第二章 そんな馬鹿な話はない

 隣の席の男の子が、気になってしかたない。

 退屈な微分公式なんて聞き流して、机につっぷして眠っていればあっという間に帰宅時間。それが私にとっての学習塾だったはずなのに。どうしても、つっぷしたまま、左腕の影からこっそり見つめてしまう。その整った横顔、細い瞳、特徴的な頬の傷。

 話したことは一度もない。名字は松永、名前は知らない。それくらいの関係なのに、一目見た瞬間から、妙に惹かれてしかたがない。彼の大きめな身体を纏うその空気に、普通ではない冷たさがあるような気がする。

「それ、ヒトメボレじゃん!」

「そうかなぁ」

「絶対そうだって!」

 そう言ってカナメは笑う。親友の断言には、一理すらない。

 私は、たった一度見ただけの男に惚れるような安い女性ではないのだから。

 好きになるには、それ以上の理由が必要なのだ。

 ……。

 私は彼のことが、好きになるかもしれない。


 ……といった出だしから、ピュアなボーイミーツガールを期待している皆さん。残念でした。そうはなりません。

 その証拠に、いま私の目の前で、松永君が人を殺しています。


   *


 松永君は授業合間の休み時間になると、ささっと胸元から携帯音楽プレーヤーを取り出す。黒いイヤホンを耳に差し込み、目をつむって流れる音楽に集中している風。いったい何を聴いているのだろうか。ポップス? ロック? それとも学生らしく英会話?

 気になる。

 気になるので私は彼の肩を後ろからポンポンと叩いた。ビクッと体を震わせ、驚いたようにこちらを振り返る松永君。イヤホンの方耳を外して、「何ですか?」と少し迷惑そうに発した。

「同級生に敬語はないんじゃない? 松永君」

「用事がないならどっか行ってよ」

 あら、対応が早いこと。

「いや、何聴いてるのかなーと思って」

「何だっていいだろ」

「教えてくれてもいいじゃない」

 私は引き下がらない。どうやらしつこそうだと察したらしい松永君は、少し逡巡するような様子を見せてから、結局はイヤホンごと私にプレーヤーを差し出した。

「聴いてみてよ」

「ありがとね」

 私は言われるがまま、イヤホンをつけて再生ボタンを押す。流れてきたのは女性ボーカルのポップソングだ。結構、いやかなり良い曲だと思う。特にボーカルのちょっと幼いような、それでいて裏に情念が溢れているような声。それが耳を引きつける。プレーヤーをの液晶画面を見ると、『私と君が五回ずつ/ねねね子』と表示されていた。その文字を、私はじっと見つづける。

「……変なタイトルね」

「感想はそれだけ?」

「とても良い曲だと思うわ」

「そう」

 彼の返事は短かったけれど、その表情はどこか嬉しそうだった。

 そうしてプレーヤーを返却して、彼との初邂逅は幕を閉じた。


「どうだった?」

 席に戻ったとたん、カナメが私に話しかけてくる。

「どうだった、って何が」

「アプローチの手応えとかさ」

「手応え、ねえ」

 私は腕組みして考える。

「あったと言えばあったわね」

「よかったじゃない!」

 バシバシと私の肩を叩く。

「最近は元気も出てきたみたいだし、本当に良かった」

「別に、元気は元々あったわよ」

「強がらなくてもいいよ、あきらかに落ち込んでたじゃない」

「……」

 たしかに、があってから、私は強く落ち込んでいた。その名残は今でもまだ残っている。


 今からおよそ一ヶ月ほど前、近所の神社で二つの死体が発見された。そう、例の連続殺人死体遺棄事件だ。

 現場には二つの麻袋。

 片方に詰め込まれていたのは、十歳前後と思われる小柄な女児。この子は私とは関係がない。

 もう一方に詰め込まれていた男性、こちらが問題だ。

 体格の良い、中年の男性。


 彼は、私の父親だった。


 それからのてんやわんやは、語るのも面倒なので語らない。とにかく大変でしかたなかったことだけは間違いない。

 私はずっとふさぎ込んでいて、周囲からはかわいそうな子扱いを嫌というほどされた。

 たしかに、自分で自分をかわいそうだと思う。

 だって、私、パパが大好きだったから。


   *


 ストーキングが得意技です。

 そう言うとみんな冗談だと思うみたいだけれど、これは本当のことで、めったなことでなければ対象に気づかれずにどこまでも追いかけることができる。

 まあ、別にしょっちゅうやっているわけでもないけれど。

 そんなストーキングを、久々にやる気になったのは、松永君と会話した日の週末、日曜日だった。

 松永君の家はすでに特定してあった。わりと立派な一軒家。その物陰に朝っぱらから潜んで、彼が玄関から現れるのをじっと待つ。この「じっと待つ」って行為が、普通は上手くできないらしい。私はいつまででも待てるけれど。

