【1周年御礼】彼の素顔の秘密


 フェリシアが前世の記憶を取り戻し、自分が前世でいう乙女ゲームの悪役であることを思い出したのは、もう随分前のこと。

 と、フェリシア自身は思っているが、実際は数ヶ月前のことである。

 今では紆余曲折を経て、本来なら婚約破棄されるはずだったシャンゼルの王太子、ウィリアムと奇跡的に想いが通じ合い、婚約者としての日々を過ごしていた。


 そんなウィリアムは、基本的には柔和な笑みを崩さない紳士である。

 しかし、彼に近しい者なら知っているとおり、彼の本性は腹黒で鬼畜な、なかなかに策士な男である。フェリシアも身をもってそれを知っていた。

 ただそれは、言い換えれば、彼に近しい者しか知らない事実であるということを、フェリシアは失念していたのだ。

 そして、王太子である彼に近しい者なんて限られた数しかいないということもまた、フェリシアは完全に忘れていた――。

 


 その日のフェリシアは、珍しく積極的に行動していた。

 いつもは夜、ウィリアムが仕事終わりに自分をたずねてくれて、二人穏やかな時間を楽しんでいる。

 けれど、彼にばかり訪ねてきてもらうことに、フェリシアは心苦しさを覚えていた。

 当のウィリアムは「私が会いたいからいいんだよ」と言うけれど、フェリシアは自分からも歩み寄りたいと思っていたのだ。それゆえの行動だった。――彼の休憩時間に、差し入れをしようと思いついたのは。


 残念ながら手作り菓子を用意できる身分ではないため、そこは潔く専門家シェフに任せることにして、フェリシアは自身の強みをかすべく、ペパーミントの精油を持って彼の執務室を目指していた。


 ペパーミントは、もともと薬草の一つとして育てていたハーブである。

 さらに瘴気の浄化薬の研究に携わったフェリシアは、宮廷薬師の知り合いがおり、彼らに協力してもらうことでペパーミントの精油を抽出することもできた。

 そうして抽出されたそれは、フレッシュで爽やかな香りを放つ、集中力を高めてくれるアイテムとなったのだ。


(これで気分転換して、午後も乗り切ってもらえたらいいんだけど)


 後ろに護衛のライラを伴い、心をわくわくと弾ませながら廊下を進む。

 ウィリアムを驚かせるため、この訪問は彼には秘密だ。

 だからこそ余計に気分は浮き立ち、彼の驚いた顔を想像して、口元に小さな笑みを刷く。

 が、ウィリアムの執務室を目の前にして、その笑みは呆気なく崩れさった。

 というのも、まさに今、その執務室から出てきた二人のメイドの話し声が、自然と耳に入ってしまったからだ。


「ねえ見た? 今日も相変わらずかっこよかったね、王太子殿下」

「ほんと、いつ見ても綺麗な顔してるよね〜」


 メイドはフェリシアに気づいていない。フェリシアはメイドに気づかれないよう、咄嗟に身を隠す。

 廊下の出窓。そのカーテンの中に、ライラもぎょっとするほどのスピードで身を滑らせた。

 何も知らないメイド二人は、フェリシアの隠れる方へと歩いてくる。隠れ損ねたライラは、しかし空気と一体化し、素知らぬふりでフェリシアのいるカーテンのそばに直立した。


「私たち、ほんと役得よね。殿下のあの優しげな微笑みを間近で拝めるんだから」

「ねー。これで午後の仕事も頑張れるわ」

「わかるー。いいなあ、私もあんなふうにかっこよくて優しい男性と結婚したい」

「結婚は無理でも、愛人枠は狙えるんじゃない?」

「愛人って、まさか殿下の? そんなの無理に決まって……――でもそういえば、何代か前の国王陛下は、愛人の多さで有名だったわね」

「そ。だからひょっとしたら、ひょっとするかもよ?」


 桃色の会話を繰り広げる彼女たちとは裏腹に、フェリシアの顔は真っ青に染まっていく。

 カーテンからそっと彼女たちを窺えば、はっきりと顔は見えなかったが、どちらもかわいらしい雰囲気を持っていることはわかってしまった。スタイルもいい。年の頃も、フェリシアと同じくらいだろうか。


 ライラのなんとも言えない視線には気づいているけれど、反応はできなかった。心配そうにも、もしくは呆れているようにも見えるが、今はそんなことよりも衝撃的な事実に直面し、それどころではなかったからだ。

