鏡の国の王子様

壬光

 人間は平凡が一番である。目立たず騒がず、人と違ったことをせず、ただ静かに過ごしているのが一番いい。そう思っていた少年・秋宮茉莉は、何処にでもいる普通の高校生だった。

 勉強もスポーツもこれといって秀でたものはなく、容姿に関しても、ほんの少し目が大きいくらいで特筆するべきところはない。家族構成は父と母と兄の四人家族。仲が悪くなく、借金があるだとか、反対に大会社の社長だとかいうわけでもない。会社員の父とパートの母とで生計を立てている、ごく普通の共働き家庭だ。

 そんな家庭で生まれ育った茉莉は、自分よりも頭のいい兄に勉強を教わりながら公立高校に入学を果たしたばかりの十六才。周囲に馴染めるよう息を潜めながら生きている彼にとって今一番の悩みは、友達ができないという問題だった。


「はあ……今日も誰とも話せなかった」

 とぼとぼと意気消沈しながら歩く茉莉は、今日の出来事を思い返して項垂れる。引っ込み思案なところがある彼は、新学期が始まって三か月経つというのに誰とも話せていない。周囲はすっかりグループができて盛り上がっているというのに、何たるざまかと思う。スタートが悪かったからなのか、茉莉に話しかけてくるものは一人もおらず、それが寂しさを助長させる。なんとなく恰好がつかなくて「一人が好きなんですよ」アピールの為に本を読んだりしてみているが、それが悪いのは百も承知だ。

 見事に高校デビューを失敗し、一人の高校生活を覚悟しなければならないだろうかと、更に深くため息をつく。

「あ、本屋行かなきゃ」

 とぼとぼ歩いていた茉莉は、馴染みの商店街に差し掛かったところで用事を思い出して立ち止まる。今日は待ちに待った新刊の発売日。絶対に買いに行かなければと気を取り直した彼は、目の前の角を曲がって本屋へと足を向ける。街に出れば大きなショッピングモールがあり、そこに大型の書店が入っている事は知っているが、茉莉はこの小さな商店街の本屋が気に入っていた。

「よう茉莉ちゃん。例の本入ってるよ」

「おじさん、こんにちは」

 商店街の奥まったところにある小さな本屋は、壮年の男性が切り盛りしている。一見すると古書店のように古びた本ばかりが並んでいるが、実をいうとその中の一角に新刊コーナーが存在しているのだ。どうやら店長の趣味らしい。

 少し行けば大型の書店があり、さらに看板に『山田古書店』とぶら下げていることも相まって、この店で同級生を見かけたことは一度も無い。そんなところが茉莉は気に入っていた。

 店主のおじさんに会釈してレジに近寄ると、ビニールに包まれた本が一冊置かれる。茉莉の趣味を理解してわざわざ取り寄せてくれている店主に感謝しながらお代を払うと、「良かったら」と言って小さな紙を貰った。八月に神社で行われる夏祭りのチラシのようだ。それをありがたく受け取った茉莉は、早く本を読みたい一心で帰路を急ぐ。心持ち速足になって歩いていれば、五分もしないうちに自宅が見えてきた。

 赤い屋根が特徴的な二階建ての一軒家、そこが茉莉の自宅だ。まだ誰も帰ってきておらずしんと静まり返った我が家に足を踏み入れた茉莉は、そこでようやく緊張の糸が切れたように息を深く吐き出した。人見知りにとって、よく知らない人ばかりがいる学校はいるだけで疲れてしまう。これで友達がいればまた違っただろうに、と嘆息しながら靴を脱いで、部屋へと向かった。

 制服から着替えた茉莉は、さっそく先ほど買ったばかりの本を取り出してベッドに寝転ぶ。タイトルは【実在した都市伝説】。茉莉が二ヵ月も前から楽しみにしていた本だ。子供の頃からオカルトや心霊に興味があり、高校生になった今でも関連書籍を買い集めている。試した都市伝説は数知れず、人にこそ話したことはないが茉莉は異世界の存在も信じていた。人生は平凡が一番と言いながら、彼は心のどこかで【非日常】に憧れていたのである。

 小説に出てくるような冒険はできなくとも、少しだけ特別な体験をしてみたい。それが茉莉の小さな野望だ。叶わないと思っていながらも、彼は今日も都市伝説を調べては実践に向かう。

「異世界への扉かあ……でも合わせ鏡系はもう何回も試したからなあ」

 ぱらぱらとめくっていた茉莉は、異世界という単語に反応して手を止める。そこに書かれていたのは、異世界に繋がる扉を開く方法というもの。体験談によると、そこから不思議な世界に落ちてしまっただとか、見知らぬ人がやってきたとか書いてある。しかし、合わせ鏡にするだけで異世界に繋がるのなら茉莉はとっくの昔に異世界に行ってしまっている。午前二時ちょうどに合わせ鏡にしてみた事なんて一度や二度ではない。諦め半分に概要に目を通していた茉莉だったが、その都市伝説の特殊さに気が付いて目を瞬かせた。

