第3話 バーを埋める

 LPレコードは二十枚くらいを積み上げてポリ袋で包んだ。CDは五十枚くらいをひとまとめにした。ポリ袋で包んだうえに、さらにプラスチック製の衣装ケースに詰めるだけ詰め込んで、隙間は新聞紙で埋めた。ふたは荷造りテープでしっかりと目張りした。


 私たちはこの作業を一晩に六時間ぶっ続けで、三日でやり終えた。灯りは小さなランタンひとつ。


 プレーヤーやアンプやスピーカーはリュウさんが包んだ。音が出せる最小限のものだけを選ぶと言っていた。時々目を上げると、壁に映ったリュウさんの影が見えた。時間をかけて丁寧に部品を外し、柔らかいタオルでくるんで、ポリ袋で何重にもカバーしている。


 マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、ビル・エバンス……


 バーの床一面に並んだ衣装ケースはなんだか棺桶のように見えた。店の奥の壁際には、棺桶が二段に積み上がっている。並べた衣装ケースの端っこに二人で座った。


「こんなことして何になるんですか」

「おれにもよくわからない。ムダかもしれない」

リュウさんはそう言って立ち上がった。「浸水への備えはこれでいい。あとは火が回ってきたときのことを考えないと。土で埋めよう。この店を土で埋めたい」


 ピートという名のバーのことは、兄さんがよく話してくれた。居心地が良くて、マスターのリュウさんもいい人だ、いつかお前を連れて行ってやる。そう言っていた兄さんは、いつ戻ってくるのかもわからない。


 夜九時以降、すべての店が営業禁止になって、もう一年が経つ。不便な生活にも慣れてしまったけれど、ピートに行きたいという気持ちはどんどん強くなっていった。ある日、学校の後の業務を終えてピートに行ってみた。


場所はすぐにわかった。兄さんは、小さな階段を下りて重い鉄のドアの前に立つとジャズが聞こえてくると言ってた。今夜は何も聞こえない。七時くらいだったのに店は閉まっていた。もう店を辞めてしまったようにも思えた。


 次の夜もピートに行った。昼間の仕事で疲れ切っている母が目を覚ますことはほとんどない。家を抜け出すのは簡単だ。今度は午後九時くらいに店に着いた。なんとか忍び込むつもりだった。ドアは今夜も閉まっていた。持ってきたドライバーやスパナでドアをこじ開けようとしたけど、どうにもならない。ビルの裏側に回ると、ビルの表と裏では段差があるのか、店へとつながる小さな窓があった。


 大きな音を出したら、誰かに見つかってしまうかもしれない。わかっていても、気付いたら窓のガラスを割って、鍵をこじ開けていた。小さな窓に体を押し込んで店の中に入った。懐中電灯で暗い店内を照らす。いくつかの机と椅子が浮かんだ。その先にはカウンター。カウンターの向こうには……。


 男がいた。懐中電灯の光を浴びて眩しそうに目をあけながら、ヘッドフォンをゆっくりと外した。


「さっきドアをいじってたのもお前か。まだ子供じゃないか」


 男がカウンターから出てきた。右足を引きずっている。カウンターの上にあるランタンに灯りを入れた。店がぼおっと明るくなった。男が小声で言った。「お前、だれだ」。


 小声なのに太く通る音だった。兄さんの名前を出して、妹なんですと説明した。


「すみません。どうしてもここに来たくて」

「兄貴のことはよく知ってるよ。無事に帰ってこれたらいいな。お前、いくつだ」

「十五歳です」

「酒、飲んだことあるだろう。飲むか」

「いいです。ただ、私もジャズを聴いてみたいんです」


 リュックから小さなCDプレーヤーを出して、目の前に掲げた。男が口元に笑みを浮かべた。


「音楽も大事だが、酒も大事だ。まあ、楽しいことはすべて大事だ」。


 楽しいことはいつも最初に取り上げられてしまう。兄さんがよくそう言ってたのを思い出した。


「何かが大事だってことに気づいたときには、たいてい何もかもが遅いんだ」。男はリュウさんだった。


 それから毎晩のようにピートに通った。お酒は飲まなかったけれど、たくさんのジャズをふるまってくれた。初級編だぞ。そう言って、好きな曲、わからない曲、大人の曲、いろいろな曲を聴かせてくれた。


