【書籍化御礼】邪魔者、ゲイル
ゲイル・グラディス。
彼は、裏の世界では有名な暗殺者で、
しかし今では、秘密裏に動くウィリアムの部下となった男でもある。
どういうわけかフェリシアを気に入ったゲイルは、自ら「王女さんの暗殺依頼を断る代わりに、俺を雇ってくださいよ」とウィリアムに持ちかけたのだ。
それからというもの、彼は神出鬼没に現れる。
「呼ばれて飛び出てジャンジャジャーン! お待ちかねのゲイル・グラディス、参ッ上!」
「……」
ピーィ。小鳥のさえずりが通りすぎ。
サァァ。風の揺らぎが肌を撫ぜる。
心地よく、うっかり微睡んでしまいそうなほど暖かな天気の中、それとは真逆の冷めた笑顔が、木の上に登場したゲイルに向けられた。
「あ、あー。あれっすかね。ちょっとタイミングを間違えちゃったやつっすかね?」
すると、わかりきったことを訊くな、と言わんばかりに、ウィリアムがさらに自身の微笑みを凍らせた。
大木に背を預ける彼の膝の上には、フェリシアが眠っている。
ヴェールを外し、正式にウィリアムの婚約者として顔見せを行った彼女は、最近多忙を極めていた。
かくいうウィリアム自身も多忙の身で、だから今日は、久々に二人の予定が合った日だったのだ。
そうして王宮の奥にある湖まで足を伸ばして、二人だけの穏やかな時間を過ごしていた。
からかえば唇を尖らせて。
冗談を言えば笑ってくれて。
そして愛を囁けば、顔を真っ赤にするフェリシア。
彼女の反応全てに幸せを噛み締めていたウィリアムだが、日頃の疲れからか、だんだんと船を漕ぎ始めたフェリシアを、今はどさくさに紛れて膝枕している。
そんなところに現れた空気の読めない男に、ウィリアムは極力声を潜めて告げた。
「ゲイル、今度こそ魔物の餌にされに来たのかな?」
「いやいやいや、違うんですって。今日は以前言ってたお土産を持ってきたんですって」
「騎士たちの目を掻い潜って? フェリシアに? そこに他意があるなら――やはり魔物の餌になってもらおうか。手間なく邪魔者が消えてくれるんだから、これほど楽な始末の仕方もないと思わないかい、ゲイル?」
「相変わらずこっわ」
ゲイルは悪寒を感じたのか、腕をさする。
本当はさっさと木の上から下りる予定だった彼だが、下で待つ大蛇のせいで下りられなくなってしまったようだ。
「でもですよー、殿下。真面目な話、俺は王女さんにも癒しが必要だと思うんですよ」
ウィリアムは、膝の上ですやすやと眠るフェリシアの頭を優しく撫でながら、ゲイルを見上げた。
「ここ最近の王女さんといったら、茶会、式典、舞踏会。茶会、茶会、晩餐会。気を遣うことばっかりじゃないっすか。まだ婚約者で、結婚してるわけでもないのに。こんなに引っ張りだこにされて、かわいそうだと思いません?」
「ゲイル? 結婚は確定だけど」
「あー、はいはい。そうっすね〜。まあとにかく、そこで俺は考えたわけですよ。王女さんも俺と同じ趣味をお持ちでしょ? じゃあ素晴らしい毒草や毒花を持っていけば、王女さんも癒されるかなって」
「そのフェリシアを解っていると言いたげな選択が気に食わないが、たとえそれで癒されるとしても、私が許すと思うかい?」
にっこり。相変わらず完璧な微笑みで、ウィリアムは静かに威嚇した。
鈍い者には安心を与え、鋭い者には恐怖を与える。そんなウィリアムの微笑みを、ゲイルは密かに〝ウィリアム式スマイル〟と呼んでいるのだが、この微笑みはまさにそれだった。
「ほんっと、恐ろしいくらい王女さんのことが好きっすよねぇ、殿下は」
ゲイルが呆れた顔で言う。
まるで毒気を抜かれたように。
仕方ないなぁと、若干うんざりするように。
そんな、何の含みもない言葉をフェリシア以外から向けられたのは、ウィリアムにとって久々だった。
興味も小細工も策略もない。
だからこそ、ウィリアムもまた、自然と肩の力を抜いていた。
我知らず、素の笑みを口の端に浮かべながら。
「愚問だよ、ゲイル・グラディス。彼女を手に入れるため、私がいったい何人の人間を利用してきたと思っているんだい?」
――ぶはっ、と。
ゲイルは吹き出した。
嘲笑でも、失笑でも、苦笑でもなく。
純粋に、面白かったから。
ウィリアムの隠さない卑劣さが、むしろ清々しくて。
あるいは清濁併せ呑む彼を、それでこそウィリアム・フォン・シャンゼルだとでも言うように。
「あんた、やっぱ最高だわ」
「君に褒められても嬉しくないけれどね。だいたい、彼女の癒しになるのは私だけでいいんだよ。私の癒しになれるのが彼女しかいないようにね。君が余計な気を回す必要はない」
言いながらウィリアムは、さらりとフェリシアの前髪をどかして、額に軽いキスを落とした。
フェリシアが少しだけ
ゲイルは困ったように頬を掻いた。
「ほんと、良い性格してるっすよねぇ」
「さて、理解できたならお引き取り願おう。私はフェリシアが起きるまでここにいるつもりだから、そろそろ私を呼びにくるだろう補佐官には、そう言伝を頼んだよ」