 ウィリアムの腹黒で鬼畜で策士な面に慣れてしまっていたフェリシアは、すっかり失念していたのだ。

 彼が、周囲のほとんどからは、人望厚い優しい王子様だと認識されているということを。


「あいじん……」


 我知らず呟いた。

 カーテンから顔を覗かせるフェリシアに気づかないメイドたちは、そのままどんどん遠ざかっていく。

 けれど、まだかすかに話し声は聞こえてきて。


「でも……優し……けど、一度も……ないのよね」

「確かに。……たしも、話し……もらったこと……度もないよ」


 だめだ。しっかり聞き取れない。

 心臓が嫌な鼓動を刻む。

 フェリシアはまた、無意識にこぼしていた。


「愛人……」

「あの、王女殿下。さすがに理不尽なので、念のため申し上げますが。王太子殿下にそんな器用な一面はございません」


 ライラと視線が交差する。

 やはりその目は、どこか心配そうな、でもどこか呆れてもいるような、そんな眼差しだった。

 フェリシアは誤魔化すように笑った。


「そ、そうね。彼女たちがどう思っていようと、ウィリアム殿下に、その気さえ、なけれ、ば……」


 言いながら、フェリシアは猛烈な不安に駆られた。

 最近のフェリシアが見る彼は、意地悪な微笑みか鬼畜な微笑みか何かを企むような微笑みばかりだったと、こんなときに限って思い出してしまったからだ。

 そういえば、メイドたちの言う優しげな微笑みなんて、最後に向けられたのはいつだろうと考え込む。

 若い女性がほんのりと頬を染めるくらいの笑みなのだから、それはそれは素敵な笑みだったに違いない。

 仕事で使っているような貼りつけたものではなく、きっと、柔らかくて、うちから仄かに漏れ出たような、きらきらと輝いて見える微笑みだったのだろう。

 フェリシアも何度か向けられたことのあるその微笑みは、特に女性にとっては甘い毒も同然だ。だって、毒に慣れているフェリシアでさえ、向けられるたびに心臓が止まりかける始末なのだから。

 耐性のない他の女性がくらえば、一発で彼の虜になってしまうこと間違いなしだ。

 どうしよう。もしかしなくても、これは非常にまずい状況なのではと、脳内でプチパニックを起こす。


 さいわいにしてフェリシアは、これまでそんな場面を見たことはない。

 でも、今までがなかったからといって、これからもそうだという保証もない。

 現に今、二人のメイドは、恋する乙女さながらのテンションで執務室から出てきたのだから。


(ど、どうしよう)


 今度こそ顔から血の気が引いた。顔色は青を通り越して、貧血を起こす手前のように白くなっていく。

 居ても立っても居られず、フェリシアは足早に彼の執務室に向かった。

 今までの自分なら、おそらくここできびすを返したことだろう。

 けれどこのときは、彼の迷惑になるかもしれないという遠慮よりも先に、彼をとられるかもしれないという恐怖のほうが胸を占めていた。


 逸る心の赴くままノックをすると、中から「どうぞ」とウィリアム本人の声が迎えてくれる。

 執務室では基本一人だと言っていたように、開けた扉の先には彼しかいない。

 フェリシアの姿を認めた彼が、真剣な雰囲気から一転、嬉しそうに椅子から立ち上がった。


「フェリシア? どうしたんだい、君が自らここに来てくれるなんて初めてだね。いらっしゃい」


 驚きの混じった彼の表情は、彼がいつも浮かべる〝仮面〟とは違う。素の表情だ。

 彼は海千山千の貴族たちと渡り合うため、いつも笑顔の仮面をつけている。

 その仮面が剥がれるときは、彼に近しい者でさえあまり見ないという。

 だから、たとえそれが驚きの表情であれ、彼の素顔を見せてもらえることに喜びはある。嬉しい。まるで彼の特別だと言ってもらえているようで、そんなときフェリシアは、どうしようもなく心がくすぐったくなるものだ。


 でも、今見たいのは、それではない。

 入り口で固まるフェリシアを中へ招くためか、ウィリアムがこちらにやってくる。

 そうするのが当然だというように、彼がふわりと抱きしめてきた。


「すごい。ちょうど君に会いたと思ってたから、驚いたよ。それで、どうしたの? 何かあった?」


 フェリシアは、無言で身をよじり、彼の腕の中から抜け出すと、そのまま彼を執務机の手前にある皮張りの応接用ソファへと導いた。

 同じく応接用のテーブルには、さっきのメイドたちが運んだのだろう休憩用のティーセットが置かれている。

 湯気の上がるティーカップ。甘い香り漂う焼き菓子たち。

 それらを視界に入れて、フェリシアはぐっと奥歯を噛む。

 ウィリアムは、疑問符を浮かべながらも、されるがままソファに腰を下ろしてくれる。

 そんな彼の正面に立つと、フェリシアは両手で彼の頬を包み込み、そして――


「笑ってください」


 真面目な顔で、そう要求した。


「うん?」


 ウィリアムが困惑した様子で小首をかしげる。

 

