第6話 - a

「――私、さすがにイライラしてきたんだけど」

 予鈴がどこか遠い世界の出来事であるかのように聞こえる中、あたしはひんやりするリノリウムの床に正座させられていた。

 腕を組んで立つ亜里沙を前にして、あたしは思う。

 どうしてこうなった。


 ――話は少し遡る。


 あたしが通う伊乃高校はこの地区一番の進学校であり、そのため土曜日の午前中も授業があったりする。

 様々なことが起こりすぎた昨日から、先輩に告白されて興奮状態だったり、返事をどう伝えればいいか考え込んでしまったりして、あたしはほとんど寝られずに日の出を迎えてしまった。さすがにもう起きているしかない、と諦めて普段よりもいくらか早く登校することにした。できてしまったクマをコンシーラーで隠して。

 そんな時間でも校内にはすでに生徒がちらほらいて、まだ少し肌寒く感じる四月の朝の空気の中で、部活の朝練やら友達との談笑やら教室での自習やら教室での自習やらバカップルやら、思い思いの朝の時間を過ごしているようだった。

 清々しささえ感じるようなそれらの光景とは対照的に、あたしの胸中は穏やかではなかった。眠いのももちろんだったけど、先輩とどんな顔をして会えばいいのか、どういう風に自分の気持ちを伝えようか、というようなことがぐるぐると思考の渦を巻いていて、清々しい気分では到底なかった。もちろん、先輩に好きと言われたことは嬉しいし、昨日の先輩を思い出すだけで頬がつい緩んできてしまうけど、それはそれ。今のあたしはそれよりも緊張の度合いの方が大きかった。今日は逃げずにちゃんと想いを伝える。そう決めたから。告白をしないという選択肢はもうなかった。さすがにそれは気持ちを伝えてくれた先輩に失礼すぎるし、先輩の気持ちを聞いておいて自分からは何も返さず今まで通りの関係を、なんてことをしたら自分が許せなくなりそうだった。

 自分の教室へと向かいながら、スマホを取り出して昨日から何度見たかわからないそのメッセージにもう一度目を通す。

『明日は部室来る?』

 昨夜、先輩から届いたメッセージにあたしは『はい』とだけ返事していた。それ以上続けたら、想いがあふれてそのまま告白してしまいそうだったから。先輩がちゃんと言ってくれたのだから、あたしも先輩に会って直接伝えたかった。それにしても、メッセージがいつも通りの先輩すぎて、夜に送られてきた時にはあの出来事が嘘だったんじゃないか、と思ったりもした。しかし、どう返そうか悩んで悩んでかなり時間が空いてしまってから送った返事が即、既読になったのを見て、やっぱり嘘じゃなかったと思い直した。だって、普通ならもうとっくに寝てるはずというくらい遅い時間だったから。先輩もドキドキして眠れないのかもしれない。そう思うと嬉しくて、さらに眠れなくなってしまったのだけど。

 返事をした以上、部室には行かなければならない。つまり、今日の授業が終了する約四時間後には先輩に会うということ。刻一刻とカウントダウンされていく時間。高まる緊張。痛くなるお腹。

 足取り重く教室へと辿り着き中へ入ると、何人かのクラスメイトがいて、一人黙々と自習をしている亜里沙もいた。その耳には机の上のスマホから伸びたパステルピンクのイヤホンが収まっている。

 亜里沙の後ろがあたしの席だ。挨拶をしてくれるクラスメイトに挨拶を返しながら席に近付くと、人が近寄ってきた気配を感じてか、亜里沙がこちらへと顔を向けた。それがあたしだと認めると、耳からイヤホンを抜き、

「おはよ。いつも遅刻ギリギリにしか来ないのに、今日は早くない?」

 いつもより早く来たあたしを怪訝に思ったのか、亜里沙はあたしの顔をじっと見つめてくる。おはようと返したあたしは、質問にはあぁ、とか、うん、とかむにゃむにゃと返事をしつつ、鞄を置いて席に座った。その瞬間、眠気が牙を剥いて襲い掛かってくる。もっと早く襲い掛かってきて欲しかった。具体的には八時間前くらいに。

