第5話

「――あれ、彩華じゃん?」

 そう声を掛けられて、あたしは顔を向けた。するとそこには、もはやうっすらとしか顔を思い出せなくなっていた、高校入学前、猫を拾う先輩を見た時に別れ話をしていた一応元カレが、気怠そうにスマホを操作している連れの男と共にいた。二人とも近くの私立高校の制服を着崩している。はっきり言ってダサい。

「やっぱ彩華じゃん。なんか外見変わってっからわかんなかったわ」

「誰、その子」

「ほら、話したことあんじゃん。元カノ」

「あー、あれっしょ? すぐヤラせてくれそうだから付き合ったのに、キスもさせてくれんかった子っしょ?」

「そーそー」

 悪びれる素振りもなく、他に通行人がいる場所でそんなことをのたまって下品に笑い合う二人。色々と思うところはあるけれど、関係あると思われたくなくてあたしは無視して歩き出す――歩き出そうとした。

「ちょちょちょ、待てって。せっかく久しぶりに会ったんだし、どっかで遊ばね?」

「あー、いいじゃん? いこいこ」

 後ろから左腕を掴まれて、あたしは動きを止められた。

 誰が遊ぶか。こっちはこれから先輩と会って話すんだ。そんな暇は一秒たりともない。

 勢いよく腕を振ってその手を外した。しかしあたしが去ろうとするよりも早く、外したその手が再度伸びてきた。さっきよりも強く掴まれる上、肩を押さえられる。連れの男もまた、逃げられないようにもう片方の腕を掴んできた。

「なーんかその露骨に避けてます、みたいな態度傷ついちゃうなー俺」

「あー、無視はよくないっしょ。ちょっと遊ぶだけじゃん?」

「ちょっ、離せっ……!」

 暴れようとするも男二人の力にはやはり敵わない。拘束は解けず、男たちの指が服の上からさらに肌に食い込む。その感触がとにかく気持ち悪い。

 老若男女の通行人がこちらをちらちらと見ていくが、誰も助けようとしてくれる人はいない。高校生がバカ騒ぎしてじゃれているだけにしか見えないのか、それとも面倒事に巻き込まれたくないのか。

「ねー、それ何持ってんの?」

「っ! やめ――」

 やめて、と言う前に、あたしの手から先輩の生徒手帳が引き抜かれる。

 ――返して。あたしの大切な物に触らないで。

 そう心は叫ぶものの、身体は動かず取り返せない。

「野木賢斗、って誰これ。今のカレシ? つかオタクくんじゃん?」

「このオタクカレシにはヤラせてあげたの?」

 耳障りな下卑げひた笑い声。先輩まで馬鹿にされているようで、悔しくて視界が滲む。その視界の中で、先輩の生徒手帳が地面に投げ捨てられるのが見えた。


 ――瞬間、血が沸騰した。


 ローファーの踵で思いっきり男の足を踏みつけ、勢いをつけた後頭部で頭突き。それはちょうど真後ろにいた男に当たった。後頭部に残った痛みと感触的に顎に当たったみたいだ。

 かなりのダメージがあったのか、右腕を掴んでいたその手が外れた。自由になった側の手で、肩に置かれた手に手加減なしに爪を立てる。痛みの声をあげて男の手が剥がれた。残った最後の戒め、掴む力が緩んだ左腕の手を渾身の力で振り払う。

 いける、逃げれる。

 でも、その前に。

 あたしは地面にある先輩の生徒手帳をしゃがんで拾う。

「っつ! てめぇ……! 手ぇ出しといてこのまま帰れると思うなよ」

「――っ、あー……まじでいってーんだけどクソ……なー、もう連れてっちゃわね? ここだと人目につくじゃん?」

 それが逃げるための時間を失わせてしまった。

 きっと、先輩の生徒手帳を諦めれば逃げれた。けれど、それを諦めることはあたしにはできなかった。先輩に恋をしている今のあたしを構成している一部だったから。これを拾ったあの日から今日までを繋げている、大事な物だったから。

