第2話

「……っ、じゅ、ジュースでも買ってこようかな! 藤村は何がいい?」

「あ、逃げた。……じゃあ牛乳で」

「え、牛乳?」

「別にいいじゃないっすか何飲んだって。最近ハマってるんすよ」

「いや悪いとは言ってないけど……牛乳ね了解」

 逃げるように部室を出ていった先輩を見送り、あたしは憂鬱なため息を吐いた。牛乳は小さい頃から苦手だった。そのせいなのか、身長もあまり高くないし、胸も小さい。亜里沙の隣にいると、本当に同じ歳なのかと疑いたくなるほど、あたしの身体的女子力は低い。

 先輩に好かれるために、色々と努力はしてきた。ネットで見かけた『オタク系男子はギャル系女子が苦手』という記事を鵜呑みにして、染めていた髪を黒に戻したり、化粧を薄くするようにしてみたり。それに関しては多少の効果はあったのか、そうしてみてから初めて顔を合わせた時の反応がそれまでより格段に良かった。それ以来、あまり派手にはしないように心がけている。もっとも良いことばかりではなくて、亜里沙には突然のイメチェンについて根掘り葉掘り訊かれたし、クラスの男子からは今まで遠巻きに見られていたのが、好奇な視線が露骨に増えたり、話しかけられることが増えたりという弊害もあったけど。

 最近では、やはり男はおっぱいなのか、と思い立ち、苦手な牛乳を飲むようにしている。見てしまったのだ、先輩のスマホの待受を。別に見ようとしたわけではなく、あくまで後ろを通りがかった時に偶然見えただけ。そう、偶然。そこにはアニメなのかゲームなのか、巨乳の女の子の絵が表示されていた。道理で、と合点がいった。道理で先輩はあたしの胸に視線をやらないわけだ。脚には時折視線を感じるけど。

 果たして牛乳の効果はあるのかないのか。わからないけれど、飲まないよりはマシだと自分に言い聞かせ、苦手な牛乳を飲む毎日だった。

 全ては先輩に好きになってもらうため。亜里沙にはもう告白しちゃいなよ、なんて言われたりするけど、振られるのが怖くてそんなことできない。バレンタインのチョコも思いっきり義理っすからね! なんて言っちゃったし。こちとら、好きになったのは初めてなんだ。臆病になりもする。それに、どうせなら先輩から、好きな人から告白されたい……なんてのはさすがに少女趣味すぎるかも。

 そんなことをぼーっと考えながら、スマホで最近ハマっているパズルゲームをしていたものだから、普段ならやらないようなうっかりミスをしてしまい、ゲームオーバーになってしまう。ハイスコア更新ならず。

 先輩もいなくなったことだし、とスマホをスカートのポケットにしまい、椅子の上で大きく伸びをする。ブラウスが上へ引っ張られてお腹がスースーする。思いっきりヘソまで見えているだろうけど、どうせ誰も見ていないので気にしないことにする。先輩にだったら別に見られてもいいけど。

 ぐでーっ、と机に突っ伏したあたしの耳に、階下の喧騒が遠く聞こえてくる。それに比べてここは平穏だ。新入生が見学に来る気配すらない。

 目を瞑れば、昨日の部活紹介の様子が鮮明に思い出される。確かにあれは先輩が落ち込むのもしょうがないほどの失敗ぶりだった。けど、あのテンパり具合からして、実際に動画が流せていたとしてもうまく喋れていたかどうかは怪しい。舞台に上がる前から緊張していたみたいだし。

 その時の先輩の慌てっぷりを思い出して頬が緩みながらも、内心ほっとしているあたしがいた。

 昨日の会場内の空気からしてこのパソ研に新入生、特に女子が来る可能性は無いに等しい。恐らく新入生の部活見学も昨日今日がピークだと思う。先輩には悪いけれど、あたしは今のこの状況が嬉しかった。

 そういえば去年もこの部室はひっそりとしていたな、とふと思い出す。物音一つ聞こえず、ドアも閉じられていて、本当にここでいいのだろうか、とノックをする前に躊躇したのを覚えている。去年の部活紹介でも先輩は舞台上にいて、探そうとしていた先輩を唐突に発見できて動揺していたあたしはその内容を覚えていないのだけど、今年と同じく去年も閑散としていたということは、去年の出来も推して知るべしなのだろう。そう思えば、今年はドアを開けているだけまだマシなのかもしれなかった。

 ドアが開いて先輩と初めて対面したあの時。あたしの派手な見た目に先輩はビビっていたように思うけど、あたしを拒否するようなことはなかった。あたしはといえば、返さなきゃ届けなきゃと思いつつもついぞ手放せなかった生徒手帳の本来の持ち主にようやく会えたのが嬉しくて、何度も目でなぞっていたその名前をつい呼んでしまった。咄嗟に部活紹介で聞いたから、と誤魔化して、先輩も特にそれ以上は訊いてくることはなかったから助かったけど。

