第十三章 行間
「ウケイレロ」
耳を塞いでも声は消えない。
受け入れたくない、諦めたくないと。
心は抗いつづける。
逃げたい、逃げたい……。
けれど逃げ場などどこにもない。
突きつけられた現実、その苦しみから逃れる術は、いかなる時もそれを受けいれ、自らの道を見出すことにしかない。
だが道などあるはずがない。
夏南が言っていたではないか。
『廃棄された存在』だと。
『ゴミ箱』だと。
物語の墓場こそが、この世界。
もはや神の恩寵も支配もない、空虚。
行き止まりでさえない物語の終末だ。
「アキラメロ」
「イヤ……!」
それでも諦めたくない。心は求め続ける。
希望の残滓、あるいはその在り処を。
絶望を象った墓場の中心でさえも。
心を蝕む生々しい感情と対峙しながら。
いや、待って……?
その時、泡を吐く絶望とともに、ひとつの疑問が浮上する。
神にすら見捨てられた空漠で、自分を支配するのは誰なのだろう、と。
秋穂はおもむろに耳から手をはなし、夏南とモモを見比べる。
「アキラメロ」
モモがいう。言い続ける。
あまりに空虚で無機質。この世界に融けこんだ絶望の象徴のように。
けれどその言葉の粒が、むしろ秋穂には抗うことを諭しているように聞こえてきた。
「……ねぇ、夏南」
「ん?」
「今ここにいる私は誰?」
尋ねると夏南は一瞬なにを言われているのか分からないという顔をした。
それもすぐに呆れに変わる。
「あんたはあんたでしょ」
「……だよね」
そうだ。ここには神の目などない。もはや執着から程遠い場所だ。廃棄されたキャラクターたちがそうであるように、神自身にも執着など残されていない。
今ここにいる自分は、自分だ。
あちら側にいた頃はどうだっただろうか。夏南の言ったように、神の傀儡でしかなかったのだろうか。あのリアルな感情すべてが、神の糸の絡繰りなのだろうか。
確かめる術はない。ここでさえも神の箱庭でないとは言い切れない。
それでも、ここには「自分」を手繰り寄せる手がかりなら残されている。
秋穂は衝き動かされるように『スタート・オーバー』の小説を手繰った。
そこに記されていたのは、秋穂自身が経験してきたものとは大きく異なるものだった。
健吾はおらず、猫のモモがいて。夏南ではなく春菜のいる世界。
秋穂はなにも失っておらず、それらは当然のように在って、現実の厳しさに悄然とする松村秋穂が、少しずつ未来へ向けて立ち直ってゆく物語。
指輪。転落事故。家族との団欒。
秋穂が実際に体験してきた出来事もある。感情も似ている。いや、ほぼ同じと言っていい。けれど、その原因が少しずつ異なっていた。
そして、ここに記されている内容は、秋穂が実際に体験してきた事象を大部分省略している。そもそもキャラクターの消滅や変化など物語内では起こっていないし、テレビに映りこんだ謎のドラマについての描写もなかった。
間違いない。
ここに記されていることが、神になせる絡繰りだというなら。
秋穂がここへ流れ着いてしまったように、神の目の及ばない「行間」がある。
それが今後どう作用するかは分からない。希望とするには、あまりに頼りない。だが自分自身で体験し、意志をもち、この世界にやってきた事実を、未来の糧とする以外に、秋穂は己をたもつ術を見出せなかった。
「……やっぱり、あんたは生きてるんだね」
夏南が鳥籠からモモをだして指先にのせる。モモは首を傾げて、きょろきょろ辺りを見渡す。もう「ウケイレロ」とも「アキラメロ」とも言わなかった。
「わかんないよ。夏南の言ったとおり、これが本当に私の意思かどうかなんて確かめようもないし。それに私はこの世界に来ちゃった。私が神様の物語から廃棄されたってことじゃないの?」
「さあね。こっちだって具体的なこと知ってるわけじゃない。神の筆のことなんて、描かれた側には知りようもない。でも、抗う力があるなら、きっと秋穂はまだ生きてるんだよ」
「あっちに帰れるかな?」
「神の玩具になる世界になんて、帰る必要があるとも思えないけど……。生きてる人間にはあっちが相応しい場所なんだろうね。まあ、なんとかなるでしょ」
投げやりな口調だった。夏南は終始おっくうそうだった。けれど、その言葉の端々に羨望めいた感情を感じられた。執着を失ったかに見えたキャラクターたちにも、まだそれがあるのだ。誰に役目を与えられなかったとしても――。
「とりあえず、頑張ってみる。でも、その前にもう一人会いに行こうかな」
「ふぅん。まあ、行ってらっしゃい」
「マジダリィ」
そうして一人と一羽は、無関心に秋穂を見送った。
玄関まで見届けることさえしなかった。ここはそういう世界だった。
だからこそ秋穂には、もう一人だけ会いに行くべき人がいた。
狂った世界の、けれど見慣れた道を歩いて。
車のない駐車スペースを横切り、鍵のかかっていない玄関のドアをひらく。
土間には脱ぎ散らかした靴があった。ちょうど秋穂が履いているものと同じだ。
秋穂は靴をぬぐと、誰かの分も含めてきれいに並べ直した。
そして堂々と廊下をすすみ、リビングの仕切り戸をひらいた。
見慣れた空間があった。
消えたテレビ。閉じたカーテン。新聞の拡げられた食卓。
まぎれもない我が家のリビング。
そこにいた。
「ふあぁ……」
大欠伸をして秋穂を迎え入れた、
「あれ、私じゃん?」
もう一人の松村秋穂が。
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