 それによると、スマホのカメラを鏡モードにして、普通の鑒と合わせ鏡にすると書いてある。都市伝説も近代化してきてるなと乾いた笑いを零したが、まだ試したことのないそれに俄然興味が沸いてきたのも事実。時間の指定などもなく気軽に試す事のできるそれを、せっかく誰もいないんだから試してみようという気になった。

 詳しい情報を熟読してベッドから立ち上がると、スマホを持って一階の洗面所へと向かう。リビングで耳を澄ませて本当に誰もいない事を確認した茉莉は、さっと洗面所に入ると鍵を閉めて鏡台へと向き直った。時間を見つけては小まめに母が掃除してくれているから、鏡面はぴかぴかと光を反射している。普段スマホのカメラはあまり使わないため手間取ったが、なんとか起動させたそれを鏡へと向ける。スマホの小さな画面に映された鏡の中にまた鏡ができて、それがどんどん続いて奥行が出来てくる。しかしいつまで待っても鏡に映るのは間抜けな顔をしてスマホを構えた茉莉ただ一人。今回も駄目だったかとため息をついた茉莉がスマホを降ろそうとした、その時だった。

 茉莉の姿を映した鏡の中、手前から四番目のスマホの画面に異変を感じたのだ。そこだけ暗転してぐるぐると何かが渦巻き、表面から黒い粒子を放っている。あ、と思って手を伸ばした時にはスマホの画面が自動的に消えてしまい、合わせ鏡状態が解除される。当然ながら姿を消したその黒い空間に、言いようのない期待を寄せた茉莉がもう一度スマホの画面を表示させる。

 しかしそこにあったのは見慣れたホーム画面なんかではなく、何かのデータをダウンロードしている画面だ。砂時計がくるくると回りながら残り時間を表示しており、膨大な量の何かをスマホの中に取り込んでいる。

「えっ……え?」

 目まぐるしい速度で数値が上昇し、ゲージの半分を満たしていく。見知らぬそれに困惑した茉莉は思わずスマホを手から取り落とすが、音もなく床に落ちたそれは何事もなかったようにダウンロードし続けている。今まで体験したことのないそれに目を奪われていると、画面に表示されていた残り時間がゼロ秒を指示した。

「う、わっ」

 どこかで扉が開く音がする。そう思った瞬間にスマホの画面が眩い光を放ち始めて、茉莉は咄嗟に目を閉じた。ぱきぱきと、まるで雛が卵の殻を割るような小さな音が響く。何が起こっているのかわからないが、【何か】が怒っているのは間違いなかった。常識からの逸脱に、恐怖と歓喜がない交ぜになり身震いする。

 目を開けた先に何が広がるのか、その未知への期待を込めて力を抜いた先に広がっていたのは、いつもの洗面所。一瞬落胆した茉莉だったが、瞬き一つの間にその視線は奪われた。

 肩まで伸ばした銀髪に、切れ長で深い紫の色をした瞳。たおやかに伸びた長い足を窮屈そうに組んだ美しい男が、そこに立っていた。

『――、――――。――!』

 青年がぱっと表情を明るくさせ、何かを話す。しかし言語が違うのか、茉莉には全く聞き取れない。ぽかんと口を開いて彼が首を傾げるのを見ていた茉莉だったが、青年がこちらに話しかけている事に気が付いて我に返る。太腿の中ほどまである黒い上衣を身に纏い、右目に眼帯をした青年。その細い首には革製のチョーカーが巻き付いており、留め具から伸びた華奢なチェーンが左手のブレスレットに繋がっている。袖がないため露わになった腕にはしなやかな筋肉がついており、その均整の取れた容姿に惚れ惚れしてしまう。

 青年が異世界の十人である事は、すぐにわかった。

「あの、えっと……貴方は?」

『――、――?』

 恐る恐る問いかけてみるが、やはり彼に言葉は通じない。青年もそれに気が付いたのか、目を瞬かせて茉莉に何かを言い募る。いつ異世界の住人と出会ってもいいように外国語をそれなりに勉強していたが、どうやらそれは徒労だったようだ。

 困り果てて眉を下げた茉莉は、目の前で思案気に目を伏せる青年の顔をこっそり観察する。見れば見るほど美しい彼の目元に、長い睫毛が影を作っていた。

 彼と話しをしてみたい、彼について知りたい、そう思っていた矢先の事だ。青年が目を上げると、こちらを見て微笑む。思わずそれにつられて口角を上げた茉莉だったが、優雅な手つきで顎を掬われて目を丸くした。何のためらいもなく近づいてきた彼の唇が茉莉のそれに押し当てられ、吐息一つ分の距離で彼と見つめ合う。急すぎる事態に頭の処理が追い付かず硬直していると、彼は茉莉の唇をぺろりと舐めてから体を離した。

