きっと大丈夫

 もうすぐ夜の十一時になろうとしていた。ようやく帰ってきたお母さんのためにお茶を淹れながら、昼のことをぐちぐちと話す。

「ほんっと、あの二人は人のことをからかってさー」

「いい友達じゃない」

 お母さんはくすくす笑う。外から見てる分にはほほえましいだろうけど、からかわれる方はたまったものじゃない。

「今日だって、アオヤマに告白しろとか告白されろとか……無茶苦茶だよ」

「あんたのことを考えて言ってるんでしょ」

「違うよ、ぜーったい楽しんでるだけだね」

 湯気立つ湯飲みを渡す。お母さんはありがとうと言って受け取り、熱いはずなのに一気に半分くらいを飲み干した。

「あたしもからかってもらいたいなぁ……」

 信じられない言葉が耳に飛び込んできた。幻聴ではないはずだけど。そういえばお母さん、最近は私が寝てから帰ってくるのが普通になっていた。今日だって十一時は充分遅いけど、いつもに比べれば早い方だ。帰ってきてからも仕事をするお母さんだから、あまり寝ていないのかもしれない。

「お母さん、仕事大変なの?」

 お母さんはそうねえ、と言って残りのお茶を飲み干した。背もたれに寄りかかって、天井を見ながらぽつりと話す。

「罪悪感のない部下の代わりにお得意様に頭下げてるのは大変って言うわよねえ」

 これはかなりやばそうだ。目の焦点がちゃんと合ってないし。

「しかも同期の分際で『春日井、お茶淹れてくれ』よ。ばっかじゃないの? あたしはアンタの奥さんじゃないっつーの」

 そう言いながら湯飲みを私に差し出す。私は急いで二杯目を注いだ。

「あたしにお茶淹れてくれるのは夏希だけよ……」

「わ、私でよければ何杯でも淹れちゃうよ!」

 慰め方として間違っている気もするけど、とりあえずお母さんの元気を取り戻すしかない。だって、辛いなら辞めろとか言うわけにはいかないんだ。

「いっそ会社に行ってお母さん専属のお茶くみになっちゃおうか!」

「夏希、ありがと!」

 お母さんは突然私に抱きついてきた。お茶がこぼれないかと冷や冷やしたけど、いつの間にか飲み干したらしい。

「お母さん……あんまり無理しないでね」

 私が言ってもどうにもならないと分かっていても、言ってしまう。お母さんだって無理はしたくないだろうけど、それでもこんなに忙しくなってしまうのだろうけど。でも、つい口に出してしまう。

「うん……大丈夫よ、夏希。心配しないで」

 お母さんは私から体を離しにっこり笑う。私は、失敗したことに気付いた。私がお母さんを励ますつもりだったのに、逆に励まされている。

 本当に、お母さんの会社に行ってお茶くみでも何でもしたかった。代わりに部下を叱りたかったし、お得意様に頭を下げたかったし、お茶を淹れろという同僚を怒鳴りつけてやりたかった。アオヤマはあんなにお母さんの力になれているのに、どうして私は励ますことすらできないんだろう。

 自分に父親がいないことを悔やんだことはないけど、もし私に本当のお父さんがいたのなら、こんな時お母さんを励ますことができたのかな、と考えることはある。

この世界のどこかにはいるはずの私のお父さんは、今何をしているのだろう?


 終業式が終わり、ついに夏休みが始まった。今日はお母さんも早く帰ってくるはずだ。もうすぐ今のプロジェクトが一段落つくと言っていたから、これから少しは暇ができるだろう。今日はみんなで、アオヤマの家で夕ご飯を食べようと前から決めてある。

「夏希、帰ろうぜ」

「うん」

 これから美佐子さんの家でお昼ご飯を食べて、お母さんのために三人でごちそうを準備する。デザートはお母さんが好きなレモンとオレンジを使ったシフォンケーキだ。しかも、美佐子さん手作りのマーマレード付き。美佐子さんのお店は、お母さんのために臨時休業だ。

「お母さん、ビックリするかな」

「ああ、きっとな」

 アオヤマが嬉しそうに見えるのは、私が嬉しいからだろうか。それとも、やっぱり私たちが家族だから?

