第三章 たとえどんなに憎くとも

「……崎……高崎……」

 世界の外から声が聞こえてくる

「高崎泉、寝てるんじゃねえ!」

 頭を軽くはたかれる音と衝撃。

「……ん……む……何ですか先輩」

「何ですかじゃないよ。仕事しろ仕事」

 僕はゆっくりと体を起こして辺りを見回す。相変わらずの狭い部室に、光るパソコンが二台。そして背後には、胸の大きな女子が一名。

「仕事って、ただの部活動じゃないですか」

「そんな意識じゃ困るね、高崎。私の手による新聞は崇高で価値のあるものなんだよ」

「ここ三ヶ月ほど発行すらしてないのに?」

「じらせばじらすほど価値も高まるってものさ」

「屁理屈を……」

「何か言ったか?」

「いや、何でもありませんよ。椎橋先輩」

 僕は伸びをしてから立ち上がった。

「で、今日は何を調べるんです?」


 T市に位置するこの高校では、自由な部活動が推奨されている。内容を問わず、部活はあっさり公認されることがほとんどだ。そのため、『猫愛好部』『安全なキノコを食す部』『懐メロ研究部』など、他では見られない部活動がわんさか存在している。それらは全て、部員の名前を含めて学校のホームページに記載されているから、興味のある人は見てみると良いだろう。絶対に驚くことを保証する。

 そんな中においては、『新聞部』はノーマルな部類に入るだろう。部員数がごく少数であることと、部長の性格を除けば。聞けばキノコ部は部員四名だとか。キノコにすら負ける新聞とはいったい……。

「まあしかたないだろ。キノコは食べればおいしいが、新聞はもう古いメディアだからな」

 実際、もう紙の新聞を発行しているところはほとんどなく、電子書籍による配信へと移行している。それは僕たちも同じだった。

「本当は紙の方がいいんだけどなあ」

「どうしてですか、紙なんて不便なだけですよ」

「わかってないな、高崎。あのぎゅっと情報量が詰まった紙面、灰色の薄い紙、独特のにおい。ロマンにあふれていると思わないのか!」

「はあ」

 正直、全くもって思わない。

「そんな思想で良くこの部に関わろうと思ったな、君は」

「先輩が強引につれてきたんでしょう、忘れたとは言わせませんよ」

「忘れたなぁ」

「いけしゃあしゃあと……」

 先輩と僕は幼なじみの関係にあって、僕はいつも彼女に引きずり回される役回りだった。高校一年生になっても、それは続いている。三つ子の魂百まで。


   *


 T市に生息するフクロウの生体についてまとめ終わると、僕は椎橋先輩に記事のチェックをもらう。

「悪くない出来だ。修正点は山ほどあるがな」

「そうですかね」

「まだ人に読ませられる文章になってないし、調査も一部補強する必要があるな」

「はあ」

「まあそれも明日だ。今日はもう下校時間だ」

 二人、手短に支度をして学校を出る。初夏の日は長く、午後六時だというのにあたりはまだ明るい。これからだんだんと暑くもなってくるだろう。夏が訪れるのだ。

 途中の曲がり角で先輩と別れ、家につくと夕飯の良い香りが漂ってきた。

「ただいま」

 包丁を器用に操る母さんに向かって僕は言う。

「おかえり。最近遅いわね」

「部活が大変なんだよ」

「新聞部なんて体育系よりよほど楽でしょうよ」

「先輩がいなけりゃそうなんだけどね……」

 椎橋先輩のことは母さんも知っている。幼い頃からよくうちに乗り込んできて勝手に冷蔵庫からアイスキャンディー取り出したりしてたからな……ほんと自由な人だ。

 七時になって母さんと一緒に食事をしていると、玄関の鍵が開く音がした。

「ただいま……」

 携帯音楽プレーヤーを胸元にしまい込みながら、のっそりと現れたのは父さんだ。

「あら、どうしたのあなた。こんなに早く」

「たまたま仕事があっさり終わってね」

「夕飯、あなたの分もあるわよ」

「ああ、頼む」

 そして食卓を囲む三人。いわゆる一家団欒というやつだ。こういう『普通』が、僕は好きだ。おそらくは、人並み以上に。

 せっかくめずらしく父さんがいるのだからと、僕は会話のネタを探した。

「父さん」

「何だ?」

「さっきさ、プレーヤーで何聴いてたの?」

 父さんは芸能事務所でプロデューサーとして働いている。もしかしたら最新の未発表曲でも聴かせてもらえるかもしれない。そんな思いから出た言葉だった。

「何、って……」

 父さんは一瞬うろたえたような表情を見せた。

「俺の好きな、古い曲だよ」

「聴いてもいい?」

「……」

 父さんはしばし黙りこくった。そもそも父さんはあまり饒舌なほうではない。考え込むことは良くあった。

「……まあ、いいだろ。聴かせてやるよ」

 胸元からプレーヤーを取り出し、僕に手渡した。画面には『待望の光/ねねね子』と表示されている。前者が曲名で、後者が歌手名だろう。どちらも全く聞いたことはない。

 イヤホンを耳に差し込んで、その曲を僕は聴いた。とたんにガツンと殴られたかのような衝撃を受けた。その女性ボーカルはただ事ではなかった。喜びと憎しみと歓喜と憎悪、そして何より僕を包み込むような優しさに溢れている声だった。

