(2)
☆
朝起きて、学校に行って、ぼーっと授業を受けながら東雲先輩のことを考えて、そしていよいよ待ちに待った放課後、部活の時間である。
足取りは軽く、いい加減見飽きた古ぼけた扉を勢いよく開けると、やっぱり東雲先輩は椅子に座っていた。
しかし普段と違うことがひとつあった。東雲先輩は、今日は、書いている。使い古された辞書を置いて、万年筆で原稿用紙にカリカリカリカリカリカリカリカリ…………。万年筆は確か、パイロット製の「カヴァリエ」というやつである。値段はそこそこで、高級感もあり、何より東雲先輩によく似合う。
東雲先輩は集中しているのか、僕にまったく気づいていない様子だった。
僕は東雲先輩の執筆の妨げにならぬようにゆっくりと静かにドアを閉めて、パソコンを起動した。
プロットが全部集約されたエクセルファイルを開いて、どこまで書いたかを確認する。チラッと東雲先輩のほうを見ると、やっぱりひっきりなしにペン先が動いていた。原稿用紙に向かう東雲先輩の表情はとても真剣そうで、とても素敵だった。まだ、僕には気づいていないらしい。
僕は普段結構大きな音を立ててキーボードを叩くが、これだけ東雲先輩が集中して小説を書いているのだ。あまり大きな音は立てないほうがいいだろう。
僕も暫く原稿を進めて、さて一息つこうとしたとき、
「は~、書けた~。…………あれ、高橋くん、いつのまに……?」
「僕は結構前から居ましたよ。」
♡
自分でもお話を書くときに集中しているという自覚はあったのですが、まさか部屋に好きな人が入ってきて、しかもパソコンでお話を書いていても気づかないほどだとは……。
しかし、人に執筆しているところを見られるというのは恥ずかしいものですね。
なんといいますか、裸を見られるよりも恥ずかしいかもしれません。高橋くんに脱げといわれたらホイホイ脱いでしまうかもしれませんが、なんにしても、裸よりも恥ずかしいです。
どんなの書いているの、なんて聞かれることも少し期待してたりしますが、どうでしょうか。こちらから読むか聞いたら、高橋くんは私のお話を読んでくれるでしょうか。
このお話は、殆ど高橋くんに読んでもらうために書いたようなものです。がんばって高橋くんラブを抑えて、高橋くんみたいな猫を主人公にして書きました。
やっぱり、高橋くんに読んでほしい、という気持ちは治まりません。何とは言いませんが、三大欲求のうちの一つよりも、今私の中ではこのお話を高橋くんに読んでほしい、という欲求のほうが強く出ています。ここはひとつ、勇気を振り絞って聞いてみましょう。
「あ、そうだ、昨日は私が高橋くんのお話を読ませてもらったから、高橋くんも……その……私のお話、読む……?」
☆
東雲先輩からの願ってもない申し出である。こっちからいくのは、正直恥ずかしくてできない。でも、東雲先輩からの申し出である。むしろ、断るほうが失礼に値するんじゃないか……?
