???
体毛の間をすり抜けて撫でるような温かな光に、彼女の微睡はそっと破られた。
両腕の上にのせた小さな額をもちあげ、毛の中に切れ込みをいれたような双眸をゆっくりと開いていく。眩しい。
彼女は片手で顔を撫でつけて、その眩さを払うようにする。眠気は一向に去らず、むしろ目覚めたことで鮮烈となり、綿の虫が頭へ巣くったように感じられる。もうひと眠りしようかとも考えるが、やはり日差しが眩しい。床に額をこすりつけるようにして光を遮っても、どこからかそれは漏れて、瞼の切れ目につんと入りこんでくる。眠るにしても場所を変える必要があるな、と彼女は、両腕をまっすぐに伸ばしてお尻をきゅうと糸に引かれるイメージで伸びをした。
もう一度かおを撫でてから歩きだすと、不思議と眠気は遠ざかっていった。歩き慣れた冷たい床は、ますます眠気を遠ざける。それと入れ違えるようにして、頭の隅に何者かの存在を感じた。
彼女はとっさに振り返るが、何がいるわけでもない。今しがた置き去りにしてきた縁側に、光の池が溜まっているのを見るばかりである。その間にも気配はあり続けて、しかし何か悪戯をするわけでもない。ただ頭の隅で眠る仲間のように、じっとしている。害がないのなら、彼女にとってはどうでもいいことだ。首許に居座ったノミのほうがよほど厄介でイライラさせられる。向きなおって歩きだした。
うす暗い廊下をすすみ寝床をさがす。けれどいよいよ眠気は煙のように散ってしまって、もうその必要もないように感じた。目が覚めてくれば、彼女はほとんど本能的とも言っていい寂寥を覚える。両親に会いに行こうと思い立てば、スキップを踏むように歩きだした。
両親の居場所は大抵かぎられている。母は食料の調達のために家をでることもあるが、父は家にいることが多い。いつもピカピカ光る箱のまえで、でっぱりの付いたヒラメのようなものを叩いている。両親の声が聞こえないので、やはり母は外に出ているのかもしれない。彼女は自分の耳に自信があって、厚い壁にはさまれた隣室の虫の足音さえ聞き逃したことはなかった。
ぱたぱたと階段をのぼっていくと、固く閉ざされた扉がある。そこにはへんてこな突起があって、父も母もそれをひねって扉をひらく。彼女は賢く脚にも自信がある。両腕の間にきゅっと首をすくめて、月色の双眸を見開き、狙いを定める。あとは全身のばねを使って、びょんと跳びあがる。
彼女の丸い手が突起をつかんだ。それが重みで下にさがる。すると扉にちょっとだけ隙間が空く。そこをかりかりと腕で押し開けて、しなやかな彼女は無事、侵入に成功した。
椅子にどっかりと腰をおろした父が、それを見咎めて眉根を寄せる。
彼女はちょっとだけ哀しい気持ちになるけれど、自分の容姿にも自信があり、両親の愛情を信じているので、父がすぐに機嫌を直すのは解っていた。とびきり可愛らしい声を意識してパパと呼べば、とたんに父は「しょうがないな」と表情を綻ばせる。ちょろいものである。
父が「おいで」と言うので、彼女は一度そっぽを向く。可愛い子は駆け引きを忘れない。愛情に正直に答えるばかりでは、本当に可愛い子にはなれない。彼女はベッドの上にとびのって、そのふかふかの感触を指先でたしかめながら座りこむ。
すると玄関のほうで母の帰ってきた音がする。
ぴんとお尻をもちあげる彼女。けれど迎えには行かない。どうせ母がこの部屋へやって来るのは解りきっているからだ。両親はおしゃべりが大好きで、いつも彼女には解らない難しいことばかり話している。もうちょっと構って欲しいとは思うけれど、二人の仲が良いのは悪くないので、たまにちょっかいを出すくらいに留めている。
下でがさごそ音がして、しばらくすると予想通り、母がやって来た。鼻のひん曲がりそうな、あの泥水をもって。何が美味しいのか解らないが、どうやら父はあれが好きらしい。
父へ泥水を差しだすと、母は彼女の隣に腰を下ろした。柔らかい手が背中を撫でる。気持ちが良い。お尻のちょっぴり上の辺りなんかは最高だ。総毛だって目を見開かずにはいられない。びっくりするほどの快感がある。
しばしその快楽に酔いしれながら、彼女は両親を交互に見つめた。すると頭の隅の気配が、つと目を覚ましたように身動ぎするのが分かる。彼女は心のなかで『どうしたの?』と尋ねてみた。気配はまた身動ぎ。そしてぼんやりした霞のような声で答える。
『見たこと、ある気がして』
『わたしの両親を?』
尋ね返すと、気配は解らないというよりに身動ぎする。なんだか静かで不安定な子だ。何者かは知らないが、とてもか弱い感じがする。
彼女がそうして気配と対峙する間に、両親はまたおしゃべりを始める。母の表情は、あまり穏やかではない。
「どうして消してしまったの?」
母が切りだすと、父も穏やかでない表情を返す。
「あれは僕が書こうとしたものではなくなってしまったから」
「でも、物語は芽吹いたわ。あなたの文字は彼らの命そのものでしょう? だから、それを消すのって、なんだか可哀想な気がするの」
両親はまた難しい話を始めた。彼女にはまったく興味のない事柄だ。足許のふかふかに身をひたして、大きな欠伸をする。
一方で、彼女のなかの気配は、意外にも二人の会話に興味をそそられたようだった。何を聞きたいのかは知らないが、まあ少しでも元気になればいいな、と彼女はなんとなく瞼を閉じず、両親を見つめ続ける。
