日常

 瞼を撫でる柔からな温もり。赤い血潮が眼裏に透けて、朝の訪れを告げている。


「んん……」


 一日の始まりは、いつだって怖い。まだ知らない今日に挑戦しなければならないから。それでも恐れて目をつむり続けていれば、恐怖が去ってくれるわけでもない。いつだって未知に対する恐れというものは、実際に行動を起こすまで胸のなかに居座り続ける厄介な同居人だ。


 それも、まあいいだろう。

 恐れを感じる分だけ、この世界には期待が満ちている。期待を抱ける分だけ、生きてきた時間の貴さを知っているのだから。


 おもむろに瞼をひらけば、朝陽がカーテンの隙間から挨拶をする。薄暗い室内に差し伸べられた手のようで、ちょっぴり押しつけがましいけれど優しかった。


「おはよう、アキちゃん。よく寝てたね?」


 秋穂は、声のするほうに視線を滑らせる。

 そこに見知った愛しい相貌があった。

 

 藤村健吾。


 一つ年下の恋人だ。

 その手許から香ってくるコーヒーの匂いに、秋穂は截然と現実を思い知った。


 ここが私の生きてきた世界だ。


「おはよう。本当によく寝た。なんか清々しい気分」


 健吾はテーブルに二つのマグカップを置くと、秋穂に向き直って微笑んだ。


「アキちゃんもそうなんだ。実は俺も。好い夢見たとかじゃないんだけどさ。むしろ、長い間、すっごい嫌な夢見てた気がする。でも、ああ、あれって夢だったんだなぁって。安心したみたいな」


「へぇ、どんな夢?」


 秋穂は、その意味を知りながら尋ねた。

 あの不可思議な体験もまた、長い夢だったのではないかと思いながら。


「なんにもしたくねーって夢? なんか上手く言えないけど、そんな感じ。自分を保ってるのも嫌っていうか。もう全部どうでもいいやぁって思いながらベッドで横になってんの」


「それって嫌な夢なの?」


 健吾は答えるより前に、マグカップを差しだしてきた。

 礼を返して受けとると、二人でほとんど同時にカップを呷った。

 その様が可笑しくて肩をすくめ合う。


「今になって思うと、嫌な夢だったなって思うんだよね。今みたいな些細なことで笑えもしないんだもん」


「なるほど。それは嫌だね」


「うん。世の中にはさ、気付いてないだけで、大切なものが沢山あるんだなって思うよ」


 目の前にいるこの人は、きっと人が単純に「特別」と言ってしまえるような特別な人だ。だから秋穂は、彼の肩に頭をあずけて頷きたかったけれど、特別の意味が変わってしまわないうちに、深く首肯した。


「本当に。なんでもない今日を迎えられるのが、嬉しくてたまらないよ……」


                ◆◆◆◆◆


 スマホを見て、手帳をひらき、なんとなく今自分のいる時間がはっきりとしてきた。あの悪夢めいた時間が、一体いつの事だったのかはよく思い出せない。だから、あれより前の時間にいるのか、後の時間にいるのかは曖昧だ。面接の日が近いようだから、最後の夜よりは前の時間なのだろう。


 それにしても面接か。

 嫌な思いをしたことははっきりと胸の内にあって、億劫だった。怯懦が身をもたげて、挫けてしまえと囁くようだ。この世界をとり戻したいと、そのために全力で自分を信じるのだと誓ったのに、いざ問題を前にすると、やはり怖い。


 だから秋穂は、もっと世界を感じたいと思った。自分がここに生きているということ。信じているということを、身をもって感じたかった。


 とあるアパートの駐輪場を横切ると、とてとてと黒猫が目の前を通りすぎていった。


 秋穂はアパートの正面に回りこんで、一階のある部屋を訪ねた。

 呼び鈴を鳴らすとその人は、恐るおそるといった様子でドアの隙間から顔を出した。それなのに表情は無だ。恐れも懐疑もない。こちらを認めた時に、片眉がぴくりと動くのだけが、察せられる感情のすべてだった。