 気がつくと僕は涙を流していた。

 その様子を見て、父さんが何事か口走ったが、イヤホンに阻まれて聞こえなかった。


 今時手書きの日記を付けている人などほとんどいないと思う。これもまた、椎橋先輩からの司令だった。

「自分の手で文章を書くことは、文章力上達の効率よい訓練になるからな。私は毎晩日記帳に万年筆で書き記している。君もそうしなさい」

「命令ですか」

「ああ」

 愚直に守る自分も自分だと思う。

 ノートを閉じて、ベッドの中に潜り込んだ。

 そしてあの歌を思い返す。

 曲を聴いて泣くというのは初めての経験だった。何が僕をそうさせたのだろう。もちろん曲の力がすごかったというのはある。だが、それ以外にも、何か理由があるような……。

 考えはまとまらず、僕はそのまま眠りについた。


   *


「フクロウの記事、ボツにしようと思うんですけど」

 僕がそう言うと、先輩は心底不思議そうな顔をした。

「どうした。あれだけ時間をかけて仕上げてきたじゃないか!」

「あれだけって、三日くらいですけど」

「何か不満があったのか?」

「いえ」

 僕は首を振った。

「フクロウより、もっと興味ある題材ができまして」

「おおっ!」

 先輩の顔がぱあっと明るくなり、いきなり僕をぐいっと強く抱きしめてきた。痛い痛い、それに胸が当たってる。

「高崎君もようやく新聞記者として目覚めたんだな!」

「違います」

 にべもなく僕は答える。

「なんだい、違うのか……」

 残念そうな顔で僕から離れる先輩。甘い香りがぷんと鼻を突いた。

「で、その興味ある題材ってのは?」

「はい」

 僕はパソコンを操作してとある情報ページを開く。

「ねねね子……?」

「昔いた、女性シンガーソングライターです」

 そのサイトには、簡単な略歴が掲載されていた。

 曰く、ネットでのみ活動していた覆面シンガーで、今から十八年ほど前から徐々にカルト的な人気を獲得したものの十五年前の『待望の光』という曲を最後に発表が途絶えたとのこと。

「この歌手が、何なの?」

「聴いたんですよ、僕。この『待望の光』って曲を」

「どうしてまた」

「父親に聴かせてもらったんです」

「ふうん」

 先輩は少し食指を動かされた雰囲気を醸し出していた。

「でもこれだけじゃ記事にならないな」

「そうですね」

「じゃあ早速行こうじゃないか」

「行く? どこへ」

「こういう事柄にうってつけの部活動が、うちにはあるだろう」

「……ああ」


 懐メロ研究部の部室は新聞部より一回りほど大きかった。さすがは部員数六名だ(この学校の部活動としては大人数の部類に入る)。

 僕たちが訪れたときには、三名の部員が一枚のレコードを取り囲んであれこれ話しているところだった。

「すみません、新聞の記事のために、ちょっと伺いたいことがありまして」

「はい、なんでしょか」と対応したひょろ長い丸眼鏡の男が、おそらく部長なのだろう。

「ねねね子というシンガーをご存じですか?」

 僕の質問に、三人はそろって顔を見合わせた。

「……まさか、その名前がうち以外の生徒から出てくるとは」

「ではご存じなんですね」

「ご存じも何も、知らなきゃモグリですわな」

 何でも、当時のネット上での人気はすさまじいものがあったらしい。匿名かつ顔を明かさなかったこと、唐突に曲の発表がなくなったことも、その人気に拍車をかけたのだとか。

「最終的にネットに上がったのは一五曲ですな。時系列順にまとめたデータもありますよ」

「ぜひ、いただけたら」

「良いですよ。懐メロファンが増えることは我々にも嬉しいことですから」

 連絡先のメールアドレスを伝えると、程なくして曲のデータと、その他のファイルが送られてきた。僕と椎橋先輩は、部活用のスマートフォンでそれを確認する。

「わかっている限りのねねね子に関する情報をまとめたファイルも送りましたです。まあ、曲の発表年月日くらいしか、情報ないんですがね」

「ありがとうございます」

 僕は頭を下げる。そしてふと横を見ると、先輩が食い入るようにスマフォの画面を見つめていた。何だか少し、深刻な雰囲気だ。

「先輩? 大丈夫ですか、先輩?」

「あ、ああ……」

 言いながら、それでも画面から目を離さない。

 結局僕は先輩を引きずるようにして懐メロ研究部を後にしたのだった。


「いったいどうしたんですか先輩、様子がおかしいですよ」

「高崎、今から外行くぞ」

「はあ?」

 彼女はいつも意味不明だが、今回はあまりに唐突だ。

「ちょっと、どうして外なんか行くんですか。説明してください」

「行きながら言う」

 こうなったらもうとことん付き合うしかなさそうだ。

 我らの部室に戻り、荷物をまとめ、外に出る。

 時刻は午後四時を回ろうとしていた。


   *


「なあ高崎、最近私が何を調べているか、知っているだろう」

「ええ、麻袋事件ですよね」

「その通り」

 T市連続殺人死体遺棄事件。

 通称、麻袋事件。

 それは僕が生まれるより前にこの街で起こった、凄惨な出来事。

 被害者は計十一名。十歳に満たない少女から五十代の男性まで、その年齢は幅広く、そして共通性を持たない。

 警察の必死の捜査の甲斐もなく、現在に至るまで犯人は検挙されていない。

 そんな事件を、先輩はこの一ヶ月ずっと調査し続けている。一介の高校生が警察を出し抜いて真相にたどり着くなんてことあるはずないのに、と僕は思う。しかし先輩は「これはロマンなんだよ」と熱中していた。