 亜里沙に悪いと思いつつも、眠気には勝てなかった。せめて朝のホームルームが始まるまで寝ていようと、机の上で腕を枕に突っ伏して目を閉じる。しかし、眠気は襲い掛かってくるものの決定打を与えてはくれず、むしろあたしの中の緊張感がその眠気と戦い始めてしまう。先輩のことばかり頭に浮かんで、変に目が冴えてくる。眠いのに寝れない。

 諦めて顔を上げると、亜里沙が訝しげな表情であたしを見ていた。目が合うと、亜里沙が口を開いた。

「ねぇ彩華……ちょっといい?」

 やけに静かな口調でそう言った亜里沙に、なに? と返すと、亜里沙は教室内を見回して、

「ここじゃちょっと……場所変えよ」

 手早く机の上を片付けて立ち上がると、亜里沙は教室を出ていこうとする。あたしは亜里沙の様子に戸惑いつつも、その背中を追った。

 たぶんまたあそこだろうな、と思いつつ着いていくと、やっぱり屋上手前の踊り場だった。屋上へのドアの窓や壁の窓から差し込む光はまだ弱々しく、空気はひんやりとしている。

「――さっき見た時から思ってたんだけど、今日の彩華なんか変じゃない?」

 辿り着くと亜里沙はそう切り出した。

「今日はきっとテンション高いんだろうなーって思ってたのに、なんでそんなにテンション低いの。クマ隠してるのも見てたらわかっちゃったし」

 あたしがテンション高いだろうと亜里沙が推測したのもわからないでもない。昨日、先輩から逃げてしまってから亜里沙もあの場にいたことを思い出して悶絶した。どこまで見ていたか知らないけど、駆け寄って先輩へ飛び込んだところは見られていたはず。その先どうなったかを想像するのは、あたしと先輩の気持ちを知っていた亜里沙なら答えは一つしかなかっただろう。

 つまり、あたしと先輩がになる、という。

 そしてそうなった時に、これまで亜里沙に先輩との出来事を話してきたあたしが黙ったままではいられないことを、付き合いの長い亜里沙ならわかっている。

 しかし現実はそうはならなかった。あたしが逃げてしまったから。

「結局、あの後どうなったのさ」

 気になるのだろう、亜里沙が訊ねてくる。

 色々と相談に乗ってくれて、告白のお膳立てまでしてくれようとした亜里沙にはそれを知る権利があるし、あたしも伝えなくちゃいけないと思っていた。

 先輩に怒ってしまったこと。先輩に告白されたこと。そして――あたしのお腹が鳴ってしまい、あまりの恥ずかしさで返事をする前に逃げてしまったこと。

 昨日の先輩とのことを話すと、腕を組んだ亜里沙は、途中までは柔らかい表情でそれを聞いていたのだけど、話が終わると、

「――は?」

 と、低い声音でそれだけを口にした。眉を吊り上げたその顔もとても怖く、あたしは涙目になりつつも、

「だ、だって、」

「だってじゃない! なんで逃げちゃったの!」

「しょ、しょうがないじゃん! お腹鳴らした後に平気な顔して告白なんてできるわけないでしょ!」

 それまでのいい雰囲気をぶち壊すあの音の後で、甘い雰囲気を展開して告白できる人がいたら、その人は鋼鉄の心の持ち主だと思う。

 亜里沙は剣幕を崩さず、大きな溜め息を吐くと、腕を組んだまま顎をしゃくって、

「ちょっとそこに座りなさい」

 座れと言われましても、座れそうな場所が床か階段しかないのですが?