 怒りをあらわにした二人に前後を塞がれる。腕と肩を掴まれて、あたしは万事休すだった。

 無理矢理歩かされて、あたしは裏路地へと連れていかれてしまう。

 先輩、助けて――。

 あたしは願うように、その手の中の生徒手帳を握り締めていた。


   *     *     *     *    *     *


 学校から駅前までは歩いて二十分ほどだ。

 あれから特に会話らしい会話もなく、賢斗と亜里沙は駅前までやってきていた。ここまで来ると、歩く学生の割合とそれ以外の人の割合とが変わらなくなってくる。

 喫茶店までの道がわからない賢斗を先導するために、今は亜里沙が少し前を歩いていた。駅前の大通りから、車一台がやっと通れそうな細い裏路地に入ろうとした亜里沙のその足が突如止まる。どうしたのかと、賢斗が横に並んでその顔を覗き見ると、そこには形容しがたいほど恐ろしい形相があった。突然のことに賢斗は縮み上がって、恐る恐る亜里沙のその視線の先を追った。


 ――瞬間、血が沸騰した。


「ちょ、野木先輩!?」

 気付けば賢斗は視線の先――男二人に絡まれている彩華の元へと駆け出していた。


   *     *     *     *    *     *


 連れられて入った細い裏路地には通行人の姿がなくて、あたしは自分の不運を嘆いた。人さらいされている真っ最中なこの状況を見たらさすがに誰か助けてくれるはず――そんな淡い希望は、そもそものがいなくて潰えた。

 二人にそれぞれ、肩に手を乗せられ両脇を固められ、逃げれそうな隙はない。どこに連れていかれて何をされるんだろうか、とあたしは不安で仕方がなかった。

 歩かされるのに抵抗しようとしてもやはり男二人の力には敵わない。半ば押されるようにして前へ進まされてしまう。肩に食い込む指が痛くて、気持ち悪かった。

 明らかに誰も通らなさそうな、細い裏路地よりもさらに細い路地へと連れ込まれそうになったその時、肩の痛みが突如として消えた――と思ったら、後ろに引っ張られて背中に軽い衝撃を受けた。これ以上何が起こったのかと、突然のことに目を白黒させていると、あたしを後ろへ引っ張った人物が庇うように前へと出た。その人は学ランに身を包んでいて、その背中には見覚えのあるリュックが背負われていた。

 まさか、とあたしが目を見開いていると、

「――すいません、うちの大事な後輩に何か御用ですか?」

 その人は、振り返った二人の男にそんな言葉を投げたのだった。


   *     *     *     *    *     *


「ちょ、野木先輩!?」

 自分の声を無視して、男共に向かって直情的に駆け出して行った賢斗を見て、亜里沙はもうっ、と半ば呆れながらその後に続こうとした。彩華から話を聞く限りでは争いを好まないような性格、というかそもそもケンカなんてしたことないだろうし、男二人に挑みかかっても返り討ちに遭うのは火を見るより明らかな気がした。

 しかし。

「――大丈夫ですよ、賢にぃなら」

 背後から掛かったその声に、亜里沙は足を止めて振り返った。そこには昼休みに自分の教室へと彩華を呼びに来ていた、くだんの幼馴染の姿があった。

「あんた……なんでここに」

 自分はこの幼馴染にあの二人の関係を引っ掻き回されるのが嫌で、気付かれないように喫茶店で話し合いの場を設けようとしたはずだ。それがどうしてここに。

「賢にぃがなーんか綺麗なおねーさんと一緒に歩いていたのを見たので、気になって後をつけちゃいました」

 悪びれる様子もなく、志乃はあっけらかんと言う。どこか投げやり感のある口調で、それより、と続ける。

「藤村先輩一人にしといていいんですか? 賢にぃとあいつらどっか行っちゃいましたけど」

 言われて見ると、確かに賢斗と男二人がどこかへ行ってしまったようで、一人呆然とした様子の彩華が立ち尽くしていた。その姿に、亜里沙は慌てて彩華へと駆け寄る。遅れて志乃もゆったりとした歩調で続いた。

