【5巻発売御礼】兄と、わたしと、わたくしと
前世のしがない社会人の記憶があるからか、それとも単にフェリシアがそういう性分だったからか。
「そういえばフェリシアさんって、いつのまにか一人称が〝私〟に変わりましたよね」
部屋にサラを招待して開いたお茶会で、フェリシアはそう言われて初めてその事実に気がついた。
確かにこれまでを振り返ってみると、サラに対しては「わたくし」という一人称を使っていた。それは彼女が聖女であり、この国にとって重要人物だから――というわけではなく。
「あ、それ、私も同じこと感じてました!」
サラに勢いよく同意したのは、フェリシアの侍女であるジェシカだ。女子会をするのにたった二人だけでは寂しいからという理由で彼女にも同席してもらうことは、最近ではよくあることだった。まあ、ライラには毎回断られるが。
とにかく、そう言われると確かにジェシカにも、フェリシアは最近まで「わたくし」を使っていた気がする。
「いつからだったか明確な時期は思い出せないですけど、私、なんだかフェリシアさんと距離が近づいたような気がして嬉しいんです」
「わ、わかります! フェリシア様って、公的な場や馴染みのない方には『わたくし』を使うことが多いので、フェリシア様が私のことを信頼してくれたのかなって、気づいたときは誇らしかったです!」
「仲間ですねジェシカさん!」
きゃーっと非常に女子会らしく盛り上がる彼女たちに置いてけぼりを食らっているのは、当の本人であるフェリシアだ。
本当に、全く、全然気づいていなかった。
そう思うと、最初はウィリアムにも「わたくし」を使っていた。ライラにも、ゲイルにも。つまり初対面の相手には漏れなく使っている。
それがいつ「私」に変わるのか、自分でも明確な基準があるわけではない。自然と変わっており、おそらく慣れの問題だろうと思われた。――が。
「ああ、それならたぶん、王女さんが警戒心を
女子会に混ざるはずのない男の声が降ってきて、全員が天井を仰ぐ。
はたしてそこにいたのは、やはりと言うべきか、神出鬼没のゲイルだった。
フェリシアはため息を吐き出す。
「なんかもう慣れたわ、あなたその変な登場」
「え~、王女さんってば反応うーすーいー。ゲイル泣いちゃう」
「フェ、フェリシアさん! に、忍者が、忍者がいます……!?」
ゲイルが天井から登場するところを初めて見たらしいサラが驚愕の声を上げた。
にんじゃ? と着地して首を傾げるゲイルのことは、あえてスルーした。
「それよりゲイル。今日は女子会だからウィルのところに行っててって言ったわよね?」
「言われましたねぇ。で、お利口な自分はちゃんと行ったんですよ。でも殿下ったら俺を邪魔者扱いするんですもん。公務で疲れてるかな~って思って、せっかく王女さんの話で盛り上げてあげようと思ったのに」
「盛り上げるって、まさか変なこと喋ってないでしょうね!?」
「え~。王女さんが最近は王様と仲良くしてるみたいですよーとか、王女さんが王様にハーブティーご馳走してるらしいですよーとか。なんか王様と王女さん、最近はぐっと距離が近づきましたよねーとかは言った気がします」
「最初と最後のはでたらめじゃない! いつ私がお兄様と仲良くなったのよっ」
これでは単にウィリアムを煽っているだけだ。彼はなぜか兄の話をするたびに微妙な顔をして不機嫌になる。それはゲイルも知っているだろうに。
アルフィアスを捕まえて、祝宴週間も残すところあとわずかという今、ウィリアムと兄の喧嘩が勃発する事態だけは避けたいところである。
「まあまあ。それでさっきの話ですけど、王女さん、その王様にも『私』って言ってますよね? 確か最初に王様が
何がついよ、という文句は口から出てこなかった。
兄に対する自分の変化にも全く気づいていなかったからだ。
「私、お兄様にもそうなってたの?」
「なってましたよ。少なくとも、この祝宴週間中に突撃したときには。だから俺、天井に張りつきながら考えたんですよ。王女さんがそうなるのって、慣れっていうより、王女さんが心を許した人なのかな~って」
「――!?」
脊髄に電撃が走った。天井で何してるのよとか色々とツッコミを入れたいところではあるけれど、今はそれどころではない。
ゲイルはお調子者だが、これでなかなか鋭い着眼点を持っている。これまでも彼の指摘が正しかったことが多い。
でも、サラやジェシカたちだけならその指摘も素直に受け入れられただろうが、ここで兄を持ち出されると、どうしたってフェリシアは素直に同意できるわけがなかった。
