第8話 斎藤君は因果律を超越している
わたしが目を開けると、そこは既に宇宙船の中だった。
その部屋は、まるで卵を立てたかのような楕円形をしていて、SF映画に出てきそうな無機質な白い壁が一面に広がっている。
その中で、わたしは磔にされたような恰好をさせられていた。
手首手足に奇妙な輪っかをはめられ、直立する形で宙に浮かんでいる。
本来なら全体重が手首に掛かる非常にキツイ体勢なんだけど、痛みどころか1グラムの重さも感じない。
まるで自分の身体が羽根になったみたいで、非常に楽ちんだった。
「なにこれぇ~。超快適。このまま安眠できるかも」
「重力制御装置さ」
しゅっと音もなくスライドしたドアから隆君が現れた。
「力を出せなくするだけじゃなく、脅しにもなる。重力を操作できるということは、すぐにでも圧殺できるということだからね」
「ふーん。ところで隆君、斎藤君はどこ?」
わたしは手足を動かしてみた。
まるでゴムで縛られているような弾力のある抵抗感があり、どれだけ力をいれて振りほどこうとしても、どうしても万歳の恰好になってしまう。
「話を聞いてた? 僕の気分次第で姉さんを殺せるって言ってるんだけど」
「でもしないでしょ?」
隆君は小さくため息をついた。
「ちゃんと事態を理解してないようだね。さっきも言ったように、僕は宇宙人だ。生殖細胞レベルまで退化させた僕を就寝中の君の母親に注入し、疑似妊娠させた。君と僕は一切血が交わっていないし、そもそも同じ人間でもない。最初から、君達の世界を観察するために送り込まれたスパイだったんだ。つまり今この状況になって、姉さんに同情する理由もない」
わたしの周りってスパイが多いなぁと、ぼんやり思った。
「それでも僕が姉さんを殺さないなんて、どうして言える?」
わたしは天井を見上げ、少しだけ考えた。
どうして……。どうしてだろう。
わたしが恋した斎藤君は悪い人みたいだし、中学の頃からの親友だったクミちゃんは、殺人マシンみたいな勢いでわたしを殺そうとしてくる。
信じていた人たちから軒並み裏切られる経験をした今、隆君がわたしを殺さない保証なんてない。
「……ん~。でもなぁ」
「でもなぁって。姉さん、自分の命が掛かっていることは真剣に考えなよ」
「あ、それだ」
隆君はきょとんとした。
「斎藤君やクミちゃんと違って、隆君は信じられる理由。自分でもよくわかってなかったけど、隆君、今もわたしを姉さんって呼んでくれてるから」
宇宙人だとか、圧殺だとか、そんな遠い世界の話をされる中で度々出て来るその単語は、わたしにとって何よりも信じられるものだった。
隆君が姉さんと呼んでくれてる。だから、たとえ隆君が宇宙人でも、血が繋がってなくても、わたしは隆君を信じられる。
だってわたしは、隆君のお姉ちゃんなんだから。
「……そんなもの、ただの便宜上のものだろ」
「難しいことはよくわからないけど、隆君は隆君でしょ? わたしが悩んでたらにこにこ笑って相談に乗ってくれて、ホットレモンミルクセーキを作ってくれる隆君でしょ? だったらたぶん、だいじょうぶだよ」
自分でも何がだいじょうぶなのかはわからないけれど、とりあえずそう言っておいた。
なんとなく、隆君が不安を覚えているような気がしたから。
隆君は、顔を隠すように額を押さえていた。
「……覚えてる? 小さい頃、父さんが得意先からもらった高級チョコのこと。普通なら買わないような値段で、気の利かないことに一つしかなかった。でも姉さんは、僕にその一つを譲ってくれた。大の甘いもの好きの姉さんが、自分が食べたいのを押し殺して。リアルによだれを垂らす人間がいるのを初めて知った瞬間だった」
「覚えてる。あれ、食べたかったなぁ」
「あの時、僕は思った。ああ、姉さんって馬鹿なんだなって」
「ええ⁉」
どうして貶されなきゃいけないの⁉
すごく良いお姉ちゃんじゃん! 自分で言うのもなんだけど!