 本当に日曜日なのか、それは予想がつかなかった。だから今日一日まるきり無駄にする可能性もかなり考えていたのだけれど、午後一時になって玄関を開ける音が聞こえてきたのは幸運だった。

 普段着の松永君だ。

 夏らしい薄手の黄色いシャツに、薄青色のジーパン。一般的な格好だった。

 彼が通りを歩いていくのを、背後から眺めて。

 はい、ストーキング開始。


 とあるアパートの一室に彼が入っていくのを見届けて、ストーキングは終了。のべ一五分の道のりだった。

 簡単、ではなかった。

 松永君は異常に注意深くあたりを探っている様子があった。普通ではあり得ないくらいに。気づかれないようにするのはかなり難しかった。

 でも、バレなかった。バレなかったと思う。

 流石にアパートの中で何が起こっているのかはわからなかった。でもこの部屋が特定できただけで充分な収穫だ。

 部屋には、当然何者かが住んでいるだろう。

 今度はその人物をストーキングすれば良いだけだ。


 というわけで、善は急げ。

 さっそく翌日に私はそれを実行に移した。

 アパートの角に隠れて、様子を伺う。

 今回も程なくしてドアが開いた。まったくもって運が良い。

 現れたのは華奢で小柄な女性だった。涼しげな白いワンピースを身にまとっている。靴が簡易な突っかけであるところを見ると、近くのコンビニにでも買い出しに出るのだろう。好都合だ、とても。

 私は彼女の後ろを行く。松永君と違って彼女には警戒心がほとんどなかったから、ストーキングはとても簡単だった。五分ほど歩いてたどり着いたのは小さなスーパー。彼女は自動ドアからその中へと入っていく。私は入らずに外で待ちながら、これから行うことの成功確率を予想した。高く見積もって、六割といったところだろう。何より彼女の性格に左右される、そこがキモだ。

 十分ほど経っただろうか。白い袋を手に提げ、彼女が外へと出てこようとする。その瞬間。私はさっと入り口前に立ち、中へ入る。そして偶然肩が当たった風を装って彼女をドンと突き飛ばした。

「うわっ」

 小さな驚きの声と共に彼女は尻餅を付く。袋の中身がバラバラとあたりに散乱した。

「ああっ! す、すみません!」

 私は慌てたように彼女の元へとしゃがみ込む

「大丈夫ですか?」

「あ、ああ……問題ありません」

 ちょっと奇妙な言い回しと共に彼女は立ち上がり、購入物を拾い出す。その様子を見る限り、怪我はなかったようだ。本当は軽い怪我でもしてくれた方がスムーズに事が運んだが、しかたない。そこまでの幸運は期待できない。

「手伝います!」

 私は言って、一緒に拾おうとする。けれどそもそも購入品が少なかったようで、ほとんど手助けにもならずに終わった。

「本当にすみません」

 私の謝罪に「いえ、大丈夫です」と返す彼女の姿は凛としている。そして去りかける彼女に対して、私は大声を上げた。

「あの!」

 振り返る彼女。私はすらすらと一息に言った。

「もしよければ、お詫びにお茶でもしていきませんか?」


 近所におしゃれなカフェがあることは事前に調査済みだった。案内された席に座る、私と彼女。

 彼女の返事がイエスであるかどうかが最大の勝負どころだった。断られてもおかしくないところ、彼女は「いいですよ」とあっさり言った。内心の安堵を、気取られてなければ良いけれど。

 香りの良い紅茶を飲みながら、私たちはいろいろな話をした。主に普段の生活についてだ。

「じゃあ、学校行ってないんだ」

「ああ。あの部屋で毎日曲作りしてるよ」

 同い年であると発覚してからは自然と二人ともタメ口になった。彼女はフランクで人当たりが良かった。正直なところ、予想外ではあった。その見た目から、もっと臆病で孤高な印象を受けていたから。

「もし、良ければだけど……」

 私は予定していた言葉を最後に言った。

「私たち、友達になれないかしら?」

 その言葉に、彼女はニコッと笑う。

「ああ、もちろん!」


   *


 ねねね子に会いに行くのは、決まって水曜日の放課後だった。彼女の部屋は本当に音楽を作るためだけに作られたという感じで、私には正直理解不能だった。

「やあ、森野さん。今日はギターのリフを延々作っていてね」

 曲についての話をする彼女は心の底から楽しそうで、私はちょっとうらやましくなる。ここまで夢中になれるもの、私にも手に入れられるかしら?