「麻袋事件でもっとも不可解な点は何だか、覚えているか」

「……いえ」

「大半のケースで殺害現場と死体遺棄現場が異なることだよ。死体を運ぶために麻袋を使った。だから麻袋事件なんだ」

「ああ、そうでしたね」

「その秘密が、もしかしたらわかったかもしれない」

「はあ?」

 僕の困惑をよそに、先輩はズンズン歩いていく。そしてたどり着いたのはT駅前の広場だった。その中央にはボロボロになりながらもまだ立派に鎮座している、猫の像がある。

「ここは……」

「今から十七年前、ここで死体の入った麻袋が発見されたところから、事件は始まった」

 つまり、第一死体遺棄現場。今はもう、覚えている人も少ないかもしれない。

「高崎、さっきの曲目データ、開いてくれるか」

「へ? あ、はい」

 スマフォを操作して、表になった曲目一覧を開く。

「一曲目のタイトルを見てみろ」

 僕は首を傾げながらも、言われたとおりにする。

 そこに表示されていたのは……

「『T市の孤独な硬い猫』」

 僕は先輩と顔を見合わせた。そして、もう一度、目の前にある猫の像を見上げた。

「まさか、偶然でしょう」

「それをこれから調べていくんだよ」

 先輩の瞳は爛々と輝いていた。


 二番目の死体遺棄現場は、時間制の駐車場だった。血痕のひとつもなく、隅に花が添えられていることからようやくそこが事件現場だとわかる程度だ。

「二曲目のタイトルは『狭すぎる庭』ですね。駐車場とは何の関連性もないですよ。やっぱり勘違いですって」

「いや……当時も駐車場だったわけではない」

 彼女は部活用スマフォを僕から奪うと、すいすい操作してひとつの地図を表示した。

「これは事件当時のこのあたりの地図だ」

「どうしたんですかそれ」

「図書館にあったものをスキャンした」

「なるほど」

 すでに目星はつけてあったのだろう。彼女は地図のある一点をポンと押して、そこにピンを立てた。

「このピンが、いま私たちのいる場所だ」

「……まきば荘、って書いてありますね」

「そう。当時ここにはアパートが建っていたんだ。経営困難で売り飛ばして、更地と化したのが五年前のこと」

 流石によく調べている。

「先日な、当時のアパート管理人に話を聞いたんだよ」

「どうやって連絡つけたんですか」

「難しいことではないさ。駐車場の管理会社に問い合わせて、あとは芋づる式」

「簡単に言いますね……」

 実際はかなり苦労したと思われる。

「管理人は死体の第一発見者でもあった。懐かしそうに話してくれたよ。『庭掃除に来たら巨大な麻袋がごろりと転がってて、わしゃ度肝抜かれたよ……』」

「庭掃除?」

「そう。第二の死体遺棄現場は、アパートまきば荘の庭だったんだ」

『狭すぎる庭』。

 僕はごくりと唾を飲み込む。


 三番目。

 たどり着いたのは地元民しか知らないような小さな湖、摩周湖のほとりだった。

「この場所で、朝方ランニングしていた女性が麻袋を発見した。そしてねねね子の、三曲目のタイトルは……」

 言わなくとも、二人ともすでに覚えていた

 ーー『湖で君は溺れる』。

「これで三つとも結びついた」

 彼女の口調は嬉しそうだった。明らかにワクワクしていた。

「さて、次は四番目……」

「それはあしたにしませんか、先輩。もう六時近いですよ」

「日はまだ明るいぞ」

「下校時刻は守らないと、バレたら部活取り潰しですよ」

「む……」

 先輩はよほど不満そうだったが、結局は折れて、その場で解散となった。


 ねねね子の曲が麻袋事件と関係している。

 それはにわかには信じがたい事実だった。だがそれも、明日になればはっきりするだろう。

 そう、明日になれば。


   *


 その夜、僕は夢を見た。

 もう何度もくりかえし見た夢を。


 八歳の僕は、夜中に目が覚める。

 トイレ行きたい……。

 むくりとたちあがって、部屋を出ると居間から明かりが漏れている。と同時に、何やら話し声がする。

 僕はふらふらと居間の方へ近づく。

「それにしても、O型で良かったわ」

「しっ、声が大きい」

「もう寝てるわよ。もし泉がB型だったら、どう説明すればいいかわからなかった」

「別に、『実は貰い子だった』とでも言えばいいだろう」

「そうだけど、本当の両親に会いたいとか言い出したら……」

「死んだことにすればいいさ。半分は事実だし」

「ううん……」

 僕はその会話を全部しっかり聞いている。

 何だか恐ろしいことを知ってしまったような気がして、トイレにも行かないでベッドに戻る。

 震えながら。

 震えながら。

 だんだんと、窓の外が明るくなっていく……。


 目が覚めた僕は、首を何度か振った。

 いま見たのは夢だったけれど、僕が内緒話を聞いてしまったことは事実だ。あの会話ははっきりと脳裏に焼き付いている。

 僕は、この両親の本当の子供じゃない。

 それはひとつの事実としてもう既に僕の中に定着している。

 ただ、言っておきたいのは、僕がそれでもいい、それで問題ないと考えているということだ。

 いまの母さんが育ての親であることは間違いないし、父さんが僕のために働いていることも間違いない。

 だから、それでいい。

 本当のことは、いつか時が来たら教えてくれるだろう。

 いつか、時が来たら。


   *


 翌日の放課後。

 四番目の死体遺棄現場は、H区三丁目の小道だった。今もそのまま残っていて、やはり足下に花が飾ってある。

「ここは……普通の小道ですね」

「そうだな。曲のタイトルは……っと」

「『その手を止めて』です」

「場所とは関係なさそうだな」

「ええ」

「実はだな、この四番目の事件はちょっと異色なんだよ」

「というと?」

「まず、この場所で殺人も行われていること」

「えっ」

「つまりこのケースでは死体をただ麻袋に入れただけでどこにも運ばず放置しているんだよ。そしてもう一つのイレギュラーが、死体の右手首から先が切り取られていたこと」

「……知りませんでした」

「当時は大分センセーショナルに報道されたようだがね。この謎、ねねね子の曲と照らし会わせると、納得がいくと思わないか?」

「よくわかりません」

「ちっとは自分の頭で考えてみな」

 僕はしばし頭を回転させる。

