リライト
二つのガラス玉に映った景色が、どんどん遠ざかっていく。
それがまるで水面の向こうに笑う太陽のようで。
自分がどこか深いところへ沈んでいるのだと気付くのに、ずいぶん長い時間を要した。
マーズ。
ガラス玉のあの子は、そう名乗った。
彼女はとても純粋に、居場所を信じていた。
羨ましかった。
自分はそれを失くしてしまったから。
けれど、羨望は無意味だ。
抗わなければ。
忘れてしまった名を取り戻すために、足掻かなければ何も変わらない。
「ああ……」
今、真っ白に、そう、真っ白に染まった世界のなかへ沈んでいく。
それはとても心地良いもので、全身を綿で包みこんでくれるような微睡が優しかった。
誰も自分に役割を求めず、期待せず、そもそも他者というものが存在しない、虚空のベッド。
このまま眠ってしまっても、いい気はする。そのほうがきっと楽だろうとも。
「でも……」
それは、きっと自ら牢獄へ入ることと同義だ。
楽を選んでしまえば、それに甘んじてしまえば。
待っているのは、きっと不幸もなければ幸福もない虚無だろう。
対極にある言葉は、どちらか一方が欠けてしまえば存在できない。
「私は……」
ずっと逃げてきた気がする。
何も思い出せないけれど。
幸せになりたい。不幸になりたくない。どうして自分ばっかり――と。
漠然としたものばかり追いかけて、目の前の事を遠ざけてきた気がする。
本当の意味で考えること。
幸や不幸の、その在り方と、真摯に向き合ってきたことは一度だってなかった。どこかで、そんな明暗のすべてを、諦めてしまえたら楽だろうと思ってきた。
自分がなぜ生きているのか。なんのために生きているのか。
その答えなどない。考えるだけ無意味だ。
みんながそう言うから、その通りに従ってきた。
つまりは自分も、そんなありふれた思想の海に溺れた、哀れなカナヅチだった。もがくだけの苦しみから逃れ、忍び寄る死を待つばかりの。
迷いながら苦しみ、答えのない空漠のなかに虚しさを見出してもなお、考えつづけることに人は倦む。真理を求めるのに、疲れ、絶望し、飽きてしまう。それだけ不明瞭で、途方もない問題だからと。諦めに諦めを重ね、同調して死んでいくことに、抵抗を感じなくなっていく。
だけど、そんなものは幸福の貴さを忘れ、刹那的な絶望に酩酊するための詭弁だ。
自分の人生は、他人の価値観に振り回されて終えるものではない。自分が感じてきた無数の瑞々しさと向きあい、誰のものでもない自分の信仰を抱いていかなかれば、いずれ肉体が朽ちるより早く命の終わりはやって来る。
死とはそんなありふれた普遍だ。あるいは、ありふれた普遍こそが死だ。
真実、死に抗いたいのならば、苦しみで以て刮目せねばならない。
だからこそ、
「私は……」
目をひらく。開きつづけることを選ぶ。沈んでいく空白の中で。
鮮やかに色づく一瞬を、決して見逃さぬように。
そうすることで気付かされる。
思い出せないのではないと。
自ら、たくさんものを捨ててきただけなのだと。
『愛してるよ』
『私の部屋に来なさい』
『メシにしよう』
脳裡に蘇る、いくつもの記憶。
どれも茫洋として、名前もおぼろの人々。
模糊として霞んだ出来事。
それでも、些細なただ一瞬一瞬の幸せが胸に満ちていくのを感じる。
辛いこともたくさんあった。泣きたい気持ちは、果てなくこみ上げる。感情が逃げたいと悲鳴をあげる。
その傍らでなお幸福が募っていく。
ずっと知っていたはずの。
捨ててはならなかったものを、今になって、ようやく拾いあげていく。
「そうだ。楽じゃなくても、私……」
誰のためでもない。誰のものでもない。
大勢のためでもない。たった一人のものでもない。
決して蔑ろにできない特別とともに自分はここにいる。
誰が認めなかったとしても。
たとえ神にさえ抹消される存在だとしても。
自分を形作るのは、神のペンでもキーボードでもない。紙に記された文字でも、絵でもない。
本当に自分を定義できるのは、
「私……!」
だから手を伸ばす。
まだ何も始まっていない、真っ新な世界に向けて。
たくさんの事物が始まっていた、貴い場所に向けて。
「生きたい!」
そう叫びながら。
ただここにある指先で、線をひく。
「だって私は――」
何度も。
松|
何度も。
松村|
何度も。
松村秋|
何度でも!
「ここにいるものっ!」
松村秋穂は手を伸ばす。
理不尽で不幸にまみれた、一片の幸福が待つ世界へ。
自分の信じてきた唯一の場所へ。
ボコ――。
今、空白の海に泡が昇って。
ボコボコ。
命が始まる。
真っ白に閉ざされた世界に、色彩の陽がともる。
柔いやわい朝の訪れを感じている。
その予感に恍惚としながら、秋穂は胸のまえに手をやって、懐かしい感触に視線を落とし笑った。
「はあ……ダサいなぁ」
あるのは、無骨なシルバーの指輪。
秋穂は見慣れたそれを眺めて、新鮮な気持ちで対峙する。
「でも、そっか……。そうだったんだね」
神のペンが、もし本当にあるのだとしたら。
それはきっと最初からここにあった。
顔も名前も知らない、天より遠いどこかの誰かの手中ではなくて。
ずっと自分の中にあったのだ。
人はそれを忘れていく。
誰かにペンを委ね描かせることに馴致する。
秋穂もそうだった。
世界があるのは、当たり前のことだと思っていた。
貴い出来事の一つひとつ、大切な人たちの一人ひとり。
何一つ、誰一人として、特別でないものなんて、当たり前なものなんてなかったのに。
たまたま、ずっと側にあって、みんながそんな風に生きているから、あって当たり前だと思いこんできた。
けれど本当は、たくさんのものを疑って、その上で信じて、自分だけの物語を、この手で描き続けなければならなかったのだ。
だから、これから迎える朝は、誕生の朝。
今、長い夜がひとつ終わって。
新しい払暁に始まろうとしている。
松村秋穂という物語の
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