第5話 治と愛歌



「マジでか?」


 正直な所、美玲がそう言ってくるとは思ってなかった。

 あくまで個人的な感覚だが、ドラムってのはバンド演奏で使用する物。ピアノやバイオリンも嗜むという美玲の好みからは、ちょっとばかりズレた楽器だと感じるのだが。

 でも美玲は頷き、「ダメかな?」と問うてきた。

 するとやっちさんが、


「見せてあげたらどうだい治、君の本気のドラムソロ」


 と促してきた。

 ……よし、ここで拒否したらドラマーのプライドに反する。俺は美玲に向き直って、


「分かった。見てろよ、まばたきもさせないからな」


 俺はドラムセットに歩み寄り、スティックホルダーに収められた二本のドラムスティックを手に取った。ドラムベンチの高さを調節して腰を下ろし、クラッチのネジを緩めてハイハットシンバルの高さを調節する。次にスネアドラムのスナッピーを上げる。そんでシンバルの位置を俺好みな配置に少し動かして、準備完了だ。

 やっちさんが、防音用イヤーマフを美玲に渡して、


「それを耳に掛けておいて、慣れない人がドラムの音を間近で受けると耳鳴りが止まらなくなっちゃうからね」


 美玲を気遣っての事だった。生ドラムはジェット機のエンジン音にも匹敵する音量が出るから、耳の保護が大事なのだ。俺は慣れてるから平気だが、美玲はそうじゃないだろう。

 流石やっちさん、配慮を効かせてくれてる。


「あ、はい」

 

 イヤーマフを見つめた後、美玲はそれを装着した。

 俺は軽く伸びをして体をほぐす、ドラムを叩く前には必ず行う準備体操みたいな物だ。

 美玲が本気のピアノを聴かせてくれたのだから、俺だって最高のドラミングを披露しなければならないだろう。呼吸を整える俺の事を、美玲とやっちさんが見ていた。

 

「ふーっ……」


 二本のスティックを同時に振り上げ、俺はまず二枚のクラッシュシンバル、そして同時に右足でバスドラムを踏み鳴らした。それが開始の合図だ。

 そこから一気に、たたみかけるようなドラミングを展開していく。ただドン・タン・ドドタンやるだけの単調なリズムじゃなくて、スネアも三つのタムもバスドラもシンバルも満遍なく織り交ぜた、耳で聞いても到底コピー出来ないようなフレーズを次々打ち出す。パフォーマンスに、時折スティックを手の中で回したりもした。

 スタジオのクーラーも付けていなかったから、あっという間に汗だくになってしまった。

 叩いていると夢中になってしまいそうだったが、いいとこで切り上げる事にした。締めにもう一度二枚のクラッシュシンバルを打ち鳴らして、ものの数分で俺は公演(観客は二人だけだけど)を終了した。

 すかさず、拍手の音が聞こえる。 


「す、すごい埜上君……!」


 美玲だった。イヤーマフ越しでも、俺のドラミングは彼女にしっかり届いていたみたいだ。

 やっちさんが美玲に言う。


「彼、うちにドラム習いに来てる子達の中でも指折りの実力者なんだよ」


 勿体無いお言葉だった。


「そんな事ないですってやっちさん、俺なんてまだまだ……」


 謙遜しつつスティックをホルダーに収め、二枚のクラッシュシンバルを手で掴んで残響音をミュートし、俺はドラムベンチから腰を上げた。

 頬を流れ落ちる汗を手の甲で拭って、俺は美玲にぐっと親指を立てる。


「悪くないだろ?」


 

