第1話 フランケン・ドッグ
白い四階建てのビルの一階にある喫茶店の跡地で、僕らは毎日、実験を繰り返していた。死んだばかりの犬から、なるだけ新鮮な部位を組み合わせ、心臓や脳に微生物の作用を活かして新しい運動体を作り上げる。機械や人工知能などのテクノロジーは一切、使わない。あくまで生物の装置だけを使う。シンギュラリーの到来を目前にして情報技術が持つ恐ろしい側面に人々は繊細になり始めていたから。僕らは実験のことを「オーガニックなアルケミー」と自嘲気味に呼んでいた。実験の目的は別にある。
暑い夏のある日、ついに死んだ犬に命を吹き込むことに成功した。その犬は首から上はフレンチブルドックで、ほかは柴犬やアメリカンコッカースパニエルなど小型から中型犬の部位を使った。本当の雑種だ。
手術台の上で、突然、目を開けた犬がだらしなく口からこぼれていた舌を引っ込めて、お前ら、ついにやったな、と言った。日本語をしゃべる犬を前にあっけにとられて固まったままの僕らに、つぎはぎだらけの体をぶるっと震わせて、
「いやいや、そう驚くな。拙輩は生物の連続性の中にはいない。拙輩はもはや犬ではない。人間でもないがし。犬だった時の脳は十七年も生きたポンコツだ。お前ら人間で言えば九十八歳くらいだ。でも歳を取るということは、積み重なっていく経験が、失われていく機能を温めなおすということだから、そう悲観してはいない。もう世界のたいていのことはわかっている。説明できないだけですのい。気難しい奴だとは思わないでくれ。お前ら人間でいえば、年寄りのくせに妙に物分かりのいい友人と思ってくれればいい。ま、ただ歳を取りゃいいってもんじゃないがな。La verite sort de la bouche des enfants.」
と言った。
フランケン・ドッグ(僕らはいつしかそう呼んでいた)は毎日、研究室の棚の上に居座って、僕たちの実験をただ眺めていた。いつのまにか、バラバラだった体の色は、茶色の毛並みで統一されて、頭のてっぺんにも金色に近い茶色の毛が生え始めた。食事は口にしなかったが、時々、脳のシナプス活動に必要だからとチューインガムを噛み、シナプス活動の熱を抑えると言ってはチョコレートバーをなめた。
都心と郊外の真ん中あたりにある急行電車が止まらない駅から公園の脇を通り過ぎ坂を転げ落ちるように進めば、子供たちの通学路と少し大きめの幹線道路との交差点にたどり着き、さらに進んで出てくる脇道を例えば尾根とするなら、そこからさらに滑り落ちるような細い獣道の先に身をすくめるように建っているアパートがある。その二階の一部屋から、僕は時々南向きの窓を開けて月を見る。そのとき、その周りの暗闇を構成する分子の一つ一つも持ち場を保ちつつ月と同じように暗い光を放っている。僕は思う。太古の昔の人々に与えた畏怖もそのままに月や暗闇や影があるとすれば、人が死んだり消えたりは小さなことなのか。
本当のところ、フランケンが誕生してから僕たちは実験するのをやめた。実験しているふりをしていただけだ。犬でこうなんだから、このまま実験を続けたら何が出てくるかわかったもんじゃない。しかもそのころにはフランケンの体が少しずつ崩れてきた。僕らはファッションこそ大事だと言いながら、体の肉の溶解を抑え込むためにフランケンに服を着せた。その意図は見抜かれていたと思う。
「履き心地がいいな」
フランケンは僕らが履かせた靴下を陳腐な表現で品評した。
いつしか、僕は帰り道でゆっくりとした歩調で足を運びながら、足元の大地に向かって「崩れてしまえばいい」と何度もつぶやくようになっていた。もう限界だったのだ。粘度の高い影たちが、自分の世界を包囲しつつあることはもう僕も知っている。僕はそれに包まれてしまいたいと思う。消し去ってくれ、僕を。僕が限界なのを知って近付いてきたなら、いっそ連れて行ってくれ。そう願うと影たちは僕から逃げていく。僕をどこかに運んでくれ。だが、影たちの世界に僕の居場所があるはずもない。僕は毎晩、重たい足を引き上げて、古いアパートの階段を上る。ギギという金属がこすれあうような音が聞こえてきて、それで足元を見ると、僕を拒絶した粘度の高い影たちが踏み面から蹴込みへとゆっくりと移動し、そのまま下にぽたぽたとずり落ちていって、そのうちだらりと地面すれすれに垂れ下がった。僕は触ろうと足を伸ばす。すると影はすっと遠ざかる。
