第1話【異世界だって?】
むかしむかし ひとりのせいねんがおりました
せいねんは とてもよわいにんげんでしたが だれかをたすけたい そのいっしんで せかいをたびしていました
きずついても うらぎられても なんのみかえりもなくても せいねんは だれかのえがおのために たたかいつづけました
しかし やはりせいねんは よわかったのです
ちからおよばず ついにはたおれてしまいました
ここまでかと せいねんはあきらめかけました
そのとき せいねんをたすけるものがありました
それが せいれいさまでした
――『せいれいさまとゆうしゃのおはなし』より
* * * * * *
瞼の裏側にまで侵入してきていた白色がようやく引いて、目も眩むような光から解放された悠希は恐る恐る目を開けた。
「――――! ――――っ!」
「……え?」
目を開けてまず飛び込んできたのは少女だった。目にももちろん飛び込んできたのだが、文字通り、悠希の胸にも半ば体当たりするかのように飛び込んできた。突然のことにたたらを踏むが、どうにか踏み止まる。
何かを嬉しそうな様子で叫びつつ、少女はずぶ濡れの悠希に何ら躊躇うことなく身体を押し付け、腕を背中へ回して抱きつく。一体自分の身に何が起こったのか。それがわからない悠希は目を白黒させる。身体を押し付ける少女の何かが当たっていて、その硬い感触が少し痛く、夢ではないことだけはわかった。
――ここはどこだろう。
辺りは仄暗い。唯一の光源は、少女から少し離れたところに浮いている光る珠のようなものだけで、その周囲を淡く照らしていた。悠希は少女に抱き着かれたまま、手に持ったままで点灯したままのマグライトをあちこちに走らせる。天井がやけに高く、整然と積まれた石壁に覆われたがらんとした部屋。正面に見える、マグライトの光がギリギリ届く程離れたところにある長大な石扉は閉ざされている。足元は周囲の石畳より何かのステージのように小高くなっていて、図形なのか文字なのかわからない何かが描かれていた。
自分は先ほどまで神社にいたはずだ。それなのに何故いきなりこんなよくわからないところにいるのか。そもそもあの白い光はなんだったのか。そして目の前の少女は一体誰なのか。何一つまるでわからない。わからないことが恐怖を掻き立てる。
「――――、――――――?」
少女が身体を離して目元を拭いながら、混乱している悠希に向かって何事かを言った。何か問われたことは小首をかしげたことからわかったが、言われている内容はわからない。これではこちらが話す言葉も通じないのではないか。そう思った悠希がしどろもどろになっていると、少女は背伸びをしてコツン、と悠希の額に己の額を合わせた。口の中で言葉を呟くのが聞こえて、
――キスをされた。
混乱ここに極まれり、である。自分の身に起こっていることがわからなさすぎて悠希はもはや泣きそうだった。身体が固まってしまって動かない。でも唇が柔らかい。
そして、少女と繋がった箇所から光が漏れ始めたことに、目を開けたままだった悠希は気付いた。何事かと思っていると、乳白色に輝くその光はやがて消えた。
たっぷり十秒はそうしていただろうか。
「――……んっ……、こ、これでいいかな。どう? 私の言ってることわかる?」
唇が離れて、少女が次に口を開いた時には、その内容が理解できるようになっていた。今のキスのおかげなのだろうか。もはや一体何が何だか、疑問が山積みになっていて脳の処理が追い付かない。それでも言葉がわかるようになったのは、今の悠希には
少女の言葉に頷き返すと、少女は良かった、と安堵の声を漏らす。悠希から身体を離してごほんと咳払いを一つして、恭しく一礼する。
「私の名前はシズネ。突然の召喚をお許しください、勇者様」
「…………はい?」
シズネと名乗った少女から聞かされた言葉に、悠希の目が点になる。言われた言葉の意味を図りかねて、思わず顔を上げたシズネを凝視してしまう。
そこで悠希は改めてシズネの姿を見た。ぱっちりとした目が印象的な、まだあどけなさが残る、どこか日本人のようにも見えるその顔。そして淡い光の中にあってなお煌めく髪。高い位置で後頭部から一つに束ねられているにも関わらず、その長さは腰まであった。抱きつかれた時に当たっていたのはこれだろう、胸当てがローブの隙間から見えている。腰のベルトにはいくつもの皮袋、鞘に納められた短刀がぶら下げられていた。ぴったりと張り付くような膝丈のズボンに、足にはヒールの低いブーツ。
上から下までシズネを無遠慮にじろじろと眺めて、やっぱり、と悠希は思う。やっぱりここは日本ではないのだろうか。まさかコスプレではないだろうし、現代日本でこんな恰好はあり得ない。そう思う極めつけはシズネのその耳だった。明らかに普通より長く、その先端は尖っていた。左右の耳には大きな石が装飾された、それぞれ形が違うイヤリングが吊るされている。
奇異な耳に目を吸い寄せられながらも、悠希はシズネの言葉を心の中で反芻する。
――ゆうしゃさま? ゆうしゃさまってなに?