 作りかけの曲を聴かせてもらう。

「あら、このサビ、男性の声が入ってるわ」

 短い間だけれど、良いアクセントとしてそれは挿入されていた。彼女のセンスの良さを感じさせるが、それは今問題ではなくて、重要なのはその声が男性のものであるという事実だ。話を向けやすくなって助かった。

「ああ、それは松永君の声だね」

「松永君?」

 私は知らないふりをする。

「そう。なんて言ったらいいのかな、私のパートナーだよ」

「あら、彼氏がいたのね」

「違う違う、そういう関係ではないよ。まあ……大切な人なのは、間違いないけどね」

 そう言う彼女の瞳は、言葉とは裏腹に恋する乙女のそれにも見えないこともない。

「その男の子の話、もっと聴かせてもらえるかしら」

「いいよ、もちろん。彼は私の歌が大好きと言ってくれてね……」

 彼女曰く、いきなり「会いたい」とメールが来たのだとか。ファンから直接言葉をもらうなんて機会そうそうないから、気をつけつつも実際に会ってみて、そして意気投合して、今では週末には必ずこの部屋に来るまでの関係になっているという。

 なるほど。矛盾のない内容だ。

「いつか紹介してあげるよ」

「それは楽しみだわ」

 本当に、ね。


 また別の水曜日。

 例によって二人で話をしていると、ピンポンとチャイムが鳴り響いた。その瞬間にねねね子の顔がちょっと曇るのを、私はしっかり見逃さない。

「誰?」

「おそらく、いつものライターだろうな……」

 ライター?

 彼女はインターホンの前まで行き、スイッチを押して会話を始める。何度も言ってますが、関係ありません。お帰りください。だから、無関係なんですって。しつこいですね、あなたも。とにかくもう来ないでください。

 やりとりは一分ほどだっただろうか。相手はあきらめて帰ったらしく、ねねね子は「はあっ」と盛大にため息をついた。

「どうしたの?」

「いや、ちょっとね……」

 めずらしく言葉を濁して、彼女は詳細を語らなかった。

 なるほど。

 迷惑なライター、ね……。

 これは使かもしれない。


 水曜日に押し掛けてきたのだから別の平日にも押し掛ける可能性は高いだろう。私は部活に入っていないのを良いことに、塾のない平日は全てねねね子の部屋を見張った。背の高い男性が現れたのは、翌週の月曜日だった。例によってインターホンで押し問答が続き、彼は顔をしかめて去っていく。その後ろを私は追った。ポンポンと彼の肩を叩くときは、流石に少し度胸が要った。

「ん? なんだい、ねえちゃん」

 ぶっきらぼうな態度だ。

「ちょっと話をしませんか?」

「話って、何を」

「私、ねねね子の友達なんです」

 その言葉に、男の目の色が変わった。


 近所の寂れた喫茶店に入るなり、彼は「良い店だな」と言った。

「何より誰も客がいないのが良い。秘密話をするにはもってこいだ」

 カウンターから遠くの席に座り、私はアイスレモンティーを、男はホットコーヒーを注文する。

「暑くないんですか?」

「コーヒーはホットに限る主義なんでな」

「そうですか」

 私はそもそもコーヒーなんて飲まない。ホットとアイスで何の味が違うのかもよくわからない。

「で、ねえちゃん」

 カップ内の黒い液体を三口ほどすすってから、彼は切り出した。

「どこまで知ってる?」

「いえ、何も」

「じゃあどうして俺に声かけてきた」

「興味があったんです。あなたが何を追いかけているのか」

「そうかい。でも俺がベラベラ話すとは限らねえぞ」

「もちろん、私もねねね子に関する話はします。それに、私に近づけば、ねねね子に近づけるチャンスも増えるでしょう。その程度の利にもすがりたいほど、あなたは一生懸命なように見えます」

「……なんだか怖いもの知らずって感じだな、あんた」

「いえ、これでも緊張しています」

 これは本音。

「まあいい。話してやろうじゃないか」

 そうして彼の話が始まった。


「例の連続殺人事件、あんたも知ってるだろう」

「麻袋事件ですわね」

「そうだ。俺は独自にあれの真相を追っていてな。あの事件には奇妙な点がある」

「奇妙な点?」

「ニュースでもやってただろう。ほぼ全てのケースで、犯行現場と死体遺棄現場が異なるところだ。そんなことをする意味がない。あと一回のケースだけ手首を切り落とされていたのもよくわからない」

