第2話 由良川の空に見上げた満月

 そして、今に至る。


 航太は、学校初日だというのに熱を出して欠席だ。

 バカは風邪をひかないはずなんだけどな。

 ま、地頭はいいから本気を出せば凄いと思うんだけど。


 今日は本当は知夏と来るつもりだったのだが、

「ごめん、先行ってて! ちょっと用事できちゃったから遅れていくね!」

 だそうだ。


 用事が何のことかは知らないけど、二人とも初日からちゃんと行かなくて大丈夫かな…



 今どき珍しい、ガタゴトと音を出す電車の音に耳を傾けながら、月華は窓の外の空を見上げる。

 今日は快晴だ。

 綺麗な満月も出てるし…こういう日はなんだか、不思議なことか良くないことが起きる予兆みたいだ。


 …ん?満月?



 ”由良川ー、由良川ー”


 機械声のアナウンスが流れ、はっとした月華が慌てて電車を降りる。

 今日から月華が通う学校は、ここ、由良川特別学区にある、国立由良川高校。

 科学大躍進のすぐ後にできた地区らしいが、交通手段はこの電車しかないから、そもそも人が少ない。


 …というか、いない。


 由良川に住民はいないはずだから一般人はいないことはともかく、生徒らしき姿が見当たらない。

 9時登校なら、この時間の電車が一番ちょうどいいはずなんだけど…


 そこまで考えて、サッと血の気がひいた。


 もしかして…時間を間違えた?


 いや、でも学校から送られてきたファックスには、4月6日の午前9時と書いてあったはずだ。

 それが見間違いだったとしたら…


 もし登校時間が8時か8時半だったら、初日から遅刻だ。

 天宮家令嬢が時間を間違えて遅刻なんてそんな赤っ恥、絶対にかくわけにはいかない。…死んだ両親のためにも。


 唇をぎゅっと噛んで、おもむろに走り出す。

 手元の腕時計の針は、ちょうど8時6分を指し示している。

 駅から学校まではたしか…山道をひたすら登っていくだけだったはず。


 走れば…間に合う?

 学校までは約2.5キロ。それくらいなら、全力疾走すれば10分ちょっとで着けるはず。一応運動神経に自信はあるから。登校時間が8時半なら、間に合う。


 駅を出て、踏切を渡ってすぐの森の入口に入り、舗装された、車二台がギリギリすれ違えるくらいの幅の一本道をただ行くだけの通学路。

 上り坂なのはつらいが、道が分かりやすいのは今この状況ではありがたい。


 風が周りの木々の枝葉を揺らしてざわざわと音をたて、肩より少し上で切り揃えられた月華の髪をふわりと浮かせ波打つように後ろへ運ぶ。

 その時同時に、顔の両脇の、前髪と後ろ髪の中間、そこだけ腰近くまで長く伸ばされた二束の髪も、リボンのようになびく。


 …風に吹かれる感覚は、嫌いじゃない。

 自然に囲まれている時が一番、私が私でいられる気がするから。


 つまらない家の書類整理のことも、紀代のことも、影で私のことをコソコソ噂している者達のことも忘れられる。


 だからたまに、無性に自然に囲まれたいと思うことがある。

 航太には、「ああ、なんとなく分かる気がする」

 知夏には、「ごめん、ちょっとよく分かんないわ」

 と言われたけど。


 それでも私は、自然が好きだった。


 昔はよく夜にこっそり外へ抜け出して空を見上げ、星々や月を眺めていた。幼い頃初めて星の見える夜空を見たとき、これほど綺麗で美しいものはこの世にないと思ったこともあったっけ。

 今考えてみればだいぶ大袈裟な話だが、あの時の私は確かにそう思ったのだ。


 こんな私でも、親に月華という名前をつけられただけあって月や星には興味がわいた。それらに関する本もたくさん読んだ。


 勢い余って父や母の本まで読んでしまったが。

 その時は、人生で一番怒られたと思う。


 でも、気づけばここ何年か夜空を見上げなくなっている。なぜそうなったのか、その理由さえ思い出せない。



 10分ほど走ったあたりで息が切れて、ゆっくりと立ち止まって深く息を吸い、大きくはきながら空を仰ぐ。

 山の中だから空気は綺麗でいいが、結構な急な上り坂なので、走り抜くのは想像以上につらい。


 真上の木々の隙間から見える空を見上げたまま目を凝らすと、空のちょうど真ん中あたりに満月が見えた。


 日中の月はいつもどこか寂しげで、まるで私みたい…なんて寒いセリフを心でつぶやいた月華が寒気を感じた時


 彼女は気づいてしまった


「…あの月、さっきはまだ昇りかけじゃなかったっけ」


 そうだ、電車から見えた時はまだそんなに高くはなかったはず。なのに何で南中しそうな高さにまで来ているの…? ほんの10分ほどしか経っていないはずなのに。


 いや、待てよ━━


 そもそも、



 うつむいて額に手をあて、最初から考えようとしたが、走ってきた疲労で目眩をおこし、足元がふらつく。


 一歩後退りしたところの窪みに踵をひっかけ、後ろへ倒れ様に再び空が視界に入った時…


 完全に南中したと思われる満月の縁が少し、白く光ったように見えた。


 視界両端の緑色がぶれて、しりもちより先に直接背中から落ちる。


「ッ!!!」

 身体全体に衝撃が走る。


「いたたたた…」

 後頭部を地面に強打し、まだ少しふらつきながらなんとか上半身を起こした。

 もう一度空を見上げたが、さっきの木々の隙間の空に月は見えなかった。

 やっぱりただの見間違いだったのだろうか。


「最近疲れてるのかな……」

 一人でそう呟いた時、


 ガサっと音がして、道の左脇の木の根元にある草が少し揺れた。


 いつの間にか風は止んでいた。


 リスでもいるのかな、と思い近づいてみようとしたその瞬間━━


 何かが凄い勢いで真っ直ぐ顔面に激突してきた。


「ひゃっ!?」

 咄嗟に情けない声が出る。


「な、ななな何!? いきなりっ! 痛……」


 痛かったと言おうとしたが、途中で言葉を切る。


 激突してきた何かが、まだ顔面に張り付いているのだが……


 ……痛くない。なんだか柔らかくてモジャモジャしている。……触手?


 手で掴もうとしたが、得体の知れないものを触りたくなくて、頭を横に激しく振り、そのモジャモジャな何かを振り払った。


 2、3回、ポヨンと地面でバウンドし、コロコロと転がっていく。


 また目眩をおこし、なんとか目を開けながら1メートル程先のモジャモジャを見やると、


 そこにいたのは、透明で丸っこい……



「……クラゲ??」




 



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