「あ、亜里沙……先輩が……!」

 駆け寄ってきた亜里沙に気付いた彩華がその胸に飛び込んだ。その声も肩も震えていて、亜里沙は彩華を落ち着かせるように優しく抱きしめ、その背中を撫でた。

「ど、どど、どうしよう亜里沙、先輩、ケンカなんてしたことないだろうし、助けに行かなくちゃ……」

 しかしそう言う彩華の膝は笑っていて、助けに行ったところで役に立つかどうかは微妙だった。

 ――しょうがない、行くか。

 あまりケンカはしたくないんだけど、と亜里沙は内心で溜息を吐きつつ、賢斗と男たちが入っていったであろう細い路地に足を向けようとしたところで、

「だーかーらー、大丈夫ですって、賢にぃなら」

 苛ついたかのような声の志乃から、再度待ったがかかった。その声で志乃がいることに気付いた彩華が亜里沙から身体を離し、目を丸くする。

「さっきも言ってたけど、どういうこと? 野木先輩って人畜無害っぽいし、どう見てもケンカ強そうじゃないんだけど」

「だよね……先輩弱そう……」

 彩華が亜里沙の言葉に同調する。志乃に向き直った亜里沙が説明を求めると、

「なーんだ、一緒にいたくせに知らないんですか? ……まぁ辞めたって言ってたし、賢にぃにとってはもう終わったことだから言わなかったんでしょうけど」

 辞めた、と言われて亜里沙は思わず彩華を見る。何のことだかわからない彩華はその視線に首を横に振る。

「賢にぃって、空手有段者ですよ」

「「はぁ!?」」

 彩華と亜里沙、二人の驚きの声が綺麗に重なった。

 二人の驚いた表情と声に、くすくすと可笑しそうに志乃は笑う。

「本当に知らなかったんですね。小学生の時に近所に道場があったから通い出して、中学の時部活作っちゃうほどやってたんですけどね。賢にぃ曰く、怪我して辞めちゃったらしいんですけど」

 自分が中学に入る前に引っ越しで離れてしまったから、それからは知らないけれど、まだ近くにいた頃は会えば空手の話ばかりだった。その頃のことを思い出して、志乃は懐かしさでつい頬が緩む。

 あの温和な外見からは予想がつかない事実に、彩華と亜里沙が口をあんぐりさせていると、志乃は二人の背後――路地に目をやった。そこから、何か怖いものから逃げてきたかのように必死な形相の二人の男が飛び出してきて、けつまろびつ、自分たちがいる方とは反対側へと逃げていった。

 その派手な足音につられて、彩華と亜里沙も同じくそちらへと目をやる。どんどんと小さくなっていく男たちの背中を見送り、改めて路地を見ると、そこから人影がゆっくりと出てくるところだった。

「――…………っ!」

 人影に向かって、彩華が走り寄っていく。その人影の胸に飛び込んだ彩華の姿を見た志乃は、大きな溜息を吐いて踵を返した。

「ちょっとあんた、どこ行くの」

 その背中に亜里沙が声をかける。足を止めた志乃は視線を亜里沙には向けず、前を見たまま、

「……どこって、帰るんですよ。私はお呼びじゃないみたいですし」

 あー……、と背後でいちゃついているように見える二人を一瞥いちべつして、亜里沙は気まずそうに声を漏らす。しかし、すぐに視線を志乃の背中へと戻すと、

「あんたってさ、本当に野木先輩のこと好きなわけ?」

 と、質問を投げた。志乃の肩がわずかに跳ねる。

「私も全部が全部把握してるわけじゃないけど、なーんか違和感があってさ。二人の仲を邪魔したってことは野木先輩に気があるのは確かなんだろうけど」

 でも、と亜里沙は続ける。

「やることが回りくどいんだよね。野木先輩と結ばれるのが目的というよりかは、邪魔して彩華を遠ざけるのが目的みたい――」

「――好き、でしたよ」

 亜里沙の言葉を遮って、志乃が震えた声で言葉を発する。前を見たままでその表情は伺い知れないが、声だけでなく肩も震えていて、志乃が今どんな表情をしているのか、亜里沙には容易に想像できた。