勇者というとゲームとか漫画とかでよく見る世界を救っちゃう感じのアレだろうか。そんなものに自分が? いやそれよりも召喚って――
悠希が頭に次々と浮かんでくる疑問を口から吐き出そうとすると、その気配を感じ取ったシズネが先回りした。
「色々と訊きたいこともあるだろうけど、ごめん、今は余裕がないの。ちゃんと後で説明するから」
口調を戻したシズネがそう言明する。余裕がない――その言葉を証明するかのように、ズズン……と鈍い音が遠くに聞こえ、足元が揺れた。天井から粉塵が降り注ぐ。悠希とシズネはその振動にふらついたものの、転ばずには済んだ。
その揺れを合図にしたかのように、閉ざされていた石扉が重い音を立ててゆっくりと開く。浮いている珠と同じような淡い光が部屋に差し込む。開いた隙間から人影が半身を覗かせた。
「シズネさんっ! まだですかっ!?」
その人影が、焦りが手に取るようにわかるような声で叫び、シズネも叫び返す。
「もう終わった! 今、外のみんなに撤退の指示出すから! セラたちもこっちに来て!」
「わかりました!」
それだけ伝えると人影は扉の外へと消えた。開いたままの隙間から、何かを打ちつけ合うような甲高い音や怒号、唸り声が残響となって悠希の耳へと届く。時折、閃光や緋色の光が明滅しているのが見て取れた。
シズネは右耳のイヤリングに手を添えると、
「――召喚は成功よ。陽動ありがとう。リド、手筈通りもう少し時間を稼いだら機を見て撤退して」
誰に向かって言っているのか。シズネはそう告げつつ、部屋の片隅に走っていく。光る珠がふよふよとその後を追いかけた。悠希はその場に立ち尽くす。脱出すると言っていたし、ついていった方がいいのだろうか。考えていると、くしゃみが漏れた。それにしても寒い。濡れた衣服が張りついてきて気持ち悪い。
シズネはしゃがみ込むと腰の袋から何かを取り出してそれを床に置き、その上に掌を覆い被せた。するとストロボのように一瞬だけ光が走った。同時に何かを呟いていたようだったが、悠希には聞き取れなかった。これでよし、と結局その場から動かなかった悠希の元へとシズネが立ち上がって戻ってくる。
「これから脱出するね。でも脱出するまでちょっと危険なの。私から離れないでね」
努めて冷静にシズネはそう言うものの、その裏に滲む緊張感は隠しきれていなかった。自分でもそれに気が付いたのだろう、シズネはふっ、と息を抜くと笑顔を浮かべ、まるでそれが気になっていた、と言わんばかりに悠希の持っていたマグライトへと視線を送った。
「……それが異世界の道具? へぇ、光も強いし照らしたい方を照らせるし、結構便利そうだね」
――いせかいだって?
