自分がどこから齎される存在なのか、それを断言できる人間は少ない。

 自分という存在を観測する客観か。

 自分という存在を意識する主観か。

 人類は長い歴史のなかで、未だその明確な答えを導けないでいる。


 だからこそ、答え合わせのできない人類は、己のなかに答えめいたものを見出さなければならない。たとえ主観というものが、自分の核心でないのだとしても。人はある種宗教的な信仰を、己に寄せなければならない。そうでなければ、しょせん自分というものは、何に齎されようと借り物である。


 秋穂は模糊とした記憶のなかに、とおい絶望を見てとったような気がした。哀しくて醜くて、目を逸らしたくなるような暗闇。けれどそれは、紛れもなく自分を構成するものの一つで、誰と比べようと特別なものではなかった。

 枕に顔を押しつけて慟哭することも「死にたい」と嘆くことも。何も特別ではなく、普遍的に人がもっているものだ。与えられたのでも、押し付けられたのでもない。それでも確かにある。自分を作り上げてきたものの一つ。普遍でありながら、間違いなく自分だと断言できる闇――。


 そうして秋穂は、哀しい思い出も、楽しい思い出も、丁寧に拾いあげていった。自分以外の誰かの記憶ではない、自分でしかありえないと信じられる記憶の数々を。


 健吾という恋人がいたこと。夏南という親友がいたこと。

 残った指輪の悲しみも、謎めいたテレビの映像も。

 死後の奈落めいた終わりなき世界も。


 それが自分にとって有益か無益かであるとにかかわらず、秋穂は否定せず胸に抱いていった。その軌跡を歩んできたからこそ、自分は進むべき道を見出せるのではないかと思うから。


 ふと空を見上げ、雲が千切れゆく様をみた。ぼんやりと月光を透かした空の、その一部が裂けて、ようやく世界と対面できた心地がする。


 そして、冷ややかな夜気にあおられながら、やはりここは自分の居場所でないのだと確信した。与えられた世界に瞑目するのは、自分を殺すのと同じことだ。自分は自分自身で生きていかなくてはならない。そのために、どうやって神に挑戦すべきか、具体的な案はまだないけれど。


 首にかかったチェーンに触れて、その先に通された指輪が、ぐずぐずと崩れ去っていく様をみた。それが何を意味するのか解らなかったけれど。秋穂は動揺しなかった。穏やかに目をつむり、指にはめた指輪に、かつてあった世界のことを想った。信じ続けてきたものを、今も信じ続けようとした。


 いつか父が帰ってきたように。

 ただ、つよく烈しく願うことにした。


 神様、私の世界を返してくださいと。


 その時、秋穂は神の恩情を信じていただろうか。

 願えば叶うのだと世界のやさしさを盲信していただろうか。


 答えを知る者は、ただ一人しかない。たとえ神の眼鏡によっても覗くことはできないだろう。孤高の真実は、秘められるゆえに貴いものである。


 ところが、それゆえに神は、どこまでも無情になれるのだった。

 松村秋穂とは、彼の者の創造物であり、その他に登場する人も物も記号に過ぎなかった。神にとって、その世界は、すべてが己のためにある奉仕の具現であり、慰めだった。


 文字に囚われた秋穂は、そんな神の身勝手を知る由もなく。

 つと、願いの成就を時に託して目を開いた。


「えっ……」


 そして、彼女の今を構成する絶望が、ごぼごぼと胸に泡を満たした。

 千切れ雲の間から覗いた月が、真っ二つに割れたところだった。


「なに、今の……?」


 秋穂は慌てて目をこすった。何かの見間違いではないかと。


 ところが、月はたしかに割れており、異変はなおも続いた。

 星々が燃えるように赫々と明滅し、一つふたつと消えていく。夜の闇にオーロラめいた光の帯がたゆたう。ざわざわと空間が啼いて、夜の闇でも陽の光でもない空白が、世界を侵していく。


 秋穂はとっさに辺りを見回した。

 すると、居酒屋から現れた千鳥足の青年が、へらへらと笑いながら。暗闇がそっとその身体を抱きこんで隠してしまったように。

 青年を介抱していた中年男も、また己の消失を予感もせず消えた。後ろからぞろぞろと続いたスーツ姿の人々も、まるで数瞬先の未来を疑わず消えていった。


「そんな、こんなのって……!」


 秋穂はその意味を悟った。

 そして遠い、決して交わることのない神を呪った。


 間もなく暖色の明かりに濡れた居酒屋も、見えないシロアリに端から喰われるようにして欠けていく。


 触れられるほどの距離にあった電柱が。

 テールランプの尾をひいた自動車が。

 道端に転がって踏み潰された煙草までもが。


 無差別に輪郭を喰われていった。


 秋穂は恐怖によろめきながら、スマホをとり出した。自分の関わってきた人々の名前を呼びだし、


「……!」


 絶句する。

 電子の波へさらわれていくように、名前の羅列が一つずつ空白になっていった。


 秋穂はたまらずスマホを投げだした。それもたちまち不可視の壁に衝突して白いシミと化した。


 うずくまり頭をかかえた。

 縋るように世界の復活を願った。出逢ってきた人々の相貌が過ぎった。


 それ以上の恐怖に蝕まれ叫んでいた。


「イヤあああああぁぁぁぁぁッ!」


 松村秋穂|


 けれどその叫びも、すぐに混沌のなかへ消えて。


 松村秋|


 優しいほどに残酷な睡魔が押しせてくる。


 松村|


 それに屈してはならないと。

 自分はここにいると、声なき声で叫んだけれど。


 松|


 あるのはただ、

 果てしなく、

 終わりのない、


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