ある日、フランケンがピクニックに行こうと言い出した。そのころには茶色の毛が顔の半分を覆うまでになっていて、表情はあまり見えなくなっていた。もともと見えたところで、その表情の意味するところなんて、誰にも分からなかったのだけど。
みんなでサンドイッチとチョコレートバーを持って、海岸沿いの公園に行った。噴水の近くの芝生の上にピクニックシート代わりの手術用のビニールシートを広げて、僕らはフランケンをそっと置く。僕たちは、フランケンがこんなに軽かったのかとあらためて気付いた。か細い生命体。その生命体が真昼の太陽の下で、退屈だ、とつぶやいた。
「この世界の美しさこそすべてなのに、なぜかもう拙輩はおなかいっぱいだ。夏の日に女の子が水着の上に着ている白いTシャツに笑いながらコーラをこぼしたいのい」
「なに言ってんの」
「そろそろ脳みそが溶けてこぼれだしてるんじゃないか」
僕らは口々に言った。
「脳みそはまだしっかりしている。お前たちが使った技術は確かだ。不老不死であることが幸せなのかと問うことは間違っているわけじゃない。幸せであろうと願い続ければそれが人間を強くする。しかし、強いと思えばそれ以外の強さを認めなくなるのが人間のざわつきだ。そうフォスターも言っておる」
岸壁に立って、僕らは夕日を眺めた。赤い光が海の水面に線を描いていく。すばらしかった。
「冬になったらカーリングを教えてやろう。ムニョス」
唐突にフランケンが言う。しかし、フランケンンは冬まで持たなかった。冬どころか。
疲れた体で古いアパートのドアを開けて、電気をつける。裸電球が黄色い光を放っても、影を生まないのは部屋の隅に置いた冷蔵庫。僕が引っ越しで持ってきたものの一つだ。鞄に詰められなかった唯一のもの。その冷蔵庫のドアは壁にぴったりとくっつけてある。僕は適当に重ね着したトレーナーの上からコートを羽織り、冷蔵庫の裏側の基盤からじわじわ出てくる熱で体を温めながら、壁に背中をつけていつものように眠る。冷蔵庫には実験を待つものが冷やされている。
フランケンに向かって僕らは言った。
「そろそろ言葉使いがおかしくなっている。君の終わりは近いんじゃないかな」
「終わりとは何だ。君たちの終わりなら、とうの昔にフーコーが宣言してしまった。もう文化も科学も哲学も芸術も森も海も人間を必要としていない。人間を経由しないで新しいステージに達した。人間中心の時代はとっくに終わった。なにものでもないものたちのための時代が始まって久しい。それに人間はまだ気付いていない」
「いや、僕らは終わってなんかない。君だって僕らが作った。君は兵器になるはずだった。でも失敗だ」
「失敗したなら成功だ。そもそも拙輩を作ったのは君たちじゃない。思い上がっちゃいけない。拙輩はなにものでもないものたちだ。君たちはなにものでもないものたちのタクトの上で揺れているだけだ」
僕らがとまどっているから、フランケンの言葉は宙に漂い始めてしまい時折吹く海からの風に飛ばされる。黙っている僕らにフランケンは言葉を投げ続けるが、段々と声が小さくなっていった。
「終わりとは何か。それは急行電車の先頭車両のドアに体を預け、長い雨がガラス窓に流れていくのを一筋一筋見ることを決意する瞬間のことで、拙輩のこころの中にある風景の形を一つ一つ分解していくことだの。人間は人間の愛の中で生きていて、その愛はどうなったところで必ず泥の中から引っ張り上げられる。雨と雨と雨の間にある未来を見切ること。疲れのなかでゆっくりと姿を現して消えていくもので……」
フランケンが右足の先から腐った匂いを放ち出す。表面を覆う茶色の毛はつやつやして生命力にあふれているように見えるのに。しかし、すぐに茶色の毛もほろほろと崩れていって、風に飛ばされていった。宙を舞いながら消えていく毛を目で追いながら、僕は冷蔵庫の熱を感じながらまだ眠り続けている。
(了)
戦争前夜のおれたちの夢。まねかれもせず、うなだれることもなく 通倍 率 @raiki-tokunaga
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