「あー、あー、ここの言語はこれで合ってるかな?」

 先ほどと変わらない微笑みを浮かべたまま、青年が口を開く。その口から飛び出した流暢な言葉が日本語であると気が付くよりも先に、茉莉は悲鳴を上げて目の前の男を殴っていた。


「何するんだ!」

 自慢ではないが、茉莉は運動ができない。だからだろう、思い切り横面をはたかれたというのに、青年は痛がるそぶりも見せずに意外そうに目を瞬かせるだけだ。対する茉莉はといえば、人生初の口付けが初対面の、それも男であるという事に戸惑いを隠せずにいた。茉莉は、口付けは好きな人とするものだと認識している。だからこそいきなり唇を奪った男が信じられなかった。いくら美しいとはいえ、許される事と許されない事がある。

「何をそんなに怒っているんだい?」

「怒るに決まってる! いきなりキスするなんて何を考えている!」

 青年は悪びれる事もなく、むしろ怒っている茉莉の事が心底不思議なようだ。そんな青年に茉莉は腹を立てたが、全くわかっていない相手に怒り狂っていても仕方ないと思い、深呼吸して心を落ち着かせる。そして、口づけの何たるかを懇々と説明してやると、青年はしょんぼりと眉を下げた。

「そうだったのか、すまない。文化が違う事を忘れていた」

 茉莉が何に怒っているのかようやく理解した青年は、申し訳なさそうに頭を下げる。その姿を見て、殴るのはやり過ぎたかと思って茉莉も頭を下げると、彼は何で謝るのかと不思議そうに首を傾げた。

 異世界からきたのだから、文化は違って当たり前なのだ。それを忘れていたのは茉莉も同じ。そう思っての事だったのだが、青年は殴られた事なんてさして気にしていない様子だった。

「大切な人と交わす口付けを俺にとられたんだ、怒るのは当然だろう」

 謝る茉莉にそう言って微笑むものだから、目の前の青年は中身さえも男前なのだと思い知る。

「俺の国では、大切な人に贈る口付けは手の甲にすることになっている。口へは、まあ、魔導士なら誰とでもする」

 笑いながら答えられたその内容に、茉莉は飛び上がるほど驚いた。魔導士という単語についても聞きたかったが、それよりも口付けの価値観の違いについていけない。誰とでも、という無節操な気質は日本人にはないものだ。外国で言うハグのようなものかと思ったが、それでも先入観が邪魔をしてしまい、納得が難しい。

「はあ……」

「この世界の言葉で表すなら、口伝と呼ぶのが適切だろうか。魔導士は額を合わせるか、唇を合わせる事で記憶や術を継承していく」

 そうすることで、今みたいに言語を統一することが出来る。口づけされたショックですっかり抜け落ちていたが、彼に付け足されて初めて会話が成立していることに気が付いた。しかし、彼は額を合わせるだけでもいいと言った事もしっかり耳に入っている。それはどう説明する気なのかと恨みがましく見つめると、青年は苦笑を漏らした。

「唇を合わせた方が、より正確に読み取れるからね」

 青年の様子を観察するが、嘘をついているようには見えない。そういう文化なのだと無理やり自分を納得させた茉莉は、もういいと言わんばかりに深くため息をついた。

「……とりあえず立ち話も難ですから、部屋に行きましょう」

「そう? ありがとう」

 口付けの件は忘れることにした茉莉は、諦めて洗面所の鍵を開く。やはりニコニコとしている青年をつれて二階へと戻ると、自室の中へと彼を促す。青年は興味深そうに部屋の中を見渡していたが、茉莉がベッドに腰かけたのを見ると彼も隣にちょこんと腰を降ろした。

 近いなと思ったが、もうそこに突っ込む気力はない。何度目かのため息をついていると、少しの間沈黙が続く。どうやら青年も茉莉の出方を窺っているらしく、じっと見つめる視線は話さずに口を開くのを待っているようだ。冷静に彼の顔を見つめると、嫌味なほどに整った美貌を輝かせながら青年が見つめ返す。人間離れした美貌をぼんやりと見ていると、ああやはり彼は意世界の住人なんだと実感が湧いてくる。

 沸々と湧いてきたそれを耐えるように掌を握り締めた茉莉は、先ほどから気になっていた質問を投げかけた。

「俺は秋宮茉莉といいます、貴方の名前は?」

「ユエリエという。気軽に呼んでくれて構わないよ」

「ここは日本です。貴方の国は?」

「ノイ。大きな国だ」

 聞いた事に嫌な顔一つせず応えてくれるユエリエに、茉莉の中で好感度が上昇する。微笑みを絶やすことなく穏やかな口調で話してくれる彼の声は心地が良く、警戒心すらも薄れていく。考えてみれば、人生で初めての異世界との交流だ。知らず緊張していた体が解れて行くのを感じて、次第に茉莉の表情も明るい者へと変わっていく。

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