シフォンケーキを作りながら

 ようやく涙が収まってきて、私はごしごしと最後の涙を拭う。暖かさを手放したくなくて、シャツを掴む手の力は緩めずにいた。

「夏希、大丈夫か?」

 優しく背中を撫でる手。その声は微かに震えていた。

「うん……こーすけ、泣いてる?」

「え?」

 少し顔を離してみると確かに彼の顔には涙の跡が残っている。それからようやく、自分が昔のように彼を呼んでいたことに気付いた。泣きすぎて、昔に戻ったのかもしれない。思っていたより昔の呼び方は心地良かった。しばらくお互い驚いていたけれど、今の状況を思い出して私は慌てて体を離した。

「わ、ご、ごめん!」

 何がごめんなのか分からないけど反射的に謝ってしまった。

「いや、別に……平気にならそれでいいんだけど」

「う、うん」

 離れてみると、今まで暖かかったところが急に冷たくなった気がした。外は暑いはずなのに、どうして病院の中は不安にさせるような寒さなんだろう?

「大丈夫、だよね」

「ああ」

 自分に言い聞かせるつもりで言ったのに、彼は同意してくれた。とても、心強い。見計らったように手術室のランプが消えた。私は思わず彼の顔を見る。

「こーすけ……」

「大丈夫」

 彼自身に言い聞かせるように呟いて、私の手を握ってくれる。恐怖と不安を感じないように、私はその手を強く握り返した。手術室の扉が開いて、医者や看護士が出てくる。立ち上がった私たちを見て、医者らしい人がにこりと笑った。

「お母さんは無事ですよ」

 私は幸輔を見て、幸輔も私を見て、彼が笑うと同時に私は泣いていた。

「な、何で泣くんだよ!」

 彼は慌てながら私の頭を撫でてくれる。

「だって、だって……」

「もうすぐ会えますよ」

 医者は笑ってそう言って、幸輔が頭を下げるのを見て私も慌てて頭を下げた。


 意識が戻ったお母さんは色んな所に包帯を巻かれていたけどいたって元気だった。けたけた笑って、私は何のために泣いたのかと思うくらいだ。

「いやー、本当に死んじゃうかと思ったわ」

「邦恵! 笑い事じゃないのよ、私本当に、本当に……」

 美佐子さんは笑いながら泣いてお母さんに慰められている。確かに一時は危険な状態だった、はずだ。お母さんを見ていると誤診じゃないかと思ってしまうけど。いや、きっと美佐子さんのために元気を装っているんだ。そう思いたい。

