幕間

 人は間違いを犯す生き物だ。その大小にかかわらず、間違わない人間はない。

 だから物語を紡ぐとき、そこからある種の崩壊を取り除くことはできない。徹頭徹尾、完全無欠の物語は作れない。そんなものは水面をにぎって金をつくる錬金術めいた幻想に過ぎないのだと自覚しなくてはいけない。


 無論、破壊と再生をくり返しながら、物語はより良いものへと形作られるべきだ。己の鬱憤や焦燥のために、神のペンを振るうべきではない。まして、手前勝手な絶望のために、一度生みだした生命の大地を虚無の暗黒へと還すべきではない。


 松村秋穂。


 彼女の人生には、今、大変な危機が訪れようとしている。それはおそらく彼女自身の力ではどうしようもない、大いなる者の存在によって。


 その人生を救うために、わたしにできることはあるだろうか。


 すでに幾つかの仕かけは施した。だが、それはすぐに彼の目に留まるだろう。わたしが一時的に書きこんだ仕かけは、その瞬間に元の木阿弥となる――。


 ところで、物語を最初に定義するのは創造者に違いないが、それは果たして創造者のみによる世界観として継続できるものだろうか。たとえばある小説において、作者には絶対の解釈があるとしても、読者が同じ解釈にいたるとは限らない。行間にひそんだ余地に、人々が抱く想像はそれぞれ異なるものだろう。


 彼が物語に絶望し、ひとつの世界を虚無へと導こうとしながら。

 わたしがその世界を、どうか幸福であって欲しいと願うように。


 もし物語が世に解き放たれた瞬間、それぞれの解釈が可能性を与えるなら。

 松村秋穂という一人の女性の、その人生における可能性もまた、わたしによって拡大されるとは言えないだろうか。


 わたしと彼の捉える世界観は、大きく異なっている。

 その分の解釈の幅がある。

 これが希望になり得るならば。

 こんなにも近く遠い一人の女性を、救うための鍵にはなるのだとしたら。


「……ああ、よく寝た」


 今、彼が起きてきた。

 ささやかな悪戯仕かけが露見するまで、もう幾許の猶予もない。


「おはよう、あなた」

「ああ、おはよう」


 わたしは簡単に挨拶をすませると、マーズに目配せして彼を指さした。

 するとマーズは、彼へ朝の挨拶をしに駆けだした。

 彼はその柔らかくしなやかな猫を抱き「おはよう、マーズ」と表情を綻ばせ頬ずりした。マーズがその腕のなかで「これでいいの?」と問いかけんばかりに小首をかしげて鳴いた。


 わたしはマーズに微笑を返した。

 こんなつまらない時間稼ぎが、いったい彼女の人生に役立つのだろうかと自問しながら。


 そしてわたしはキッチンに立ち、朝食の準備にとりかかろうとした。

 ところが、ふと左手の薬指に輝いた指輪へ目をとめた。

 

 わたしは自らが設置した仕かけを思い返した。

 これと似たデザインのシルバーの指輪を。


 そうして、あらためて遠い世界の友人へ祈るように『願って』と訴え続けた。

 わたしの描く理想の偶像に、どうか彼女がたどり着けるように。

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