第5話:織鶴あんこの過去②

 人間社会と二千年の文明が死に絶えたあの日、一部の人間が人食いの化け物と化す症状を同時多発的に発症した。

 この現象について、原因も治療法も全く分かっていない。発症した人間とそうでない人間の違いも判明しておらず、現状では無作為に抽出された、と言っても差し支えないレベルだ。発症者の役柄も一般人から国の重要人物までバラバラらしく、ランダムというのもあながち間違っていないように思えた。


 分かったのは、人食いとなった人間に噛まれたら人食い化することだけ。増え鬼開幕の合図は青天の霹靂だった。

 細菌テロの疑いも示唆されたが、世界各国・・・・・・人間のいる場所全てから報告があったことが理由で、人為的なものではないとする見方が有力だった。


 そこからは、毒蛇に噛まれた後で解毒法を調べ始めても遅いと言わんばかりに感染が拡大していった。

 研究機関が成果を出す前に政府機能は失われ、ロクな実験もできないままに壊滅しただろう。一年経過した今の惨状が、その証拠ともいえる。

 敵国を打倒するために生まれた人類の英知、『核兵器』は眠ったまま、世界は陥落した。


 人々はこの感染爆発を『神の怒り』と呼び、畏怖いふした。

 家族や友達が狂った化け物になり自分を襲う恐怖から逃れるために、新種のウィルスという言葉を使ってごまかした。俺達も便宜上よく使う言葉だが、原因がウィルスと断定されたわけではない。人間は正体不明のものを恐れる生き物だから。


 人間を凶暴化させる未知の病原菌に感染してしまったから仕方がない、そうさせているウィルスが悪いのだと結論付けて負の感情を遠ざけているのだ。人を殺せば誰だってショックを受ける。


 そのウィルスがどこからきたもので、何のために生まれてきたかは神のみぞ知る。

 ウィルスに感染すると人間の血肉を求めてさまよう『感染者』へと変化するが、『発症』までは個人差がある。噛まれて数時間でおかしくなる者から数日の潜伏期間がある者もいる。


 さらに、噛まれた人間はそれを隠そうとする。

 統計がとれているわけではないが、恐らく発症率は100%。生存が絶望的だと分かっていても、発症までは猶予がある。社会やコミュニティから拒否されたり、弾き出されたりすることは死よりも恐ろしいのかもしれない。


 だが、いくら返却時に悩んでもテストの点数は変わらないし、ひっくり返された砂時計の砂は落ちるしかない。

 今、危惧しなければならないことは、織鶴もまたその生けるしかばねとなっているかもしれないことだ。


「ウ・・・・・・ア、ァ・・・・・・」


 その声を聞いたのは、俺がシャワー室に戻ってきたときだった。正方形にたたまれたバスタオルのタワーがバランスを崩して床に落ちる。

 低く唸るような嗚咽おえつは、学園の外で聞く感染者の声によく似ていた。


「織鶴・・・・・・?」


 水の音は聞こえないからシャワーは流れていない。ならばこちらの呼びかけに何らかのアクションを返すはずだ。織鶴の身に何かが起きていなければ。


 言葉の通じぬ化け物となったか、会話ができないほど精神状態が乱れているか。前者を疑うのが普通だろう。

 俺は危険地帯へと足を踏み入れようとしていた。


「織鶴? 大丈夫か、返事をしてくれ」


 女が裸でいる場所へ許しを得ずに入っていくのは道徳的にまずい。俺はこんな世界でも紳士でいたい。

 とはいえ何度もおうかがいを立てているにも関わらず、一向に返事がこない。

 即決即断が性分の俺は現場を非常事態と判断し、強行突破を試みることに決めた。


「入るからな」


 そして目に飛び込んできたのは、けがれを知らない純白の肌だった。

 細身ながらも綺麗な肉付きで、尻の膨らみが色欲をそそるコントラストを形成していた。髪が短いおかげで艶のあるうなじがよく見える。

 どうもこうもない。織鶴はクリーム色のフロアにうつ伏せで倒れていた。


「織鶴!? おい、しっかりしろ!」


 幸か不幸かバスタオルを大量に運んできたので、それを背中からかけて彼女の身体を抱き起こす。

 背中に密着してお腹に手を回せばいきなり噛みつかれることはない。


 上気した肌から湯気が立ち上り、暖かい。湯あたりしたのだろうか?

 もっちりとした肌触りに血色の良い肌の色を見ると、死人の身体にはとても思えなかった。


 グラグラと揺れる織鶴の頭をしっかり支えて、彼女の目を見る。薄く半開きになったまぶたからホホまで涙がしたたり、焦点も合っていないようだ。


「俺の声が聞こえるか?」


 二言三言、うわ言を呟いた後、蚊の鳴くような声で「先輩?」と聞き返した。うつろな瞳でも、しっかりと俺をとらえていた。


「保健室に連れてってやるからな」


 そのまま両足を抱えようとしたが、「待って」と言われた。

 織鶴が俺の胸に顔をうずめてむせび泣いた。


「先輩、わたし・・・・・・すごく怖かった。どこを見ても、ゾンビばかりで・・・・・・夜になると真っ暗で、暗闇からゾンビの充血した目がこっちを見ている気がして、隣からゾンビに噛みつかれないか。ずっと怯えてて、おかしくなりそうだった」


 まだ文明が栄えていた時代ころと違って、街灯の明かりは一切ない。日が暮れれば、文字通り夜だ。太陽が沈んでからまた昇るまでの時間は恐怖でしかなかっただろう。


「なにより怖かったのは、一人だったこと。ゆいちゃんは、きっともう人間じゃないと思う。奴らに襲われてると分かったから。たった一人の、年の近い友達だったのに。でも、わたしはそれを見捨てて逃げた。怖かったから。ゾンビも、友達が死ぬのを見るのも・・・・・・。自分の身を犠牲にしてでも助けなきゃいけなかったのに、振り返らずに走った。そのあとに気付いたの。一人で死ぬのは怖いって」


 俺はここまできてようやく、織鶴が倒れたのは肉体ではなく心の問題だと気付いた。

 織鶴は自分ひとりが奇跡的に生き残ったことに罪悪感を抱いている。


 ゆいちゃんというのはきっと、パンデミックが起こってから生死を共にしてきたかけがえのない親友なのだろう。その親友を失って・・・・・・目の前で奪われて一人、逃げ延びた。織鶴はそんな自分自身を許せなくなっているだろう。


「みんなを捨てて逃げたわたしには、もう何もない・・・・・・」


 織鶴は今、孤独からの解放だとか、罪悪感から逃れることだとか、誰かの庇護ひごを得るだとか、本当の意味での精神の充足を望んでる。

 どうすればそんなものを与えられるのか、俺にはとても分からない。彼女の不安を取り除けるような、上等な言葉も人生経験もない。


「先輩は、わたしを守ってくれますか・・・・・・?」


 織鶴は自分の中の罪の気持ちを消し去りたいのだ。

 一人の力だけで助けられないなら、自分だけでも生き延びてくれることを友達も望むはずだ。それは彼女自身も分かっている。だから、自分の中に芽生えた、生存に邪魔になる感情を消し去ってしまいたい。

 俺が彼女にしてやれることなんて一つしかない。


「んん・・・・・・ふ、ぁ・・・・・・」


 俺は何も言わずに織鶴と唇を重ねた。

 俺がやれることは、「お前は一人じゃない」ということを身体に教えてやることだけだった。

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