第十四章 自分
独りベッドに横たわって明日を想うとき、漠然とした不安が胸を過ぎる。
今日の出来事を反芻し、これまでの自分を内省し、果たして明日もおなじ自分が連続するだろうかと考える。
いざ朝日の眩しさに重い瞼をひらくとき、記憶を頼りに自分を思い返す。それで安堵できるかと言えばそうではなく、この自分は昨日までの自分だろうかと自問する。答えは出ない。また不安になる。そんな日々を繰り返していく。
けれど日々の猥雑な事柄が、いつの間にかそんな問いを有耶無耶にしてゆく。
秋穂もそうだった。
何度もじぶんを疑問視してきた。
それでも人が生きるために必要なのは、その日その日に待ち受ける「現実」だ。目まぐるしい変化に、泥を被るような不変に、些細な哲学をさしはさむ余地は消えていった。いつか考える事すらもやめた。考えていた事すら忘れていった。
「まさか私に会うとは思ってなかったなぁ」
しかし有耶無耶にしてきた真相がここにある。
コップの縁を撫で、にへらと笑った相貌は、まるで鏡だった。色褪せた明かりの下で、もう一人の自分が秋穂を見つめていた。
「私も……って言いたいところだけど、考えたこともなかった」
「あー、そうかも。ドッペルゲンガーとかいうけどね。ふつう都市伝説だよね、あんなの」
もう一人の自分は、ふいに興味を失くしたように麦茶のコップを呷る。
「でも、ここにいる」
「まあ、私たちは唯一無二じゃないからね。しょせん作り物」
コップを掲げる。
「これと同じ。作り手さえいれば、同じものが作れる。器が同じでも、ちがう飲み物を入れられる」
そうして違う中身を入れられたのが、ここにいる二人というわけか。一方には甘美な美酒を、もう一方は器ごと廃棄された。
「私とあなたは、まったく違う松村秋穂なの?」
「違わなきゃ、取り換える意味もないでしょ」
「でも、私はなんども既視感を覚えてきた。あれはあなたが体験した事の名残りじゃないの?」
尋ねながら、おそらくそんな単純なことでもないのだろうと秋穂は思う。ここにいるもう一人の自分は、間違いなく廃棄された松村秋穂だ。しかし、それがたった一人だとは思えない。
既視感をすでに抱いたことがあるという既視感。
これまでに、もう何度も松村秋穂は書き換えられているのではないだろうか。
もう一人の自分が、疲れたように嘆息する。
「……さあね。でも、たぶんそんな感じでしょ。コップをひっくり返しても、底に溜まった水滴全部がこぼれ落ちてくわけじゃない」
「じゃあそれって、あなたもまだ生きてるってことにはならない?」
もう一人の自分が呆れたように肩をすくめる。
「ならないでしょ。私はここにいるもの。何もしなくていい、この場所で、ぬくぬくと惰眠を貪ってる」
「生きたくはないの?」
「べつに。あっちにいる時は死ぬのが怖かった。その事について考えると胸がぺしゃって潰れてさ、黴でも生やしたみたいにぞわぞわした。だけど、いざここにやって来たら、恐怖も何もなかった。ただ楽だったよ。私はもう私のために生きる必要すらないんだから。あらためて生きるって面倒だって思わされた」
健吾や夏南を見て分かった。たしかに、この世界の住人たちは楽をしている。己を脅かすものなど何もない。自分にすら執着しないのだから。
「でも、ここって楽しくないでしょう?」
「まあね。ポジティブもネガティブもない。だから平和なんだよ」
住人を貶めるものは何もない。悲しくて痛い争いもない。
それはある意味理想的だ。彼女の言うように楽だろう。
けれど、彼女をうらやむ一方で哀しくも思う。
秋穂はまだ喜びも楽しみも感じていたかったから。
「私もいつか神様に捨てられたら、同じ風に思うのかな」
「知らない。でも私はね、ここに来て神様に捨てられたとは思わなかったよ」
「え?」
意外な科白に、秋穂はもう一人の自分を見返す。
「ここに来て私は、自分が神様の人形だったって知った。この身体も、言葉も、意思も、全部作られたものだって理解した。でも、絶望してはやらなかったよ」
「……?」
もう一人の自分は、この世界には似つかわしくない殊勝な笑みを浮かべた。いや、いっそ獰猛と言ってもいいほどの歪んだ笑みだったかもしれない。