 そして先輩からパソコン研究会についてあまりに必死すぎる説明を受けて、あたしは入ることを決めた。別にパソ研の活動内容なんて興味はなかったから聞き流していた。でもそれを説明する人畜無害そうな先輩に惹かれてしまっていた。部室に向かっていた時までは、あの猫の件はただの気まぐれだったんじゃないのかと、本当は別にいい人でもなんでもないんじゃないのかと、先輩に実際に会ってみて判断しようと思っていたのに、気付けばこの先輩のことをもっと知りたくなっている自分がいた。それほどまでに先輩から漂う雰囲気は、あたしの寂しさを和らげさせていた。

 それにしても、今にして思うと――いや今もそうできているかはかなり怪しいけど――初対面なんだからもう少し愛想よくできなかったのだろうか、あたしは。今でもそうだけど、先輩を前にすると変に緊張してしまって、普通の女の子みたいに振る舞えない。冗談めかして自分ではかわいい後輩、なんて言ってみたりするけれど、先輩からすればさぞかし可愛いげのない後輩なんだろうな、と思う。もしあたしなんかよりよっぽど女の子してて、かわいい後輩が入ってきたら先輩は――と考えそうになって、あたしは机に額を軽く打ち付けた。大丈夫、この有り様だ。新入生はきっと来ない。明日になったら亜里沙に幽霊部員の件を頼んでみよう。それで先輩には新入生の勧誘をやめてもらおう。うん、それがいい。

 そうして一人、これからのことを考えていると、廊下から先輩の声が聞こえてきて、あたしはハッとして顔を上げた。先輩が戻ってきたみたい。

 でも、誰と話してるんだろう、電話かな、と思った矢先、次にあたしの耳に届いたのは明らかに女の子の声だった。え。と思考が停止し、頭の中が真っ白になる。

 その間にも声は近付いてきて、そして――


   *     *     *     *    *     *


 ずっと志乃に抱きつかれっぱなしで歩きにくい中、賢斗はようやく部室棟最上階まで辿り着いた。新入生と思わしき生徒とすれ違う度に、好奇の目でじろじろ見られて非常に恥ずかしい思いをした。志乃はそんな目など意に介している様子すらなかったが。

 部室まであと少し、というところで志乃に圧されてそれまで黙っていた賢斗は、ようやく口を開いた。

「あの、志乃ちゃん? もう着くし、そろそろ離れてもらえると……」

「え、なんで? 何か不都合なことでもあるの?」

 大ありだ。こんなところを藤村に見られたらどうなることか。勘違いさせてしまうかもしれない。それは嫌だ。

 なんて、はっきり言う勇気を賢斗は持ち合わせていなかった。そんな勇気があればとうに告白している。

「いやほら、後輩に勘違いさせちゃうかもしれないし……志乃ちゃんも勘違いされたら困るでしょ?」

「後輩ってどうせ男子でしょ? 別にいいよ、勘違いされたって。むしろ私的にはその方がいいというか……」

 後半の声は小さくて、賢斗には聞き取れなかったが、とにかく解放してくれる気はなさそうだった。久しぶりに再会した幼馴染を無下に振り払うこともできず、部室へと近づく度に歩みが遅くなる賢斗を、半ば引きずるようにして、志乃は先へ進んでいく。

 そして――

「もー、何照れてるの、賢にぃ。こういうのはむしろ堂々としてた方が恥ずかしくないんだって。……パソ研の部室ってここだよね?」

「恥ずかしいとか照れとかそういう問題じゃなくて――」

 ――志乃に抱きつかれたまま、部室に入ってしまった。


「……え?」

 

   *     *     *     *    *     *


 ――あたしが目にしたのは、女の子に抱きつかれている先輩の姿だった。

「……え?」

 その光景が信じられなくて、口から声が漏れ出た。

 頭を殴られたかのような衝撃を覚え、視界がぐにゃり、と歪んだ。

 なぜ、先輩は女の子に抱きつかれているのか。

 どうして、先輩はこっちを見てくれないのか。

 いったい、どういうことなのか。

 疑問の言葉が頭に浮かんでは消えていく。

 驚きのあまり動けずにいると、女の子があたしを見てにっこりと完璧な笑みを浮かべて言った。

「はじめまして、私、河井 志乃っていいます。賢にぃが言ってた後輩って女子の方だったんですね! 良かったです、女子が私一人じゃなくて。これからよろしくお願いしますね、先輩?」

 志乃、と名乗った女の子の、明らかに作っているのがわかる丁寧で朗らかな口調。でもその口調に覆い隠された敵意を感じ取ってしまい、未だ混乱状態にあるあたしは動けず、何か言うこともできない。