だったら、ごく自然な流れで東雲先輩の小説を読むことができる。
ああ、陰キャの僕にもこんな幸運があるんだな、生きていて良かった……。
「じゃあ、読ませてもらいます!!」
少しどぎまぎしてしまったが、大丈夫、まだまだ自然の範疇だろう。
東雲先輩は万年筆のキャップを閉めて、原稿用紙の束を僕に渡してくれた。
僕はそれを受け取り、興奮を抑えながらよみはじめた。
まず思ったのは、東雲先輩の字がとても綺麗であるということだった。タイトルのところで既に達筆だと分かる。
そして、その小説は、あまり強くない野良猫が他の猫に恋をする、そんな短編だった。相手の猫のほうが歳が少しばかり上で、野良猫はその猫に出会ってすぐに引かれていく。そして、相手の猫もどんどん、主人公の野良猫に引かれていく。しかし、互いに両思いに気づかぬまま時間は進んでしまい、相手の猫が死んでしまう間際になって両思いが発覚する、そんな悲しいお話だった。
原稿用紙10枚ほどの中に沢山の想いがぎゅーっと詰め込まれていた。これだけで、東雲さんがどんな人なのか、なんとなくわかった気になってしまう。
♡
実はあの小説は、途中まで私の理想で書いたものの、これでは少し直球すぎるんじゃないかな、と思って途中で悲しい結末へ変えました。
でも、沢山の本を読んでいるであろう高橋くんなら、なんとなく私のメッセージに気づいてくれるんじゃないかな、なんて、期待しています。期待はしていますが、やっぱりダメでしょうか。現実はそう甘くないのでしょうか。
ああ、なんだか少し恥ずかしくなってきました。
そうだ、高橋くんに飲み物……あまりおいしいものが無いのを忘れていました。私はあまり体力もないので、駅前のコンビニまで行くのは流石に疲れます。どうしましょうか。
もっとどうしたらいいかわからないのは、このあとのことです。私は今日一日この猫の小説を書きながら高橋くんをチラチラと見る予定だったのですが、つい熱中してしまい、全部書き上げてしまいました。
しかも、高橋くんにその姿を見られてしまって……。
でも、私も毎日高橋くんのお話を書く姿を見ています。でしたら、私もそんな姿をさらけ出したほうがフェアでしょうか。
もし、高橋くんが私がお話を書いている姿を見てうれしい気持ちになってくれたのなら、もっともっとうれしいのですが、やっぱりそうはいかないのでしょうね。
少し混乱しているようです。お茶でも入れて落ち着きましょうか。急須と湯のみが確かどこかに仕舞ってあるはずなのですが……。
あ、ありました。
「あ、お茶入れるなら僕が入れますよ」
高橋くんが優しいのですが、今顔を見せるわけにはいきません。鏡を見て確認したわけではないのですが、確実に顔が赤くなっているのが分かります。誰でしょう、こんな湯のみを買ってきたのは……。
「ちょ、東雲さん? 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫。お茶は、私が入れるから、がんばってお話書いてね」
今、私人生で一番やさしい声を出した気がします。でも、なんとなく高橋くんが初めてというのは嬉しいなぁ、とか思ったりもします。
気を取り直して顔を伏せつつ、お湯を沸かして急須に茶葉を入れて、急須にお湯を入れて、夫婦の湯のみにお茶を注いでいきます。
大きいほうの湯飲みをそっと持って、高橋くんの作業をするテーブルの端のほうにちょこんと置きます。
こちらを向いて微笑んでくれる高橋くん、ああ、もうダメです――
☆
東雲先輩が入れてくれたお茶。ああ、最高じゃないか。
陰キャだとか陽キャだとか、そんなことはどうでもいい。僕は、東雲先輩が好きだ。好きだ。好きだ。
とそのとき、ふっと東雲先輩の体が近づいてくることに気づいた。
東雲先輩は両手を軽く広げていて――
♡
あやういところでした。思わず抱きしめたくなってしまいました。ごまかしには、なんとか右手で肩を叩くことで虫がいた、としましたが、まだまだ春です。虫なんて居ません。
でも、高橋くんに触ってしまいました。ちょっと、幸せな気分です。
☆
なんだかよくわからないが、東雲先輩は僕の肩を叩いて虫が止まっていたと言っている。まだ春だし、普通虫は殆どいないと思うのだが、まあ、東雲先輩がそう言うのなら、きっと僕の肩には虫が止まっていたんだろう。
どうしてだか東雲先輩の顔は赤いが、深い意味はない……よな……?