「……つまり、『その手を止めて』ってタイトルに沿って、右手を取ったと、そういうことですよね」

「ああ」

「そして、タイトルに場所を暗示する単語が全くないので、死体を運ぶ必要もなかった」

「おそらくそういうことだろう」

「だとすると……ちょっと不思議です。どうしてそんなタイトルの曲にしたんですか、ねねね子は」

「それがわからないんだよな。単なる気まぐれかもしれない」

「そんな馬鹿な」

「私だって本気じゃねえさ。この奇妙さには何か秘密のカギがある。私の直感がそう叫んでるね」

 だがまあ、保留にして次に行こうか。

 先輩は少しも笑わずにそう言った。


 五番目の現場にたどり着いて、僕は少し驚いた。

「交番の真後ろじゃないですか」

「そうだよ。良く捕まらなかったもんだ」

 曲は『交番の中に闇』なので、たしかに適切な遺棄場所とはいえるけれど……

「なんでまた、交番なんて危ない場所をタイトルにしたんでしょうか」

「……たしかにそうなんだよな、不思議だ、奇妙だ……」

 先輩は眉をひそめて考え込んでいる風。何かしっくりくる答えが、はたしてあるのだろうか。


 六番目。

 死体遺棄現場は、今はもう廃校となった小学校の、プールを囲むフェンス脇。

 曲名は『プールサイドの小学生』。

 これは露骨に符合しているということで、あっさりと見学は終わった。


 七番目。

 死体遺棄現場は、T動物公園の入り口前。

 曲名は『アフリカ象のそばで眠る』。

「……ちょっと無理矢理じゃないですか、これ」

「高崎もそう思うか。おそらく動物公園の中までは、流石に入れなかったのだろう」

「じゃあ何でアフリカ象なんてタイトルにしたんですか」

「……疲れたな。カフェでも入って休憩しようか」

 それは唐突な提案だった。だが疲れているのは僕も同じだ。僕はうなづいて、ふたり近場のさびれた喫茶店に入った。いつ覗いても客のいない店だが、なぜか潰れないで何十年もこの場所で運営を続けている。

 僕はアイスコーヒーをブラックのままゴクゴクと飲み干して一息つく。自分の体感以上に、体は休息を欲していたらしい。先輩はといえば、アイスティーにミルクをドバッといれ、さらに砂糖をティースプーンですくっては入れすくっては入れしている。

「それ、もはや砂糖水じゃないですか」

「うるせえな、これくらい甘いほうが脳にもいいんだよ」

 乱暴な口調で反論する先輩は、ちょっとだけかわいい。

 そんな砂糖ティーをゴクゴクジューと音を立てて飲んだ彼女は、一転真剣な表情になって僕を見据えた。

「なあ、今から話す仮説、どのくらい妥当性があるか、判断してはくれないか」

「……僕には無理ですよ、それ」

「いいから。できるだけ客観的な意見がほしい」

 そう言いながらも、彼女には自信ありげな様子が見て取れた。

「まず確認だが、麻袋事件の死体遺棄現場とねねね子の曲のタイトルが符合している。これは間違いないだろう」

「ええ。それは認めます」

「さらに言えば、曲の発表時期と事件発生時期もこれまでのところは完璧に符合している。曲がアップされてからかならず一週間以内に事件が起こっているんだ」

「え! 本当ですか」

「確かだ。懐メロ研からもらった資料と照らし会わせればはっきりする。まあ私は事件発生日を全て覚えているからな、すぐにそれはわかった」

「なんと……」

 忘れていたけれど、この人記憶力抜群なんだよな。

「というわけで麻袋事件の犯人はねねね子……ではないんじゃないかと、私は思う」

「そうでしょうね」

「驚かないんだな」

「女性には難しそうな事件ですし、曲のタイトルと微妙に一致しない遺棄現場を考えれば、まあ」

「なんだ、君も気づいてたのか」

「薄々と、ですけれど」

 はあ、とため息をついて先輩は椅子の背もたれに寄りかかる。

「おそらく犯人は、ねねね子のファンだろう。曲が発表される度にそいつは事件を起こしていった。それに気づいたねねね子は、タイトルから場所をなくしたり、人に見つかりやすい場所をあえて入れ込んだりと工夫した」

「『その手を止めて』ってのは、もしかして犯人へのメッセージじゃないですか?」

「む、ああ、そうか!」

 叫ぶなり先輩は立ち上がって僕の手をつかみブンブンと振る。

「そうだ、そうに違いない。よく気づいたな」

「たまたまです」

 僕は謙遜する。

「なるほどそうか、そのメッセージを持ってしても殺人が止まらなかったから、その次に『警察署』を指定したのか。だんだんつながってきたぞ」

「何で曲アップするの止めなかったんでしょうね」

 僕はふと思いついたことを言った。

「え?」

「止めちゃえば、殺人も起こらないでしょう、きっと」

「……たしかに」

 先輩は再び座ると、「でも、ねねね子の気持ち、わからないでもない」と静かに言った。

「私も新聞作り止めろと言われても、止められないからな。そういうものだろう、創作って」

「僕にはよくわかりません」

「だから高崎は駄目なんだ。そんなことじゃ立派な記者にはなれんぞ」

「記者なんか目指してませんから」

 僕の返答に、先輩は「はあ」とため息をつく。


 喫茶店を出て、向かったのは次の事件発生現場だ。

「実は次の場所こそが、もっとも重要かもしれないんだ」

「どういうことですか」

「行ってから話そう」

 守河かみがわ神社。

 これまた地元民しか知らない、さびれた小さな神社だ。

 しかしここでは、事件が二度も発生している。加えて、八曲目の曲のタイトルも『守河神社の裏の隅』だ。

「まさにその場所に、死体が二つも遺棄されていたのが八番目の事件。しかもそのうち片方は、その場で殺されていた」

「片方だけ、ですか」

「そうだ。そしてさらにその次から、符合が狂い始める。ねねね子の次の曲は、事件から一ヶ月後にアップされた『私と君が五回ずつ』。対して九番目の麻袋事件は、そこからさらに四ヶ月後のことだ。場所は八番目と同じくここ、守河神社で、やはり殺害現場も同一だった」

「……それは、不可思議ですね」

「いや、そうでもないかもしれないぞ」

 彼女の瞳は輝きを増している。興奮を抑えきれないといった様子だ。

「八曲目で露骨に場所を指定したのは、ねねね子が犯人を目撃するため、ということは考えられないだろうか。いや目撃どころじゃないな、対峙して、おそらく倒したんだ。そして彼の持ってたナイフで……」

