第十五章 忘却

 誰かに頭を押さえつけられているようだ。こめかみがズキズキと痛んで重い。その周りを睡魔が霞のように覆っている。


「起きろぉ。起きろぉ」


 一定のリズムをとりながら、覚醒をうながす声がある。額にぺちぺち湿ったものが触れて気持ち悪い。


「……んん」


 またぺちゃりと触れたものを振り払って、濡れ衣めいた瞼をもちあげる。

 オレンジの明かりがぼんやり滲む。目に入るものに、どれも輪郭がなかった。


「ほら、あともう少しぃ」


 白いものが迫る。

 それを咄嗟につかんだ。相手の手から奪い取って、目をこすり、その正体を見る。


 おしぼりだ。


 ほとんどテーブルに占拠された小部屋をみて思い出した。

 春菜と居酒屋に来ていたのだ。久しぶりに飲んだ酒の味は、ちょっと舌が痺れるようだったけれど不味くはなかった。むしろ、飲めば飲むほど酌が進んだ。


 それにしても、おしぼり……。


 秋穂は相手に非難の目を向けた。


「そんな怖い顔ひないれよぉ……。ちゃんと新ひく開けたやつらって」

「もっと普通に起こしてよ。すごい気持ち悪かった……」

「ごめんごめん、許してぇ」


 おしぼりを放りだすと、秋穂は額に手を当てた。頭のなかには、まだ霞が残っている。とてもふらふらする。まっすぐ座っている事もできなくて、頬杖をつく。


「べつにいいけどさぁ……。それより、いま何時?」

「もうすぐ日跨ぐくらいっひょ。ハシゴは無理そうらねぇ」

「無理ムリ、全然ムリ。でも、わざわざありがとう。就職祝い」

「いいっれ、気にすんなぁ。親友っしょ」


 春菜は胸をはってにへらと笑う。彼女もかなり酔いが回っているようで、呂律があやしかった。秋穂も柄になく飲み過ぎてしまった。今のところ吐き気まではないけれど、たぶん明日は二日酔いだ。気が重い。


 まあでも……それくらいいいか。


 ようやく就職が決まったのだ。就活時代の苦しみに比べたら、二日酔いくらい大したことはない。

 頭を打って入院もした。思えば色々なことがあった。辛いことばかりだった。けれど、その苦労や軋轢のなかで、秋穂は成長してきた。辛苦の果てに今があるのだと、ようやく理解できる。そして、また辛酸をなめるような出来事もくり返しながら、未来の糧としていけるだろう。


「んりゃぁ……そろそろ帰るかぁ」

「うん」


 秋穂たちは、ふらつく足で立ちあがる。

 就職祝いということで、支払いは春菜の奢りだった。

「夜はアブらい」といってタクシー代まで払おうとしたのは、さすがに遠慮しておいた。むしろ、秋穂のほうから無理やり春菜をタクシーに詰めこんだ。


 秋穂は乗らなかった。

 ゆっくりと遠ざかっていくテールランプを見送り、しばし夜に沈んだ街を眺めていた。


 独りになりたかったわけではないと思う。

 むしろ、この暗い世界のなかを独りきりで立っているのは心細かった。


 ただ、地上の明かりを吸いこんで一層暗くなる夜空を見上げたら、ふいに懐古的なものが過ぎったように感じたのだ。


 いつかこんな空を見上げはしなかっただろうか。

 祝いの席には相応しくない、雲が宇宙のまたたきを隠す漆黒の空。

 まるで明日の光まで奪ってしまうような深淵の下に、いつかいたような気がする。


 ようやく今を生きはじめ、清々しい未来を見据えられるようになったのに。

 ここが自分の居場所でないような気がしてしまう。

 まだ大切なものを見失っているような不安に駆られてしまう。


 畢竟、生きるとはそういう事なのかもしれないけれど。

 また、弱い頃の自分に戻ってしまったようで怖かった。


 無意識のうちに、胸元を握りしめていた。

 首にかけたシルバーの指輪。

 不安なとき、これを握りしめると、それが融けていってくれるような気がした。


 誰から貰ったんだったか。

 酔った頭ではうまく思い出せない。

 春菜がくれたような気もするし、父親から貰ったような気もする。

 とにかく大切なものだという事は解って、本当に大切なものだろうかとも思う。


 疼きだすこめかみ。

 額の内側では小悪魔が槍を突いてくる。


 秋穂はおもむろに額に手をあてて、ハッと違和感を覚えた。


 手を離して、眼前に掲げてみる。

 白くて細い五指。中指だけが少し歪んでいる。


 その根元にはまっているのは、シルバーの指輪だった。


「あれ……?」


 おかしいと思い首筋をさぐる。

 そこにチェーンの感触がある。

 引っ張ってみると、出てきたのはやはり、シルバーの指輪。

 無骨なデザインで、ちょっとダサい。


「やっぱり……」


 なにか大事なことを忘れているような気がする。

 誰かに少しずつ自分を騙されているような気がする。


 頭痛もかまわずこめかみを叩いた。

 ぐらんぐらんと頭の奥が揺らいだ。


 この痛みは本物だろうか。

 この不安は本物だろうか。


 なぜか沸々と猜疑的なものが湧いてきて、胸のなかに巣くい消えてくれない。

 

 就職が決まった。

 盛大ではないけれど親友に祝われて、父親に「頑張れ」と言われる事ももうない。社会人になる不安はあるけれど、これまでの自分の努力を頼りに、明日も生きていくはずだった。二日酔いも乗り越えて、人生はそんな些細で過酷な痛みの繰り返しだと。日々を歩んでいくはずだった。


 だが、そのすべてが疑わしくてならない。


 世界を美しいものだと思いこまされているようだ。そんな手前勝手な価値観を押し付けられているようだ。


 こんな希望にあふれた、幸せなままの人生を生きられたら、きっと楽だろう。強くなった自分を自覚して、次にトライできる勇気をもてたなら、それが正しいのだろう。


 でもそれは、自分で歩んできた道じゃない。

 私が経験してきた人生じゃない。


 確信的に思った。

 心が正しくないと叫んでいた。


 では、何が正しいのか。

 それがまだ分からなかった。


 心の奥のおく、胸の芯をまさぐられるような不快感がある。

 霞がかった記憶の朧に、苛立ってばかりいる。


 私はなにをしたかった?

 なんのためにここにいる?


 問いかけても答えは出ない。

 あと少しがでてきてくれない。


 誰かに頭を押さえつけられているようだ。こめかみがズキズキと痛んで重い。その周りを睡魔が霞のように覆っている。


 秋穂はそれに抗った。抗わなければならないと感じた。

 そして何度も問いかけた。脳の襞へ刻みつけるように。何度もなんども問いかけ続けた。


 私は誰だ?

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