 でも、固まってしまっているのはそれだけじゃない。

 賢にぃ、と先輩のことを呼んだ。

 その親しげな呼び方や、抱きついていることからも、二人の仲が良いものであろうことは想像に難くなかった。きっと何年も前からの知り合いなんだ。あたしと知り合う前からの。さすがに彼女じゃない……と思うものの、女の子が先輩に好意を持っていることは明白だった。

 愛想も可愛げもないあたしなんかとは正反対の女の子。さっき頭の中で打ち消した存在が、今目の前にいた。

 ――こんなの勝てない。

 あたしと先輩の関係は、ただの先輩後輩。それ以上でもそれ以下でもない。確かに先輩のことは好きだ。でもそれだけ。あたしが勝手にそう想ってるだけ。一緒に遊びに行ったり一緒に帰ったりしてはいるけれど、そんなの精々友達と言える範囲だ。そんな関係では、目の前の二人に割って入ることはできそうにないし、割って入ろうものなら鈍い先輩でもさすがにあたしの気持ちに気付いてしまうかもしれない。気付かれてしまった時、先輩がどんな反応をするのか。今のこの状況では、良くない未来を想像してしまうのは容易かった。

「ちょっと、河井さん、そろそろ離れて……」

 今まで俯いたまま黙っていた先輩が、身をよじって女子の抱きつきから逃れた。その様子に女子は不満そうに口を尖らせ、

「もー、照れちゃって。それに、河井さん、なんて急にどうしたの。後輩の前だからって恥ずかしがらずにいつもみたいに志乃ちゃん、って呼んでよ賢にぃ」

 志乃ちゃん、って呼んでるんだ……。

 それを知ってしまって、あたしはもうここにはいられなかった。あたしは名前で呼ばれたことなんてない。藤村、と呼び捨てにしてくれるようになるのにも時間がかかった。

 先輩にとって、やっぱりあたしはただの後輩なんだ。

 ガラガラと、足元が崩れていく。

「藤村、この子は――」

「――よ、良かったじゃないっすか、先輩。これで廃部にならなくて済むっすね。あ、あたしこのあと用事あるんで、今日はもう帰ります」

 先輩が口を開いた途端、そう一気に早口で捲し立て、あたしは鞄を引っ掴んで部室を飛び出した。今は先輩から何も聞きたくなかったし、何よりあれ以上いたらきっと先輩の前で泣いてしまう。

 昇降口まで走って、走って、走って。下駄箱に手をついて切れた息を整えようとしても、喉が震えてうまくいかない。

 喉の震えはやがて嗚咽へと変わり、あたしはその場にしゃがみこんだ。

 続いてほしいと願っていた先輩との穏やかな日々は、あっけなく終わりを迎えてしまったのだった。


   *     *     *     *    *     *


 飛び出していった彩華を追いかけようとした賢斗は、志乃に三度抱きつかれてたたらを踏んでいた。

「どこ行くの、賢にぃ」

「どこって、追いかけようと……」

 明らかに様子がおかしかった後輩を、あのままにしておけない。あれはきっと自分と志乃との関係を勘違いしていた。恐れていたことが起きてしまった。やっぱり無理矢理にでも離れるべきだった。

 そう思った賢斗は、志乃を振り払おうと――


「私、賢にぃのことが好き」


 ――して、できなかった。突然の告白に身体が動かなくなる。息を呑む。

 遠い喧騒とパソコンのファンの音、近くで聞こえる志乃の息遣いだけが、しばし部室を支配した。

 黙ったままでいると、志乃の抱きつく力が強くなった。頬を上気させ、瞳を潤ませ、賢斗を見つめて、

「さっきの人、ただの後輩なんだよね? 彼女じゃないんだよね? だったらお願い、行かないで。私のことを見てよ、賢にぃ……」

 震えた声でそう言い、志乃は賢斗の胸に顔を押し当てた。カッターシャツに生温かいものが広がっていくのを賢斗は感じた。

 賢斗は何も答えない。答えられない。

 志乃が自分に好意を持っていてくれていることは知っていた。でもそれは兄妹のような親愛の情で、恋愛感情とは違うと思っていた。自分も妹のように思っていて、事実そう接してきたつもりだった。

 けれど、そうではなかった。

 志乃がなぜ唐突に告白をしてきたのかはわからない。でもそれを無下にして、そしてこの涙を前にして、彩華を追いかけることは賢斗にはできなかった。そういう類いの感情を志乃相手に持っておらず、ここ数年連絡を取ってなかったとはいえ、昔から一緒にいた大事な幼馴染には違いなかったから。

 ――藤村には今度ちゃんと説明しよう。

 そう思って、賢斗は志乃が泣き止むのを黙って待つことにしたのだった。

 手に持ったままの、せっかく買ってきた牛乳はすっかりぬるくなってしまっていた。

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