「ちょちょ、ちょっとまってください。思考が速すぎます」

「君が遅すぎるんだよ」

「それでいいですから、もっと分かりやすく教えてください」

「わかったよ」

 彼女は呆れたように首を振ってから、語り始めた。

「いいか、『守河神社の裏の隅』なんて曲のタイトル、あまりに具体的すぎるだろう。それまでは場所の単語にしても、もっと抽象的だった。この理由を推察すると、ねねね子がこの場所に犯人を誘導しようとしたとしか考えられないんだよ」

「たしかに……」

「じゃあなんでねねね子はそんな誘導をしたのか。警察に張ってもらってたって線もあるが、それなら犯人はもう捕まってるはずだよな。現実はそうなってない。なら、答えはひとつ。自分自身がその場で犯人を待ちかまえていたのさ」

「まさか。相手は殺人犯ですよ、危険すぎる」

「その危険を冒すほど追い込まれてたのかもな。とにかく、それで犯人がここにやってきたとして、それからどうなったか想像してみよう。まず、犯人はこれまでの殺人パターンを変更する理由がない。だから、ひとつの死体の入った麻袋と共に登場したはずだ」

「ひとつ?」

「そこからまあ具体的になにがあったのかはわからんが、とにかく何か女性用護身具でもうまく使ったんだろう。ねねね子は犯人を見事倒した。そして殺した」

「殺した!?」

「殺したんだよ。それがもうひとつの死体の正体だ」

「ちょっと、意味が……」

「それで全部説明が付く。あのとき発見された死体のうち片方は十歳前後の女児。もう片方は体格の良い中年男性だ。前者を殺したのが後者で、後者を殺したのがねねね子なんだ」

「殺す理由がどこにあるんですか」

「そんなの知らんよ。憎かったんじゃないか、曲をいいように弄ばれて」

「そんな理由で……」

「殺人者なんてみんなどこかおかしいんだ。理由を考えてもキリがない」

「それはそうですが……」

「そこからは符合が狂うのも当然だ、犯人が変わったんだからな。九番目と十番目の事件は、大方真相に気づいた人物の口封じといったところだろう。いや、待てよ。『私と君が五回ずつ』……そ、そうか!」

 先輩は大声を上げてテーブルを叩く。

「ちょ、止めてください。びっくりします」

「曲の符合は終わっちゃいなかったんだよ。わかるか? 『私と君が五回ずつ』。これは、、ってことなんだよきっと。そうだよ、ねねね子にはパートナーが居たんだ。二人で犯人と対決して、そして勝利したんだ」

「論理が飛躍しすぎている気が……」

「いや、それしか考えられない。犯人のすり変わりと、謎のパートナーの存在。これはニュースバリュー高いぞ、よし……」

 そして黙り込む先輩。おそらく新聞記事の構成を考えているのだろう。

 僕は僕で思案する。そして、ふ、と気づいたことがあった。

「あの、先輩」

「何だ高崎」

「ねねね子の曲、聴きましたか?」

「もちろん。昨夜のうちにひととおり全部聴いたぞ。それが?」

「僕も同じように昨日聴いたんですが、あの、男性のコーラスが入っている曲、ありませんでした?」

「コーラス……?」

「たしかそれが、『私と君が五回ずつ』だったと思うんです」

「何ぃ? どうしてそれをさっさと言わない!」

 言うが早いか、彼女はスマフォを操作して曲を流し始めた。爽やかなパワーポップ。この曲こそ、『私と君が五回ずつ』だ。

「……たしかに、コーラスが男の声だ。じゃあ、この男こそが……」

「はい。先輩の言うところの、ねねね子のパートナーなんじゃないかなって」

「お手柄だ高崎っ!」

 叫んで僕の手を取り、ブンブン振る。

「いや、ただの当て推量ですよ……」

「そんなこと言い出したら私の推理だって大半当て推量だぞ。いいんだよ、論拠はきっちりあるし、充分新聞記事になる。忙しくなるぞお」

 喜ぶ彼女の姿を見ていると、何だか僕も愉快な気持ちになってくる。

 その日はそのまま分かれて帰路につくことになった。おそらく先輩は家でバリバリ記事を書き始めるんだろうな……。そんな想像をしながら、僕は家の玄関を開けて「ただいま」と言う。「おかえりー」という母さんの声が帰ってくる。そう、そんな当たり前の日常こそが、とても貴重なものなのだ。

 その日も細かく日記を付けて、僕はベッドに潜り込んだ。


 僕たちは、全く気づいていなかった。

 いや、頭の片隅では気づいておきながら、知らないフリをしていたのかもしれない。先輩は特に、そういう性格だ。

 僕たちはもう既に、踏み込んでしまっていた。

 とても危険な、非日常に。


   *


 先輩の猛烈な執筆と、僕の(無理矢理付き合わされた)校正作業によって、記事は急速に完成の一途をたどっていた。

「これは公開したらものすごいことになるぞ!」

「でしょうね」

 何せ、特大の未解決事件に対する、誰も掴んでいない新情報だ。マスコミはすぐに飛びつくだろうし、警察からも問い合わせが来るだろう。そして我が高校の新聞部が一躍有名になり、その部長たる椎橋楓も時の人となる。それが先輩の描く筋書きだった。

「有名になりたいんですか」

「そうじゃない。記者として実力があることを世間に認めてもらいたいんだよ。そうすることで、報道メディアへの就職も有利になるからな」

「打算的ですね」

「打算の何が悪い。迷宮入り事件が進展し、世間は好奇心を満たし、そして私も得を得る。まさにウィンウィンだ」

「はあ」

 僕にはさして興味のないことだ。


 そうして作業をこなす一週間が過ぎて。

 新聞が完成間近となったその日。

 先輩は、学校に来なかった。


   *


 何かがおかしい。

 先輩のクラスの担任教師に確認したところ、学校の連絡用アドレスに「風邪を引いたので休みます」とメールが届いたとのことだった。でも昨日はそんな兆候、全くなかった。そもそも椎橋先輩が風邪を引いた姿なんて、僕は見たこともない。想像もできない。まあ、いきなり引くのが風邪だという話もあるけれど……。