なんにしても、東雲先輩に触られてしまった。そう、東雲先輩にだ。なんだろう、昇天するかと思った。
「そ、そういえば、高橋くんって本は読むの?」
「本、ですか。まあ、結構読みますよ。」
僕はひたすら本を読み漁る。基本的に何でも読む。一般文芸もラノベも読む。
「へぇ。最近読んだ本でオススメはある?」
最近読んだ本だと、ラノベのあの本が……。
「そうですねぇ、うさぎや すぽん先生著、『裏方キャラの青木くんがラブコメを制すまで』は面白かったですね。」
ああ、面白かった。確かに面白かったが、この本は僕みたいな人間に向けた本で、この本で僕は何度も救われた。最近はいつも持ち歩いている。
なんとなく、東雲先輩を好きでいてもいいような気にさせてくれる、そんな本だ。
僕だって、本当はラブコメを制したい。東雲先輩と一緒に帰ったり、デートとかしてみたりしたい。
でも、僕は陰キャで東雲先輩は陽キャ。僕の人権はあってないようなものだし、たぶん東雲先輩に恋をする資格なんてもとからないんだろう。いや、東雲先輩と話すことすら、本当はいけないのかもしれない。
それでも、それでも僕は東雲先輩に恋をしようと思う。どうやっても届かなくたっていい、僕は東雲先輩が好きなのだ。
せめて、東雲先輩が幸せになれるように、がんばろう。
♡
「ラノベ?」
私も、学校では少し恥ずかしいので講談社文庫や角川文庫みたいな、一般文芸と呼ばれるものばかり読んでいますが、家では沢山ラノベを読みます。いいですよね、ライトノベル。
「そうですよ。僕みたいな人間に丁度よくって……。」
語尾がかなり小さくなっています。でも、高橋くんってかわいいし、もっと自分に自身を持っていいと思うんですよね。
「へぇ、今度買ってみようかな。」
少し興味が沸きました。最近は自分の好きな作家さんの本ばかり買っていたので、そろそろ新しいところにも進出していかなきゃいけない気がします。しかも、高橋くんの読んだ本と同じ本ですよ! 買わないわけにはいかないじゃないですか! ちょっと、高橋くんの好みが知れたら、いいな……。
帰りに、書店で絶対買いましょう。絶対です。忘れないようにメモしておきましょう。
☆
東雲先輩は僕が青木くんのことを言うと、なんだかメモを取り始めた。こころなしか笑みがいつもよりもかわいらしい。
そして、東雲先輩がなかなかに近い。少しからだを動かせば体を密着させることも可能だろう。
僕なんかがそんなことをしたら絶対に嫌われてしまうからそんなことはできない。がんばって耐えろ、高橋!
そしてちょこちょこと東雲先輩とお話なんかをしていたら、もう日が暮れかかっていた。
とりあえず、今日は書店に出向いて新しい本を何冊か仕入れよう。あとは……そんなところでいいか。
♡
そろそろ帰りましょう。鞄に本と原稿用紙と、それから万年筆を筆箱に仕舞って、それも鞄に入れます。
鞄の中が少しゴチャゴチャしているのが気になります。こんな鞄だともし見られたときに恥ずかしくてたまりません。あ、もちろん高橋くんにですよ。
少し整えてから、高橋くんに声をかけます。
「高橋くん、そろそろ私は帰るけど、高橋くんはどうする?」
「ああ、じゃあ僕もそろそろ帰ります。」
今日はチャンスあるかもしれません。もしかしたら、高橋くんと一緒に帰れるかもしれません。高橋くんに逃げられなければ、高橋くんとデートできるかもしれません。
とりあえず、高橋くんが準備するのを待って、待って……高橋くん、かわいい……。
☆
なんだかとても視線を感じる。部屋には東雲先輩しかいないから、東雲先輩だろうか。でも、僕みたいな奴を見るとは思えないし、まさか幽霊なんて居るわけもないし。
とりあえず荷物をすべて詰め込んで、急いでドアのほうへ走る。
「お疲れさま。」
