ねんねんころりよねころりよ

水池亘

第一章 殺人少女とシング・ア・ソング

 初めて目にした彼女は、華奢で、小柄で、子供のような顔をしていて、とても何人もの人間を殺しているようには見えなかった。


   *


 僕には心から楽しいと思えるものが一つだけある。

 学校から帰宅すると僕はすぐにパソコンの電源を入れ、ブラウザを立ち上げる。数秒して、ホームに設定されたサイトが自動的に表示される。それは純日本製の巨大動画投稿サイト「ホクホク動画」だ。画面上にコメントをつけられるシステムがウケて、今や全国的な知名度を獲得している。

 トップに表示された人気動画一覧には目もくれず、僕は「お気に入りユーザー」のリンクをクリック。そこに登録されているユーザーは、一人しかいない。

 投稿者名・ねねね子。

 数時間前に、新しい動画が投稿されていた。

【オリジナル曲】アフリカ象のそばで寝る


 ねねね子はホクホク動画でひっそりと活動するシンガーソングライターだ。

 一年ほど前から彼女は動画の投稿を始めている。頻度はだいたい二ヶ月に一度。今回の投稿が七作目になる。

 その映像はとてもシンプルなもので、のっぺりとした黒一色の背景に、申し訳程度に堅いフォントの歌詞が表示される。それは、映像は主役ではないという彼女の決意表明であるように僕には感じられた。

 主役は疑いようもなく、曲だ。

 曲調は様々で安定していない。ピアノの弾き語りがあるかと思えば、次の曲では一転して激しいロックが繰り広げられる。全編打ち込みで作られたテクノポップもあった。良く言えば引き出しが多く、悪くいえば節操がない。

 そしてその全てに、彼女の歌が乗っている。

 彼女はいわゆる歌の巧さで魅せるタイプの歌手ではなかった。素人である僕の耳にも、所々音程が外れている様がはっきりとわかった。

 だが、そんなことは関係ない。

 それほどに、彼女の歌には魂が込められていた。凛とした信念があり、生々しい情念があり、時には全てを投げ捨てるような諦念があった。そこにいるのはまぎれもなく一人の人間だった。


 歌われたい 奪われたい

 浮かばれない 覗えない

 もしも君が許すのならば

 いつか地獄で生きるまで遊ぼう


 その歌詞には意味の読みとれない部分も多かったが、確固たる世界が存在しているような気がして、僕はそれをのぞき見るのがとても好きだった。


 彼女を知ったのは、単なる偶然だ。

 たまたま見ていた某ツイートサービスで、ハネアリという名のユーザーが一言、「ねねね子の歌は世界を変える」とつぶやいていたのだ。

 世界を変える?

 僕は鼻で笑ったが、ほんの少し気になって、そこに張られていた動画のアドレスに飛んだ。

 結局、認めなければならないのは、そのツイートが真実だったということだ。

 なぜだか知らないがツイートは一時間も経たないうちに削除されたので、僕がそれを目にできたのは本当に奇跡的なことだといえた。


 現状、ねねね子の存在を知る人は少ない。

 動画の再生数はどれも100前後、お気に入り登録数も片手で数えるほど。コメントは一つもないことすらある。膨大な量存在する投稿動画の陰に埋もれた一片であるという事実は、認めないわけにはいかなかった。

 だが、彼女は大きな人気を獲得し日の当たるべき存在だと僕は確信していたし、それは遠くない未来だろうという予感もあった。

 それは僕にとってとても嬉しいことであり、同時にどこか寂しさを感じることでもある。

 世界の片隅の片隅で、僕だけが彼女を応援していたい。

 今は、まだ。


   *


「また殺人事件だってよ」

 二日後の昼休み。質素な弁当を食べ終えた僕がぼうっと机の溝をなぞっていると、どこからか物騒な会話が聞こえてきた。

「あれだろ。例の連続殺人」

「そうそう。すげーよなー。これでもう一年だぜ」

「七人目だっけか」

「全部この街の近くってのが怖いよな」

「おめー、全然怖がってねーだろ」

「へっへっへ。今回はT動物公園の入り口前だってよ。見に行くか?」

「どーせ警察が囲んでてまともに見れねーぞ」

「まーそりゃそーか。ってか警察はなにしてんだろーな。全く捕まる気配もねーぞ」

「それだけ犯人が上手うわてってことだろ」

「殺人の天才かあ。うらやましーわ」

 T市連続無差別殺人死体遺棄事件。

 通称、麻袋事件。

 それはこの街を一躍有名にした恐るべき事件だ。今、この国で知らないものはいないだろう。

 被害者の全員が全身を刃物で十回前後突き刺され、大きな麻袋に詰め込まれた状態で発見されている。被害者に関連性はなし。十代から五十代まで、男女も入り交じっていて、法則はないように見える。発見箇所もばらばらだが、T市付近に集中している。犯行の頻度はだいたい二ヶ月に一度。

 その猟期的な手口と、警察にしっぽをつかませない巧みさが話題となり、今ではほぼ毎日テレビで報道されている。もちろん僕も事件はチェックしている。おそらく、誰よりも熱心に。

 犯行において不自然とされているのは、殺人現場と死体遺棄現場が一致していないことだ。刃物で人をメッタ刺しにすればもちろん大量の出血がある。しかし死体発見現場にはその痕跡が全く見られない。つまり犯人は殺した人物をわざわざ麻袋に入れ、別の場所に運んだ上で遺棄していることになる。ただ殺すことだけが目的なら、そんな無駄に危険を増すような真似はしない。ここには犯人の意図が必ず隠れているはずだ。そんなもっともらしい推論をニュースでは披露していた。しかしその先には誰もたどり着いていない。

 僕を除いて。


 被害者は、現時点で

 事件の発生する日時は、

 そして、


   *


 ねねね子さんへ。


 突然のメール、お許しください。

 僕はあなたの一ファンです。

 毎日あなたの曲を聴いて過ごしています。


 僕は、あなたが何を行っているのか、知っています。

 一度お会いしてお話をしたいのですが、よろしいでしょうか。

 良い返事がいただけない場合、僕はしかるべき処置を取らねばならなくなるでしょう。


 もう一度言いますが、僕はあなたの曲がとても好きです。

 このことだけは、信じてください。


 松永良介より。


   *


 数日経って、返信が届いた。

 今週の日曜日、午後三時、T駅前の猫の像の下で、赤い服を着て待つ。

 ただそれだけが書いてあった。


   *


 正直なところ、本当に彼女が現れるのか、半信半疑だった。

 返信をしたということは、まるきり無視はできないという判断があったのだろうが、思い直して姿を見せない、あるいは陰に隠れて僕の容貌だけ確認する、ということは充分にあり得る。