「でした、ね」

 はぁ、と亜里沙は溜息を吐く。どうして自分の周りにはこうも世話のかかるメンドクサイ女の子ばかりなのか。それをほっておけない自分も自分だが。あの二人はあとはもうなるようになるだろうし、あたしはこっちのケアでもしておきますか。

 そう思って志乃に近寄り、亜里沙はその手首を掴んで歩き出す。突然の行動でつんのめった志乃は口調を尖らせ、

「っ、ちょ、ちょっと、いきなり何なんですか!」

「いいからついてきなって。綺麗なおねーさんが慰めてあげるから」

「結構っ、ですっ……!」

 志乃は亜里沙の手を振り払おうとするものの、そもそもの体格差もあり、それは叶わない。ずるずると引き摺られていく。

 諦めて、亜里沙に引き摺られるままに表通りへと出る時に、志乃はもう一度だけ二人をうかがった。そこには抱き合っている二人がいて、こちらのことなど意にも介していなさそうだった 


 ――あーあ……。


   *     *     *     *    *     *


「――こいつやべぇって! い、行くぞ!」

「ちょっ、置いてくなって!」

 ぼやける視界の中、路地から脱兎の如く逃げ出していく男二人組を見送って、賢斗は大きく息を吐いた。がうまくいってよかったと安堵する。その最中に飛ばされた眼鏡を目を細めて探し、アスファルトで覆われた地面から拾い上げて見ると、鼻当て部分が折れてしまっていて思わず溜息が漏れた。外しておけばよかった。

 壊れたメガネをポケットにしまう。予備の眼鏡は家にしかない。しょうがなくぼやけた視界のまま、賢斗は路地を出る。

 あの二人が彩華とどういった関係なのかは知らないが、無理矢理連れてかれていたことを鑑みるに、ロクでもない関係なのは確かだろう。これに懲りて彩華に関わろうとしなくなればいいのだが。

 と、賢斗がそんなことを思いつつ、


「――……先輩っ!」


 路地を出るや否や、自分を呼ぶ声と共に身体に衝撃。よく見えていない状態でも、その声と、覚えのあるいい香りで飛び込んできたのが誰なのかがわかった。体当たりの如く突っ込んできた彩華は頭を賢斗の胸に当てて俯きながら、その華奢な肩を震わせていた。よほど怖い思いをしたのかもしれない。賢斗はそう考え、いつになく近い距離に内心で心を跳ねさせつつもあくまで後輩を落ち着かせるためと自分に言い訳をして意を決しその背中に腕を回してそっと抱きしめ――

「先輩、どうしてあんな無茶なことするんすか!」

 ――ようとしたところで、いきなり顔を上げた彩華の勢いに面食らって、賢斗は腕を背中に回そうとしていた体勢のまま固まってしまう。

「一人で二人いっぺんに相手するとか、バカなんすか!」

 ぼんやりとした視界の中、それでも、至近距離で見る彩華の目から大粒の涙が零れているのが見えた。そんなに怖かったのだろうか。

「無事みたいっすからよかったものの、先輩が酷い目に遭うかもしれなかったんすよ! なんで先輩はそこまで考えないんすか!」

 勢いは止まらず、彩華は無茶をした賢斗を叱るような、上辺だけ捉えると助けたことを責めているかのようにも聞こえる言葉を次から次へと投げかけてくる。

 でも。

 違う、と賢斗はその言葉を受け止めながら思った。

 違う。この後輩は怖かったから泣いているのではない。ましてや、助けたことを責めているのでもない。確かにこの後輩は無愛想だし感情が表に出にくいし、何を考えているかわかりにくい。けれど、これまでの付き合いから、そんな女の子ではないことを知っている。例えば、今こうして泣きながら怒ってしまうほど、自分のことを心配してくれるような優しい女の子だということを、自分は知っている。