シズネがそう発したのを、悠希は聞き逃さなかった。いせかいって異なる世界って書くあの異世界だろうか。
突如として違う場所にいたこと。そして目の前の少女が言った、召喚、異世界という言葉。自分の身に起こったことを、悠希は薄々勘付き始めていた。しかし脳がその非現実的な現象を認めることを拒否する。今すぐにでも矢継ぎ早に質問を投げかけたい衝動に駆られる悠希だったが、シズネの『ちゃんと説明する』という言葉を信じて今はその衝動を抑え込む。
突如。
爆発音が空間を震わせた。
それに反応したシズネが、来た、と呟いて目線をマグライトから石扉の方へと向けた。悠希もそれに倣う。
重厚な音を立てつつ、石扉がその隙間を広げていく。そこから二つの人影、そして宙に浮く人の形をした何かが切羽詰まった様子で飛び込んでくる。いずれも照明替わりなのであろう光の珠を傍らに浮かべていた。殿の一つの人影――長剣を片手に下げた軽装の男――は、中に入ると石扉に体当たりの如く飛びつき、肩で押して閉めにかかる。その間にも残りの二人――片や己の身長と同じくらいありそうな大きさの杖を持ったチュニックの女、片や背中に透き通った蝶のような
「行くよ!」
シズネは悠希に声を掛けるや否や、強い力でその腕を引っ掴んで走り出す。思わぬ行動と引力に身体がつんのめるが、何とか態勢を整えた悠希は腕を掴まれたままシズネを追走する。走ってばかりだな、と思う。酷使されている脚が悲鳴をあげそうだ。
男が石扉を閉め終えかけたその時、扉の奥から空間ばかりでなく腹の底を震わすほどの咆哮が轟いた。足音だろうか、しかしそう呼ぶにはあまりにも大きすぎる音が破壊音を伴って近づいてくる。
「くそッ、もう復活しやがったのかよッ!」
そう悪態を吐くと男もこちらへ向かって駆け出した。
轟音。
長大な石扉が砕けた。その凄まじい衝撃で、浮いている翅の女の子以外の全員が立っていられずにその場に転倒した。
石扉だった物の破片を払い飛ばしながら、空間に巨大な影が躍り込んでくる。
珠に照らされたその影に、悠希の脳がショートしかける。嘘のような巨躯の犬。しかもその頭は二つあって、それぞれの裂けたような大きな口には、噛まれればひとたまりもないような鋭い牙が並んでいる。
犬――見る者に恐怖を与えるその化け物は獲物を見つけたとばかりに高らかに咆哮する。
脱出する、とシズネは言った。しかしこの空間の唯一の出入口は化け物の背後にある。一体どうするつもりなのか。現状が危機的状況にしか思えない悠希は、化け物に恐怖を感じて震える脚に鞭打って起き上がりつつ、固唾を呑んでシズネを見やった。そのシズネは腰の皮袋に手を突っ込んで何かを取り出そうとしている。
「俺が食い止める! お前らは脱出しろッ!」
素早く起き上がった男は剣を構えると、踵を返し化け物へと向かっていく。化け物は向かってきた男に、一撫でするだけで人なぞ軽く裂けそうなほど鋭利な爪を振るう。男はそれを限界まで引きつけ紙一重で避けつつ、その動きと引きつけて回避することによって生まれた密着距離とを利用して、前肢へ的確に剣を走らせる。その度に化け物から血飛沫が舞うが、できたと思った傷がたちまち塞がっていく。
「くそッ!」
化け物の攻撃は止まない。それどころかそれは一層激しさを増していく。男がいる場所目掛けて振り下ろした前肢の威力を、陥没した石畳が物語っている。一方、その全てを避け続けている男の動きが鈍っていく。余裕がないのか意味がないと諦めたのか、反撃は行っていなかった。
このままでは爪に捉えられるのは時間の問題――その戦いをどこか呆然と見ていた悠希がそう思った時、化け物はその猛攻を止めてしまった。
一体どうしたのか。そう思っていると、
「ゲッ」
男から苦々しい声が漏れた。その視線は頭上――化け物の片側の口へと向けられている。悠希も釣られてそちらへ視線を向ける。
紅い炎が口の端から覗いていた。
「兄さん、危ない!」
女もそれに気づいたのだろう、そう叫んで、男の元へ駆け出す。
「バカ、こっちくんなッ!」
女が加勢しようと向かってきていることに気付いた男が声を荒げるが、女の脚は止まらない。
女が男の元へと滑り込んだのと、空間が緋色に照らされたのはほぼ同時だった。
「――光よ、万象
迫る炎に向けて杖を掲げた女がそう言葉を紡ぐと、そこに壁があるかのように炎が堰き止められ、その先端が潰れて四方八方に分かれた。二人に炎は届いていない。
「バカヤロウ! 脱出しろって言っただろッ!」
「バカはどっちですか! 兄さん残していけるわけないじゃないですか!」
見えない壁に守られた二人が、お互いに必死な顔をしつつも言い争う。炎の放射は終わらない。その時、悠希は気付いた。化け物のもう片方の口の端から、炎がちろちろと漏れていることに。そして、今まさに炎を吐き出そうと口を開けたことに。そのことに二人が気付いている様子はない。