「食べたいなら食べればいい。自分に何の利益もない利他的行為に何の意味があるんだと思ってた。……でも僕は、姉さんのそういうところに惹かれて、恋をしたんだ」
「ふんふん……って、え? 恋?」
突然、輪っかが外れてわたしの身体が床にダイブした。
「わたっ!」
急なことで受け身もとれず、ゴンと大きな音がして頭をぶつける。
涙目になりながらぶつけた箇所を撫でていると、もう片方の手を、隆君の両手が包み込んだ。
「結婚しよう」
膝を折り、真剣な眼差しで、隆君は言った。
わたしは思わずぽかんと口を開けた。
「ええぇ⁉」
「そうすれば僕は一生姉さんを他の奴らから守ってあげられる。こう見えて、僕は銀河世界では出世頭だ。何不自由なく暮らしていける。少し高くつくけど、ボディーガードを雇ってセキュリティを万全にすれば、姉さんの世界……現実世界で暮らすことも可能だ」
隆君があまりにまっすぐわたしを見つめてくるから、恥ずかしくて思わず視線を逸らしてしまった。
「そ、そ、そんなこと言われても……わたしには斎藤君という心に決めた人が……」
「姉さんはあいつのどこが好きなの?」
にへらと、思わず相好が崩れた。
「えぇ~? それをわたしに聞くのぉ? ええとね。かっこよくてぇ、頭も良くてぇ、スポーツ万能でぇ、それからそれから……」
「僕は姉さんのことならなんでも知ってるよ」
わたしが指折り数えているのを、隆君が遮った。
「一度おやつを食べだしたら全てを貪り尽くすまで止まらない食い意地の悪さも、疲れていたら前後不覚になって廊下に下着を脱ぎ散らかしてお風呂に入るがさつなところも、全部」
「こんなところで乙女の恥を晒さないでぇ!」
わたしは思わず顔を覆った。
「僕は姉さんの、そういうだらしないところすべてを含めて愛してる。だけど姉さん。姉さんは斎藤の何を知ってるの?」
わたしはハッとなった。
そうだ。わたしは何も知らない。
斎藤君がどうしてわたしの告白を受けてくれたのか。どうしてみんなから逃げているのか。斎藤君が、何をしたいのか。
「……確かに、わたしは斎藤君のこと、何も知らない。わたしにとって斎藤君は憧れの存在で。いつも遠目から眺めていただけで。斎藤君が何を好きなのかも、どういう人なのかも、本当のところは何も知らない」
そんなものは本当の恋じゃない。
そんなことを恋愛漫画の主人公に言われたら、そうですねと答えるしかないだろう。
ただ勝手に憧れて、ただ勝手に想像して、わたしの好きな、わたしだけの斎藤君を妄想していただけ。
そんなものは好きとは違う。本当の恋じゃない。
その通りだ。その通りなんだけど……。
「でも、わたしは斎藤君のことが知りたい」
わたしは、まっすぐに隆君の目を見て、言った。
「斎藤君が何をしたいのか。わたしのことをどう思っているのか。斎藤君の良いところも悪いところも汚いところも、全部知りたい。今わたしがそう思っている気持ちは、きっと本当だと思う」
どれだけ常識外れの世界に巻き込まれようと、どれだけ信じた人から裏切られようと、わたしがやりたいのはそれだけだ。
世界なんてどうでもいいし、誰に何を言われてもいい。
斎藤君のことが知りたい。
色々な常識や当たり前が簡単に壊れるこの世界で、これだけが、わたしの中の揺るがない真実だ。
「だから教えて。斎藤君はどこにいるの」
隆君はじっとわたしを見つめていた。
わたしも、負けじと隆君を見つめ続ける。
とうとう根負けしたのか、隆君は下を向き、大きくため息をついた。
「知らない」
隆君は、再びわたしに顔を向けた。
「そう言ったら、姉さんは信じる?」
隆君は無表情だった。
正直、何を考えてるのかわからない。