「君の言いたい事も分かる。一度生みだした物語だ。僕だって責任をもって最後まで書ききるさ。僕はあの作品を消し去ってしまったつもりはない」
「でもまた、彼らの人生は一変してしまうんじゃない?」
「より良いものになるさ」
「あなたが描こうとするものが、希望でなく絶望であったとしても?」
父はふいに母を鋭い眼差しで見返す。彼女はちょっとびくりとして、気配も慄いたようだった。
「……そうだ。僕は物語と真摯に向き合わなくてはいけない。だからこそ、たとえその終末が希望のないものであるのだとしても、妥協してはいけないんだ」
「物語のために物語を書くことはできないの?」
「できない事はない。だけど僕には、それが必要だとは思えない。僕は、この世の中に生きる人々の、その物語を豊かにするために物語を書くんだ」
「それがどうして絶望的な作品になるの?」
「簡単なことだよ。人は誰しも希望に縋りたがる生き物だからさ。だけど人生に困難のない道があるかい? 希望だけの伸びた道程などあるかい? ないよ。決してない。それでも僕たちは絶望に目を瞑ってしまう。そうしたくなってしまう。そして本当の絶望に対面したとき、対峙することを恐れ、掴むことのできない遠い理想ばかりを追いかけて潰れてしまうんだよ」
母は聞きながら哀しそうな顔をする。けれど返す言葉が見当たらないのか、じっと父の目を見つめている。
彼女はそれに安堵する。二人は徒に牙をむき傷つけあったりはしない。互いと向きあい、生きることを選んでいるのだと、彼女には解る。難しい話に興味はないけれど、二人が共にいるための姿勢を見つめるのは好きだった。
「本当は僕も幸せな物語が書きたい。物語の中の人々が、ずっと幸せにいられる世界だ。だけど僕は伝道者だから。そのための道を選んでしまったから、傲慢な神としてあることを認めなくてはいけないんだ。僕たちと共に生きる隣人や、あるいは顔も知らぬ人々のためにね」
「あなたの言い分はよく解ったわ。たしかにあなたの志は尊重する。でももし、私があなたの物語を見て、それを否定するような理想を望んでも、あなたは私の考えを許容できる?」
その時、父が初めて彼女に向けるような優しい笑みを浮かべた。
「もちろんさ。僕はある物語の神だ。けれどこの世界の神ではない。僕は迷える人々のために言葉を尽くすが、それは世に対する答えじゃない。僕にできるのは、あくまで考えの提示だ。問題やヒントを与えて、人々に考えさせることだ。絶望に目を瞑ってしまう人たちが、本当の希望を手にするために、閉じた目を開かせてあげることだ。その末に、それぞれが導きだす答えは自由だ。自由でなければいけない。そうでなければ、僕の描きだす物語も、しょせんは獄と同義になってしまう」
そこで父は一旦おおきく深呼吸をした。覚悟を秘めた眼差しが、改めて母と向きあった。
「……想像の自由を欠けば、人物は記号となり、物語は慰めに過ぎないものとして消化される。あるいは僕自身にとってはそうだろう。けれど物語という存在を、人々が束縛すべきではない。僕が酷薄な神であるとしても。人々までもが酷薄であってはならない。それは君が言うような物語に対する憐れみとも違う。僕たち人類が、物語と向きあい繋がって、新たな道を模索するためだ」
母はようやく得心が入ったように頷く。
「なるほど……。物語の可能性は、あなたが決めているんじゃないのね。あなたはあくまで一本の道筋を描くだけ。物語の未来を決めることができるのは、あなたでも私でもない。あるいは、あなたでも私でもあって、ずっと未来にまで続いていくんだわ」
「そうだね。僕が世界を生みだそうとした瞬間から、世界は生まれる。しかし世界の可能性は無限だ。だからこそ僕は書き続けることができるし、人々はそれぞれの解釈を導き、絶望さえも超えて未来を歩んで行ける」
まだ逡巡めいたものが目許を過ぎることはあるけれど、母から反駁の言はなかった。父の言葉を一つひとつを咀嚼するように、何度も頷くばかりだった。
「……」
彼女は二人のおしゃべりに決着がついたと見て、あらためて大きな欠伸をした。眠気がしとしとと頭のなかに降ってきて、いよいよ眠らずにはいられなくなる。
その時、頭の隅の気配が、毅然として立ちあがるように動いたのを感じた。
『あら、もう行くの?』
『うん』
『行くあてはあるの?』
『わからない』
『それでも行くの?』
『うん』
気配に迷いはないようだ。行くあてもないのに。
なんだか不思議な子だなぁと思いながら、けれど自分の事でもないのだしと彼女は目を閉じる。
ただ気配がぷつりと彼女の意識を離れる寸前、こう問いかけておいた。
『あなたの名前は? わたしはマーズ』
『わからない。忘れちゃったもの。だけど、それを探しに行きたいの』
『ふぅん。難しいのね。まあ、気を付けて行ってらっしゃい』
『うん、ありがとう』
マーズは父が泥水をすすり、母が階下に下りていく音を聞きながら、またやわい微睡に身をひたしていく。気配のことは、正直もうどうだっていい。彼女は自分や家族のことにしか興味がない。
けれど、ちょっぴり、あの子が幸せになれたらいいと思った。あの子はとても弱そうで哀しそうだったから。いちいち誰かの幸せを願うのなんて面倒だけれど。不幸を願うより面倒なことではなさそうだ。
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