「ん、来たね。まあ入って」


 三澄夏南は、口調も素っ気ない。けれど、その端々に滲んだ親しみが懐かしかった。


「お邪魔します」

「邪魔すんなら帰れー」


 ちょっと冗談と受けとりづらい軽口も変わりない。


 居間に通されると、ローテーブルの上は文庫本、教材に埋めつくされていた。孤島めいて鎮座した鳥籠は、ひどく窮屈そうだ。けれど、扉は開いていて、中にモモはいない。


 どこだろうと見渡せば、カーテンレールの上にとまっていた。

 目が合うと首を傾げて「ヤベェ!」と大仰な声をあげる。夏南も「ヤベェ!」と応えるので、どうやら挨拶のようだった。


「ま、テキトーに寛いでて。茶でも淹れるから」

「ありがとう。お菓子買ってきたよ」

「お、マジで。なになに?」

「ポテチ」

「太るじゃん。最高」


 秋穂はテーブルの前に腰を下ろして、菓子袋をあける。とたんに広がるじゃがいもの香り。ちりっと塩気が混じる。うすしお味だ。


 モモはそれを好奇の目が見下ろすけれど、啄みに降りたつということはなかった。よく躾けられているのか、下々の者どもを高みから見下ろすのが好きなのか。あるいは、矛盾しているようにも思えるけれど、両方なのかもしれない。いずれにしても可愛いご主人様だ。


 遅ればせながら「ヤベェ」と挨拶し、モモの反応を楽しんでいると、台所から夏南がやって来る。テーブルのうえは片さずに、お盆を直接床において「はい」と差しだすのがいかにも夏南らしい。


 だが意外だったのは、てっきり麦茶でも出てくるのかと思えば、紅茶がでてきたことだった。おまけに、マグカップにティーパックが沈んだままで、色もまだ薄い。


「紅茶は意外……。ポテチもってきたのは失敗だったね」

「いやぁ、ゼミの子がくれてさ。まあ、大丈夫でしょ。コーヒーと一緒に食うポテチよりマシだって」

「そうなの?」

「うん。あれはクソ。まあ紅茶で食べるの初めてだけどさ」

「テキトーだなぁ」


 それから紅茶を飲みながら、くだらない話をした。「やっぱり紅茶とポテチはミスマッチだ」とか「病院でもらった薬を使いきれない」とか「モモの股間はとくに黄色い」とか、とにかく意味のない事ばかり話し合った。


 それだけで充分だった。面接のために、どんな準備が必要かなんて今更話し合う必要はなかった。秋穂は、ただここにある日常を満喫したかった。学生という時分も終わるなら、尚更、この平凡で馬鹿みたいな時間を堪能したかった。


 だから夏南のほうから「もし、私たちの生きてる場所が」と文庫本を手にとって切りだされた時には、胸底の凍えるような思いがした。


「……物語の世界だったら、そう考えたら怖くない?」


 夏南の眼差しは、ある種の確信に満ちていた。自分たちがそのようにある事を自覚しているような怯えがあって。はり付いた無表情は繕いのように見えた。


 けれど、秋穂は胸に湧いた恐れをそっと抱きしめて、目の前の夏南と向かい合う。問いの答えは、きっとここにあるすべてだ。


「怖いよ。でも私の物語は、私の物語だから。それを信じてる限り、きっと自由なんだよ」


「自由?」


「本当の物語の書き手は、きっと私だって思うの。誰も私の人生を生きてはくれないし、誰も夏南の人生を生きてはくれない。真実、私を感じるのは、神様でもないんじゃないかなって……。夏南はそう思わない?」


 いつか不安定な世界のなかで、夏南と協力を仰ぎ合った。結局は、夏南が春菜になって有耶無耶になってしまったけれど。あの時と同じように、夏南は助けを求めている。独りで生きられるほど、物語は単純ではないから。


「わかんないなぁ。そう言われたら、そういう考えもあるんだなって思うけど。でも」


 夏南がモモを見上げる。モモはそれが嬉しかったのか「ヤベェ!」と鳴いた。


「諦めたくはないかな。誰かのペンで操られてるとかムカつくし。私が生きてきた時間を、自分で否定するのも違うって思う。やり直したい事とか、なんでこうなったんだって思うこと沢山あるけど。それも今の私が生きてる糧なのかなって思ったり」