「だから、笑ってください、ウィル」

「えーと……こう?」


 訳はわからなくても、要求には応じてくれるらしい。彼はにこりと笑った。

 けれどそれは、フェリシアの見たいものとは違う。

 フェリシアが今見たいのは、作り物ではない、彼の本物の微笑みだ。

 いたずらにメイドを誘惑してしまう、優しい微笑み。


「違います。そんな仮面じゃなくて……メイドに見せたっていうような、優しげな微笑みを……っ」

「いや、え? フェリシア? ちょっと状況が掴めないんだけれど。メイド? なんでここでメイドが出てくるの?」

「ウィルが、誘惑したから……っ」

「ちょっと待って。私はそんなことした覚えはないよ?」


 そう言って、彼にしては珍しく早口で続けた。


「きっと何か誤解がある。だからどうしてそう思ったのか、ちゃんと詳しく教えて、フェリシア。お願いだから勘違いしたままにしないで。それは、私に笑ってと言ったことに関係するんだね?」


 フェリシアは頷いた。


「廊下で、偶然見てしまったんです。ウィルに優しげな微笑みを向けられたらしいメイドたちが、頬を染めて喜んでいるところを。同時に気づいたんです。そういえば私、最近はずっとウィルの意地悪な顔しか見てないなって」

「……なるほど。それで『笑ってください』?」

「だってずるいですわ。ウィルのどんな表情だって大切なものですけど、私だって、たまにはウィルの優しげな表情とか、見たいのに……」


 言いながら、フェリシアはだんだん自分がとんでもなく恥ずかしいことを言っているような気がしてきて、最後は俯いた。

 今さら自分の言動の遠慮のなさに驚く。

 同時に、内に秘められた自分の独占欲にも驚いた。

 これではまるで、子どもの癇癪ではないか。


「――そう、そっか。そういうことね」


 ふふ、と。

 先ほどの動揺から一転、ウィリアムの声はいかにも楽しげだった。

 だからフェリシアは、思わず反駁はんばくした。――私は真剣なのに、笑うなんて酷い!

 そう口にしようとして、顔を上げたとき。


「本当、やっぱり敵わないなぁ、君には」


 息を、呑む。

 目の前にいる彼が、あまりにも甘い顔をしていたから。チョコレートボンボンのように、まるで中に閉じ込められていた蜜が溢れ出したような、そんな甘い甘い微笑みだった。

 彼の周りだけ、淡く輝き出して見える。


「本当にかわいくて、愛しくて、心臓がいくつあっても足りない。いつか私は君に殺されるんじゃないかって、こういうとき、本気で思うよ」


 彼が慈しむように目を細める。

 それはこちらのセリフだと、フェリシアは言い返したくてもできなかった。それほど破壊力のある微笑みで、フェリシアが見たかった笑顔そのものだったから。


 心臓がいくつあっても足りないのは、フェリシアのほうだ。

 だってほら、単純だけれど、彼のその微笑みを見ただけで心臓はこんなにも速く、そして大きく、全身を暴れ回り始めたのだから。


「おいで、フェリシア」


 不思議な魔力に引き寄せられるように、フェリシアは誘われるがまま、大人しく彼の膝上に座った。


「君に一つ、いいことを教えてあげる」


 横向きに座ったフェリシアを、ウィリアムは自身の胸元に引き寄せるようにそっと抱きしめる。

 どく、どく、と高鳴る鼓動は、はたしてどちらのものなのか。この体勢が照れ臭くはあるけれど、ウィリアムの微笑みの魔力を浴びてしまった今のフェリシアに、逃げる気力なんて微塵もない。


「私が他人に見せる微笑みは、君も知ってのとおり、いわゆる〝仮面〟だ。こちらの考えを悟らせないための、言わば武器みたいなものだね。それが温和であればあるほど相手は警戒心をいだきにくくなる。だから私の微笑みは、周囲からはよく〝優しげな〟という形容詞を付けられるんだ」