 ◇ ◇ ◇



 楽しい時間は、いつもあっという間。

 美玲は三時までに帰らなければならないから、ミュージックハウス翼に居たのはほんの一時間半くらいだった気がする。

 帰り道、俺は美玲と一緒に道を歩いていた。音楽の話題で、それなりに話は弾んでいた。


「それでな、すっぽ抜けたドラムスティックが俺の顔面にぶち当たったんだよ」


「ええっ、それ痛そう」


 昔の失敗談をすると、美玲は笑い交じりに応じた。あれは笑えない程痛かったけどな。

 美玲とはすっかり打ち解けられた気がした、彼女は俺と話す時にも緊張した色を見せなくなったし、それに彼女の方からも俺に話を振ってくれるようになった。


「埜上君は、いつからドラムやってるの?」


「幼稚園の頃からさ、父さんに薦められて始めたんだ」


 思い返せばもう、七年程叩き続けてるんだな。長い付き合いになったもんだと思う。


「すごいね、だからあんなに叩けるんだ……」


「いや、そんな……それ言ったら美玲のピアノだってすごいじゃん、誰かに教わったの?」


 俺は何の他意もなく、その質問を美玲にしたつもりだった。

 でも、途端に美玲の様子が変わった。視線を俺から外したかと思うと、何だか物憂いような……悲しいような表情を浮かべて、黙り込んでしまったんだ。

 気に障る事を言ったのだろうか、と思った時、


「お母さんだよ、お母さんが教えてくれたの」


 数秒の沈黙を挟んで、美玲は答えた。

 その時の彼女はもう曇ったような顔はしていなくて、元の美玲だった。気のせいだったのか? それとも何か、俺が美玲の気に障る事を言ったのだろうか。

 そうして歩いているうちに、分かれ道で美玲が足を止めた。 

 彼女は片方の道を指差した、俺の家がある場所とは逆の方向だった。


「じゃあ埜上君、私こっちだから……」


「あ、そっか。それじゃ美玲、また明日学校でな」


 彼女は踵を返そうとせずに、まだ言葉を続けた。


「ありがとう埜上君、話し掛けてくれて嬉しかった。私、あのまま独りぼっちになっちゃうと思ってたから……」


 また、美玲の顔に悲しみの色が滲んだ気がした。

 そうだ、彼女は病気の事が原因でクラスメイトの連中から酷い事を言われて、しかもノートに暴言を書き殴られた。思い出した途端、悲しさとやるせなさ、そして怒りが込み上がる。

 美玲が何かしたか、あんな仕打ちを受けるだけの事をやったのか? 彼女はただ体が弱いだけだ、他は誰とも変わらない普通の女の子じゃないか。

 ――とにかく俺は、美玲の悲しい顔を見ていられなかった。いや、彼女にそんな顔してほしくなかったんだ。


「なあ美玲……気にすんなよな、美玲は何も悪くなんかないんだ。悪いのはお前に酷い事をした奴らなんだからさ」


 まだ、美玲の顔からは悲しい色が消えない。

 もっと、言葉が必要だ。


「今度苛められたりしたらさ、俺を呼べよ。いつだって助けるから」


 美玲が微かに笑ってくれた。うん、彼女は笑顔の方が断然いい。

 これは言おうか迷っていた事だったけれど、やっぱ言う事にした。


「なあ美玲さ、もし良かったらでいいんだけど……俺達のバンドに入らないか? お前ピアノめっちゃ上手いし……俺の仲間達にもお前の事紹介するよ、皆良い奴だから絶対仲良くなれるって」


「バンド……私が?」


 これは流石に行き過ぎた誘いだったか、と少しばかり後悔する。

 しかし、美玲は少し考える様子を見せると、


「私……入りたい」


 そう言ってくれた。

 すごい嬉しかった、美玲のピアノを初めて見た時から、彼女と一緒に音楽をやってみたいと思ってたんだ。


「そっか嬉しいよ、またミュージックハウス翼に行こうな、今度は皆も呼んでおくからさ」


 美玲は頷いた。

 そろそろ時間だな、長い事引き留めておくのも迷惑だろうし、この辺で切り上げよう。


「それじゃ美玲、三時には帰らなきゃならないんだろ、この辺で……」


 と、そこまで言いかけた時だ。

 美玲が割って入る形で、そう言った。


「愛歌」


 アイカ、と。

 咄嗟に意味を理解出来なくて、俺は問い返す。

 

「ん、何?」 


 彼女は俺と視線を合わせて、そう言った。


「もし良かったら……苗字じゃなくて名前で呼んでくれないかな? 私も治って呼ぶから」


 理解した。愛歌とは、美玲の下の名前だ。

 歌を愛する……か。こじ付けじゃないけど、いかにも音楽が好きって名前だ。綺麗な声してるし、案外ボーカルやってもらったらハマるかもな。

 どうして彼女がそんな事を頼んできたのかは分からなかった、でも苗字よりは名前で呼び合う方が友達って感じがしていい。断る理由は見当たらなかった。

 

「分かった、それじゃその……また明日な、愛歌」


 早速俺が名前で呼ぶと、


「うん、ばいばい治」


 彼女も俺を名前で呼んでくれた。

 手を振り合って、俺達は別々の道を歩み始める。その最中で俺は振り返って、小さくなっていく愛歌の後ろ姿を見つめた。

 人と接する事は苦手なのかと思ってたけど、慣れれば全然普通に話せるじゃないか。思い切って話し掛けてみて正解だったな、音楽が好きだって所も通じ合いそうだし……友達が一人増えた。

 歩み寄って本当に良かった、心の底からそう思う。


 ――まさかあんな事になるなんて、この時は微塵も思ってなかったんだ。





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