「たしかに、変ですね」

「だがそれよりもだな、もっと不可解なのは最新の殺人だ。このときだけは、なぜか二つの死体が同時に発見された。しかも、そのうち片方だけはその場で殺されている。これは血の出方から間違いない」

「……」

 私には特に言う言葉がない。

「そんな魅力的な謎に満ちていて、その上で警察がまだ真相をつかめていない。というわけでしがないフリーライターとしては追いかける価値のある事件というわけさ」

「あわよくば真相を究明して、一攫千金を得ようと」

「まあ、そういうことだな」

「それとねねね子になんの関係があるんですか?」

 私は当然の疑問を口にする。

「大ありなんだな、これが」

 言って男は鞄から一枚の紙を取り出した。

「この表を見てくれ」

 表の左側に並んでいるのは、ねねね子の曲のタイトル。

 右側に並んでいるのは、麻袋事件の死体遺棄現場。

「な?」

「な? と言われましても」

「わからないか? 両者のほとんどが符合している事実を」

「……言われてみれば、たしかに」

「しかもだ。調べたところ、ねねね子の曲がネットにアップされてから必ず数日以内に事件が発生しているんだ。明らかに意図的だ」

「……」

「もちろん、ねねね子みたいな少女があんな連続殺人をやってるとは思ってない。だが何らかの関係はあっておかしくない。だからこうして、押し掛けみたいなことをやってるわけだ」

「よくねねね子の部屋がわかりましたね」

「連絡先は公開されているからな、ファンの振りをして『会いたい』とメールしたんだ。で、約束の場所を指定させて、その場所を張って。彼女は現れてから三十分ほど待ってたが、あきらめて帰っていった。その後を付けていったと。これくらいは簡単な仕事さ」