 まあ、仮に彼女が現れなかったとしても、『しかるべき処置を取る』気なんて僕にはさらさらないのだけれど。

 話を持ちかけた方が遅刻をするわけにはいかないので、目的地には三十分ほど早めに着いた。だが既に彼女はそこにいて、像のふもとに飾られた花束をじっと見つめていた。

 鮮血をイメージさせられるほどに鮮やかな紅色のワンピース。

 他に赤を着た人物は一人も居なかったので、僕は彼女が彼女であると判断する他なかった。たとえ、どんなに信じられないとしても。

 まずもって彼女は背が低い。目算だが、百五十に届くかというあたりだろう。そして線が細い。痩せていると言っていいくらいの体だ。横顔で見る表情は、幼い。美人であるのは間違いないが、綺麗というよりはかわいいという顔だ。ただ、瞳だけがやけに鋭く、全体的に柔らかめなパーツの中で異彩を放っていた。

 どう見積もっても、僕より年下だ。中学生、いや、大人びた小学生にすら見える。

 ぼんやりと思い浮かべていた姿と、何もかもが違っていた。

 もっと大柄で力強い大人の女性だと想像していた。そうでなければ、あんなことはできるはずがない。

 僕が呆然と立ちすくんでいると、彼女は視線を感じ取ったのか、ふっとこちらを向いた。腰まで伸びたストレートの黒髪が日光に照らされて美しくきらめいた。

 鋭い眼光が僕を襲う。

「メールくれたのは君か?」

 その声は、動画の歌声と似ているようでもあり、まるで別物のようでもあった。

「あ、は、はい」

「ふむ……」じろじろと僕を眺め回す。「学生か?」

「こ、高一です」

 つい丁寧語になってしまう。

「名前は?」

「な、名前って……」メールに書いたはずだが。「松永です。松永良介」

「それは偽名だろう。私は本名が知りたいんだよ。まあ教えてくれないのはわかっているが」

「いや、本名です。本当に、松永って名前なんです」

「しらばっくれるな。あんな脅迫メールに本名を載せる馬鹿がどこにいるというんだ」

 ここにいるわけなのだが。

 埒があかないので僕は学生証を見せた。

「……偽造じゃないだろうね」

「そんな技術は持ってません」

 彼女はしばし学生証を検分し、呆れたようにため息をついた。

「なんで本名なんて書いたんだ。君、そんなに馬鹿じゃないだろう」

「いや、だって」

 僕はあたりまえのように言う。

「失礼じゃないですか。面識のない人間にメールを送るのに、偽名を使うなんて」

 その言葉を聞いて彼女は目を丸くした。そして数回瞬きをすると、体をぐっと丸めた。

 爆笑。

「あっははははははははは!」

 それは驚くほど大きな声だった。

「あ、あんな脅しをしておいて、失礼! 失礼だなんて! あっははははははははは!」

 彼女は激しく笑い続けた。見ると、涙まで流している。何か知らないが、僕の言葉が彼女のツボに入ってしまったらしい。周囲の人々が何事かとこちらの様子をうかがっているのが感じられて、僕はかなり恥ずかしかった。

「あはははは……はあ……はあ……」

「大丈夫ですか?」

「誰のせいだと思ってる」

「す、すみません」

「まあ、いい……」

 彼女はようやく気を落ちつけると、パンと一度頬を叩き、そして僕を見てにやっと笑った。

「いろいろ訊こうと思っていたんだが、やめた。君、おもしろいな」

「はあ……」

 そう言われて、悪い気はしないが。

「さあ、行こうか」

 彼女はおもむろに道を歩き始める。

「え、行くって、どこへ?」

「決まっているだろう。私の家だ」

「はあ?」

 僕は変な声を上げた。

「大丈夫だ。一人暮らしだし、防音設備も完璧だからな」

「いや、そういう問題じゃあ……」

「だって、あの話をするんだろう? まさかファミレスや喫茶店なんかでできるわけがないじゃないか」

「それは……」

 その通りだった。


   *


「ねねね子さんは、麻袋事件の犯人ですね?」

「そうだ」

 即答だった。

 完全なる防音設備を備えた部屋で、無数の楽器類に取り囲まれながら、僕は彼女と向き合っていた。

「あっさり認めるんですね」

「まあな」

 そして鋭く僕の目を見抜く。

「どうして気づいたんだ?」

「そんなこと、あなたにはわかりきってるでしょう」

「いいじゃないか。正解かどうか、確かめてあげよう」

 僕はため息をついた。

 どう考えても釈迦に説法なので気は進まなかったが、他ならぬ彼女の希望とあってはしかたがない。

「初めに違和感を覚えたのは、五件目の殺人が行われたときでした。事件は必ず、あなたが新しい動画を上げてから一週間以内に発生している。その事実に僕は気がついたんです。それだけなら単なる偶然かもしれません。ですが、死体発見現場の一覧をニュースで見たとき、僕は確信せざるを得ませんでした」

「やはりそこまでわかっているのか」

「そうじゃなかったらあんなメールは送りませんよ。あなたの曲のタイトルは、投稿順に『T市の孤独な硬い猫』『狭すぎる庭』『湖で君は溺れる』『その手を止めて』『交番の中に闇』『プールサイドの小学生』『アフリカ象のそばで寝る』。対して死体発見現場は、発生順に、T駅前の猫の像の下、アパートまきば荘の庭、摩周湖のほとり、H区三丁目の小道、I区中央派出所の裏、A小学校のプールを囲むフェンスのそば、T動物公園の入り口前。このうち四番目だけは関連性がありませんが、代わりに被害者の右手首が持ち去られています。大々的に報じられていたので、よく覚えています」

「あれは失敗だったかもしれないな」

「手首はどこに捨てたんですか?」

「捨ててなどいない」

「え?」

 彼女は立ち上がり、台所の冷蔵庫を開ける。手を突っ込んで、何かを引っ張りだした。

「そら!」

 投げた。

「うわわわわっ!」

 僕は思わず目を背け、体をよじって避けた。床に墜落しゴロゴロと転がる、オレンジの缶ジュース。

「飲んでいいぞ」

「……悪趣味ですね」

「殺人犯に何を期待しているんだ」

 彼女はふふふと冷笑した。

「手首は帰りに川に捨てた。見つけるのは至難の業だろうな」

「あの、不思議なんですが」

 僕は疑問を口にする。

「どうして四曲目だけ、場所に関連するタイトルを付けなかったんですか? 手首を切ることで無理矢理結びつけていますが、他の殺人と全く噛み合わない。論理的じゃないし、美しくもない」