「危ない!」
反射的に口が、身体が動いていた。恐怖は頭から消えていた。
当てても大したダメージにはなるまいが、せめて気を逸らせれば。化け物の炎を溜めている側の頭目掛けて、助走で勢いをつけた悠希はマグライトを
しまった、と悠希が思う間に、爆発が起こった。否、爆発と呼ぶにはあまりにも小規模なそれは、結果的に化け物の気をこちらに逸らして、一瞬の隙を作ることに成功した。だが、自分に向けられたその恐ろしい風貌から放たれる眼光に、悠希は
しかしその隙を逃さない者が二人いた。
「せら、ふぃる、いまたすける!」
先にシズネの元へ辿り着き、その近くを漂っていた翅の女の子が甲高く舌足らずな声を発したと思いきや、いつの間にか引き絞っていた弓から矢を放った。金色に輝くその矢は尾を引きながら飛翔すると、炎を吐こうとしていた方の頭、その下顎に突き刺さる。相当な威力があったのか、矢を受けた頭があらぬ方向へと向き、吐き出された炎が逸れた。
間髪入れずにシズネが続く。振り被って何かを投げた。その物体は弧を描いて化け物まで飛ぶと、
「麻痺――鎖!」
その手前で、シズネの言葉を合図に
シズネが作り出したその決定的な隙に、男は腰の鞘に剣を手早く戻すと、女を肩に担ぎ跳ぶように走り出す。その速度は人を一人担いでいるとは思えないほど速い。
あっと言う間に、男が残っていた距離を詰めシズネの元に到着する。
「スマン、助かった!」
「よし、脱出するよ!」
男が女を肩から降ろしたその時、化け物の戒めが音を立てて霧散した。化け物はその身体を盛大に震わせると身を地に這わせるほど低く屈む。それぞれの頭から唸り声が響く。今にも飛び掛かってきそうなその体勢。
それを前に、シズネは全員が近くにいることを視線を走らせて素早く確認すると、握り締めていた物を頭上へと下手から放り投げた。
「転移――ライラス!」
上昇していた物体から白い光が降り注ぐ。その光は急激に輝きを増し、シズネたちを包み込んでいく。その光の向こう、化け物が一足飛びに距離を縮めてくるのが見えて、悠希は思わず目を固く瞑った。しかし待てどもその身に何も起こらない。聞こえていた化け物の唸り声はいつの間にか聞こえなくなっていた。無音。光は強くなり閉じた目にも容赦なく入り込んでくる。
――この光。
悠希には、この光が、神社にて二度見たあの光に思えた。
やがて光が収まっていき、一体どうなったのか、と悠希は目を開けた。
「……え?」
さっきまでいた仄暗い石壁に囲まれた空間から、月明かりが照らす野外へとその身が移されていた。まばらな間隔に生えた木々に、木製の簡素な家屋が点在している。どこかの集落のように思える。
「ふぅ……なんとか無事に脱出できたね」
シズネが手の甲で額の汗を拭いつつ安堵の息を漏らす。緊張から解き放たれた面々は、肩で大きく息をしている。本当なら心地よいであろう風が抜けていく。しかし濡れた衣服のままの悠希にはそれが寒くてしょうがない。
「さっきはありがと、隙を作ってくれて。ごめんね、道具ダメにさせちゃって」
悠希が寒さに震えていると、そう言いながらシズネが悠希の前に立った。その背後にいる男、女、女の子が、真剣な表情で悠希を直視していた。
その視線に悠希は怯む。色々と訊きたいことや言いたいことがあるはずなのに、言葉が出てこない。頭が重い。
悠希が言葉に詰まっているその様子を見て、
「まず、何から言えばいいのか……」
と、シズネが先に口を開いた。しかし二の句が出てこない。視線を彷徨わせていることから、言葉を選んでいるのがわかった。
説明してくれるならまずは向こうの話を聞こう。悠希がぼんやりとそう思って黙って待っていると、シズネは言うべきことを整理したのか、まっすぐに悠希を見た。
もう気付いてるとは思うけど、とシズネは前置きをして、
「ここは、あなたがいた世界じゃないの」
そうはっきりと悠希の目を見て告げた。
くらり、と身体がふらついた。
「おい、そいつなんか顔色悪くねぇか?」
「わゎっ、ほんと! ねぇ大丈夫!?」
下がり切っていなかった熱が再び自分の身体を侵していくのを悠希は感じた。神社までの全力移動に加え、ずぶ濡れのままだったこと、さらにわけのわからない状況に放り込まれ、極度に混乱や緊張に見舞われていたことが原因だろうか。強烈な眩暈に襲われ、思わず悠希はシズネに寄り掛かってしまう。身体は重く、力が入らない。シズネが何かを喚いているが、
薄れゆく意識の中で、もしかしたら、と悠希は思った。
――もしかしたら、消えた涼子もこの世界にいるのかもしれない。
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