 つまり私と同じようなことをしたわけだ。

「……ねねね子の反応は?」

「梨の礫だよ。知らぬ存ぜぬの一点張りさ。逆に怪しいんだよな、あの態度は」

「本当に何も知らないのかもしれませんよ」

「それはそれで、話くらい聞かせてくれてもいいもんだろ」

 男は言うが、もちろんそれは身勝手な理論でありねねね子にとっては迷惑そのものだろう。それを承知の上で押し掛けているところに彼の傲慢さがある。

 ま、それはそれでかまわないけれども。

「そこまでわかっているのなら、充分記事になるんじゃないですか」

「あと一押しが足りねえのさ。証拠もないただの推論だしな。せいぜい三流雑誌が買い取ってくれるくらいのもんだよ、まだ」

「そんなことはないでしょう。きちんと書けば」

「……正直に言うとだな、嬢ちゃん。俺は真犯人をきちんと発見したいのさ。そこまでやって、ようやく本当のジャーナリズムってものじゃないか」

「……それは難しいと思いますけれど」

「んなこたわかってんだよ。最終目標ってやつさ」

 言って、彼はカップに残ったコーヒーをごくりと一気飲みする。

「冷えたコーヒーほど不味いものはねえな。そう思わないか、嬢ちゃん?」

 笑う彼に、私は言葉を返さない。

「……さて、と。嬢ちゃん、今度はあんたの番だ」

「話せることなんて、やっぱりありませんわ」

「何かあるだろ、何か」

「ねねね子は麻袋事件のことなんて口にしたこと、一度もありません。ただ曲作りの話ばかりしています」

「……そうかい」

 露骨にがっかりした表情のライター。

 そのとき、私の脳裏にピンとひらめくものがあった。

「あの、おうかがいしたいのですが」

「なんだよ」

「ねねね子の部屋、週末に訪れたことはありませんか?」

「週末? ねえよ。土日は休みと決めている」

「その休みを返上して、週末、日曜日に行ってみることです。そうすると、もしかしたらおもしろいことになるかもしれませんよ」

「それは……どういう意味だい?」

「行けばわかります」

 彼はしばし思案したあと、「わかった。そうしてみるよ」と口にして、伝票を片手に席を立った。そして胸元から一枚の名詞を取り出して私にピンと投げてよこした。

「俺の連絡先だ。あんたの連絡先もできれば交換しておきたいんだがな」

「良いですよ。奢っていただけるお礼です」

「助かるよ」

 本当にそう思っているのかどうかは怪しい。

 そうして彼は去っていき、あとには氷の溶けきった薄い紅茶だけが残った。


   *


 そして翌々週の水曜日。

 ねねね子の部屋を訪れると、めずらしく彼女は深刻そうな顔をしていた。

「どうしたの?」

「いや……なんでもない」

 どう見てもなんでもなくはないと思う。

「暗いわよ、雰囲気が」

「うん、ちょっと、君には関係のないことでね……ごめん」

「謝られる筋合いはないわよ」

 私は彼女の横に座って肩を抱くように叩いた。

「ねえ、話してみてよ。話すだけで心が軽くなることだってあるんだから」

「いや……でも……」

 彼女はかなり長い間迷っていた。けれど最後には、意を決したように私の瞳を見据えた。

「わかった。話すよ」

 それはとても単純な話だった。

「週末に、あのライターがやってきたんだ」

「週末って、この間の日曜?」

「ああ。いつも平日にしか来なかったのに、なぜだか急に。そのとき、部屋には私と、松永君がいた」

 そう、週末のこの部屋には、必ず松永君がいる。

「松永君には前にあのライターについて話してあったんだ。迷惑に思っていることも。だから、そのとき彼は率先してインターホンに出た。のみならず、玄関を開けて直接男と会話をした」

 その内容は、あまり聞き取れなかったらしい。

「まあ、私と同じで『迷惑だ』ってことを繰り返したのだと思う。だが相手は引き下がらず、結局、次の日曜の夜、二人きりで会うことになったそうだ」

「別にいいんじゃないの。危険なことなんて何もないでしょ」

「だといいんだが……」

 そう言って彼女はまた黙り込む。傍目にも動揺や後悔の色が見て取れた。

 ふつうに考えれば、だ。

 ライターが麻袋事件とねねね子の曲との関連性を松永君に伝えたところで、松永君は「そうなんですね」と驚いて終わりだろう。特別なことは起きないはずだ。心配することなど何もないように思える。だが、ねねね子の態度がそう言っていない。

 ということは、何かあるのだ。

 彼女(とおそらくは松永君も)が、胸に秘めている事柄が。

 ただ私は、それを無理に聞き出したいとは思わなかった。きっとねねね子は、ちょっと友達になったくらいの私には何も言ってはくれないだろうし、そもそも彼女を苦しめることは私の本意ではなかった。

 その日、私はすぐに彼女の部屋を後にした。

 目的は充分に達したから。


   *


 翌々日、金曜日の放課後。私はカナメを例のおしゃれなカフェへと誘った。

「めずらしいじゃん。あんたから誘ってくれるなんてさ」

「ちょっと、頼みがあるのよ」

 私は鞄から細長い封筒をふたつ取り出す。そこにはそれぞれ別の住所が記載されていて、きっちり切手も貼り付けられている。

「これをね、預かってほしいの」

「預かるって、普通にポストに入れればいいじゃん」

「それじゃあ駄目なのよ」

 私は頬杖をついてカナメの顔をじっと見た。

「もしもね、私に何かがあったときに、それを投函してほしいの。頼みごとはそれだけ」

「はあ?」

 カナメはキョトンとした顔をする。

「何それ。ドラマの真似事?」

「真剣なお願いなのよ」

「またまたぁ」

「本当よ」

 私の言葉のトーンに、深刻なものを感じ取ったらしいカナメはしばし黙った。

「……何か危険なことでもしてるの? あんた」

「まあ、ちょっとね」

「昔から変わった奴だとは思ってたけどなあ」

 カナメは封筒をためつすがめつ眺める。天井の電気に好かしたりもしていたけれど、きっちり中が見えないようにしてあるから、何もわからなかったことだろう。

「いいよ。預かるのは預かる。でも、危ないことはしちゃ駄目だからね、ほんと」

「わかってる」

 そう私は嘘をついた。


 カナメと分かれた後、近くの公園に立ち寄った。ブランコに座り、きこきこ体を揺らしながら私は反芻する。これまでの行動と、そしてこれからの行動を。

 危ないことはするなとカナメは言った。

 実際のところ、私の身に危険が迫る可能性は五分五分といったあたりだろう。その見積もりにはそれなりの根拠と自信がある。

 私は立ち上がってパンと頬を張る。

 全ての準備は整った。

 いざ、最後の大勝負へ。 


   *


 日曜日の夕方。私は物陰から松永君の家を見張っていた。程なくして玄関を開ける音がして、リュックを背負った松永君が現れた。遠目にもわかるほど、強ばった顔をしている。戦いに赴くスポーツ選手のような雰囲気だ。これが本当にスポーツであればどれだけ平和なことか。