「美しい? 変なことを言うんだな」

「変ですかね」

「変だよ。まあ私に言われるのも納得いかないだろうが」

 彼女は転がっていた缶ジュースを手に取り、プルトップを捻った。軽快な音が鳴る。

「君は勘違いをしている。殺人計画を立ててからタイトルを決めると思っているだろう?」

「違うんですか?」

 彼女は首を振る。

「タイトルは曲の顔だ。象徴だ。コアと言っても過言ではない。殺人のことなんて考えながら付けられるわけがない。まず曲があって、タイトルがあって、その次に殺人があるんだ」

 体を反らせ、ジュースをごくりと一口飲む。

「これ、甘いな。甘すぎる。やっぱり君が飲んでくれ」

「別に喉は乾いてないです」

「そんなことは知らん。捨てるのももったいないし、ほら」

 無理矢理に渡されたそれを一別し、僕はおそるおそる口を付ける。

 これはいわゆる間接キスというやつではなかろうか。

「……ねねね子さん」動揺をごまかすように僕は口を開いた。「学校はどうしてるんですか」

「学校?」

「平日の真っ昼間に動画上げたりしてるじゃないですか」

「ああ、学校ならもう辞めた」

「辞めた?」

「音楽で身を立てたくなってね。親の反対を押し切って、無理矢理出てきたんだ。といっても、今のところ親の金で生きているのだから、全く褒められたものではないが」

 彼女は幾分自嘲気味に薄笑いをした。

 だがそれは、相当の覚悟と勇気と根性がないとできないことだと僕は思う。

「あれ、でも、学校ってそんなに簡単に辞められるんですか?」

「まあ担任には強く引き留められたな」

「いや、そうじゃなくて、義務教育じゃないですか。中学校は」

「は? 中学?」

「あれ、もしかして小学校でした?」

「うりゃ!」

 回し蹴りが、実にスムーズな軌道で脇腹に。

 僕は悶絶して体をよじった。

「失礼だな! 私はもう十七だ! 君より年上!」

「マジですか」

「嘘ついてどうするんだ。たしかに幼く見られることも多いが、さすがに小学生は言い過ぎだろう」

「すみません……」

 彼女は軽く嘆息した。

「……まあいい。とにかく、私は一年半ほど前、高校二年生のとき、学校を辞め、こうして一人暮らしを始めたわけだ。音楽一つに集中して、成功するためにね。まあ今はまだくすぶっているが、いつか必ず夢を叶えてみせる。それだけは信じている」

 彼女は白く平坦な壁を見つめている。だが本当はその後方、遙か先、遠く遠くの未来を見据えているのだ。

 僕はこの家を改めて見回した。一部屋しかない賃貸だが、一人暮らしにしては広め。そしてその内部には音楽に関連したものが途方もつかないほどたくさん詰め込まれている。無数の楽器類、ハイスペックの大きなパソコンとディスプレイ、見るから高級なマイクにスピーカー、楽譜や音楽理論解説書などの書籍。

 そしてそれ以外には、何もなかった。

 もちろん生きるために必要な最低限のものはあるだろう。だが、普通の人間が楽しく生活するために必要な娯楽類の一切がここには存在していないのだ。

 この場所に住む以上、音楽に触れて過ごす他ないし、それでいい、それしかない、そうするべきだ、そういう信念に満ち満ちている。

 音楽に魂を売った人間にしか住むことを許されない家。

 彼女がどれほどの決意を持ってこの生活に臨んだのか、痛いほどによくわかった。

 だからこそ。

「だからこそ、僕にはわかりません。ねねね子さん、あなた、どうして連続殺人なんてやってるんですか?」

「なんだ、説教か?」

「純粋な疑問です。今のところ上手くやっているようですが、こんなこと続けていたら、いつかは捕まりますよ。未成年とはいえ、七人も殺している。おそらく日常生活に戻ることはできないでしょう。もちろん音楽なんて、作れません。あなたの夢は潰える。どうしてこんな危ないことしてるんですか」

「……まあ、当然の疑問か」

 彼女は頷いて、そして僕に目を合わせる。

 ハッとするほど哀しげな顔をしていた。

「人を殺さないと、次の曲が作れないんだよ」

 彼女は少し声を震わせた。

「全身全霊で最初の曲を完成させて、動画をアップし終えたとき、私は気づいた。自分の中に、音楽に変換されるべきものが全く残っていないことに。もちろん、そんなものがなくても曲を作れる人はいる。豊富なアイデアと卓越したテクニックと少しの情熱。これらがあれば良い曲はきっと生まれる。だが私は駄目だった。内部から湧き出る得体の知れないそれを叩きつけなければ、全く曲を作ることができなかった。それは絶望的な事実だった。私はふらふらと夜道を歩いた。あえて人通りの少ない道を選んで、通り魔でも出てきてくれたらありがたい、そんな気分だった。そして私は白い野良猫に出会った」

「野良猫?」

「実はこの事件には誰にも知られていない零番目があるんだよ。その野良猫を、私は殺した。何度も何度も、執拗に足で前進を踏みつけた。ぼろ雑巾のようになった白猫を見て、私は心の底に何かが生まれるのを感じた。だが足りない。すぐに家に帰って、計画を練った。実行したのは三日後。自分でも驚くほどスムーズに事は運んだ。帰り道、私は、音楽として生まれ変わることを望む存在がふつふつと心の中にたまっていく喜びを感じていた。それから今まで、この繰り返しだ」

「……」

 僕は言うべき言葉がないか、しばし探した。

「……それなら別に、死体は放置すればいいじゃないですか。わざわざ自分の曲のタイトルに関連する場所まで運ぶ理由がない」

「ううむ……」

 彼女は困惑したような顔を見せる。

「どうしてだろうな。本当のところは私にもわからない。ただ、これだけのことをするからには、自分が一番大切にするものと結びつけた方がいい、そんな風に思ったのかもしれない。後付けの理由だがな」