 そう言うと夏南は頭をかいて「あー、やっぱいいや!」と文庫本を投げだした。


「それよりさ、今日泊まってく?」


 それもいいなと思いながらも、秋穂は緩やかにかぶりを振った。


「ごめん、また今度泊めて。今日は家でゆっくりしたいんだ」

「オッケー。じゃあ今度は麦茶用意するわ」

「はは。それなら私はまたポテチでいい?」

「いいよ。うすしお最高だし」


 無表情の夏南が笑う。

 どこか憑き物の落ちたような柔らかさで。


 それを見て秋穂は思う。

 自分もこんな風に笑えているだろうかと。


 けれど自分の顔は見えなくて。

 そういう世界だからこそ、今、大好きな親友とこうしていられるのかもしれないとも思えた。


 この世界は自分のものだけれど。

 決して自分一人で生きているわけではないから。


                  ◆◆◆◆◆


 さあ、いよいよだ。


 そう思いながら我が家のドアを開いた。

 外はすっかり夜の景色で、けれど家の中は明るかった。

 

 今日の終わりは、両親と過ごしたかった。べつに何か特別なことをするつもりはない。子どもの頃のように、キャッチボールをしようなんて言いだしたら、きっと有無を言わさず病院へ連れていかれてしまうだろうし。大好きな唐揚げがでてこなくても、ただ何でもない一日の、何でもない団欒を過ごせると思うだけで幸福だった。


「ただいまぁ」


 リビングのドアをあけると、台所のほうから「おかえりー」と気怠い母の声。

 ソファの陰からはぬっと手が現れて、それが父なりの「おかえり」の合図らしかった。


 手を洗って、母の隣にたつ。食卓にはもうサラダが置かれているけれど、どうやらメインディッシュは盛り付けが終わっていないようだ。秋穂は母を手伝って、怪訝な眼差しを受ける。


「どうしたの。いつも手伝ったりしないのに」

「たまにはいいかなって」

「なんか企んでる? 後ろめたいことでもあるの?」


 ずいぶんな言い草に、ちょっとむっとする。

 だが、日頃の行いから生まれた不審だ。これからはもっと母のことも気遣っていこう。それが当然の日常を送ろう。


「何にもないよ。ハンバーグ? おいしそうだね」


 母はいよいよ気味悪がって父を呼ぶ。


「ちょっとお父さん! 秋穂が変なの!」

「べつに晩飯の用意手伝うくらい、他の家でもするだろー」

「いつもしないじゃない、この子」

「善意は素直に受けとるべきだぞー」


 父はなぜかへらへら笑って食卓につく。秋穂がハンバーグの載った皿を運び終えると、各々の皿にサラダを分けていった。


 その様を見て、母は目を白黒させている。


「お父さんまでどうしたの……。熟年離婚の心配とか?」

「ハッハ! 大袈裟だなぁ」


 快活に笑ってから父が、ふいに神妙に眉を寄せる。


「それ本当に考えてたりしないよな?」


 父の正面に腰かけて、秋穂はくすくすと笑う。

 

「お父さんの態度次第じゃない?」

「うっわ、そういうこと言うかね。女は娘でも怖いこわい……」


 そう言って自ら腕をさする父へむけ、秋穂は露悪的にわらう。

 そんな仲睦まじげな親子の姿をまえに、母も和やかに脱力したようだ。微笑んで、秋穂の隣に腰かける。


「なんか久しぶりね。こうやって普通に三人で食事するのって」

「そうだっけ?」


 秋穂はとぼけて首を傾げた。


 本当に久しぶりだった。

 父とはケンカばかりしていた。

 母とだって、ここ最近はろくに口を利いた覚えがない。


 周りの声なんて、疎ましいばかりだった。誰も自分のことを解ってくれないと拗ねてばかりいた。


 もうそんな日々には戻りたくない。

 でも、また、そんな日々がやって来ないとも言い切れない。

 人間は弱い生き物だから。

 すぐに信じるべきものを忘れ、大切なものを他人に委ねてしまうから。


「まあ、細かいことはいいよ。とりあえず食べよう」

「そうね」

「それじゃあ、」


 それでも生きていれば、この世界を愛し続けていれば、必ず。

 今日のような日もやって来る。

 一つの苦難を越えて、今、この場所を信じる自分があるように。


「「「いただきまーす」」」


 間違った選択も、あるいはやり直して進んでいけるだろう。

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