「心配してくれてありがとう、美佐子。でもあたし、夏希と幸輔くんの結婚式と孫見るまでは死ねないわ」

 美佐子さんの頭を撫でながらそう笑って、お母さんは私たちを見る。

「もしかして、もう結婚しちゃうの? 幸輔くんは十八歳になんないと結婚できないのよ?」

 お母さんの言葉の意味が分からず首をかしげると、幸輔が慌ててつないでいた手を離す。やっと今まで手をつないでいたことに気付いて顔が熱くなった。

 そして、同時に気付いてしまった。私にとってアオヤマは「家族」じゃなかったってことに。

「夏希ちゃん、やっとその気になってくれたのね! 私夏希ちゃんのお味噌汁にケチつけちゃうわ!」

 美佐子さんはまだ気が動転しているのか、微妙にずれたことを言っている。でも嬉しそうだし、まあいいか。

「あのな、二人とも……」

「なにもったいぶってるのよ、幸輔」

 幸輔の言葉は美佐子さんに遮られる。さっきまで沈みきっていた反動か、今の美佐子さんは底なしにハイテンションだ。

「どうせ引っ越す前から好きだったんでしょ?」

「な、なんで知ってんだよ!」

「え?」

 私とお母さんと、美佐子さんの声までが重なった。幸輔は今さら自分の失言に気付いて顔を赤くする。

「あら……幸輔、お母さん、当てずっぽうで言ったんだけど」

 すまなそうに、でも嬉しそうに美佐子さんは言う。どうやら私と美佐子さんだけじゃなく、彼も結構動揺しているみたいだ。

「な……」

 幸輔はそれきり絶句して、私は今までの人生で一番顔を赤くしていた。

「あ、の、こーすけ……」

 幸輔を見ると、顔を逸らされた。

「……帰る!」

 それだけ言って、彼は回れ右して病室を出ていってしまった。

「あら、行っちゃったわ」

「若いねえ」

 お母さんと美佐子さんはにやにやしながら私を見る。

「夏希ちゃん、追いかけてあげて」

「え、でも」

「あたしは美佐子とラブラブしてるから、また明日来てよ」

「うん……」

 ラブラブってもう死語だよ、と心の中で突っ込みながら、私は病室を後にした、


 病室では考えられなかったくらい、外は暑い。病院を出るとすぐ、彼の後ろ姿が見えた。

「こーすけ!」

 大声で名前を呼んで駆け寄る。幸輔は驚いた顔で私を見ていた。駐車場にある木の下で彼に追いついた。

「邦恵さんはどうした?」

「お母さん達が、こーすけを追いかけろって」

 幸輔は盛大な溜め息をつく。そこには甘い空気は欠片もない。けど、何も言わないでいられるほど私の口は頑丈じゃない。

「あ、あのね、アオヤマ、私」

 言いかけたところで、彼は手で私を制する。理由が分からないままに私は口を閉じた。彼は体を私に向けたまま顔だけ横を見て、反対側を見て、やっと私を見た。

「夏希」

「は、はい」

 改めて名前を呼ばれると緊張してしまう。不自然に背筋を伸ばして私は次の言葉を待った。彼はまた色んな方向を見て、また私をまっすぐに見て、そっと肩に手を置いた。

「好きだ。ずっと……ずっと前から」

 分かっていたことなのに、恥ずかしくなってしまう。つい伏せてしまう顔を思い切ってあげて、彼の目を見つめた。

「わ、私もアオヤマが好き!」

 まっすぐに見つめ合って、目が逸らせない。

「いや、あの、こーすけが好き!」

 沈黙に耐えかねて訂正すると、彼は目をぱちくりさせて、吹き出した。

「わ、笑わなくたっていいじゃん!」

「いや、何か、悪い」

 謝ってはいても、笑いが止む気配は無かった。

「もう、私は真面目に言ってんの!」

「いや、分かってるって」

 彼はどうにか笑いを押さえつけて、まっすぐ私に向き直る。真剣な顔にどきりとさせられた。

「ちゃんと聞けて、安心したらつい、な」

 そう言って優しく笑う。そんな表情にも鼓動は早くなって、そうなっている自分が妙に恥ずかしかった。

「あ、あの、私、えっと」

 どきどきしている自分が恥ずかしくて、話すこともないのに口を開いてしまう。

「えーとその、私、アオヤマが、いやこーすけがずっと家族だと思っててね」

 一度意識してしまうと、名前を呼ぶのも恥ずかしくなってしまう。

「その、さっき、気付いたっていうか」

 そこまで言って自分が墓穴を掘っていることに気付いて、幸輔の表情をうかがう。

「信じらんねえ……」

 彼は頭を抱えていた。なんだか悪いことをしてしまったような気がする。

「じゃあずっと俺の片思いかよ……」

「こ、こーすけはいつから?」

 私が尋ねると幸輔は少し悩んで、しぶしぶ口を開いた。

「葬式の時から」

「葬式、ってお父さんの?」

 意外な答えだった。そもそも葬式って人を好きになるようなところじゃないと思うんだけど。

 幸輔は目を逸らしながら話し始める。

「葬式の時さ、母さんがあんなだったからしっかりしなきゃと思って、とにかくずっと何も考えないで立ってたんだよ。だから葬式に来た人も母さんのことは慰めてくれたんだけど、俺には特に言ってくれないわけ」

 それが目的だったんだけどさ、と付け加えて幸輔は寂しそうに笑った。

「でも、夏希は俺のこと心配してくれただろ? 大丈夫?って何度も聞いてきてさ」

「そう、だっけ?」

 何とか思い出そうとするけど、あまり覚えていない。美佐子さんにつられて泣いちゃったことは覚えてるんだけど。

「夏希の方がどう見ても大丈夫じゃなかったのに、やたら俺ばっか心配してくれたから、それがなんか、さ」

 幸輔は逸らしていた目を戻して、また私を見つめる。

「ずっと、好きだったよ」

 一気に顔が赤くなるのが分かった。幸輔は私の肩に触れ、頬に触れ、ゆっくり顔を近づけた。

「こーすけ……?」

「キスして、いいか?」

「えっ……」

 頭の中で、上手く言葉が作れない。口からも意味を持った言葉は出てこなくて、もうどうすればいいか分からなかった。

「あ、わ、私……」

 何が何だか分からなくて、とにかく何度も頷いた。幸輔はふっと笑って、両手で私の頬を包んだ。

 ぎゅっと目を閉じて待つと、幸輔の顔が近付いたのが分かった。ゆっくりと近付く時間に耐えきれなくて、彼の肩を掴む。

 暖かい唇が触れ、離れていった。一瞬のことだけど、何よりも甘い味。目を開くと、思ったより近くに幸輔の顔があった。

「なんか、甘いね」

 冗談めかして言うと、幸輔は笑ってもう一度私にキスした。目を閉じてそれを受け入れる。

「シフォンケーキの代わりにキスでいいんじゃねえか?」

「えー」

 口では抗議してみても、ちょっといいかななんて思ってしまった。ついでに、シフォンケーキを食べながらキスすれば……とか思ってしまったけど、これは永遠に封印しておこう、さすがに恥ずかしすぎる。

「じゃ、どっちも」

 そう言って、また唇が触れる。驚いて固まっていると、幸輔は意地悪な笑みを浮かべた。

「邦恵さんが退院したら、今度こそシフォンケーキ作ろうぜ」

 キスしながらな、と意地悪な笑みのまま付け加える。なんか悔しくて、精一杯背伸びして私からキスをした。幸輔からされた三回分、少し長めに唇を合わせる。離れようとしたら抱きしめられて、私も彼の背に手を回して抱き返した。そうしてしばらく、ただ唇を合わせていた。


 もちろん、お母さんと美佐子さんが病室の窓から見ていたことなんて知らなかったのだ。

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シフォンケーキを作りながら 時雨ハル @sigurehal

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