それじゃあ行きますか、の会議」

 荷物をまとめてから、出来が良すぎる教え子とともに、上階の会議室へ向かった。


 エレベーターに乗りながら、さっきの思考を振り返ってアカギツネに尋ねてみる。

「力学の授業、どう?わかりにくかったりしない……?」

「そんなことで悩んでたの?わかりにくかったらみんな授業中寝てるわよ。さっきの授業、誰か寝てる人いました?」

 そんなこと、と一蹴された。

「いや、皆起きていた」

「あなたの授業はね、なんかこう、痒い所に手が届く〜みたいな感じでわかりやすいから安心しなさいよ。教科書の式の隙間を埋めてくれてるし、論理の飛躍が少ないのよ」

「そう言ってもらえるとありがたいよ」

 教科書の式の「行間」が追えなくて、何故そんな数式が突然出てくるんだ、とヒィヒィ言っていた学生時代の名残である。ぱっと見ただけで流れを理解していく優秀な同期と比較して、劣等感を高めていたのが、あとあと役に立つとは当時は思いもしなかったものだ。なお、アカギツネはぱっと見理解の優秀型であるので、彼女の意見を総意だと思ってはいけない点に注意だ。


 会議室の扉を開けると、既に四人ほど集まっていた。大学側の本企画の責任者が一人、大学生協と図書館から広報担当が一人ずつ、探検服のような制服を着たパークガイドが一人。あともう一人来れば会議が始まるので、それまで資料でも読みながら待っていようかと、とりあえず着席する。アカギツネはソワソワしている。

 数分後、「遅くなりました〜」という声とともに、最後の一人が部屋に入ってきた瞬間アカギツネがガタッと音を立てて立ち上がったかと思えば目にも留まらぬ速さで彼の元へ駆け寄り、

「レイ〜〜!遅かったじゃなあ〜い!」

と言いながらハグしようとしたところ、彼は必要最小限の動作でアカギツネの抱きつき攻撃を見事に躱し、そのまま歩いて着席した。アカギツネは壁に激突した。


 さて、全員揃ったところで会議の始まりである。

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