「ん~……、うん! 信じる!」
わたしは大きく頷いた。
難しいことはよくわからないけど、隆君がそう言うのだ。なら、きっとそうなのだろう。
隆君はわたしの返事を聞いて薄く笑うと、頭に指を置いて何かぶつぶつと呟き始めた。
どうしたんだろうと思っていると、すぐにそれを止め、すっくと立ち上がった。
「斎藤陽一はバグだ」
「バ……なに?」
「バグ。銀河が刻むアルゴリズムの外にいる存在だよ」
……ふうむ。
隆君なりに説明してくれたようだけど、さっぱり分からない。
「何万年。いや、もしかしたら銀河が消滅するまでの間に、たった一人生まれるかどうかといった確率で現れる、全ての因果律を超越した存在だ」
なるほど。とりあえず凄いということは伝わった。
「僕らの世界にはヘリックス粒子というものが存在する。ヘリックス粒子は万能粒子だ。それ一つがどのような性質も持ち得る。僕達にとってヘリックス粒子は、今の文明そのものと言っても過言ではない。しかしこの粒子にはいくつか制限があり、個体が操れる粒子の数には限りがある。そんな中、何故かその制限の外にあるのが斎藤陽一だ。無限ではないものの、本来の法則なら破綻するほどの粒子を一度に操ることができる」
すごいなー、斎藤君。
本当にすごい。
「その秘密を研究するために、僕の身体には斎藤陽一のDNAが組み込まれている。クローンと言った方が分かりやすいかもしれないね。そういう個体はたくさんいるんだ」
「へー、そうなんだ。道理でちょっと似てるなぁと」
「それでも僕は、あの男のようにはなれなかった。優秀ではあっても、それは常識レベルの話だ。斎藤陽一のような規格外の力は持つことができなかった。……僕はいつだって、斎藤陽一の劣化バージョンだ」
「そんなことないよ!」
初めて見せてくれた隆君の負の感情を打ち消すために、わたしは反射的に叫んでいた。
「でも姉さんは斎藤を選ぶんでしょ?」
「ま、まあそれはそうかもだけど……。でもわたしは隆君だって大事だよ。だってわたしの弟は隆君しかいないもん。それは斎藤君にだって真似できない、隆君だけのものだよ」
……こんなので励ましになってるのかな。
隆君は俯いたまま動かないし、いささか不安だ。
「……姉さん」
か細い声で、隆君は言った。
「なに?」
「頭、撫でてくれない?」
子供の頃、ほとんど失敗なんてすることのない完璧な隆君でも、たまにミスをしてしまう時があった。そんな時は、いつも少し拗ねたようなふくれっ面をして、同じことをわたしに言ってきた。
わたしは微笑んで、両手を伸ばした。
「……いいよ。おいで」
隆君の頭を胸の中に包み込み、ゆっくりと頭を撫でてあげる。
なんだか昔に戻ったようで、とても懐かしくて、何故だか、とてもうれしかった。
「よしよし。隆君はずっとがんばってたんだね。お姉ちゃんにいっぱい甘えていいんだよ」
「……うん」
「あははは! 隆君、こちょばしちゃダメでしょ! って、わわ!」
「ごめん。間違って押し倒しちゃった。頭打ってない?」
「もぉ~。隆君って意外と抜けてるよね」
「ははは。そうだね。それより少し暑くない? なんなら上着も脱いでついでに──」
しゅん、とドアがスライドする音が聞こえた。
「なにやってんだ? お前ら」
わたしは顔を上げた。
初めて見る、ダンディなおじさんだ。
しかしわたしは、その声を聞いたことがあった。
「アルマジロさん!」
わたしは思わず指さしながらそう叫んだ。
「おう。その節はどうも」
おじさんは特に悪びれた風もなく、そう言ってひらひらと手を振った。
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