 その言葉は全面的に納得のできるものではなかった。だが、動機なんて、案外そんなものかもしれない。

「つまらない告白だったかな」

「そんなことはないです。ただ……」

「ただ?」

「……いえ、何でもないです」

 僕の正直な感想を述べたところで、何かが変わるわけでもない。

「さて」彼女は立ち上がった。「訊きたいことはこれくらいかな」

「今日のところは」

「次があるとでも思っているのか?」

「もちろんあるでしょう。ありますよね?」

「残念ながら」

 彼女はおもむろに微笑んだ。

「なぜなら君は今から死ぬから」

 彼女の動きは素早かった。いつの間にか右手に掴んでいたバタフライナイフがきらめく。僕は何もできず、ただ彼女がぐいと振りかぶる様を見つめていた。

 振りおろされる、右腕。

 僕は目をつむった。

 カシャリ。

「……?」

 何かが軽く胸に当たった衝撃はあったが、痛みは全くなかった。

「玩具だよ、おもちゃ。ほら」

 彼女はバタフライナイフの先端を指で押し込む。すすす、と刃先が内部へしまい込まれた。

「本気にした?」

「……そりゃあ、もう」

「殺すにしたって、こんな場所でやるわけないだろう。証拠が残る。警察に踏み込まれたら一発でアウトだ。それに、まずはこれで失神させるのが私の流儀」

 そう言って、脇にあった鞄から取り出したのは、かなり大きめのスタンガンだ。スイッチを入れると、ばちばちと音がして先端が青白く光る。

「いいんですか? 僕を殺さないと、秘密がどこかに漏れるかもしれませんよ」

「そんなことで人を殺したりなどしない」

 そう。あくまで音楽のため、なのだ。

「だが客観的に見れば、君が私に殺される未来も充分にあり得た。その覚悟はあったのか?」

 彼女の瞳は、どこか冷淡。

「君、自分が今とんでもなく危ない端を渡っているということ、自覚しているのか?」


   *


「あきれた奴だな」

 一週間後の日曜日、僕はまたねねね子の部屋にいた。

「あれだけ脅しても、まだ私につきまとおうというんだから」

「むしろあの日のことでさらに興味がわきましたよ」

「怖くはないのか? 殺人犯が隣にいるのに」

「そりゃあ恐怖はないとは言いません。でも、それ以上に、僕はあなたの曲が好きですから」

「へえ」

 興味のなさそうな口振りだ。少しくらい嬉しそうにしてくれてもいいだろうに。

「では、適当にくつろいでくれ。私はギターの音取りをする」

 そう言うと彼女は青いエレキギターを手に取り、ベッドに腰掛けて演奏を始める。気持ちよさそうに奏でているかと思えば、途中で手を止め、ああでもないこうでもないと試行錯誤を重ねる。立ち上がり、机に向かって何かを書き付けたり、パソコンに何かを打ち込んだりすることもあった。僕には目もくれない。

 僕はただ、黙って彼女のギターに耳を澄ませているだけ。

 それはとても幸せな時間だった。


 それから毎週日曜日になると、僕はねねね子の家で半日を過ごした。会うたび彼女は少し迷惑そうな顔を見せたが、かといって露骨に拒否されたことは一度もなかった。

 音楽について彼女が僕に何か助言を求めることは一切なかった。感想を訊くことすらなかった。僕は素人なのだからあたりまえのことではあるが、何だかすこし寂しかった。

「全部自分で演奏するんですね」

「ああ、それはそうだな」

「そんなにたくさんの楽器弾けるようになるの、大変だったんじゃないですか」

「うちは両親が音楽家だからな。子供の頃からたくさんの楽器を習わされたよ。そのおかげで遊ぶ時間は全然なかったが」

 音楽漬けの人生、か。

「世の中にはバンドを組んだり編曲を別の人に頼んだり、様々な曲の作り方がある。それらを否定するつもりは全くない。だがな」

 彼女の瞳は真剣だった。曲を作っているときと同じだ。

「私の曲は、隅から隅まで私の手によるものだけであってほしい。余分な因子は一切入れたくない。そうしないと、私の魂がするっと抜けていってしまう気がするんだ」

 彼女は自分の掌を見つめる。

「……と、私は盲信している」

「盲信、ですか」

「こんなことは盲信に決まっているさ」

 彼女はやわらかく微笑んだ。

「だが、他ならぬ自分の想いだ。大切にしたい」

 ぎゅっと彼女は手を握る。


   *


 次の日曜日、ねねね子は予想外の提案をしてきた。

「『狭すぎる庭』という私の曲、あるだろう」

「ありますね」

「あれ、もちろん私が歌っているんだが、男性が歌っても似合うと思うんだ。曲調もハードロックだし」

「あなたの歌声だからいいんですよ」

「それは私にもわかっている。あくまで、一種の興味としてな」

「はあ」

 何だか嫌な流れだ。

「で、良かったら、君」

「歌いませんよ」

「いいじゃないか」

「嫌ですよ。プロでもないのにどうして歌わなくちゃいけないんですか。それも本人の目の前で。あいにくそんな自信家じゃありません」

「歌ってくれないと、もう家に入れてやらんぞ」

「ぐ……」

「ほら、マイクのスイッチも入れたから」

「……やっぱり嫌です」

「そんなこと言わずに。な、ほら」

「やめてください!」

 僕は思わず大声を出した。ねねね子がきょとんとして動きを止める。

「あ……、すみません」

「そんなに嫌なのか?」

「とにかく僕は歌がすさまじく下手なんですよ。聴いたら絶対笑いますよ」

「そんな失礼な真似はしないぞ」

「します」

 確信めいた口調で言う。

 ねねね子はため息をついて僕を見上げた。

「あのな、君、初めから歌の上手い人なんて、世の中一人もいないぞ。プロの歌手は皆信じられないくらいの練習量をこなしている。君はなにか努力したか? ひどく笑われたこともあったのかもしれないが、大切なのはその後君がどう行動するかだ。見違えるくらい上手くなって、笑った奴らを見返してやろうという気にはならないのか?」