「座りなさい」

 なんて言える空気でもなく、あたしはその言葉におずおずと従うしかなかった。美人が怒ると怖い。鋭い眼光を向けられて、ちゃんとした方がいいかも、と思わず正座してしまう。あまり掃除されていないのか、リノリウムの緑色の床は埃っぽい上にひんやりしていて座り心地はよろしくない。

 ホームルーム開始まで残り五分ということを知らす予鈴が鳴る。しかし亜里沙は教室へと戻ろうとする気配を見せない。

「私、さすがにイライラしてきたんだけど」

 その言葉が示すように、組んだままの腕を人差し指が忙しなく叩いている。

 ――どうしてこうなった。

 予鈴を聞きながら、あたしは心の中で呟く。

 ここまで亜里沙を苛立たせることをあたしはしたのだろうか。

「先に野木先輩に告白されても告白できないって、どうしたら告白できるのよ」

「……い、言おうとしたし……」

「言おうとしても、結局言えてなかったら一緒のことでしょうが。まぁ、お腹鳴っちゃったのはしょうがないにしても、そこで逃げちゃダメでしょ」

 確かに、恥ずかしすぎて反射的に逃げてしまったのは反省している。普段のあたしだったら、お腹が鳴ったのは先輩だ、ということにでもしていたかもしれない。けれど、あの雰囲気の中でそこまで頭が回らなかったし、何よりタイミングが悪すぎた。『好き』と言うために搔き集めた勇気を吹き飛ばしてしまった。

「――で? どうするの?」

 黙ってしまったあたしに亜里沙が真剣な眼差しで問いかけてくる。その問いへの答えは決まっている。昨日からずっとそのつもりでいる。

 だから、あたしは亜里沙の視線を真っ向から受け止めて、

「……今日、言う。告白する。先輩には今日部室行くって言ってあるし」

 そう静かに告げた。

 あたしの答えを聞いた亜里沙は目を閉じて特大の溜め息を吐くと、ようやく険しい表情を崩した。

「そ。今度こそしっかりね。ほら、授業始まっちゃうし、戻ろ」

 あたしの腕を取って立たせると、スカートの裾やソックスについた埃を亜里沙は払ってくれた。

 それから先に階段を下りていった亜里沙に並びかけながら、あたしはどうしても気になってしまって口を開く。

「ねぇ、なんでさっきあんなに怒ったの? あたしが告白できなかったから?」

「まぁ、あんたがヘタレだっていう理由もあるにはあるけど。でも一番の理由は、あんたがちゃんとしないと報われない子がいるからよ」

「報われない子? それって――」

 思い当たる名前を口に出そうとした矢先、ホームルーム開始を告げる本鈴が鳴った。

「やばっ。急ぐよ彩華」

 亜里沙が駆け出してしまい、結局それが誰かは聞けずじまいだった。しかし、走りながらもあたしの頭の中には一人の女の子の顔が浮かんでいたのだった。



 眠いやら緊張してるやらでまったく授業に集中できないまま、ようやく本日全ての授業が終了した。帰りのホームルームも終わり、これから始まる週末に沸くクラスメイトたちが、楽しそうに三々五々散っていく。