 何となく新聞部の部室へ足を向ける。当然、誰もいない。先輩のいない部室は想像以上に物静かに感じられる

 しばしぼうっとして、帰ろうかと思ったその瞬間、ブブブと音が鳴った。

 机の中央に置いてある部活用スマフォが震えたのだ。

 それは、そこにメールが届いたことを示していた。

 僕はパッとそれに飛びついた。メールを開き、そこに表示されている文面を見た瞬間、ぞっと背中を寒気が走った。


『椎橋部長の身柄は預かった。返してほしくば、今夜九時に守河神社に来い、高崎部員』


 ……わけが、わからない。

 そのとき、脳裏をよぎったのは、麻袋事件についての先輩の軽い一言だった。


 ーー九番目と十番目の事件は、大方真相に気づいた人物の口封じといったところだろう。


 まさか。

 まさかこれが、十一番目の事件になるというのか?


 考えろ。

 考えろ高崎。


 先輩と僕が麻袋事件の真相に気づいたと、どうして知られた?

 どうして先輩だけ拉致された?

 どうして僕が名指しで呼び出された?

 拉致した人物は、誰なんだ?

 僕はこれから、どうすればいい?


 考えろ。

 考えろ高崎泉!


   *


 いくら日が高くなったといっても、午後九時前ともなればあたりは真っ暗になる。

 母さんには「椎橋先輩に会ってくる」と言って出てきた。嘘ではない。嘘にならないでくれと、そう願っている。

 考えはまとめた。

 やるべきことも、やりおえた。

 あとは、誘拐犯と対峙するだけだ。


 守河神社は相変わらず人気の一つもなく、明かりもその境内の一部を薄ぼんやりと照らしているだけだった。

 僕はゆっくりと、細心の注意を払って進む。

 大丈夫。

 僕の推論がたしかならば、いきなり襲いかかられることはないはずだ。

 相手はきっと、僕と話をしたがっている。

 視線の先、揺らめく影がある。

 それは人の形を、男性の形をしていた。

 相対する、僕と彼。

 その距離はおよそ三メートルほど。

 ここまで来れば、相手の顔もよく見えた。

 ああ……やっぱり。

 推論の全てが正しかったことを、いま僕は確信した。

「驚かないんだな」

 相手の発言に、僕は「まあね」と返す。

 そして言うべき言葉を、確認すべき事柄を、一息のうちに僕は発した。


「僕の本当の母親はねねね子なんだね、父さん」


 その言葉に、相手は目を見開く。

「そこまでわかってるのか」

「やっぱり」

「どうしてわかった? いや、そもそも犯人が俺だとどうして気づいた?」

「考えたんだ、よくよく考えたんだよ」

 そう。そしてたったひとつの、犯人のミスにたどり着いたんだ。

「新聞部のスマフォに届いたメール。あれは椎橋先輩のスマフォから送ったんだろうけど、そこに一部だけ、おかしな点があったんだ」

「おかしな点?」

「僕を『高崎部員』と部員呼ばわりしていることだよ」

「だって泉、おまえは新聞部員じゃないか」

「違うんだよ父さん、学校のホームページを見ればわかるけど、僕は名義上は新聞部員じゃない。安全なキノコを食す部の部員なんだ」

「はあ? キノコ?」

「だから、僕のことを新聞部員と誤解するとしたら、僕が椎橋先輩につれ回されていることを知っている一部の生徒か、そうでなければ、四人しかいない。先輩の両親と、僕の両親だ。日常会話で誤解する可能性があるからね」

「……なるほど」

「そのうち、生徒はすぐに除外できる。この拉致は間違いなく麻袋事件と関係している。まだ生まれてもいないころの事件の犯人がうちの学校にいるわけがない。それに、先輩の両親もほとんど可能性はゼロだろうと思った。自分の娘を拉致するなんてありえない。その場合は先輩もグルの狂言ってことになるんだろうけど、そんなことをする理由は全く思い浮かばなかった。そして、僕の母さんはいま自宅にいる。残るのはひとりしかいない」

「おまえ、探偵の素質あるよ」

「茶化さないでよ、父さん」

「ねねね子が本当の母親だってのは、どうして?」

「父さんは覚えてないかもしれないけど、ずっと昔、深夜に母さんと父さんで僕の血液型の話をしていただろ」

 その言葉に、さっと父さんの顔が曇った。

「あれを聞かれていたのか。しまったな」

「だから僕は、父さんと母さんが本当の両親じゃないことを知っていた。そこに今回の事件だ。誘拐犯が父さんだとすると、麻袋事件の模倣犯もおそらく父さんだ。そうだよね」

「模倣犯、か。全部わかっているわけだな」

「うん。つまり、ねねね子のパートナーは父さんなんだと思った。ということは、きっと僕の本当の母親はねねね子なんじゃないかって、そう予想したんだよ。証拠はなかったけど」

「ひとつ言っておくが、母さんは本当におまえのことを愛して育ててきたんだ。それは間違いない」

「そんなこと父さんより良くわかってるよ」

「そうか……そうだよな、当然」

 父さんはうんうんとひとり頷いている。

「それより父さん、先輩は」

「ああ、そこにいるよ」

 指さす方向に彼が懐中電灯を当てる。砂利の上に椎橋先輩が横たわっていた。

「先輩!」

「眠っているだけだよ。まだ、な」

 その物言いに僕は少しぞっとする。

「昔話をしようか。少し長くなるかもしれんぞ」

「いいよ。それを聞くためにここに来たんだ」

 そして父さんの話が始まった。それは父さんとねねね子の出会いから別れまでの物語だった。麻袋事件との関係性は、おおむね先輩と僕が予想したとおりだった。

「ねねね子は最後まで殺人に反対だった。自分の歌が犯罪で汚されることになってもかまわないと、そう言ったんだ。だがそれが嘘だってこと、俺にはよくわかってた。彼女が生命を削って作ってきた曲たちが、『犯罪の歌』として世に認知されてしまうことは、彼女には間違いなく耐え難い屈辱だったし、何より俺が許せなかった。長い説得の末、俺たちはハネアリを殺すことにした。まずは俺がナイフで五回刺した。そのまま刺し続けようとすると、彼女がさっと制止した。『残りの五回は私にやらせてくれないか』と彼女は言った」