「それは、できる人の理論です」

「私はそうは思わない」

「……別に、理解してもらおうって気はありません。これは僕の個人的な問題ですから」

「個人的な問題、か……」

 彼女は複雑に顔をゆがめ、何かを思案していた。

「まあ、君がそんなにも嫌だと言うのなら、提案は取りやめるさ。私もどうしても聴きたいというわけではなかったしな」

「そうですか。では僕は帰ります」

「ああ、あれはただの冗談だよ。別にいつも通りにしてくれてかまわない」

 彼女は朗らかに笑った。僕は心の中で嘆息する。

「……今日は何をするんですか」

「ああ……」

 言いよどんで、彼女はちらりと僕の表情をたしかめた。

「よし、今日は歌入れをしよう」

「えっ?」僕は驚きの声を上げる。「歌入れって、まだ曲は完成してないでしょう」

 彼女は全ての音源を作り終えてから、最後に歌入れをするスタイルだ。先日、自らそう言っていた。

「まだ七割程度だな。だが歌詞はもうできているし、先に歌入れしても問題はないだろう」

 嘘だ。

 僕は直感した。

 急に歌入れすることにしたのは、きっと……。

 彼女はパソコンを操作し、何事かごそごそと準備した。そしてヘッドフォンを付け、ピンと背筋を伸ばしてマイクの前に立った。

「あー、うん、あーあー、よし」

 軽く発声練習をすると、彼女は大きく息を吸った。

 そして、

 歌が。


「……ふう」

 一通り歌い終わったねねね子が息を吐いてこちらをみる。

「うわ、何泣いているんだ」

「え?」

 頬をさわると、冷たい液体が掌に触れた。

「あれ、あれ、あれ?」

 止めようとしたが、無理だった。音も立てず、ただ、するすると流れ落ちていく。

「ああ、もう、ほら」

 彼女がポケットからハンカチを取り出す。受け取って顔に近づけると、ふわりといい匂いが漂って、僕は少しドキッとした。

「ありがとうございます」

「礼などいい」

 どうしようもないな、という表情で彼女は僕を見ている。

 でも、そんな彼女はどこか嬉しそうでもあって。

 何だか、少し救われたような気がした。


   *


「人を殺すって、実際どうやってるんですか?」

「なんだ、興味があるのか?」

「興味というか……」

 僕はピアノ椅子に座る彼女の体をちらりと見る。

 やっぱり、華奢だ。

 どこからどう見ても可憐な少女でしかない。

「別に、隠すことでもないから、話すのはいいんだが」

「いや、隠すことですよ、普通」

「今更君に隠してどうなるというんだ」

「それは、まあ」

 彼女は電子ピアノのふたをぱたりと閉めた。壊れものを扱うような繊細な手つきだった。

「まずは犯行現場を探す。薄暗くて、深夜になるとたまにしか人が通らない場所がいい。この町はあまり人口が多くないから、そういう場所は結構ある。もちろん死体を捨てる場所に近い方が良い。

 持っていくものは着替えを入れた大きめの鞄と、バタフライナイフ、それにスタンガン。着替えが必要な理由は、言わなくてもわかるだろう。

 準備が出来たら電柱などの陰に立ち、人を待つ。大切なのは、どんな人だろうと、かならず一人目を狙うということだ。目撃者は出してはいけない。そして死人に口はない。

 通り過ぎる瞬間に、ぱっと飛び出てスタンガンを一撃。このスタンガンなら誰でも必ず昏倒する。さすが海外製だ、遠慮も躊躇もない。倒れた体を二回くらい強く蹴って、失神していることを確認したら、仰向けにしてナイフで十回ほど満遍なく刺す。一応最初は心臓を狙うといい。それですぐに死ぬかはわからないがな。

 あとは手早く麻袋に詰め込んで、人に見られないように所定の場所まで運んで、それで終わり。簡単な作業だ」

「いやいや」

 どこが簡単だというのか。

 と、いうか。

 正直なところ、彼女の語った殺害方法は、かなり危なっかしい。少し考えただけでも、穴がぼろぼろ表れる。

 今まで捕まっていないというのは、よほど神が味方しているのだろう。

 しかし、そんな幸運がいつまでも続くわけはない。

「ん? なにか言いたいことがあるのか?」

「……いえ、別に」

 僕は何も言わなかった。

「君もスタンガンを買うといい。良い防犯対策になる。特に今、このあたりは物騒だからな」

「それは自虐ですか?」

「ふふふ」

 そして彼女は海外のスタンガン購入サイトを無理矢理僕に教えたのだった。


   *


「曲が完成したって本当ですか!」

 それは彼女と出会ってから丁度二ヶ月が過ぎた日のことだった。

「嘘などつかない」

「聴かせてください」

「とりあえず荷物を置いたらどうだ」

「僕は今すぐに聴きたいんです」

 目を輝かせる僕を見て、彼女は呆れたように笑った。

「わかった、わかった。まったく……」

 彼女がパソコンを操作すると、数秒ほどして、スピーカーが空気を震わせた。

 4分37秒。

 僕は荷物も置かず、椅子にも座らず、ただ黙って耳を澄ませた。

「……今回は、何だか日本の伝統的な感じですね」

「雅楽の要素が入っているからな」

 ダークな曲調の中に、三味線の音色が効果的に取り入れられた、新鮮な楽曲だった。

「あと、歌い方、変えました?」

「え? いや、別に」

 歌声が、いつも以上に芯が通っているような気がしたのだ。何というか、そう、ただならぬ決意が込められているかのような。

「動画はもう上げたんですか?」

「それは今から」

 作業するから、ちょっと待っていてくれ。そう彼女は言って、パソコンに向かった。やることのなくなった僕は椅子に座り、腕を組んで目をつむった。今聴いたばかりの曲を反芻するためだ。