 私は例によって彼を後ろからストーキング。バレていない自信は通常以上にある。だって彼はそれどころではないだろうから。

 やがてたどり着いた場所は、私にも見覚えがあった。小さな鳥居が出迎える、そう、守河かみがわ神社だ。この場所を指定したのは、おそらく松永君の方だろう。

 少し前までは殺人現場としてキープアウトされていたこの境内も、数ヶ月経った今は静寂を取り戻し、単なる辺鄙な神社として誰でもお参り可能となっている。

 薄明かりの下、彼は立って待つ。私はちょうど良い物陰へと潜り込む。距離は少し遠いが、何とか彼の表情は読める。声も聞こえるだろう。

 しばらくして、ざっざっと足音が響いてきた。現れたのは背の高いあの男だ。対峙する二人。

「やっぱり小さすぎるよな、この神社」

「来るのは初めてじゃないんですね」

「もちろん。麻袋事件の死体遺棄現場は全部回ったよ」

「さすが、ライターですね」

「まあ何の収穫もなかったけどな」

 男は自嘲気味に笑った。

「で、どうしてこんな場所指定したんだ? よほど他人に聞かれちゃ不味いことでもあんのか」

「それはそっちがそうでしょう」

「まあそうなんだけどよ、何だか怪しくてな」

 その言葉に、松永君は返事を返さない。

「ま、とにかく、さっさと用事を済ませようぜ。情報交換だ」

「まずはそちらからお願いします」

「ああ、いいぜ」

 そして男は語り出す。ねねね子の曲と麻袋事件の奇妙な符号について。

「ねねね子の曲、どこで知ったんですか?」

「単なる偶然だよ。暇な時にホクホク動画の新着見てたら、興味深いタイトルの動画があってよ。『私と君が五回ずつ』って、何か気になるじゃねえか。クリックしてみたら、女の声の曲が流れ出して。わりと良い曲だよな、あれ」

「わりとじゃないです。すごく良い曲です」

「そこまでかねえ。ま、とにかく、それでその女性シンガーが気になって過去の動画を追いかけて見たら、ビンゴ、ってところだな。元々ライターの仕事として麻袋事件は調べたことがあったから、頭の中にたたき込まれてたしよ」

「なるほど。じゃあ特にねねね子のファンというわけじゃないんですね」

「まあ、そうだな」

「そうですか。安心しました」

「安心?」

「ええ。ねねね子のファンを殺すのは、少し心苦しいですから」

 言うが早いか、彼はポンと跳び出した。懐に隠し持っていたスタンガンをライターの胸元へと当て、バチンと一発。男はぐあっと大きな声を上げ、その場に倒れた。その背中へ、駄目押しの一撃。放電の様子がこの距離からでもはっきりと見て取れた。

 松永君は横倒しの男の横腹を一、二度蹴りつける。目覚めず動かないことを確認すると、しゃがみ込んでリュックから大きなナイフと麻袋を取り出した。

 ナイフを両手に持ち、目をつむる松永君。そして彼は、音もなく、声も上げずに、男の心臓付近へナイフを差し込んだ。そのまま続けて、体幹部をまんべんなく刺した。計十一回だ。血がドクドクとあたりの砂利を汚している。その死体の足側から、麻袋をすすすっと入れこんだ。最後に、血で汚れた服を脱ぎ、リュックから取り出した服に着替えた。