 でもね、と彼は続けて。


「私はさっき、君の要望に応えてその微笑みと同じものを浮かべた。けれど君は『違う』と言ったね。つまり君の目には、あれが〝優しげな〟微笑みには映らなかったということだ。――正解だよ、フェリシア」

「え?」


 何が、という疑問は、すぐに彼によって解消される。


「君がメイドのどんな会話を聞いたのかは知らないけれど、彼女たちの言う〝優しげな〟微笑みは、さっき浮かべたものと同じものだよ。あれは単なる私の武器であり、仮面であり、偽物だ」

「じゃ、じゃあつまり、彼女たちの言っていた優しげな微笑みって、いつもの仮面のことだったということですか? ……え? じゃあまさか、あれって私の……」

「勘違い、かな」


 ウィリアムが苦笑する。

 反対に、フェリシアの顔はみるみると熱を帯びていった。


「そもそも、私が君以外を理由に素の感情なんて出せないよ」

「……出せない?」

「そう、出せない。だってね――」


 そこでいったん言葉を切ると、ウィリアムはフェリシアの顎をくいっと上に向けさせて、唇に軽いキスをした。


「なっ、いきなり何するんですの……!?」


 れたりんごよりも真っ赤になるフェリシアに、ウィリアムが吹き出したように笑う。

 それは先ほどの仮面とは、似ても似つかない会心の笑顔で。


「だってほら、私をこんなふうに幸せな気持ちにしてくれるのは、フェリシアだけだからね」

「――!」


 そんな。

 そんな嬉しいことを、臆面もなく、喜色満面に伝えないでほしいと本気で思う。

 だってそんなことをそんな顔で言われてしまったら、さっきまで嫉妬していた自分がなんだか馬鹿らしくなってくる。

 彼が愛人をとるかもしれないなんて妄想が、むしろ彼への酷い裏切りのように感じられてしまって、いかに自分が子どもなのかを痛感してしまう。

 ウィリアムが、甘えるようにフェリシアの頭をいてきた。


「好きだよ、フェリシア。君が安心してくれるなら、この言葉を何度だって伝えよう。好きだ。愛してる。本当に、自分ではどうしようもないくらい、私は君に溺れているんだ」


 どうか、それだけはわかって――。

 まるで祈りに似た声音に、胸がきゅっと締めつけられる。

 甘いのに、どこか切なくて、もどかしい。

 これが人を好きになるということなのだと、フェリシアはウィリアムに教えてもらった。

 彼に恋をしたことで、フェリシアはその感情を嫌でも知ってしまった。

 だから、彼の言う自分ではどうしようもない感情というのも、もちろん理解できてしまう。


(コントロールが効かなくて、怖くなるくらい、ウィルへの想いでいっぱいになっちゃうのよ)


 彼もまた、そんな想いでいてくれるのなら。

 少しだけ、素直になってもいいだろうか。


「……ごめんなさい、ウィル。あなたの想いを信じてないわけじゃなくて、ただ少し、嫉妬しただけなんです」


 本当は情けないから、あまり言いたくはなかったけれど。

 彼も同じ想いでいてくれるのなら、きっと受け止めてくれると信じて――。


「あーもう。どうしてそうかわいいことを言うのかな、フェリシアは。これじゃあ君を放してあげられないよ。私に仕事をさせない気かい?」

「ふふ。それもいいですわね。たまには私が悪いお誘いをしてみるのも、楽しいかもしれません」

「それだといつもは私が悪い誘いをしているみたいだね」

「あら、違いますの?」


 どうだったかな、とウィリアムがくすりと笑う。

 冗談を言い合えるこんな時間が、たまらなく幸せだ。

 それもこれも、全部、彼のおかげだから。


「私も、好きですよ。ウィル」


 そっと。内緒話をするように。

 彼への想いを口にすれば、なぜかウィリアムの笑顔がぴしりと固まった。

 ――え、なんで?

 戸惑っていると。


「……そう。本当に君には敵わないよ、フェリシア。まさかここでそんなことを言うなんて。自分がこの後どうなるか、想像もしていないのだろうね。だからこの状況でそんなことができるのかな。――いいよ。君がその気なら、私も全力で応えよう。ただ先に言っておくけれど、糖分過多になっても自業自得だからね」

「えっと、あの、糖分……?」


 なんだろう。ウィリアムの笑顔が、いつもに増して怖い。よくわからない迫力で攻められる。


「そうだよ。だから覚悟しておくといい。私を試した君が悪い」

「だから、何がですの!?」


 結局この後、ウィリアムに散々甘やかされたフェリシアは、しばらく甘いものを食べられなくなったのだった。

 

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