 しばらくして、動画は無事上げられた。

【オリジナル曲】守河かみがわ神社の裏の隅

 それがタイトル。

 ということは……。

「次の犯行は?」

「守河神社だな」


 この町に神社はいくつかあるが、守河神社はその中でも一番小さく、夜ともなれば初詣や夏祭りでもない限り滅多に人が来ないことで知られている。

 死体遺棄にはうってつけというわけだ。

 しかし彼女は「殺人を見越してタイトルを付けるわけではない」と言っていたはずだ。ここまで露骨なタイトルにしたのは、一体どういう了見なのだろう。

「……犯行はいつですか」

「今夜から」

「それはまた、急ですね」

「そういう気分なんだよ」

 殺人鬼の気分というのは、もちろん僕にはわからない。

「数日したらニュースになると思う。たとえ、どんな結果になるにせよ」

 彼女は通常通りの自分を装っている。だがそれは完全に失敗していた。少し近づいただけで、まるわかりだ。驚くほどに彼女は殺気立っていた。

 背筋が凍る。

 だが、言うべき事は言わなければならない。

「……あの」

「なんだ」

「僕も一緒に行っていいですか?」


   *


 集合時間は夜の十時。

 守河神社の本殿の裏には、あまり広くない庭のような空間がある。その隅の草陰に、僕とねねね子は息を潜めて隠れていた。

 ちらりと僕を見て、小さく舌打ちをする彼女。

 僕の要求に、彼女は最初反発した。

「これは私個人の問題なんだ。君が入り込む余地は微塵もない。下手に手を出されて失敗しても困る」

 手は出さない。ただ見たいだけ、知りたいだけだ。その後に何か事を起こすこともない。そう半時間ほどしつこく食い下がると、最終的には彼女は折れた。

「……何が起ころうと、絶対に手出しはするなよ」

 彼女は何度もそう念押しをした。

「今日も空振りですかね」

 すでに時刻は午前一時を回っているが、人が来る気配はない。そもそも、この時間、こんな場所に誰かが現れるという可能性がどれほどあるのだろう。

「やっぱりいつものように路上で人を探した方がいいんじゃないですか」

「言っただろう。あれはすごく危ないんだ。もう限界だよ。殺してそのまま放置した方が手っとり早いし、危険も少ない」

 それなら最初からそうしろよ、と言いそうになる。

「そうは言いますけどね、実際誰も来ないわけですし」

 この計画を始めてから、もう三日が経過している。

「いや、来る。来ると思う」

 彼女には不思議と確信があるようだ。

「でも」

「しっ!」

 僕の言葉を遮って彼女は口をふさいだ。そして左手前方を指さす。

 人影が、うごめいている。

 僕は目を見張った。まさか、本当に。

 その人物は素早い足取りで僕たちの近くまで来た。

 男だ。身長が高く、かなりがっしりとした体格。年齢は三十代といったところだろうか。無精ひげが顎の周りに汚らしく生え、髪も生えるがままといった風。黒のシャツに黒のジーパン。どちらもかなりシワがよっている。身なりが良いとはお世辞にもいえない。何か荷物を背負っているようだったが、身体に隠れて見えなかった。

 ふと異様な気配を感じて僕は横を向く。

 ねねね子が、震えていた。

 顔面を蒼白にし、右手で口を押さえて固まっている。

 だがそれは長くはなかった。どうにか震えを押さえた彼女はくるりとこちらを向き、きつい目でにらんだ。手を出すな、君はここにいろ。そういう合図だとわかった。ついに彼女が人を殺すのだ。僕は神妙に頷いて、心の中で顔を背けた。

 いざとなったら、飛びだして彼女を助けるつもりだった。

 それは彼女の本意ではないかもしれないけれど。

 二秒置いて、ねねね子は勢いよく立ち上がる。そして数歩前に踏み出した。

 いよいよだ。

 僕はごくりとつばを飲んで、様子を見守った。

 その時。

「待て!」

 彼女が叫んだ。

 叫んだ?

 どうして。

 男は突如現れた少女を見て、怪訝な表情を浮かべている。

「……なぜここに人がいる? 警察か?」

「違う」

「だよなぁ。あんたみたいなかわいい警察がいてたまるかっての」

 男はあっはっはと声を上げて笑った。

 ……何か、様子がおかしい。

 どうして今すぐ殺すはずの人間と会話なんてするんだ?

「あんた、一人か?」

「ああ」

「まるで俺を待っていたかのようだ。んん? するってえと、つまり……」

 男は何かに気がついたようにハッと口を開けた。

「まさか、あんた」

「そうだ」

 彼女は男のことだけをまっすぐに見据えていた。

「私がねねね子だ!」

 男が驚愕に目を見開く。その拍子に、背負っていた荷物がどさりと地面に落ちた。

 大きく膨らんだ、乳白色の、麻袋。

「……そうか、そうか、そうか。つまりあのタイトルは罠だったんだな? おかしいとは思ったんだよなあ、いくら何でも場所をピンポイントに指定しすぎている」

「それに感づいていたなら、どうしてここに来た? 警察が張っていてもおかしくはなかったんだぞ」

「ここんところ負け続きだったからな。今回こそきちんとやりたかったのさ。それにしても、交番の中とか、小学校のプールとか、無理に決まってるっつの。もう少し考えてタイトル付けてくれよな」

「よけいなお世話だ」

 彼女は気丈にふるまっている。が、よく見ると脚が震えていた。

「俺はネットじゃハネアリって名乗ってんだが、知らねえか? まあ知らねえか」

 その名前に僕は聞き覚え、いや見覚えがあった。

「あんたの話はネットでも全くしねえからな。いや一回だけ、あんまり衝撃的だったからツイートしちまったことはあるが、あれもすぐに消したしな」

 男はニヤッと口を歪める。

「あまりあんたのこと、世間に広めたくなくてよ。独り占めしたいのさ。わかるだろ? このファン心理」

「わかりたくもない」

「そりゃ残念」

「どうしてこんなことをしているんだ?」

 ねねね子はむしろ静かなトーンで訊く。

 その言葉に男は「くっくっく」と下卑た笑い声、そしておもむろに両手を大きく広げた。

「ねねね子の曲は、世界を変える」

 浪々と言い放つ。

「大げさじゃねえぜ。実際あんたの曲で、俺の世界は変わった。それまでの俺は本物のクズだった。世の最底辺、誰も見向きもしない、死んでも泣く奴なんて一人もいない存在。そうじゃねえ、そうじゃねえだろ! そう理解したのは、あんたの曲があったからなんだ。ホントに感謝してるんだぜ。死体の棄て場所を曲のタイトルで決めたのは、そのことを世間に刻みつけたかったからさ」

 男が一歩前に出る。

「まあ誰にも伝わんなくていいとは思ってたけどな。だからあんたにも直接連絡はしなかった。こっそりやればいい。世界の片隅の片隅で俺だけがねねね子を応援していればいい。そう思ってた。だから、まさかあんたとこうして会えるなんてのは、完全に想定外さ。全く、最高だよ。あんたの曲も、声も、姿も、殺人も、俺も、世界も、全部が今輝いている。何もかもあんたのおかげだぜ」