 そう思った瞬間、身体が動いていた。

 固まっていた腕が彩華の背中に回り、抱き寄せる。賢斗の腕の中でビクッ、と身体を跳ねさせた彩華が今度は固まってしまう番だった。

「……っ、あ、あの、せ、せん、ぱい……?」

 先ほどまでの勢いはどこへやら。しおらしくなったその声で、彩華が困惑しているのはわかったが、もはや今さら後には引けず、賢斗は抱きしめる腕に力を込める。

「――好きだからだよ」

 色々言いたいことが頭の中を巡ったが、結局、賢斗の口から一番最初に出た言葉はそれだった。告白する、好きと伝える、とここに来るまでの道中、覚悟を決めて気負っていたことがまるで嘘のように、その言葉はするりと出た。あるいは男らとので興奮状態にあったのかもしれなかった。

 その言葉を聞いて、腕の中で賢斗を見上げる彩華が息を呑むのがわかった。

「……え?」

 信じられない言葉を聞いたかのように目を丸くする彩華を見つめる。確かに無茶だったかもしれないけどそれでも助けたのは、と前置きをして、賢斗はもう一度想いを告げる。


「藤村のことが好きだからだよ」


   *     *     *     *    *     *


「先輩、どうしてあんな無茶なことするんすか!」

 違う!

 口から勢い任せに出る言葉をどこか他人が喋っているように思いながら、あたしは心の中でそう叫ぶ。

 こんなことをあたしは言いたいわけじゃない。あたしを助けてくれた先輩に掛ける言葉は、助けてくれたことを責めるようなこんな言葉じゃない。目から涙が零れているのを感じながら、あたしはそれでも先輩にまくし立ててしまう。

 どうしてあたしはいつもいつも、先輩に対して無愛想で、素直になれないんだろう。

 先輩が助けてくれて嬉しかったこと。先輩が酷い目に遭わないかとても心配だったこと。先輩が無事で安心したこと。

 それらを素直に伝えることができない。愛想良くにっこり笑ってお礼を伝えられたらどんなにいいことか。けれど、口から出るのはとてもそうは思われないような言葉ばかり。

 もうやだ、と自己嫌悪に陥りそうになったその時。

「……っ、あ、あの、せ、せん、ぱい……?」

 突如、先輩に抱き寄せられた。驚きのあまり、口から垂れ流されていた言葉と、目から流れていた涙が止まり、代わりに自分の声なのかと疑いたくなってしまうほど震えた声が漏れた。

 突然の先輩の行動に困惑していると、

「――好きだからだよ」

 耳に届いたのは、ほんとに先輩が言ったのかと疑いたくなるような言葉だった。

「……え?」

 幻聴なんじゃないかと、思わず聞き返してしまう。

 けれど。

「藤村のことが好きだからだよ」

 あたしの目を見て、はっきりと先輩がもう一度告げた。

 ずっと知りたかった、先輩の気持ち。

 それを聞いて、止まっていた涙が再び流れ出した。

 先輩があたしのことを好き。

 そのことが嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらない。泣いているところを見られたくなくて、先輩の胸に頭を押し付けて下を向いて泣いた。涙がぽろぽろと零れてアスファルトの色を変えていく。泣くあたしに先輩は何も言わずに、優しく抱きしめてくれていた。

 どれぐらいそうしていただろうか。流れていた涙がようやく止まる。目が腫れているのは明らかで、ほんのりしていたメイクも流れてしまっているだろうし、きっとひどい顔をしているだろうなと思う。そんな顔もまた見られたくなくて、あたしは顔を上げることができない。だからそのままの姿勢であたしは先輩を呼ぶ。

