第4話 ミュージックハウス翼



「あ、え……」


 美玲は目を丸くして、驚いた表情を浮かべた。当然だ、同じクラスと言えども俺と彼女は話した事すらない、不意に話し掛けられればそりゃ戸惑うだろう。

 俺は警戒させないように配慮しつつ、続けた。


「悪かった、いきなり話し掛けたりして。俺の事なんてやっぱ知らないよな」 


 美玲は俺の顔をじっと見たまま、少しだけ間を開けた。

 でもその表情に浮かんだ警戒心は薄れていき、次の言葉を発する時には緩やかな笑顔を見せてくれた。彼女は首を横に振って、 


「ううん知ってるよ、埜上治君でしょ? 私が責められた時、庇ってくれた……」


 今度は俺が驚かされた、彼女は話した事もない俺の名前を知っておいてくれたのだ。


「あの時はありがとう、嬉しかった」


 予期出来る筈もない、美玲からの感謝の言葉。知的っていうか落ち着いてるっていうか何て言うか……大人びた感じの喋り方だった。

 だけど初めて間近で見る彼女の笑顔は、本当に綺麗で可愛らしかった。

 遠目で見ていた時はあまり人と話したがらないタイプの子かと思ったが、話してみれば案外そうでもないのかもしれない。


「いや、別に俺は……」


 照れくさくなって視線を外す。でも、彼女と打ち解けられた気がした。

 もっと仲良くなりたい。そう思った俺は、とっておきの提案をする。


「あのさ美玲、今時間あるか?」


「え? 三時くらいまでなら大丈夫だけど……何で?」


 学校の校舎に付けられた時計を見た、今日は午前中だけで授業が終わったから、まだ午後一時前だ。

 時間はある、そう思った俺は彼女に提案した。


「そっか、それじゃさ、ちょっと俺と行かないか? ここからそんな遠くない場所だから」


「え、行くって……どこに?」


 俺は、その場所の名前を伝える。


「ミュージックハウス翼って所。音楽教室なんだけどさ、お前楽器好きだよな?」


 昼休みの時間とか、美玲が教室のピアノを弾く所を俺はしばしば目にしていた。先生の演奏と違いが分からない程の素晴らしい腕前で、周りの生徒も感心していたのを覚えている。

 種類は違えど、俺も楽器を嗜む者。美玲がピアノを好きだって事は、見ていれば分かるのだ。鍵盤に指を走らせ、美しい旋律を奏でている時の美玲の表情は本当に幸せそうだったからな。

 美玲は頷いた。


「私……行ってみたい」


 お堅い子なのかと思ったが、明るくて無邪気な声も出せるんだな、と感心した。

 話は、決まった。 


「よし、それじゃ行こうぜ!」


 俺は美玲と一緒に、ミュージックハウス翼へと歩き始めた。

 その最中、俺は彼女と色々と話をした。学校での事は、彼女の気持ちを考えて触れないでおいた。話題はもっぱら楽器の事だ、美玲曰く、彼女はピアノだけでなくバイオリンも弾けるらしい。マジでお嬢様って感じだな。

 美玲も、俺が何の楽器をやるのか訊いてきた。でも着いてからのお楽しみって事で、はぐらかした。

 程なくして、俺達は目的の場所に到着した。

 扉を開けると、ドアベルがカランカランと耳心地の良い音を鳴らす。


「やあ治。ん、お友達かい?」


 いつも通りの優しい声色で俺達を出迎えたのは、やっちさんだ。やっちさんはすぐ、俺の隣にいた美玲に目を留めた。


「そう、例の転校生なんすよ」


「え、本当かい?」


 美玲はやっちさんと視線を合わせるなり、顔を赤くして後退してしまった。

 初めて会う人だから緊張しているのだろう、俺は彼女にやっちさんを紹介する。


「ここの店長さんだよ、やっちさんって言うんだ」


「やっちさん……?」


 やっちさんが美玲にゆっくりと歩み寄り、しゃがんで彼女と視線を合わせる。

 ポケットから名刺入れを取り出し、そこから名刺を一枚取り出して美玲に差し出した。


「坂垣康則と申します、やっちと呼んでください」


 初めてここを訪れる人には、必ず渡す物だ。俺も初めてやっちさんと会った時貰って、今も取ってある。

 美玲は名刺を受け取ると、


「美玲愛歌です、よろしくお願いします……」


「へえ、美玲さんって言うんだ。こっちこそよろしくね」


 美玲はこくりこくりと頷く。まだやっちさんに慣れないようだけど、きっとすぐ打ち解けられると思った。やっちさんは温厚で、誰にでも優しいからな。

 名刺入れをポケットにしまうと、やっちさんは立ち上がった。


「それで、美玲さんは何か楽器やるのかな?」


 真っ赤になっている美玲の代わりに、俺が答えた。


「美玲、ピアノが上手いんですよ。それにバイオリンも弾けるって言ってました」


「へえ……すごいね美玲さん」


 やっちさんが感心したように言う。


「いえ、別にそんなすごくなんか……」


 美玲は否定する。でも、本当にすごい奴は謙虚で自分の才能を誇示したりしないもんだ。


「よかったらスタジオに行かないかい? 聴いてみたいな、美玲さんのピアノ」


「で、でも私、本当に下手で……!」


 やっちさんの提案に渋る美玲、俺も推した。


「とりあえず、ここのピアノ見てみないか? そしたら美玲、きっと弾かずにはいられなくなるぜ」


「えっ、じゃ、じゃあ……見るだけなら」 


 やっと首を縦に振った美玲、俺とやっちさんは、彼女をスタジオに案内した。

 通路を進んで階段を上がり、やっちさんが重たい防音扉を開く。広々とした部屋に、沢山の楽器が並んでいる。ギターにベース、俺がいつも使うドラムセットにキーボード、バイオリンまで。