 男はまた笑い声を上げた。

「……別におまえが私の知らない人を何人殺そうが興味はないが」

 ねねね子は男をにらみつけながら言う。

「私の曲をダシに使うというのが気に食わない!」

「しかたねえさ」ねねね子の叫びにも、男は平然としている。「あんたがどう思おうが、事実は変わらねえ。あんたの曲が、歌声が俺に人殺しをさせたんだ」

 男はねねね子に近づいていく。彼女は動こうとしない。いや、動けないのだ。

 男の右腕が、彼女へ向かって、ゆっくりと。


「止めろっ!」


 反射的に僕は立ち上がっていた。

「あん?」

 男は動作を停止し、じろりとこちらを睨めつけた。

「おまえ、誰だ?」

「僕は……」

 僕は。

「僕は、ねねね子さんの本当のファンだ!」

「へえ」

 男は僕とねねね子を代わる代わる見る。

「よくわかんねえけどよ、本当のファンって何だ? ファンはファンだろうが」

「おまえのような奴がファンを名乗っていいわけがあるかっ!」

 僕はたしかな怒りを感じていたが、それがどこから来るものなのか、薄々わかっていた。

 同族嫌悪。

「おーおー、そんなに怒って、まあ。冷静になれよ、少年。俺は俺として俺なりにねねね子のことを世界の誰よりも愛している」

 男はまたねねね子ににじり寄る。

「彼女に指一本触れるんじゃない!」

「触れたらどうする?」

「こうする」

 僕はポケットからスタンガンを取り出した。見せつけるようにスイッチを入れる。夜の闇を雷光が一瞬だけ強く照らす。

「へえ、そりゃあ怖いね、なら俺も身を守るとするか」

 男が胸元から取り出したのは、太く大きな銀色のナイフ。血塗れだった。

「人を刺したら切れ味鈍るっていうけどな、そんなことないんだぜ。試してみるか?」

「やってみろ!」

 腰を落とし、身構える。

「……少年、おまえ、ちょっとむかつくな」

 男は急に真顔になる。

 身体の芯が震えた。

 標的を変えた男が、一歩一歩僕に近づいてくる。

 恐怖が全身を駆け回る。

 僕は今日ここで死ぬのかもしれなかった。

 もう灰色の学園生活を送ることも、ねねね子の新曲を聴いて幸せな気持ちになることも、ないのかもしれなかった。

 気づけば既に男は目前。

「あああああっ!」

 僕は叫びとともにスタンガンを突き出した。そこにはもう男はいない。空を切った右腕を、横からガシリと掴まれた。男はそのままぐいと捻る。僕は痛みにうめき声を上げた。掌からこぼれ落ちるスタンガン。

「残念だったな、少年」

 男が唇の右端だけを上げる。それは心底おぞましい表情だった。

「ねねね子のファンは俺だけでいい。おまえはいらない。じゃあな」

 男がナイフを降りかぶる。

 死のリアルな感触が目の前に立ちはだかっていて、くじけそうになる。

 だが、今僕がやるべきことは、ただ怯えて死を待つことではない。

「今だっ!」

 力の限り、僕は叫んだ。


 男が振り返るのと、ねねね子が男の背中にスタンガンを突き刺すのは、同時だった。


 激しい放電の音。

「ぐへあああっ!」

 男はうめき声を上げ、後方に数歩たたらを踏む。そして何かを言いたそうに口をパクパクさせると、そのまま地面に崩れ落ちて動かなくなった。

「はあっ……はあっ……」

 ねねね子はしばらくスタンガンをつきだした姿勢で固まっていた。そして糸が切れたようにぺたんとその場にへたりこんだ。

 僕も地面に座りこむ。全身が脱力して、立っていられなかった。

「……スタンガンなど使ったのは初めてだ……」

 彼女が息も絶え絶えに呟く。

 その言葉に、僕は何だかほっと安らいだ気持ちになった。


   *


「結局僕は大いなる勘違いをしていたというわけですね」

 大雨の降る日曜日、僕は彼女の部屋にいた。

 あんなことがあった後なのに、ここは全く変わらず音楽だけの部屋として存在していて、その事実に僕は少なからず安心させられた。

「考えてみればあたりまえというか、どうしてその可能性を思いつかなかったのかという感じです。

 思えば、ヒントはあったんです。あなたの曲のタイトル、『T市の孤独な硬い猫』『狭すぎる庭』『湖で君は溺れる』『その手を止めて』『交番の中に闇』『プールサイドの小学生』『アフリカ象のそばで寝る』『守河神社の裏の隅』。ここにメッセージが隠されていた。

 おそらくあなたが殺人事件と自分の曲の関連性に気づいたのは、三曲目を作ったあとでしょう。少なくとも、確信を抱いたのはその時期のはずです。だからあなたは次作、四曲目を『その手を止めて』と名付けた。わかってみれば、これはあからさまなくらいあからさまな、犯人へのメッセージです。しかし犯人は変わらず殺人を続けた。だからあなたは方針を転換した。

 五曲目『交番の中に闇』、これはあえて警察官の目の触れる範囲に死体遺棄現場を誘導することで、犯人逮捕の確率を上げようという目論見から付けられたタイトルです。六曲目、七曲目のタイトルも、同様の理由から死体遺棄が難しい場所を含めた。

 そして八曲目。あなたはついに自ら犯人と対峙することにした。そのために、はっきりと場所が一点に確定できるタイトルにした。そしてあなたの思惑通り、犯人はその場にやってきたわけです。この話に間違いはありますか?」

「いや、ない」

 彼女は無表情で言う。

 僕は、かつて彼女が言った言葉を思い出していた。

 ――タイトルは曲の顔だ。象徴だ。コアと言っても過言ではない。

 あれはきっと、本心だ。

 その信念を曲げてまで、彼女は犯人と戦っていたのだ。一人、孤独に。

「どうして誰にも相談しなかったんですか。警察の協力を仰げば、もっと早く犯人が捕まっていたかもしれない」

「どうせ相手にされないだろう。単なる偶然だ妄想だと言われて終了」

「やってみなければわからないでしょう。それに、マスコミにリークするって手だって……」

 彼女の表情を見て、僕は口をつぐんだ。

「これはね、私個人の問題なんだ。私の曲を利用するような殺人は、私の手で止めたかった」

 彼女は凛として言う。僕は次の言葉を探した。

「……曲のアップを止める、という選択肢はなかったんですか」

 彼女が少し顔を歪める。

「あなたが次の動画を上げなければ、殺人は起こらないかもしれない。犯行が止まって事件が迷宮入りになる可能性はありますが、それでも、被害者が増えることはないんですよ」

「そうなったら事件はおそらく迷宮入りだ。犯人が捕まることはない。それがどうしても私には許せなかった。私の曲をいいように弄んだ最低の人間を、何としてでも罰したかったんだ」