 そんな中、あたしの緊張はピークに達しようとしていた。時折、身体が小刻みに震えるくらいに。

「いや、あんた緊張しすぎ。顔、超怖いよ。野木先輩の気持ちも知ってるんだし、もっと気楽にしなよ。じゃあね」

 あたしこれからバイトだから、と亜里沙が去っていく。その背中を見送って、あたしは深呼吸を一つ。

 ――行こう。先輩がいる部室へ。

 胸が痛く感じるほど激しい鼓動を伴って、あたしは部室へ向かおうと廊下に、

「――藤村先輩」

 出ると、目の前の廊下の壁に河井さんが寄り掛かっていた。声を掛けて近寄ってくる。その表情はどことなく真剣で、思わずあたしは身構えてしまう。

「何か用?」

「もー、そんなに怖い顔しないでくださいよ。何もしませんって。先輩に謝りたいだけです」

「謝りたい?」

 そう言ってまた何か仕掛けてくるのでは、とあたしは警戒を解かない。河井さんの顔をじっと見つめてしまう。

 だから、あたしはそれに気が付いてしまった。

 河井さんの目、その周りが赤く腫れていることに。そしてそれを隠そうとアイメイクで誤魔化していることに。

「……なんですか、人の顔をじっと見て。何かついてます?」

 そのことに触れるべきか触れないべきか。考えてしまって黙ったあたしに、河井さんは可愛らしく小首を傾げてそう訊いてくる。その様子からなんとなく、触れてほしくなさそうな気配を感じ取って、あたしは追及することをやめた。

 そして、黙ったままのあたしに、

「――ごめんなさい」

 河井さんは唐突に頭を下げた。

「えっ?」

 何に対してのごめんなさいなのかわからなくて、あたしは困惑する。さらに、見ようによればあたしが下級生に頭を下げさせているように見えるこの状況。教室から出てくるクラスメイトや、廊下を通る他クラスの生徒が、ちらちらとこちらを伺うように見やって通り過ぎていくことに、あたしは焦燥感まで覚える。多少マシになったとはいえ、あたしの評判があまりよろしくないことは自覚している。これ以上、変な噂を立てられたくなくて、あたしは慌てて河井さんの頭を上げさせる。

「ちょ、ちょっと、急になんなの」

「だから、藤村先輩に謝ってるんじゃないですか。賢にぃとの関係を邪魔しようとしてごめんなさい、って」

「――っ、」

 顔を上げた河井さんの表情は、今にも泣きそうに見えて。あたしは再び口をつぐんでしまう。

「私は、賢にぃのことが昔から好きだったんです。でも、恋愛対象に見られていないのも知ってました。だから一度は諦めたんです。けど高校に入って再会して、賢にぃが女子の後輩と部室で仲良くしているって知っちゃって、あたし悔しくて。あたしのことは見てくれなかったのに、って。だから邪魔しようとしちゃったし、藤村先輩にもひどいことを言っちゃいました」

 ごめんなさい、と河井さんがもう一度、頭を下げた。その声色は真剣そのもので、何かを企んでいるようには思えない。

 だからあたしは、その謝罪をきちんと受け入れることにした。

「――いいよ、もう。気にしてないから。そもそもあたしが勘違いしたりして、勝手に自滅してたような気もするし」

 謝ってくれたしこれでチャラね、とあたしはまた河井さんの顔を上げさせた。その顔にはもう泣きそうな気配は見当たらなかった。

「……藤村先輩って実は優しい先輩だったんですね。やっぱり、人からの話は話半分くらいに聞いておかないとダメですね。ところで」

 河井さんは一度そこで言葉を区切ると、周囲を気にしてか、あたしの耳に口を寄せて抑えた囁き声で、

「……このあと部室で告白するんですよね? 今日、私は部室行かないんで、頑張ってくださいね」

 、と最後の最後で調子を取り戻して、河井さんは去っていった。

 これから告白しようとしていることをなぜ河井さんが知っているのか、という疑問があたしの中に残る。

 しかし今はそれを確かめるよりも、大事なことがある。

 その大事なことを果たすべく、あたしは部室へ向かうことにした。


 階段を一段上がるごとに、鼓動が強くなっていくようだった。

 ついに、部室のドアの前にあたしは立っていた。

 いつかのように、ドアは閉じられていて、中からは物音一つ聞こえない。それでも、先輩は中にいるとあたしは確信していた。いつもそうだったから。あたしが部室に来る時には、いつも先輩が先に部室に来ていたから。

 ドアを前にして、あたしは軽く目を閉じた。

 伝えるべき自分の気持ち。何を言うべきか。

 それを頭の中で反芻はんすうする。

 大丈夫。言える。

 一度だけ大きく深呼吸した。

 

 ――よし。


 そして、あたしはそのドアを開けた――。

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