東雲先輩にお疲れ様、なんて言われてしまった。なんて僕は幸せ者なんだろう。
僕が扉を抜けると続いて電気を消しながら東雲先輩が外に出てくる。気が利かない自分を呪いながら僕はありがとうございます、とお礼を言う。東雲先輩はニコっと笑って、
「いいよいいよ」
と言ってくれた。笑顔が素敵ですねなんて口から吹き出しそうになったがギリギリで堪えて、鍵を閉めている東雲先輩を見る。ごく普通の鍵を持っているだけなのに、なんだか様になっている。
かわいかったり美しかったり、なんてすごい人なんだろう。本当、東雲先輩、好きです。
もしかしたら一緒に帰れるかも、と思ったが、声をかけられることもなく無事に書店に到着してしまった。
とりあえず昔からずっと追いかけているラノベを一冊と、講談社のやべー奴臭漂う文庫本を一冊表紙買い、その二冊を持って、もう一度ラノベコーナーに舞い戻った。
そして、一冊の本を見つめる。
そういえば、東雲先輩は少し興味を持っていたっけ、青木くん。
昨日気になっていたみたいだったので持ってきたんですよ、読みます? みたいに言って東雲先輩に新しく買った青木くんを渡すのはどうだろう。そして僕はそしらぬ顔をして数日を過ごし、東雲先輩が青木くんを読み終わって僕に返してくれる頃に、持ってますよなんて僕の相棒と化した青木くんを鞄から取り出すのだ。
これなら確実に一冊分を売り上げることができるじゃないか。ハハ、これでいこう。
そして僕が青木くんに手を伸ばすと、何かが手に触れた。やわらかい、女の子の手のような……手の……ような……?
顔を上げるとそこには、僕と同じようにぽかーんと口を開いてこちらを見つめる東雲先輩……。
「えーっと、高橋くん……?」
「ええ、高橋です。」
まてまて、初対面か。毎日会ってるやろがい。というか、なんだこの恋愛小説みたいな展開は。
こんな展開陰キャな僕にあってはならないあってはならない。いやでも、それだと青木くんを全否定することになるのでは……?
悩ましいが、現実でこんなロマンチックなことがあってはならない気がする。
僕は陰キャで、どうしようもないクソ野郎で、友達がいなくて――
――そして僕は、東雲さんが好きだ。
ただそれだけの、男子。挫・人間がそこそこ好きな男子。人生お先真っ暗な人。
ああ、なんかつらいなぁ。きっと、東雲先輩は僕のことを軽蔑してるんだろう。この間読んだ、なんて言って。
本当に元気がもらえて、そして大好きな小説でさえ、恋のダシに使ってしまうとは。
ああ、死んだほうがいいのかな。
♡
なんで、高橋くんがいるんですか。聞いてないですよ。しかも高橋くん、さっきから固まってて全然動きません。私の手と高橋くんの手は触れ合ったままです。
でも、このままでいるのもいいかもしれません。私はこのままで全然大丈夫です。
なんなら、街中を手を歩きたいくらいです。
でも、高橋くんはそんなことしてくれるでしょうか。
軽蔑しないでしょうか。
少し、不安です。
☆
そういえば、東雲先輩と手は触れたままだ。どうしよう。めっちゃ恥ずかしい。死にたい。いろいろな意味で死にたい。
でもそんなことを言っていても仕方が無くって、今目の前で起きていることはどうも現実なようで。
ああ、もう、どうにでもなれ。いっそ、叫んでしまおうか。いやでも、叫ぶのは東雲先輩に迷惑だろうか。
じゃあ、ささやいてみようか。
「東雲先輩、僕、東雲先輩のこと、好きですよ。」
ハハ、案外伝えるのなんて、簡単なんだな。
猫じゃなくったって、案外人間自由に生きれるじゃないか。
我輩は猫なんかじゃないが猫みたいに生きたい。 七条ミル @Shichijo_Miru
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