 父さんの話がどこまで本当なのか、僕には全く見当がつかない。でもそれで良かった。語っている父さんは本当に切なそうで苦しそうで、そして楽しそうだった。

「真相に気づきかけた人物が、それから二人現れた。二人とも俺が殺した。ねねね子は関わってはいないがもちろんその事実は把握していた。見て見ぬ振りをしてたんだな。真相が明らかになってしまえば、俺と彼女のあの殺人もまるで無駄になってしまう。それをふたりとも、よくわかってた」

 話を聞きながら、僕は同時に先輩の様子を伺っている。暗闇でよく見えないが、全く動く気配もない。睡眠薬でも飲まされたのだろうか。

「母さん、恵と出会ったのはそのころのことだ。俺たちは恋に落ちて、それで卒業後すぐに婿入りした。それで名字も松永から高崎に変わった」

「いやちょっと待ってよ。恋? ねねね子が好きだったんじゃないの?」

「彼女との関係は恋愛というより、もっとピュアな、そうだな、仲間みたいなものだった。彼女もそう思ってたはずだ。俺たちの結婚を心から祝福してくれたよ」

「母さんとの話、もっと聞かせてよ」

「面白いことは何もないぞ。ただたまたま知り合って、恋愛して、結婚しただけだ」

 その言葉には嘘が紛れ込んでいるような雰囲気があったけれど、僕は深く追求しなかった。この後に及んで何か僕に隠すということは、むしろ僕をいたわるためなんじゃないかという気がした。

「それから少しして、恵の病気が発覚した」

「病気?」

「恵はな、子供が産める体じゃなかったんだ。ショックだったさ。毎日しくしく泣いてたよ。そんなとき手を挙げたのがねねね子だった。恵とねねね子は親友と呼んでいい間柄になっていたからな。体外受精の道もあったが、他ならぬ恵がそれを拒んだ。せっかく産んでもらうなら、あなたとねねね子の子供でいい。きっとその方が、より自分の子供のように育てられるから。そう恵は言った」

 正直、俺にはよくわからない感覚だがな。そういって父さんは少し笑った。

「ねねね子は無事妊娠して、経過も順調だった。だがな……」

 そこで父さんは言葉を一瞬失った。そこからの内容は、まるで絞り出すように語られた。

「最後の最後、産む直前になって、命運が狂った。そう、ただ狂ったんだよ。彼女は帝王切開になって、そして血がどうしても止まらなくなった。医者は全力を尽くしたというが、どうだかな。ついに彼女の心臓は動かなくなった。死んだんだよ。泣きわめく赤子を残して。それがおまえだ、泉」

 父さんは語りを止めて僕の顔をじっと見た。僕はどう答えたら良いのかわからない。答えるべき言葉のひとつも見つからなかった。

「……さて、じゃあ仕事をするとしようか」

「仕事?」

「殺すんだよ、この少女をな。彼女は真相に近づきすぎた。おまえの日記がなかったら気づかなかったことだ。ありがとうな」

 その言葉に、カッと血が逆流するのを感じる。

「先輩を殺したら、次は僕か」

「まあ、そういうことだ。我が子を殺すのはつらいが、死んだねねね子が浮かばれないからな」

「殺したって、もう無駄だよ」

「無駄?」

 首をひねる父さんに向かって、僕は言う。


「だって、あの記事はもうネットにアップしたから」


 その言葉に、父さんはぽかんと口を開けた。

「アップした? どういうことだ?」

「そのままの意味だよ。記事はもうほとんどできあがってたんだ。それを僕はネット上のいろんなところにばらまいた。九時までには充分な時間があったからね。今頃拡散されて騒ぎになり始めているところだと思うよ」

「……泉、おまえ……」

「だから父さん、もう僕たちを殺しても無駄なんだ。あきらめて、おとなしく自首してほしい。それがたったひとりの息子としての、僕の願いだよ」

 父さんは全身から力が抜けたかのようにガクッとその場に崩れ落ちた。

「まいったな。そこまで先回りされてるとはね。負けたよ。その証として、彼女は殺さないでおいてやろう」

 そう言って、そしてぐいと立ち上がると、僕を強い力で睨みつけた。


「殺すのはおまえだけだ、泉!」


 叫ぶが早いか、父さんはどんと地面を蹴った。弾丸のように、僕の方へと向かってくる。僕は渾身の力で横に跳ね飛ぶ。それは間一髪のタイミング。父さんは僕の横をすり抜け、そのままたたらを踏んだ。その隙を僕は見逃さない。隠し持っていたスタンガンを父さんの首もとに当て、思い切りスイッチを押した。

 バチン!