 ソニー・クラーク、ソニー・ロリンズ、ヘレン・メリル……


 しばらく経ったある日、夜七時以降の外出を完全に控えるようにとお達しが出た。それでも時々、家を抜け出してピートに行った。回遊する車に見つからないようにするのは大変で、毎晩というわけにはいかなかった。マスターのリュウさんは時々、店に泊まって音楽を聴いていると言っていた。


 ある晩、ピートになんとかたどり着いて、私たちだけが感じ取れるくらいの灯りのなかで、私たちだけが聞き取れるくらいの音でリュウさんが薦めてくれたジャズを聴いた。ウイスキーの水割りを飲みながら、珍しく酔ったリュウさんが愚痴をこぼした。


「この町だけじゃなく、どこもかしこも徹底的にぶっ壊されてしまう気がしてならないんだ」


 それは私が初めて聞く、リュウさんの弱気な言葉だった。


「レコードを安心して保存する場所はどこにもない。このバーに置いておくのが一番いいと思う」


 次の日から二人で梱包作業を始めた。ポリ袋や衣装ケースはリュウさんが運び入れた。カウンターにランタンを置いて、脇のスツールに水のペットボトルを乗せて作業した。手に持っていたレコードジャケットは影絵のような女の子の横顔で、その横顔の上でランタンの灯りが照らしたペットボトルの影がゆらゆら揺れていた。


 並べた衣装ケースの上に土を被せる作業は、ほとんどリュウさんが一人でやった。久しぶりにピートにもぐりこんだときには、床がもうほとんど土で埋まっていた。壁際から衣装ケースを並べて、その上から土を被せていったのだという。昼間、リュウさんは工場に行っている。もう六十歳に近いと言っていたから、ここまでやっただけで相当に疲れているはずだ。


 さすがに店全体を土で埋め尽くすのは無理だった、とリュウさんは笑った。ドアの前やカウンターの方では木でできた枠を作り、その内側に土を敷き詰めていた。店の中に、なんだか大きな畑をこしらえたみたいだった。本当にいつか何かの芽を出すのかもしれない。


 私はその畑の上に立ってみた。靴が少し土に埋まって、いつでも足元が壊れそうで少し怖かった。それでも少しずつ畑の上を歩いて、土を踏み固めていった。足の下にはたくさんの音楽がある。


 アート・ペッパー、オスカー・ピーターソン、スタン・ゲッツ……


 私が持ってきた小さなCDプレーヤーをカウンターに置いて、二人でスツールに腰かけた。最後に残ってた酒だ、別れの酒だぞ。リュウさんが作ってくれたウイスキーの水割りに口を付けると、薬みたいな味がした。


「誰もが知ってる曲だけどな。もっと早く、お前に聴かせてもよかった」


 曲が流れてきた。太くて柔らかい歌声だ。しばらく二人で聴きいった。緑の木、赤いバラ、青い空、白い雲、赤ん坊の泣く声……。ボリュームを絞っていたのでとても小さな音だったけど、胸の中ではとても大きく響いた。


 突然、店の壁にたくさんの人の手形が浮かび上がってきた。黒い影のような人の手だ。手がぱらぱらと音を立てるように、壁一面を走っていく。音楽の畑に向かって、たくさんの手が壁の表面を上から下に雨のようにすべり落ちている。音楽を求めて、人々の手が我先にレコードを掘り起こそうと殺到しているようにも見えた。どの壁もどの壁も、人の手の雨で濡れていく。次々と黒い手が現れて、その手を押しのけるように次の手が出てくる。太い指、細い指。そのうち手が壁一面を覆い尽くして、どの壁も黒一色に染まった。私は怖くてしばらく動けなかった。


 幻覚に決まっている、そう思い直して、壁の方に歩いていって壁面を触った。指先には土が付いていた。懐中電灯を照らしてよく見ると、土でできた無数の手形が重なって、壁一面を覆っていた。


 振り返ると、リュウさんは私を見つめていた。いや目の焦点が私に合っていない。私の先にある何かを見つめている。リュウさんがウイスキーを一気にあおって、ゆっくりとかみしめるように話しかけた。私に話しているのか、それとも他の誰かに話しているのか、それはわからなかった。


「この厄介事が片付いたら、俺は何があってもここを掘り返してやる。ビルのがれきが折り重なってふさいでいても、絶対にレコードを取り出してみせる。そして、俺はどんなことがあっても残りの人生をずっと音楽だけを聴いて暮らしていくつもりだ」


(了)

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