 ――言わなきゃ。

「……先輩」

 発した声は自分で出したつもりの声量よりも小さかった上にかすれていて、先輩に聞こえたかどうか怪しかったけど、先輩は優しげな声音で、なに? と返してくれた。その声にドクン、と胸が高鳴る。


 言わなきゃ。

 あたしも先輩が好きだ、って。


 そう思うだけで顔は火照るし、鼓動は激しくなる。たった二文字『好き』と言うことがこんなにも難しいなんて。

 あたしが言うに言えずにいる間も、先輩は急かすことなく待っていてくれて、その優しさが却ってあたしの緊張を際立たせた。心臓が口から飛び出しそう。手汗はやばいことになっているし、頭の中が揺らされているみたいに視界がぐらぐらする。

 それでも、無意識に浅くなっていた呼吸を、意識して深呼吸へと切り替える。吸って、吐いて。吸って、吐いて。吸って、吐いて。

 ――よ、よし!

「、…………ぁ、あたしもっ、先輩の、ことが――」

 経験したことがないような緊張の中、ようやく覚悟を決めたあたしが先輩への想いを口にしようとしたその時。


 


 あたしはその音を聞いた。

 

 それは世界が終わる音だった。


 そしてその音はあたしから鳴っていた。


 次の瞬間、あたしは駆け出していた。


   *     *     *     *    *     *


「――っ、はぁ~~~~~~~~っ」

 声を掛けて引き留める間もなく、猛烈な勢いで走り去っていった彩華の、ぼんやり見えていたその姿が消えて、賢斗はようやく大きく息を吐いた。今になって胸の鼓動が激しくなってきて、たちどころに顔が火照りだし、汗が噴き出した。自分のことを怒ってくれる後輩のことが可愛すぎて、つい暴走してしまった。明らかに普段とキャラが違う行動をした自分を思い返して、無性に頭を抱えたくなり、手足をジタバタさせたくなる。だが今の今まで誰も通りかからなかった裏路地とはいえ、誰かに見られるかもしれないという羞恥心がその衝動を抑え込み、どうにか顔を両手で覆うだけにとどまった。賢斗は目をぎゅっと閉じて、深呼吸をして、落ち着こうとする。


 ――ぁ、あたしもっ、先輩の、ことが――。


 落ち着こうとした賢斗だったが、頭の中で彩華の先ほどの言葉が再生されていて、鼓動は一向に収まる気配を見せない。それどころか、より一層その胸は高鳴った。

 ――ハプニングがなければあの先、何を言われていたのだろうか。、ということは、もしかして。

 頭に浮かんだ、自分に都合の良いように解釈したその先を妄想して、賢斗は覆った手の中で自分の顔がにやけるのがわかった。慌てて取り繕うようにごほん、と咳払いを一つして、顔を引き締めようとするものの、やっぱりにやけてしまう。諦めて、誰も通りかからないことをいいことに、ひとしきりにやける。

 にやけて意識がそちらに引っ張られたからか、どうにか暴れ出したくなりそうな精神状態が落ち着いてくる。賢斗は油断するとまだにやけてしまいそうな顔を意識して引き締めつつ、ようやくその顔を覆っていた手をどけた。ふぅ、と息を吐く。色々あったものの、後輩に自分の想いを伝えることはできた。その返事が聞けなかったのは残念だったが、彩華の様子から恐らく悪い返事ではなさそうだと思うことにして、賢斗は今日のところは帰ることに決めた。熱が収まってしまった今、どんな顔をして会えばいいのかわからないし。一緒に来ていたはずの亜里沙も気を遣ったのか、いつの間にかいなくなっていることだし。

 賢斗が帰ろうと足を動かすと、何かを蹴飛ばした。アスファルトの上を滑っていくそれが何となく気になり、賢斗はしゃがんでそれを拾う。目の前まで持ち上げて、目を凝らしてよく見ると、それは――


「……あれ? 落としたっけ?」


 ――自分の名前が書かれた生徒手帳だった。

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