 そして、部屋の端っこらへんにはこげ茶色のグランドピアノが設置されていた。


「わあ……」


 そのピアノを見たのか、あるいは楽器が整然と並ぶこのスタジオの壮観さに感動したのか。美玲が感動の声を発した。

 俺とやっちさんよりも先に、美玲はスタジオに踏み入る。


「楽器がいっぱい、すごい……!」


「ほら美玲、あそこ」


 俺は、彼女のお目当てであろう楽器、グランドピアノを指さした。海外の歴史ある製造メーカーが製作した、小型化されたモデルではあるものの何百万もするピアノだって聞いている。

 俺はピアノをやらないから分からないけど、美玲は一目でそのピアノの価値に気付いたらしい。

 彼女は、引き寄せられるようにそのピアノに駆け寄った。


「ベーゼンドルファーですよね? 初めて見た……!」


「へえ、よく知ってるなあ」


 やっちさんが感心したように言う。

 美玲が活き活きとした面持ちでピアノに視線を泳がせていると、やっちさんが提案した。


「弾いてみたいかい? 美玲さん」


「え……」


 美玲はピアノを見た後、再度やっちさんの顔を見上げた。


「本当に、弾いてもいいんですか?」


 彼女の表情には、先程までの躊躇いは消えていた。

 ピアノを弾ける事への期待に胸を躍らせているのが、俺にも伝わってきた。


「そ、それじゃあ少しだけ……」


 さっきまで渋っていたのが嘘みたいに、美玲は弾むような足取りでピアノに駆け寄る。やっぱ俺の言った通りだった、このピアノを目の前にすれば、ピアノを弾く人が黙っていられる筈はない。

 やっちさんが美玲の体格に合わせて、ピアノ椅子の高さを調節する。


「さあ、どうぞ」


 美玲がピアノ椅子に腰掛け、鍵盤に十本の指を添えて、彼女は少しだけ深呼吸した。

 そして、スタジオ中に暖かく柔らかい音色が奏でられ始めた。大いに聞き覚えのある曲だった、でも初めて聞くように新鮮で、透明感があって……思わず聞き入ってしまう。


「ベートーベンの悲愴、第二楽章だね」


 やっちさんが小声で言った、多分美玲の集中を切らせないように配慮したんだと思う。

 奏でられるピアノの音も素晴らしかった。ピアノが高級品だからって訳じゃなくて、美玲が楽器の良さを引き出す力を備えている故だと感じた。正直、学校の先生の演奏と変わらない……というか、学校の先生より上手いって言っても過言じゃないぞこれ。

 そして何より、俺はピアノを弾く美玲の姿に見入っちまってた。

 最初見た時も、彼女はお嬢様っぽい雰囲気を纏っていたのを覚えてる。それが高価なピアノと合わさって更に気品を醸してる感じだった。学校で弾いていた時とは全然違う、まるで神にでも語り掛けてるかのような……言葉では表現出来ない物が、美玲を覆い包んでいた。

 美玲の演奏は、三分くらいで終了した。でもなんか、俺にはその時間が永遠のように思えた。

 ピアノ椅子から降りた美玲が、俺とやっちさんにぺこりと一礼する。


「ど、どうだった……かな?」


 俺は正直、何と言えばいいのかも分からなかった。なんかもう凄すぎて、どう褒めていいのか見当もつかなかったんだ。でもやっちさんが何も言わずに手を叩き始め、俺もそれに続いて美玲に拍手を贈った。

 美玲は顔を上げると、頬を赤らめながら言う。


「あ、ありがとう。自信なかったけど……嬉しいな」


 そんな謙遜する事ない、と思った。最初見た時から控えめな性格だとは思ってたけど、彼女は決して自分の才能を鼻にかけたりしなかったんだ。

 俺の気持ちを代弁するように、やっちさんは、


「いやすごく上手いよ、このピアノを完全に自分の物にしてる……思わず聞き入っちゃったな」


 やっちさんも、俺と同じ感想を抱いたようだった。

 冗談や誇張を抜きにして、彼女の腕は一級品だった。言っちゃ悪いけど、奈々よか全然上手いと思う。

 彼女は俺を向くと、


「ねえ、埜上君も楽器やるんだよね?」


「ん、ああ。まあな」


 そういえば、俺が何の楽器をやるのかはまだ教えてなかったな。

 俺はその楽器を指差して、


「俺がやるのは、これさ」


 スタジオの中でも一際大きな存在感を放つ、ドラムセットだ。


「ドラム……埜上君、叩けるの?」


「まあ、少しだけな」


 すると美玲は、いつもの控えめな様子からは想像もつかない活き活きとした表情を見せて、俺に頼んだ。


「叩いてみてくれない? 私……見てみたい」





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