なかった、けれど――。
翌日、フェリシアは兄の許を訪ねると、これまでと同じくハーブティーを淹れた。毎度フェリシアの訪問を不服そうにするくせに、出されるハーブティーはきっちり飲む兄に心がむず痒くなっているのは秘密である。
ハーブティーは、言わばこれまでのお礼だ。
ずっと姉から守ってくれたこと、魔物から助けてくれたこと、そして何よりも、ウィリアムと出逢わせてくれたこと。
その全てに対する、恥ずかしくて口では言えない感謝の気持ちを、ハーブティーを通して伝えていた。
さらにもう一つ。このハーブティーは、今さら何を話せばいいか互いにわからない兄妹の、会話を繋ぐための役割も担っている。
今日も二人の間には、ぽつぽつと沈黙が落ちる。
フェリシアは意を決して口を開いた。
「わ、私っ。昨日、サラ様とお茶会をしまして!」
突然の報告に、それがなんだと兄の視線が問う。
「え~っと、その、女子会だったんですけど、途中からゲイルが乱入してきて大変だったんです。女子会なのに酷いですよねっ」
兄は無言だ。いや、眉間にしわが寄った。きっと何が言いたいんだこいつは、みたいなことを思っているに違いない。フェリシアもそう思う。
「そういえばわ、私っ、甘いものが好きなんですけど、お兄様はお好きですか?」
「…………」
今度は兄の目が、そんなことを訊いてどうする、と言外に告げてくる。確かに知ってどうということはない。
フェリシアは内心で唸った。
(会話って難しい!)
特に、これまで仲違いしていた相手との会話は難易度が高すぎる。
いや、本当は違う。会話だけなら、フェリシアはこれまでなんとかこなしてきた。たまに嫌みの応酬が始まることもあったけれど、ここまで脈絡のない話を連続投下したのは初めてだ。
今こんな状態に陥っているのは、フェリシアが変に意識してしまっているせいだろう。
これまで自分の一人称を意識して使い分けたことなんてなかったから、いざ意識して使うのは、途端に恥ずかしさが込み上げてくる。
――けれど、これからは向き合うと決めたから。
気づかないうちに変わっていた一人称が、何よりも如実に自分の心を代弁していると、フェリシアはそう思ったから。
「お兄様、私、あのですね」
「フェリシア。その前に」
「? は、はい」
「さっきからなんなんだ、まるで緊張しているようなその態度は。まさか今さら余に気を遣っているのか? 遠慮も慎みも知らないそなたが? 手に負えないじゃじゃ馬のようなそなたが? やめろ、気持ち悪い」
シンプルに悪口を言われる。人がせっかく頑張って羞恥心と闘っているというのに、兄はあまりにも兄だった。嫌がらせをされていた頃となんら変わらない。
(でも、それが私たちらしい、のかしら)
無理に変える必要はない。
兄とはこれまで嫌みの応酬ばかりしてきた。それが自分たちであり、それが自分たち兄妹という形であり、きっと、無理に変えるものでもないのかもしれない。
だってきっとまだ、お互いに心の準備ができていない。
兄はそれをわかっているのだろう。だから遠回しな嫌みではなく、ストレートな悪態でフェリシアを怒らせようとした。
フェリシアは、そんな兄の不器用な優しさが嫌いじゃないから――。
「わかりました。そんな酷いことを言うお兄様には、今度トマトのスコーンでも差し入れますわ。残さず食べてくださいね」
「遠回しに毒殺宣言か? トマトに毒があることくらい知っている」
「まあ! トマトに毒があるのは葉や茎、青い果実にです。熟した赤い果実なら問題ないんですよ。お兄様ったら、そんなことも知らないのですか?」
「あいにく余はそなたと違って毒に興奮する
「私はそのおかげで生き延びてますので、悪いことばかりでもありませんわ」
ああ言えばこう言う。そう、自分たちはこんな兄妹だった。
そしてこれからも、それが大きく変わることはないだろう。
ただ、これまでと違って、互いの口元には素直じゃない笑みが浮かんでいる。
「まあ、そなたがどうしても、と言うなら食べてやらないこともないが」
「お兄様がどうしても食べたいと仰るなら、頑張って作らないこともありません」
以前はストレスしか感じなかった兄との会話が、今では少しだけ楽しい。
でもそれは、一人称のことも合わせて、口が裂けても言わないでおこうと決めたフェリシアだった。
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