「夏休みはもっとみんなで集まれるよね?」

 アオヤマはにこりと笑って頷く。

「アオヤマ、嬉しいの?」

「そりゃ、夏希がそんな顔してりゃな」

 アオヤマの笑顔に意地の悪い笑みが混ざる。それも気にならないくらい、今の私は期待でいっぱいだった。ふと、携帯電話がポケットの中で震えていることに気付く。取り出してディスプレイを見ると、美佐子さんからの電話だった。

「何だろ、美佐子さんだ」

「買い物じゃねえか?」

 通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てる。

「夏希、ちゃん?」

 美佐子さんの声には焦りが含まれていた。嫌な予感が背を駆ける。

「邦恵が、邦恵が――今、病院に……」

 その後は、言葉にならない声が聞こえた。

「みさこ、さん?」

 自分の声が震えているのが嫌というほど分かって、アオヤマが私の顔を覗き込んだ。

「どうした?」

「お願い、夏希ちゃん、早く来て……」

 美佐子さんは私に負けず劣らず震える声で病院の名前を告げ、電話を切った。私はそこに立ち尽くして、動くことができなかった。

「夏希、どうした? 何があったんだ?」

「アオヤマ……お母さんが――」

 涙が勝手に頬を伝った。


 それからしばらく、記憶が曖昧だ。アオヤマと病院に行って、移動式ベッドに乗って運ばれるお母さんを見送って、気付けば、美佐子さんがアオヤマにすがって泣いていた。まるで、お父さんのお葬式の時のように。

「どうしよう、どうしよう……邦恵が、啓輔もいなくなって、もし邦恵までいなくなったら、どうすればいいの……!」

 美佐子さんの言葉が、私に恐怖を植え付ける。

 お母さんは交通事故に遭った。交差点で突然突っ込んできたトラックを避けきれなくて、ぶつかったそうだ。悪いのは明らかに突っ込んできた方だそうだ。でも、もしお母さんが疲れていなかったら、もう少し気付くのが早かったら、助かったかもしれない、とも医者は言っていた。そして、お父さんも、交通事故で死んだ。もちろんお父さんは悪くなかった。でも、死んでしまった。

 どれくらいそうして立ち尽くしていたか分からない。ようやくすぐ後ろにソファがあることに気付いて、崩れ落ちるように腰掛けた。

「夏希」

 アオヤマが私の目の前に立った。

「アオヤマ……」

 声が上手く出ない。アオヤマは缶のミルクティーを私に差し出した。夏なのに、クーラーが効いているせいか妙に冷たく感じる。

「みさこさんは……?」

 缶を開けるのが面倒で、両手の中で転がしながら尋ねる。アオヤマは缶の緑茶を開けて一口飲み、答える。

「先に帰ったよ。ここにいたら、耐えらんなそうだったから」

「そ、っか……」

 声はちゃんと出ないし、頭もちゃんと働いていなかった。今までのことが全部夢のような気がして、目が覚めたら私はひとりぼっちのような気がして、でもこれは現実なんだ。そんな想像も、この現実も、全てが怖い。世界が私を恐怖させようとしているかのように。

「飲まないのか?」

「うん……」

 その中で、アオヤマだけは、怖くない。私を安心させてくれる。

「何か、寒くて。クーラー効いてるからかな」

 ぽつりぽつりと言葉が出てくる。息なんてしてないような気さえするのに、私はちゃんと生きているみたいだ。

 アオヤマは私の手から缶を取って横に置き、そっと手に触れた。とても、暖かい。

「確かに少し冷えてるかもな」

 そう言って、ワイシャツを私の肩にかける。驚いて顔をあげると、Tシャツ姿のアオヤマが微笑んでいた。

 妙に暖かくて、嬉しくて、悲しくて、苦しくて、ああ泣きそうだ、と妙に冷静に思った。

「ご、めん……泣きそう」

 それだけ告げてまた下を向くと、アオヤマは私の頭をくしゃりと撫でた。それで我慢できなくなって、ぼろぼろ涙がこぼれてくる。アオヤマはずっと、私の頭を撫でてくれた。

「アオヤマ……どうしよう、怖いよ……」

 涙のせいでうまく言えないけど、そんなことはどうでもよくて、ただ口に出してしまいたかった。

「お母さん、いなくなっちゃうなんて、やだよ……」

 だけど言葉になった恐怖がじわりと私に染みていく。なのに、私はそれを止められなかった。

「わたし、お母さんを慰めらんなくて、無理してほしくなかったのに、今日は……みんなでびっくりさせて、わたし、わたしおかあさんの役に立ちたかったのに……」

 アオヤマの手が、暖かい。なのに寒くて、どうしようもなく寒くて、体が震えていた。

「やだ、いやだ、おかあさん、いなくならないで!」

 アオヤマのTシャツを掴む。恐怖が、寒さが、体の芯まで染みこんで、それが新たな恐怖を呼んだ。シャツを掴む手に力を込める。

「どうしよう、どうしよう……私のせいだ」 

 アオヤマが、私を抱きしめた。

 何も言わないけれど、暖かい。それだけでもう、十分すぎるほどの救いだった。

「大丈夫だ、夏希。大丈夫……」

 暖かい涙が次々溢れて、それでも恐怖はなくならないけれど、私は強く強く彼にすがっていた。彼が大丈夫だと言うなら大丈夫なんだという気さえしていて。

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