 全部が終わるまで、十分もかかっていない。手慣れた作業とすら私には思えた。

 はあっと大きく息をひとつついて、松永君が立ち上がる。その瞬間を、私はスマートフォンで写真に撮った。当然、パシャッと音が鳴る。わざとそうしたのだ。

 ハッとした顔の松永君があたりを見回す。

「……見事な手際ね。ほんと、惚れ惚れするくらい」

 私は言いながら彼の目前へと現れる。

 ようやく。

 ようやく、私が舞台の主役へと躍り出る瞬間が訪れたのだ。


「おっと、私に危害は加えないほうが良いわよ。もし私に何かあったら、マスコミとねねね子に手紙が行くよう、友達に頼んであるから」

「……なんで」

 なんでおまえがここにいるんだ。

 そう言いたかったのだろうが驚愕に支配された松永君は口をパクパクさせるだけだ。私の存在が、あまりに意外すぎたのだろう。

「うーん、そうね。森野ってわかるかしら?」

「森野? ……最近ねねね子に出来た友達がそんな名前だったが、まさか……」

「そう、その森野。それね、私なの」

「偽名なんか使いやがって」

 余裕のなくなった彼は言葉も多少乱暴になっている。

「どういうことなんだ。ねねね子に近づいて、今ここにいて。手紙の用意とかしてるってことは、ここで今日何が起こるのかも薄々わかっていたんだろ」

「まあね」

「どこまで知ってる? 何が目的なんだ、復讐か?」

 復讐、という言葉が麻袋事件の真相を暴露してしまっていることに、彼は気づいているのだろうか。

「どこまで知ってるかって? 全部よ、全部」

「全部?」

「そう。パパが犯人ってことも、あなたとねねね子がパパを殺したってことも、全部知ってる」

 私は笑顔で言う。

「……な、」

 何で。

 そう絞り出すかのように答えた松永君に向かって、私は答える。

「だって見てたもの。この目で、全部」


   *


 夜出かけるパパをストーキングするのが、私の趣味だった。

 大抵はタバコを買いに出かけるだけ。それを見つからずに後ろからついていくことそのものに、私は面白味を感じていた。

 それが一変したのが、あの日。

 パパは深夜、みんなが寝静まってから(私は寝たフリだったけど)家を出た。いつもと違って大きめの鞄を抱えていた。コンビニを素通りして、どんどん人気のないところへ進んでいった。そして、通りがかった女性にいきなりナイフで襲いかかった。十回くらい刺して、返り血で真っ赤になりながら、何だかその表情は笑っているみたいだった。死体を麻袋に入れて、それでT駅前の猫の像の下まで運んでいった。他の人に見つからなかったのは幸運立ったと思う。こんな地方の都市とはいえ、駅前には誰かいてもおかしくなかったから。

 その一部始終を、私はパパに気づかれないよう、パパの後ろから見ていた。終わったらパパより早く走るように家に帰って、ベッドの中で震えていた。もちろん怖かった。目の前で殺人が、しかもパパの手で行われたなんて、あまりに異常すぎて。でもそのとき、もっと大きな感情に私の脳が支配されていること、気づいてしまった。

 私、面白がっていた。

 人が殺されるのを、この目で見ること。


 それから私は、パパの殺人を全て目撃した。いつしか恐怖心はなくなって、楽しさだけが残った。頻度は数ヶ月に一度で、もっと多くてもいいのになんて、そんなことすら思っていた。

 そんな折り、たまたまパパと話す機会があった。偶然、食事の時間が一緒になったのだ。

「なあ、香織」

「何?」

「この曲、知ってるか?」

 そう言ってパパはスマートフォンで動画を再生した。それは情念がこもっているような女性の声が特徴的な曲だった。

「知らないわね」

「そうか。ねねね子って人の、『その手を止めて』って曲なんだが」

「だから知らないって」

「そうか……」

 それで会話は終わった。

 数日後、パパはまた殺人を行った。もちろん私も見ていたのだけれど、パパはナイフで刺し終えた後、いつもと違う行為をした。ノコギリを取り出して、死体の右手首を切り取り出したのよ。

 どうしてそんなことをする必要が?

 そのとき私の脳裏に、パパの声がフラッシュバックした。

「ねねね子の『その手を止めて』って曲なんだが……」

 その手を止めて。

 まさか、

 翌日、私はすぐにねねね子について調べた。ホクホク動画で細々と活動しているシンガーソングライター。わかったのはそれだけ。でも、アップされた曲のタイトルを見て、私は思わず大声を出した。全部、パパが死体を棄てた場所と符合してたのよ。それで一本の線でつながった。パパは、ねねね子の曲を聞いて、それで殺人を行っているのだと。