 彼女の台詞には淀みがない。まるで台本を読み上げるようだった。

 それはもちろん本心の一つではあるのだろう。だが、真意は、きっと違う。

 この二ヶ月、僕は彼女をこの目で見続けてきた。週に一度ではあるけれど、演奏も、歌唱も、編集作業も、全てを見つめ、体感してきた。

 だからこそ、わかる。

 彼女は、見ず知らずの他人の命より、自分の曲を見ず知らずの他人に聴いてもらう喜びの方を優先したのだ。

 音楽家としての、身勝手で自分本位なエゴ。

 きっと、許される行為ではないのだろう。

 でも。

 そんな彼女が作る曲だから、僕は好きになれたのだ。

「他に訊きたいことはあるか?」

 彼女が僕に水を向ける。

「では、一つだけ」

「どうぞ」

「どうして僕を騙したんですか?」

 彼女は、ああ、という顔をした。

「あんな嘘をついて、手の込んだ演技までして」

「名演だっただろう」

 少しおどけてみせるが、僕は笑わなかった。

「僕が真に受けて警察にでも駆け込んだらどうするつもりだったんですか」

「もちろん否認はするし、いくら探しても証拠など出てこない」

「それにしたって、とても困った状況に追い込まれるのは間違いありません。冤罪を被せられる可能性すらあります。そんなリスクを犯す必要がどこにありますか。たしかに僕はあなたが犯人だと勘違いしてメールを送りましたが、だからといって、他にやりようはいくらでもあったでしょうに」

「怒っているのか?」

「怒ってません。ただ不思議なんです」

 彼女はため息をついた。そして遠くを見つめた。

「……この生活を初めてから一年。私は、もう限界だった。無理に一人暮らしを始めて、曲だけを作って、食べていくんだ、生きていくんだ、だが全く人気が出ない。どれだけがんばっても、反応は梨の礫。曲を上げれば上げるほど、私は自信がなくなっていった。才能なんて、本当にあるんだろうか。勘違いしていただけなのではないか。その上妙な殺人事件にまで巻き込まれて、もうこの生活に音を上げそうだった。丁度そんなときだ。君からメールが届いたのは」

 彼女は僕から目をそらしている。だが僕は何だか正面から見つめられているような気がした。

「初めて目に見える形で、私のファンだと言ってくれる人が現れた。それは本当に信じられないことだった。だがメールを読み返して、私は思った。もしかしたらこの人は、ただ歌を歌うだけの私のファンではなく、歌を歌いながら、同時に連続殺人を犯している私のファンなのではないかと。もしもそうだとしたら、私が本当のことを言えばきっと幻滅する。私から離れていく。だから私は決心した。君の望むような殺人少女を演じてみせよう、と」

 彼女はにこりと微笑んだ。

「すまない」

 防音設備が完備されたこの部屋は完璧な静寂に満ちていて、窓の外から見える雨の音が耳に届くことはない。外の世界から、完全に隔離されているのだ。

 僕は、彼女に言いたいことがたくさんあった。

 伝えたい思いが、心の中にあふれていた。

 けれど、どんなに長い言葉を使っても、本当のことは届かないような気がして。

 だから。

 ただ、一言だけ。

「……また」

「え?」


「また、僕の前で、歌、歌ってください」


 彼女は一瞬息を止めた。瞳がじわりと潤んだ。でも泣かなかった。代わりに見せたのは、

「ああ、もちろん!」

 輝くような笑顔。


   *


 麻袋事件八件目の犯行は今まで以上にセンセーショナルに報道された。

 死体が二体同時に発見されたからだ。

 遺棄現場である守河神社には二つの麻袋が並んで横たわっていた。

 片方に詰め込まれていたのは、十歳前後と思われる小柄な小学生の女児。

 もう一方に詰め込まれていたのは、体格の良い中年男性。

 どちらもおそらく同種と思われるナイフで全身を刺されていた。

 女児は八回。男性は十回。

 現場には多量の血の跡があり、検査の結果中年男性のものと判明した。さらに男性にはスタンガンを当てられた傷跡があった。どれも、今までの犯行にはない特徴だった。

 警察や識者は「これは犯人の警察に対する挑戦状だ」「今まで成功してきたから調子に乗っている」などと訳知り顔で言っていた。「今後更にエスカレートすることが予想される」と発言するものもいた。

 でも、僕たちは、もう事件が二度と発生しないことを知っている。


   *


 彼女の次の曲は一ヶ月ほどで出来上がった。いつもの倍のペースだ。

「やたら早くないですか」

「なんだか調子が良くてな」

 もしかしたら、殺人事件のことがあって、無意識のうちにセーブしていたのかもしれない。

 早速聴く。

「……これ、今までで一番いいんじゃないですか」

「そうか?」

 彼女は嬉しそうな顔をする。

 驚くばかりに爽やかなパワーポップだった。前へ前へと突き進む疾走感。未来への希望に溢れていて、つらいことも後ろめたいこともひっくるめて私はこの世界を駆け抜けていく、そう宣言をしているような曲だった。

「これで人気が出てしまうかな」

「それは、まあ、どうでしょう」

「なんだ、その言い方は」

「無責任なことは言えないですよ。でも、そうなってくれると、僕も嬉しいです」

「本当か?」

「本当ですよ」

 たぶん。

「だが実はこの曲、まだ完成していない」

「あれ、そうなんですか?」

「コーラスを入れようと思うんだが」

「入れればいいじゃないですか」

「いや、その、な」

 彼女が少し言いにくそうにしている。そしてちらりと僕の表情をうかがった。

 ……まさか。

「君にコーラス、歌ってほしいんだ」

「無理ですよ!」

「そこをなんとか」

「言ったじゃないですか。僕は歌がど下手なんです。絶対に歌いません」

「人間、変わろうと思えば変われるものだ」

「駄目、駄目です! 大体どうして僕なんですか。コーラスなんて自分で歌えばいいじゃないですか」

「ああ、もう。わかってないな」

 彼女は少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「君でなければ駄目なんだ!」


 歌入れは夜遅くまでかかった。

 彼女の要求するハードルは高く、またコーラスパートが曲の大部分に関わっていたこともあって、僕は何度もリテイクを重ねた。最後にはもうこの世の全てに謝罪したい気持ちになった。

 でも、その間、彼女は一回も笑うことはなかった。


 完成した動画は彼女の手で即座にアップロードされた。

【オリジナル曲】私と君が五回ずつ

 しばらくすると、コメントが一つ付いた。僕たちはそれを二人で一緒に見た。


〈この声の人、彼氏?〉


 僕たちは思わず顔を見合わせた。

 そして、同時にぷっと吹き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る