 激しい音が鳴り響いて、父さんの体がビクンと震えた。そして力を失い、どさりとうつ伏せに倒れ伏した。大きなナイフがカランと辺りに転がる。

「……しくじったな、まだ若いつもりだったんだが」

「しゃべれるんだ」

「そのスタンガンは威力が弱い……体は動かなくとも、会話くらいはできる……」

 少し震えた声で父さんは話す。

「いよいよ俺の負けだ……殺せ……」

「は?」

 それは完全に予想外の言葉だった。

「殺す? 何で」

「理由が欲しいか……なら与えてやろう……そこに転がっている部長はもうすぐ死ぬ……」

「何だって!?」

「致死量以上の睡眠薬を飲ませた……もう目覚めることはない……」

 カッと頭に血が上るのを感じる。

「どうして! どうして殺した!」

「理由は散々話したはずだ……」

「ふざけるな、ふざけるなよっ!」

「泉……おまえ……あの部長のことが好きなんだろう……」

「ああそうだよ! それを知ってて、父さんは!」

 僕は転がっていたナイフを手に取り、大きく振りかぶる。完全に冷静さを失っていた。この男はただの殺人鬼だ、ここで殺すべき存在だ。本気でそう思っていた。

 僕のその姿を見て、父さんは目をつむる。その表情は、なぜだか、どこか満足そうに見えた。

 僕は考えるのを止めナイフを振りおろすーーその瞬間だった。


 唐突に、大音量で音楽が、歌が流れはじめた。


 それは父さんの体の下から鳴り響いていた。聞いたことのある歌だった。僕は頭をガツンと殴られたような衝撃を受ける。

 それはこの事件に関わることになったきっかけの歌。

 僕がお腹の中にいた頃、聴いたはずの歌。

 ねねね子の、『待望の光』だった。

 曲は始まりと同じように唐突に途切れた。スマートフォンの着信音だったのだろう。そう予想して、僕はもう冷静さを取り戻していることに気づいた。

 ナイフを、父さんの脇に静かに置く。

「たとえどんなに憎くても、僕は殺さない。父さん、僕は絶対に殺さないからね」

「……そうか……」

 父さんのその声には、少し残念そうなトーンが感じられた。

 きっと、父さんは僕に殺して欲しかったんだろう、罪にまみれた自分を。

 そのために、この状況を作り出したのだ。

「……泉……」

「何だよ」

「あの部長を殺したって話は……嘘だ……」

「やっぱり」

 そう言いつつも僕は全身でホッと安堵していた。

「じきに目が覚めるだろう……一応……救急車を呼んでやれ……」

「わかった」

 僕は自分のスマフォを取り出して、警察と消防にそれぞれ連絡を入れた。少し経って、サイレンの音がこちらへと近づいてくる。

「……泉……最後に一つ……教えておいてやろう……」

 穏やかな表情の父さんが、言葉を紡ぐ。

「泉って名前はな……ねねね子の本名なんだ……」

 それだけ言うと、父さんは目を閉じて、何も言わなくなった。


   *


 部長は病院に着くなり目が覚めたらしい。元気満々といった体で翌日すぐに登校してきた。

 僕はことの顛末を全て彼女に説明した。もちろん、僕が彼女を好きだって下りは除いて。

「助けてくれたことは感謝するよ。ありがとう」

「どういたしまして」

「だが許せん、許せんぞ私は」

「何をですか」

「あの未完成の記事を公開したことだよ!」

 彼女は本気で怒っているのだった。

「しかたなかったんですよ」

「あの程度の完成度じゃあ私の底が浅く見積もられてしまうじゃないか!」

「そんなことないですって。充分でしたよ、あれで」

 まあ、誤字脱字くらいはいくつかあったろうけれど。

 昨日の誘拐事件は、既に朝の情報番組でトップニュースとして報じられていた。

 そしてまた、ネット上では僕の流した記事で既に大騒ぎだった。

 だがその二つは、まだ結びつけられていない。父さんが黙秘を続けているせいだ。きっと口が裂けても、何も語らないだろう。

 新聞部の連絡先には既に何十件ものメールが届いていた。取材の申し込み、あれは本当かと訪ねる声、一番多いのはイタズラメール。

 そろそろ、ちょうど夏休みだ。

 これから忙しい日々が始まるのだろう。


 午後六時。

 帰宅するなり母さんが「ちょっと来なさい」と僕を呼んだ。見たことないほど真剣な表情をしていた。

「父さん、私について何か言ってた?」

「ううん、特には何も。普通の恋愛をして、普通に結婚したって」

「そう……」

 彼女は大きくため息をついて頭を振った。

「あの馬鹿……」

 呟くや彼女は立ち上がる。

「母さん、今から警察に行ってくるわ」

「警察?」

「そう」

 それで、洗いざらい話すの。

 その言葉を最後に、母さんは長い間僕の元から姿を消すことになる。


 母さんは本当に洗いざらい話したらしい。

 父さんが行ったこと。ねねね子が行ったこと。そして自分が行ったこと。

 それらの事実はニュースになって連日報道されたから、僕の耳にももちろん届いた。母さんが事件に関係していることは全くの予想外で、端的に驚愕だった。


 父も母も捕まって、僕はひとりきりで過ごすことになった。親戚の家が引き取ってくれるというありがたい提案もあったけれど、僕は頭を下げて断った。貯金は充分にあったから、誰の援助も受けずに生きていけた。


 そうこうしているうちに、僕は高校三年生に進学し、たったひとりの新聞部の部長に就任した。


   *


 椎橋楓先輩


 お元気ですか。

 僕はなんとか元気です。

 このご時世だからこそ、直筆で手紙を書くのも面白いことですね。


 大学生活は楽しいですか?

 新聞サークルを立ち上げた話はこの間聞きましたが、はたして部員は増えたのでしょうか。

 来年になったら僕が入りますから、それまで待っていてください。


 麻袋事件の騒ぎも最近は落ち着いたものです。散々ニュースやらワイドショーやらネットやらで取り上げられ社会現象になっていた時期が懐かしく感じられます。もう二度とそうなってほしくはないですけれど。


 両親にはたまに面会に行きます。二人とも元気そうにはしています。まだ裁判は続いていますが、少なくとも父さんにはそれなりに重い判決が下されるでしょう。三人も殺していますし、うち二人は罪のない人物ですから。母はただ見ていただけなので、もう少し軽い刑期になるだろうと、そう弁護士さんが言っていました。


 ねえ、先輩。

 いったい、創作って何なんでしょう。

 人を殺してしまうほどの魅力やエゴを抱えたものなのでしょうか。

 それを探るために、この一年、新聞づくりをしてみたいと思います。最初の特集はキノコのおいしさについてにしようと考えています。ほら、まあ、得意分野から攻めるのが常道でしょうから。


 最後に。

 口では絶対に言えなさそうなので、文章で書きます。


 先輩、好きです。

 幼い頃から、ずっとずっと好きでした。


 返事は、できれば直筆の手紙でください。どんな内容でも、死ぬまで大事に取っておきたいので。


 それでは、お元気で。

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