「あーあ、おまけに人使いが荒いったら。俺は殿下の侍従じゃないってのにさ」
「それでも君は伝えに行くだろう? フェリシアを休ませてあげるために」
次は、ウィリアム式スマイルではない、挑発的な笑みだった。
いくつもの笑顔を使い分けて、ウィリアムは人を動かしている。それは彼の特技と言っても過言ではない。
ゲイルは、ちょっとだけ悔しそうに溜息をついた。
「あーもー! そうですよそうですよ。俺はどっかの腹黒殿下とは違って、同志には優しいですからね! てことで、仕方ないんで今日は退散します。ま、王女さん御所望のキョウチクトウは、また今度にでも渡しますかねぇ」
諦めたゲイルが立ち去ろうとした、そのとき。
「……キョウ、チク、トウ……?」
「「え?」」
寝ていると思っていたフェリシアが、突然むくりと起き上がった。
これにはさすがのウィリアムも、目を擦る婚約者を唖然と見つめる。
「今、キョウチクトウって、聞こえたような……」
まだ眠そうにぼんやりとした瞳で、フェリシアは何かを探すように周囲を見回している。
やがて、その緑の瞳が、ゆっくりとゲイルのいる木を仰いだ。
それから彼の手が握っているもの――大振りのピンクの花を視界に映した、その瞬間。
「それ! 本物のキョウチクトウじゃないの‼︎」
フェリシアの目が、カッと見開かれた。
「ぶふっ」
ゲイルがたまらず口元を押さえる。
同時、ウィリアムは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「やだゲイル、本当に持ってきてくれたの?」
「くくっ。そーですよー。持ってきましたよー。まさか名前を聞いただけで起きるほど待ち望んでくれてたなんて……ふっ……やば、おもしろ」
心底可笑しい。そんな様子でゲイルは腹を抱えた。
対してウィリアムは、特技の微笑みを貼りつけることも忘れて、むくれたように眉間にしわを寄せている。
「フェリシア? 嬉しいのはわかるけど、あれは……」
「ねぇウィル、見て。キョウチクトウよ。やっとこの目で見られたわ。キョウチクトウはね、毒にも薬にもなるのよ。知ってた? といっても毒性が強いから、素人が手を出すと危険なんですって。祖国では手に入れられなかったから楽しみにしてたの! 呼び名は何が良いかしら。キョウちゃん? チクチク? 花の先がフリルみたいだから、フリルン……フリルンにしましょう! ああ、さっそく色々と試して――」
「その前に。フェリシア、今日は私と一緒に過ごしてくれる約束だったよね? 忘れたとは言わせないよ」
「あ……」
途端、目に見えてフェリシアの元気がなくなった。
ゲイルはまだ笑っている。
「も、もちろん忘れてないわ。でも、その」
ちら。ちら。
フェリシアの目はキョウチクトウから離れない。
ゲイルがわざと横にずらせば、フェリシアの視線もそれを追う。
ちら。ちら。
キョウチクトウとウィリアムの間を、彼女の視線が往復する。
やがて。
「…………わかった。いいよ」
先に白旗を挙げたのは、ウィリアムだった。
「ウィル?」
「いいよ。その代わり、実験をするなら私も一緒だよ。でないと君は、喜んでその毒を自分で試そうとするからね」
「本当に? いいんですの?」
「君が喜んでくれるなら。でも、好奇心に負けて少しでも毒を口にしようとしたら……わかってるよね?」
ここでいつもの調子を取り戻したウィリアムが、お得意のウィリアム式スマイルを浮かべる。
フェリシアの口元が引きつった。
それを満足げに眺めると、ウィリアムは立ち上がる。
「さあ、そうと決まればお手をどうぞ。私のかわいい、お転婆な婚約者殿」
「……怒ってます?」
「まさか。ゲイルには怒っているけれど、君には怒っていないよ」
「げ」
急に矛先を向けられたゲイルは、脱兎の如く逃げ出した。キョウチクトウ諸共。
そして彼が逃げ出すだろうことを、ウィリアムは計算して言ったのだ。存外、あの男は空気が読めるから。
「あ、キョウチクトウ!」
「大丈夫。今度私が用意してあげるから。それで許して、ね?」
「……ずるいですわ。私がウィルのお願いに弱いことを知っててそう言うんですから」
お願いというか、その仕草というか。
とにかく誰もが口を揃えるほどの美貌を、彼は惜しげもなく利用する。
それは、フェリシアに対しても同様だった。
「うん、そうだね。だって君には――いや、君にだけは、ずっと私だけを見ていてほしいから」
まぶたに優しいキスが落ちてくる。
くすぐったくて、照れくさくて、少しだけ顔を俯ければ、許さないとばかりにウィリアムが顎を掴んだ。
「愛してるよ、フェリシア」
今度は唇に落ちたそれに、フェリシアはそっと目を閉じる。
甘酸っぱい、幸せな日々。
今まですれ違っていた時間を埋めるように、二人は互いに互いの手をぎゅっと握ったのだった。
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