第3話 一目惚れではないけれど


 およそひと月の行程を終え、やっと辿り着いたシャンゼルは、一言で表すなら「やばい」だった。

 ちなみに「やばい」という言葉は、フェリシアでは知り得なかった言葉である。前世の自分が使っていたから使えるようになった言葉であり、王女としては相応しくない言葉だろう。

 それでも思わず呟いてしまったほど、その一言は端的に彼女の心情を表してくれている。

 だって、誰が想像するだろう。

 真っ黒な靄が、国全体を包んでいるなんて。

 さすが異端の国と呼ばれるだけはある。


(でもここまで綺麗に覆い尽くしているのなら、少しくらい他国で噂に上がってもおかしくはないのに……変ね?)


 むしろ「異端」とは、これも含めての蔑称なのだろうか。

 とりあえず、フェリシアは思った。


(なんだかこれ、黒い檻の中に自ら入っていくようで……嬉しくないわ)


 そう思っても馬車は進む。

 王女が乗っているとはとても思えないほど質素な馬車は、同行する人数もまた質素なものだった。

 王女本人と、その護衛が二人。あとは御者が二人の計五人だ。護衛のうちの一人は女性だからいいものの、メイドすらつけないとはさすがお兄様嫌がらせに抜かりはありませんねと、賞賛に値する。

 しかも地味過ぎる嫌がらせだ。今さら世話人がいなくても困らないと思っていたフェリシアも、さすがにこれほどの長旅では一人くらい欲しかったと思わないでもない。


 やがて馬車は検閲を終え、国境を越え、小さな国であるためか、はたまたそれが国の端に位置していたからか、ほどなく王都に入る。

 国の中は、驚くほど活気に溢れていた。

 外から見たあの黒い靄が幻だったのではと思えるほど、街を行き交う人々には笑顔がのっている。

 正直、あの靄を見たあとでは、"内"も暗いのではと安直な想像をしていたのだが。

 どうやらそうではないと知って、フェリシアはほっと息をついた。

 道の脇には花が植えられ、その色彩に心が躍る。露店が出ているからか、商人たちの威勢のいい商い文句が賑やかさを強調していた。心地いい雑音だ。ついでにおいしそうな匂いも漂ってくる。

 フェリシアは閉め切っていた小窓のカーテンから、じっと外を眺めていた。

 

(今日からここで生きていくのね。ああ楽しみだわ。そのためにも早く準備を整えないと。そういえば、ゼンはもう着いているかしら)


 人よりスピードのある鷹だ。ひと月前に飛び立つところを見送った愛鷹は、無事にシャンゼルに辿り着いただろうか。

 そう思っていたとき、空高くから、甲高い鳴き声が降ってきた。


(あれは……ゼンだわ!)


 上空を旋回しながら飛んでいる。

 その足にくくりつけた文はすでにない。ということは、無事に目的の人物に届けてくれたということだ。

 愛鷹には後でたっぷりお礼をするとして、フェリシアは満足気にカーテンを閉める。

 もうすぐこの国の王宮に着く。

 最後の仕上げとばかりに、フェリシアは持ってきたヴェールで自分の顔を覆い隠した。





 馬車から降りるなり、フェリシアに向けられたのは敵意の視線だった。

 遠くから見た王宮は、海にも負けない真っ青な屋根の尖塔が可愛らしい、メルヘンチックな城だった。

 小国とはいえ、その正面にある庭園や玄関は、グランカルストに勝るとも劣らない荘厳さが兼ね備えられている。

 そこにずらりと並び、おそらく自分を迎えるために出向いてくれただろう使用人たちだが、そこに滲む感情は嫌悪に近いものだった。

 いや、全てが全て、そうではない。なかには同情を滲ませる者もいるようだ。

 その全てに気づていないふりをして、随行した騎士に手を引かれて馬車を降り立ったフェリシアは、楚々と歩き出す。

 ヴェール越しに、一人の青年が見えた。綺麗に並ぶ使用人たちと離れて立っている彼こそ、お目当ての人物だろう。確信が持てないのは、フェリシアがまだ彼の顔を見ていないからである。大国の王女として、いきなり不躾に殿方の顔を見つめるわけにはいかなかったから。だから、視線は彼の腰から下に向けられている。

 近くまで歩みを進めると、フェリシアは今日の快晴を思わせる空色のドレスを優雅に操り、最上級のお辞儀をした。

 頭を下げたまま、声がかけられるまで一言も発しない。これは暗に、いくら自分が大国の王女とはいえ、あなたのほうが上ですよと伝えるためだ。

 相手もそれが解ったのか、想像していた通りの柔らかい声が落ちてくる。


「顔を上げてください、グランカルストの姫。遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」


 言われた通り顔を上げれば、やはりそこには、肖像画と寸分違わぬ――いや、肖像画よりも美貌の青年が笑みを浮かべて立っている。

 ――ああ。


(悔しいけれど、アイゼンお兄様は私のことをよくご存知だわ。本当に、嫌になるくらい好みの顔)


 ヴェールの下で歯噛みする。悔しいことに、兄王の見立てに間違いはなかったらしい。

 フェリシアもそうだが、誰かに嫌がらせをするときは、まずはその相手のことをよく知ることから始める。そうでなければ、その相手が何を嫌がってくれるか分からないからだ。

 よって、アイゼンはフェリシアを、フェリシアはアイゼンを、よく知っている。

 もちろん他のきょうだいについてもフェリシアは観察したが、毒を盛ってきた姉以外は、嫌がらせのほとんどがアイゼン主導のものだった。

 ちなみに、姉はすでに隣国の第三王子の許に嫁いでいて、途中からはアイゼンとフェリシアの攻防に、たまに他のきょうだいが加わるといった構図だったが。


「私はシャンゼルの王太子、クロード・エルヴィス・シャンゼルです。半年後の結婚式までは婚約者ですが、あなたの夫として末永くよろしくお願いしますね」

「ええ、こちらこそ。わたくしはフェリシア・エマーレンス・グランカルストと申します。殿下にお会いできる日を楽しみにして参りましたわ」

「それは嬉しい。私もあなたに会えるこの日を指折り数えていましたよ」

「まあ、光栄ですわ。ただ、殿下に一つ、お願いがございますの」

「なんでしょう?」

「我が祖国では、婚姻前の女性王族はヴェールで顔を隠す仕来たりとなっています。ここがシャンゼルであり、シャンゼルの風習に従うのが一番だと解ってはいるのですが、どうかこれだけは大目に見てくださいませんか? どうにも恥ずかしくて……」

「ああ、そんなことでしたら構いませんよ。どうぞ、結婚まではヴェールをお被りください」

「ご配慮いただき、ありがとうございます」


 もちろんそれは計画のための嘘だったが、遠いグランカルストの風習など、いくら王太子といえど知るはずもないだろう。

 とりあえず第一関門はクリアしたわねと、フェリシアが一人ほくそ笑んでいたとき。


「――それにそのほうが、他の男にあなたの美しさを知られずに済みそうです」


 耳許に聞こえてきた甘い声に、フェリシアは驚いて後退る。

 ついさっきまでの丁寧な話し方とほぼ変わらない、優しい口調だった。

 けど、そこに含まれた多分な甘さに、背筋が震えるほどの危機感を感じ取る。

 危険だ。一瞬で、そう理解した。

 この男は見た目より優男ではない。

 見た目より、決して単純な男ではない。


 溺れて馬鹿を見るのは自分のほうなのに、フェリシアはこのとき、自分の心臓が不自然に立てた音を聞いてしまった。

 

 

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