「私はあっちで生きてた。神様に操られてるなんて知らずに、自分の意思で生きてるって思ってた。いや、そんな疑いも持たないほど私だった。そんでこっちにきて真相を知って、でも私って、結局私じゃん。もう操られてないなんて断言できる根拠もないけど、ここにいるじゃん。どうしようもないし、受け入れるしかないけど。神様に捨てられたのを認めたら、自分の全部を否定するような気がして……せめてもの復讐に、私は自分で自分を捨てたんだって思うことにしたの」
静かな口調にじっと耳を傾けながら、秋穂は己の間違いを自覚していった。
この世界の住人は異質だ。空虚で無関心で、一見じぶんの意思さえないように見える。
けれど違うのだ。
異質ではあるけれど、まだ生きている。空虚ではあるけれど、執着ももっている。根拠などないけれど、それはきっと誰に操られたものでもない。当人にとって正しいと思えるものを信じる心がまだ残っているのだ。
「……そっか。だから私は既視感を覚えたんだ」
「ん?」
「まだ生きてるんだよ。あなたも、この世界に住んでる他の人たちも」
「ちょっと意味わかんないんですけど?」
「生きてるから、感じられたんだよ。あなたが生きてきた事」
「そうなるの?」
「私はそう信じたいなって」
「ふーん。まあ、どうでもいいけどさ」
本当に興味なさそうに言ってから、もう一人の自分が麦茶のボトルを掲げた。
「あんたも飲む?」
「ううん。気持ちはありがたいけど、遠慮しとく。早く帰る方法を見つけなくちゃ」
「へぇ、帰るんだ。帰ってどうするの? また神様の糸に繋がれるだけだよ」
「あなたと同じことをするかな」
「同じこと?」
「私はここにいるんだって、信じるの」
「ふーん、意味ないと思うけどね」
無感情に言ってから、とくとくと麦茶を注ぐ。それを乱暴に一口で呷ると「あ、そうだ」と声があがった。
「なに?」
「これ、あんた知らない?」
もう一人の自分が、テーブルに拡げたままの新聞の下へ手をつっこむ。そのまま握り拳をを突きだすと、おもむろに開いてみせた。
「あ」
手中から現れたのは、シルバーの指輪だった。装飾もなにもない無骨なデザインだ。
「それ、私の」
「あら、ホントにあんたのだったんだ。ダサいね」
「うるさい。大切なものなの」
「ふーん。戻ってきたならよかったじゃん」
「うん。ありがとう」
「どいたまー」
どういたしまして、の意味だろうか。
秋穂はなんだか可笑しくなって微笑んだ。
「もし、帰る方法が見つかったら、あなたは帰りたいって思う?」
ふいに尋ねると、もう一人の自分はやや思案するように目を細めた。
「……帰りたいとは思わないかな。生きるのなんて面倒だし。進むも戻るも、選ぶなんて疲れるもの」
「そっか」
「でも」
眼前の松山秋穂が、コップの縁に指を一周させてから言う。
「もしもあんたが神様の人形じゃない、真実のあんたなら、私がここにいる事を憶えていて。そしたらきっと、私が私を捨てた意味があったと思うから」
「分かった」
自分から決して目を逸らさず、はっきりと首肯を示したその時だった。
「……あつい」
指輪がじわじわと熱を発しはじめたのだ。
「帰れるかもしれない。元の世界に」
「案外すぐに見つかるもんだね」
「ここへ来たとき、この指輪に願ったの。そしたらここへ来ちゃった」
「へぇ、変な指輪。神様はファンタジーを始めたのかな」
「さあね。私は普通の人生が送りたいけど」
「じゃあ、そう信じればいい」
もう一人の自分はそう言って、いつの間にか新聞についた水滴を指でなぞった。
「うん、そうする」
「それじゃ」
「うん」
秋穂は簡単な挨拶を交わす。このまま別れるのは寂しいけれど「じゃあね」も「またね」も適当ではないような気がした。
ますます熱くなる指輪を握りこむ。
そして元いた世界のことを想う。
私を元の世界へ帰してください。
この世界へ来るきっかけとなった願いは、結局、叶わなかった。
健吾は戻ってこなかったし、その魂がこんな空虚な世界に送られてしまった事実は、秋穂をひどく陰鬱な気持ちにさせた。
それでも彼女は生きているから。
己の生まれた世界をのぞむ。誰かの身勝手な絡繰りに抵抗する。
目を閉じれば、指輪の熱が痛い。
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