 まあ、だから何だって話なんだけれど。

 私としてはこのままパパが殺人を続けてくれればそれで良かったしね。


 そして、あの、八回目の殺人の日。

 いつものように死体入り麻袋を背負い込んで、パパは小さな神社へと向かった。そこには華奢な少女が待ちかまえていた。

「私がねねね子だ!」

 それからいろいろあって、パパは少女と少年の二人に倒された。驚いたのは、少年が学習塾のクラスメイトだったこと。とんだ偶然もあるものだ。

 動かないパパを見て、ついに年貢の納め時かな、なんて思ったら、なにやら二人がごにょごにょ話をしている。

「このままこの男が捕まったら、君の歌はどうしても殺人と結びつけられてしまう。純粋に聴いてもらうことが、金輪際なくなるんだよ」

「それはそうだが……」

「迷う必要なんてない。今ここでこの男を殺せば、間違いなく麻袋事件のひとつとしてカウントされる。それで事件は迷宮入りして、君の歌がけがされることもなくなるんだ」

 そんな会話が私の耳に入ってきた。

 そして少年は落ちていたナイフを拾い上げ……


   *


「……まさかあの場に、もう一人いたとはね」

「驚いたでしょう」

「ああ、本当に」

 彼は頭をぶんぶんと振る。

「それでつまり君は父親の復讐として、こうして殺人現場の証拠を手に入れたわけか」

「え?」

「それを警察に渡して、僕とねねね子を捕まえさせるというシナリオだろ。ライターが急に週末に訪ねてきたのも、おそらくは君の引き金だ。僕とライターをはち合わせるためにね。良くできた作戦だ。まんまと僕は引っかかってしまった」

 彼の言葉に、私はにやりと笑う。

「まあ、半分正解ってとこかしら」

「半分?」

「そう。あなたがライターを殺すようにし向けたのはその通りよ。あなたはねねね子の歌が麻袋事件と結びつけられることを過剰に恐れている。だから、あのライターの話をあなたに聞かせれば、あなたは必ず殺意を向ける。そう考えたのよ」

「全くもってその通りだったよ。僕はもう覚悟している。まあ、ねねね子のことは口が裂けても警察には行わないけどね」

「だからそこが間違いなのよ」

「間違い?」

「私、警察に言う気なんてこれっぽっちもないから」

「へ?」

 きょとんとする彼。

「私が好きだったのは、殺人をしているパパのその姿なのよ。パパそのものは、そこまで好きじゃない。いなくなったって、家計がちょっと大変になるくらいのことだわ。だから、あなたを恨んでなんて全然ない」

「じゃあ、どうして……」

「理由は二つあるわね。ひとつは、単純にまた殺人の様子が見たくなったから」

「狂ってる」

「あなたに言われたくないわよ。それでね、もう一つの理由は……」

 私はどことなく怯えている松永君の顔をじっと見据えて、高らかに言った。

「松永君、あなたのことを愛してるから!」


 あの日あのとき、パパを殺す松永君の表情を見て、私は一目惚れしてしまった。塾の席替えで隣同士になったときは本当に嬉しかった。ねねね子の歌はそんなに好きになれないから趣味は違うけれど、でもそれくらいどうってことない。好きな気持ちに理由なんて必要ない。ないのだ。


「松永君、私と付き合ってください。ゆくゆくは結婚してください」

 これは、脅しだ。

 恋人にならなければ、麻袋事件の全てを世にバラすぞと、そういう含みを込めての告白なのだ。

 そうでもしなければ、彼は私のものにならないと思った。

 だって、きっと松永君は、ねねね子のことが好きだから。

 松永君は、これまで見たことのないような奇妙な表情をしていた。そして、顔をグニャリと歪めると、私に負けないくらいの大声で笑い始めた。

「あはははは……そんなこと、お安いご用だよ。恋人でも夫婦でも、何でもなってあげる」

「へえっ?」

 今度はこっちが驚く番だった。

「いいの? ねねね子のことが好きなんでしょ」

「ああ、好きだよ。でも僕たちの関係は恋愛なんて陳腐なものじゃ語れない。もっと崇高で尊い関係なんだ。元々彼女と恋人になる気なんて微塵もなかった。だから君は、こんな手の込んだことしないで、ただ僕に言えば良かったんだ。『付き合ってください』って、一言」

 そんな。

「そんな馬鹿な話ってないわ!」


   *


 とにもかくにも、こうして私には恋人ができました。そんなにイケメンじゃないけれど、真面目で誠実な人柄です。

 ねねね子も祝福してくれました。彼女こそ松永君に恋してたのかと思ったけれど、きっとその気持ちは奥底にしまい込んでくれたのね。ごめんなさい。彼女にはいつか謝罪しないといけないかもしれない。

 日々は平穏に過ぎていきます。この間は遊園地にデートしに行きました。彼は全然楽しんでない風だったけれど、私は楽しかったから、まあ良いかな。

 あれから一度だけ、秘密の写真が増えました。彼が人を刺している瞬間。麻袋に詰め込む瞬間。私はスマートフォンのシャッターを切ります。死体の男はねねね子と麻袋事件の符合について雑誌にリークする直前でした。危ないところでした。それからはもう、そういったことは起こっていません。


 そうして私たちは高校を卒業して、すぐに結婚式を挙げました。

 一年後には、子供も授かりました。

 幸せです。

 毎日が幸せです。

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